プロンデルの躍進
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オロンテスの宮殿から続々と各国の奴隷騎士達が去ってゆく中、窓辺からそれを眺める新たな王がいた。
黒檀の円卓に置かれた水差しから銀杯に水を移したナセルは、静かに口を潤すと、背後からの声に耳を傾けた。
「ファルナーズの件、よろしかったのでしょうか?」
シーリーンが片膝を付き、畏まってナセルに問うていた。
ナセルは当面、ファルナーズとは戦わない、という選択をしたのだ。それゆえ、シェヘラザードの提案を全面的に飲んで、ファルナーズがマディーナ太守となる事を認めたのである。
シーリーンにとってナセルの選択は、当面ハールーンとの闘争を避けられる故に有難かったが、解せない点が一つだけあった。
ファルナーズが帰るマディーナには、ひそかにアシュラフが侵攻していたのだ。
このままでは、聖帝直属となった太守であるファルナーズに対して、いかにリヤドの国王と言えども、アシュラフの立場は分が悪い。ましてや、黒甲将軍と呼ばれるシャムシールは、守護騎士に任じられたというのだ。万が一これらと戦うならば、アシュラフは反逆者の烙印を押されるであろう。
「サーリフ亡きマディーナを防衛する為」
という大義を掲げたリヤド軍ではあったが、ファルナーズが健在であり、太守を拝命した以上、よって立つところが無いのではないか? と、シーリーンは思うのだ。
「ふん。俺が王になった今、あの男の利用価値など、もはや無いのだ。ましてや、あの男は俺とサーリフの間を裂かんと画策し、俺の失脚さえ企てたのだぞ? 今更兄上がどうなろうと知った事か。
それに、或いは共倒れにでもなれば、手間も省けるというものではないか、シーリーンよ」
ナセルの声は、温和な響きすら持っていた。しかし、シーリーンの耳に伝わるそれは、酷く冷酷で、容赦の無い内容である。
「それに、このまま兄上にファルナーズが敗れるならば、もはやシバールに我等の敵は無い。逆に、兄上が敗れ、死ぬような事があれば、俺がリヤドの王にもなろう。どちらでも良いのだ。ふははは」
銀杯を手にしたまま長椅子に腰掛けたナセルは、横に控えるシーリーンを見やり口元を歪めた。
「俺は、オロンテスの王になるという当初の目的を果たした。そこで、お前の願いも一つ、聞き届ける事にしよう。
お前は今日から、我がオロンテスの将軍。そして、配下の暗殺団共を奴隷身分から開放する」
「はっ! 在り難き幸せに存じまする!」
内心で、心から安堵するシーリーンである。これで仲間は、ようやく人として生きられるのだ。ここまで来るのに、長い時間がかかった。だが、ここで気を緩める訳にもいかない。皆が人として生きられるからといっても、一度の失敗が死に繋がる事に変わりはないのだ。
改めて表情を引き締め、シーリーンはナセルを仰ぎ見た。一言一句とて聞き漏らす訳にはいかないのだ。
「ところで、ザールはこの件、まだ知らんのか?」
「はっ。言えば王の元へ行く、と言い出しかねませんので」
「ふむ、そうであろうな。あやつには、全ての事が済んでから話せばよい。なに、もとより兄上に忠誠を誓っている訳でもあるまいよ」
そういうと、ナセルは手を払い、シーリーンに下がるよう促した。
シーリーンとしては、もう少しナセルと話をしたかったが、主君の機嫌を損ねる訳にもいかず、立ち上がり、踵を返す。
ハールーンに関して、知恵を借りたかったのだ。
先日、幾度もハールーンを誘ったが、逆に誘い返されるだけで、弟は一向にファルナーズの元から離れようとしない。
このままでは、いずれ本当に弟と殺し合わねばならぬ。そう思えば、やはりシーリーンの心は休まらなかったのである。
◆◆
ここは聖都フローレンスから北西の平原地帯。
晴れ渡った空は雲一つ無く、春先の陽光を輝かせていた。
白、青、緑の三聖騎士団が率いる三〇万の大軍が南北に布陣し、周囲を圧している。
対するプロンデルは、皇帝を名乗るものの、十五万の軍を展開するのみであった。それでも、互いに陣を敷き、にらみ合う事、早くも十日を経過していた。
フローレンス聖教国にとっても神聖フローレンス帝国にとっても、互いの存亡をかけた戦いである事は明白である。
だがしかし、双方の総大将の気持ちには、大きな隔たりがあった。
聖教国軍を率いるジーン・バーレットは、大軍を擁し、必勝の気概で望んでいる。万が一にもここで敗北をすれば、すぐにも聖都が迫り、その防備は法王自らが率いる聖光緋玉騎士団のみとなるのだ。握る拳にも力が入るというものであった。
