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サーリフの最後

 ◆

 

 サーリフが乗る馬は、彼の巨躯を悠々と支えられる程に大きく、そして精悍だった。しかし今、周囲に紫色の煙が満ちたかと思うと、一度嘶き、ぐったりと前足を折った。


「毒、か?」


 サーリフが下馬して周囲を見渡すと、自身の主だった幕僚達までもが苦し気に蹲ってる。そして、程なく彼等は死んだ。

 

 テュルク人の多くは、魔法を使えない。だから、このような搦手で攻められた場合は弱かった。

 無論、配下に魔法兵団はいるが、力を重視するサーリフは、やはり彼等を主戦力とは考えておらず、為に、今のような事態に陥ったといえる。


 城壁を取り巻く戦闘は苛烈さを増し、後方から敵に攻められ、本陣内部は毒の煙に侵されていた。


 それでも、サーリフは慌てない。


 白く淡い輝きを帯びた鎧は、付与された魔力によりある程度の毒など無効化するのだ。加えて、頭上に巻いた白布も、防護の魔力を帯びている。

 もっとも、二重の防護をもってしても自身の体力を奪われ、呼吸が荒くなるのを自覚すれば、幕僚達が次々と倒れてゆく姿にも納得せざるを得なかった。

 このような事になるならば、もう少し魔術師を側に置いておけば良かった、と考えたが、それも詮無いことである。

 あるいは、馬ではなく、ドラゴンに乗っていれば良かったか。


 いつしか、サーリフの本陣には、ただ、サーリフのみが立っているだけになっていた。


 足を進め、他の部隊と合流しなければ、指揮さえもままならない。 

 不愉快な事に、どうやら自陣に齎された毒煙は、相当に強力なものらしかった。

 指揮官からの指示が届かない後方は、すでに崩壊しつつある。

 ”ぎり”と歯軋りをならし、サーリフは、後方の敵を撃退しようと、魔剣を鞘から抜き放ち、全速で駆ける。


 その時、眼前の空気が”ざわ”と揺らめき、サーリフの前に二つの人影が現われた。


 一人は、やや癖のある、朱色髪の美女である。彼女は、紺色の衣服に薄茶色の皮鎧を纏った、サーリフ配下の奴隷騎士マルムーク、魔法兵団の制服を着ていた。

 今一人も魔法兵団の制服を着ている人物であったが、その体躯は、サーリフよりも大きい程である。しかも、角があるところを見ればテュルク人なのだから、それで魔法を扱うなど、随分と珍しい存在だろう。何より、その男は若かった。


「ほう、無事な者もおったか。さすがに魔法兵、といったところか」


 見覚えの無い顔であったが、テュルク人を見かけたことで、サーリフに僅かの油断が生まれていた。

 知らず、微笑を浮かべたサーリフに、無言で巨体のテュルク人が迫る。

 肉迫した巨人は白刃を煌かせ、右から左へとサーリフの胴を両断するかと思われた。しかし、サーリフも刃を立てて、巨人の剣を跳ね返す。


「……何者か?」


 サーリフの硬く鋭い誰何が、毒煙の中に響いた。


「……聞いてどうする? どうせお前はもうすぐ死ぬ。俺が名乗る意味は無い」


「ふむ」


 サーリフは、重心を下げて、眼前の二人を見やった。もはや敵と断じて、差し障りないであろう。

 女の方は、先ほどから何やら印を結び、呪文を唱えている風だ。対して、巨躯の男は、魔法を使う素振りさえ見せない。

 だがサーリフは、それ以上の観察を許されなかった。右の肩口に、銀光が弧を描いて迫っていたからだ。

 魔剣を跳ね上げて、敵の刃を払いのけたサーリフは、そのまま振り下ろして敵を両断する。


 否――


 並の相手ならば、それで決着がついていたのだろう、しかし、眼前の男は違った。

 身体を開いてサーリフの刃をかわし、しゃがんで足を払う。体術の心得もあるようだった。

 だが、体術ならばサーリフとて不敗である。

 サーリフは相手の蹴り足を狙い、踵を落として跳ね返す。一瞬、敵は苦痛に顔を歪めたが、すぐに体勢を整えると、曲刀を水平に払う。

 淡く光を放っている所を見れば、敵の曲刀も魔剣の類であろうとサーリフは見当をつけた。


 二人はニ〇合、三〇合と打ち合い、戛然とした音が沙漠に響く。


 ――勝負は互角ではなかった。


 技量に勝るサーリフが、力で勝る敵を圧倒し始めていたのだ。


「もう一度聞こう。名は?」


「……ザール」


 サーリフの眼前に立つ巨漢は、額に玉の汗を浮かべて、ついに名を名乗った。勇敵に敬意を抱いたが故に、名乗らずにはいられなかった。

 ザールは一騎打ちで、ついに自身がサーリフに及ばない事を自覚した。

 体躯だけならば自身に劣るサーリフに、ザールは畏敬の念を抱いた。この期に及んで一切の焦りを見せず、現状を切り抜けようとしているこの男は、会う場所さえ違ったならば、師と仰ぎたい程の武人なのだから。