一方でプロンデルの方は、相変わらず鼻歌交じりに戦争を楽しんでいる風である。
ことに今回は、策というものを弄した女がいた。
本来は、倍の兵力差を噛み破る戦いこそ興が乗るプロンデルではあったが、その女のいう事にも、面白みを覚えたのである。
曰く、
「この一戦、私に任せては頂けませんか? 私にお任せいただければ、すぐにも聖教国を貴方の傘下に収めてみせますが」
別に、楽をしたいとは思わないプロンデルではあったが、聖都をいざ攻めるとなれば、確かに面倒であった。それに、法王と戦って愉悦が得られるとも思えない。所詮、七十過ぎの老人など、眼中にないプロンデルである。
そんな皇帝に、女はさらに続けて言った。
「この国を制圧すれば、その先に広がるのは魔国、そしてシバール……その遥か東方には、ハン国が広がっています。貴方様が人の身で、それら全てを平らげるには、些か時間が足りぬように思えますれば、この際、効率こそが最も大切かと」
プロンデルは、深夜、闇の中で揺らめく様に現われたその女に、興味を覚え始めていた。
いかに行軍中とはいえ、仮にも皇帝の天幕、しかも寝所である。容易に進入を許す場所ではなかった。
とはいえ、女とプロンデルの実力差は歴然であり、寝台から半身を起こしたプロンデルが、その女の言葉を信じずに、一刀の下、切り伏せる事も出来たのである。
しかし、そうしなかったのは、女が口にした、己の寿命と大望である。確かに、天秤にかけるならば、ここで足止めされるのは、如何にも面白くない。だから、プロンデルは決断したのである。
「よかろう、任せる。で、余は具体的に何をすれば良い?」
「十日の後にいつも通りの突撃を。それで勝敗が決しましょう」
「ふん、よかろう。だが、我が突撃だけで勝敗は決するのではないか?」
「あまり、ジーン・バーレットを侮りますな、獅子帝よ」
「まあ、よい。事が上手く運んだらならば、そなたは余に何を望む?」
「亜種の居ない国を、人だけの国を」
「大仰な。だが、余も考えぬでも無かったからな、よかろう。で、そなたの名は?」
「クレアと申します、陛下」
そして、プロンデルの前で闇が揺れると、クレアと名乗った女は消えた。
思えば、ねっとりとした視線は陰湿であったが、それでも容姿は十分に美しかったであろう。
その時、プロンデルは寝台に再び身を横たえて、僅かながら後悔をした。
「クレアか。抱いておけば良かった」
そう思ったからである。
騙されるという可能性もあったが、そんなものを考慮する程、プロンデルは狭量な男では無いのであった。
◆◆◆
「くふ、くふふ」
聖光青玉騎士団団長のオーギュストから推薦を貰い、聖光緑玉騎士団の団長に就任したクレアである。
彼女は、清楚な視線を前方に向け、口元に妖しい笑みを浮かべて外套を風に靡かせている。
今、彼女は右翼、オーギュストは左翼に展開しており、中軍を率いるジーン・バーレットは全軍の総大将だった。
悪戯に、十日もの時を費やしているわけではない。
これは、クレアの策である。
本国を遠く離れ、補給線の伸びきったプロンテル軍は、早晩、全軍で突破を図るに違いない。それに備えて、此方はただ、待ち、耐えれば勝てるのだ、と。
オーギュストは、もはやクレアの魅了に逆らう事は無い。ジーンとしても、その策は理にかなっている様に思われた。
だから現在、三人は別々の場所で、プロンデルの動きを見ているのだ。
俄かに、前方で土煙が巻き上がった。
同時に、此方の中軍から魔法の矢が幾筋も飛ぶ。
直後、プロンデル軍は中軍の正面に現われた。
驚くべき、騎兵の加速である。そして、その突撃は、あらゆるモノを噛み砕く突進力を持っていた。
これが、プロンデル軍、不敗の所以である。
自軍の魔力を全て、加速に転ずる。
だか、知っていれば、どうとでも対処の仕方はあるのだ。
「上げよっ!」
「はっ!」
ジーン・バーレットの声に、聖光白玉騎士団に従う歩兵が答えた。
その時、前方の騎士達は後退に転じ、ジーンの前方には空白の大地が生まれる。そして、視線の先にはプロンテル軍がいるのみであった。
数秒後、兵達の気合と共に、何も無かったはずの空間に生まれたものは、木と鉄で組まれた、先端部分の尖った防御柵である。
十日の間、プロンデル軍の目をくらまし、このような細工が出来たのも、彼女が妖精であり、高度な幻術の使い手だったからであろう。
ジーン・バーレットは、土の中に罠を仕込んでいたのだ。
プロンデル軍の先頭を走る金色の鎧を身に纏った人物は、巨馬を巧みに操り、柵を飛び越えた。しかし、彼に続く騎士たちは、皆、柵を越えられずに、無念の内に、人馬もろとも串刺しになってゆく。
「ふはは! やりおるわ!」
黄金の鎧に黄金の髪を靡かせる大男は、皇帝プロンデルその人であった。
彼は唯一人、敵陣に到達したのだ。そして、味方の損害など構うものかと、馬上から槍を振り回していた。血煙を巻き上げ彼の通る所は、新たに道が生まれる有様であった。
徐々に、そんなプロンデルの驍勇に引き寄せられて、彼の部下たちも次々に柵を乗り越え、ジーン配下の騎士たちと斬り結び始めている。
防御柵の効果はあったが、プロンデルに対して絶大とはいえなかった。
「貴様がプロンデルかっ!」
純白の鎧に純白の外套を纏ったジーンが、プロンデルの前に馬を進める。
総大将同士が切り結ぶなど、愚かな事だと理解してはいたが、とはいえ、ここで勝てば、この戦いはこれで終い。そう思えば、ジーンとて血気にはやったとしても仕方がないであろう。
それに、ここでプロンデルを釘付けにしているうちに、右翼と左翼が動けば、自ずと勝利は此方のものである。
その程度には、プロンデルの全軍を釘付けにしている自信が、ジーンにはあった。
純白の冑に銀髪を収めたジーンは、手始めに光弾を放つ。
だが、プロンデルは眉一つ動かさず、避けることさえもせず、黄金の鎧で受け止めた。
見れば鎧に帯びた防御魔法が並ではなく、加えてプロンデル自身の魔力も膨大なのであろう。おそらく魔法では、この男に傷一つ付けられない。そう悟ったジーンは、長槍を構えてプロンデルに突進した。
必殺の突きを弾かれ、強槍がジーンの頬を掠め、冑を奪い去った。
互いに、突き、払い、馬首を絡めてすれ違い、再び構える。
どちらも、息は乱れない。だが、僅かに浮かんだプロンテルの笑みは、ジーン・バーレットの恐怖感を煽った。
「我が名は、プロンデル。そなたは?」
「ジーン・バーレット」
「ほう、噂に名高い聖騎士の団長か」
ジーンには、プロンデルの余裕が理解できない。何しろ、数において不利な状況で、どうして一騎打ちなど出来るのだ、と思うからだ。
ましてやプロンデル以外の騎士たちは、ジーン配下の聖騎士たちに、次々と討ち取られているのだから、ここで笑みを浮かべるなど、正気の沙汰ではない。
「降伏しろ、プロンデル! 貴様に勝ち目はないぞ!」
「そうか? もう間もなく、俺が勝つと思うのだがな」
振り向きざま、槍に半円を描かせて、背後に迫る聖騎士を倒したプロンデルは、唇の端を吊り上げて、ジーンに向き直る。
ジーンは、細眉を吊り上げてその様を見ていたが、つまらぬ虚言に付き合っている余裕はない。再び口元を引き結んで、馬腹を蹴ると、プロンデルに向かって突進した。
その時であった。
左右から鬨の声が上がり、自軍に向かってきたのだ。
しかも、魔法弾も降り注いでいる。
「どういうことだ?」
ジーンの背筋が凍りそうになる。そして同時に、脳内では複数の警鐘が鳴り響いていた。
ジーンは、プロンデルとすれ違うと、脇腹に痛みを感じた。
鎧が砕け、腹部からは血が滲んでいる。致命傷ではないが、このまま一騎打ちを継続して、勝てるとも思われなかった。
ジーンが状況を把握する為、周囲に目を凝らせば、自軍に襲い掛かってきている者は、間違いなく聖光緑玉騎士団と聖光青玉騎士団である。
元々、プロンデルがここまで軍を急速に拡大出来た理由は、あらゆる軍を味方に付けてきたからではなかったか。
唇をかみ締めたジーンは、自身の迂闊さを悔やんだ。
だが、まさか仲間を最初から疑いたくも無かったのだ。
「しかし、クレアはともかく、オーギュストまで」
ジーンは、緑色の瞳に力を込めて、自身の傷を癒す。
もはや、敗北は避けられない。
ならば、僅かでも体勢を立て直し、一人でも多くを生かそうと心に決めた。
ここで負けても聖都の城壁に寄れば、まだ戦える。そうであれば、ここで死ぬのは無駄死になのだ。気力を振り絞って、自らにそう言い聞かせるジーンであった。
幸い眼前のプロンデルは、目の前の獲物に対して興味を失った獣の様に、槍を肩に担ぎ、馬首を返していた。
「ジーンとやら。戦っている最中は、何があっても余所見をするものではない。興がそがれた」
こうして、聖光白玉騎士団は壊滅し、皇帝プロンデルは聖都フローレンスに迫る。
同時に、聖光緑玉騎士団と聖光青玉騎士団がプロンデルの軍門に下った。
この五日後、法王クレメンスはプロンデルへ使者を送り、正式に彼の戴冠を認めたのである。