 サーリフの大剣が振り上げられた時、ザールは三歩程後ろに下がった。

 もはや、自身が一騎打ちで勝利する事は叶うまい。そう思い、悔しさに唇を噛んだ時、背後から抑揚の無い女の声が聞こえた。それは、端的にザールの勝利を告げていた。けれど、勝利の女神というには程遠い。何故なら、声が冷たすぎるのだ。


「ザール殿、ご苦労様……サーリフは、お終いよ」


 朱色髪の女――シーリーンが全ての印を結び終わると、サーリフの鎧から淡い輝きが消えた。頭上を覆う白布も同様に、輝きを残す物は、唯一、魔剣だけとなる。


「うっ……」


 サーリフの褐色の肌が、みるみるうちに黒く変色し、表情は苦悶に歪んでゆく。

 ザールは、不本意であった。これ程の武人を騙し討ちで、しかも毒煙で殺すなど、「卑怯ではないか」と叫びたかった。


 サーリフは、自身の命運が尽きようとしている事を自覚した。しかし、それでも奥歯をかみ締め、ザールに向けて、曲刀を振るい続けた。

 さらにザールとは三〇合程刃を交えたであろう。鋼と鋼がぶつかり合い、火花が激しく弾け続ける。

 ザールは、先ほどの思いが唯の慢心であったと自覚し、敗北を覚悟した。

 それほどまでに、サーリフの刃は苛烈を極め、幾度もザールの服を、鎧を、肌を切り裂いていた。

 サーリフの防具から魔力による防御を奪ったシーリーンも、今は曲刀を振い、魔法を駆使してサーリフに挑んでいた。


 二対一でも、毒に侵されても、尚、サーリフは戦い続けた。


 毒煙が広がった範囲で、多くの味方が倒れている。

 毒煙が消えた先では、倒れた味方に、オロンテスの騎士達が刃を突き立てている姿が、サーリフの閉ざされつつある眼に映っていた。

 共に歩み、共に喜んだ仲間たちが、何も出来ず、無残に殺される様を、サーリフは救いに行くことが出来ない。それでも、絶望はしない。最後の瞬間まで、勝利を模索していた。それが、サーリフなのだ。


 しかし、不意に終わりは訪れる。


 サーリフが、魔剣を取り落としたのだ。

 避けた拍子でもなく、撃ち込んだ拍子でもない。ただ、立って、構えているだけの時に。

 サーリフの噛み締めた奥歯からは血が滲み、毒が回った双眸は赤く滲んで、何一つ映さなくなっていた。

 

「……是非も……無い、な」


 サーリフが最後に行ったことは、口元の両端を僅かに吊り上げた事である。無念のうちに死ぬ事を、彼は拒否したのだった。


 両足を開き、構えたままの姿勢で、微笑を浮かべながらサーリフは絶命した。

 結局、ザールの刃は最後までサーリフに届く事が無かった。にも関わらず、ザールの顔は血と汗で濡れそぼり、腕も血に塗れ、胴からの出血さえ夥しい。

 シーリーンは曲刀を折られて、途中からは戦う事さえままならず、砂の上にしゃがみ込んでいた。

 迂闊に近づけば、暴風の如き大剣の旋風に巻き込まれて、一瞬で命を落としていただろう。シーリーン程の者でさえ、恐怖にかられ、動く事が出来なくなっていたのだ。

 

「よもや……サーリフがこれ程とは」


 ザールは呻き、刃こぼれを生じた自らの魔剣を眺めやる。その表情は、決して勝利の余韻に浸る者のそれではない。むしろ、自信を打ち砕かれた、惨めな男の顔だった。


「……い、行こう。サーリフさえ殺せれば、ナセルさまの作戦は成功なのだ……」


 褐色の肌に汗を浮かべて、シーリーンが荒い息遣いで言う。やや上擦った声が、サーリフに対する恐怖を未だ引きずっている様だった。

 こうなれば、ザールには命を助けられたも同然のシーリーンである。彼女はザールに対する評価を、二段程上げていた。 


「シーリーン殿。俺は……どうも釈然とせぬ。サーリフは、そもそも味方ではないか?」


「……ザール殿。我等はただ、アシュラフ陛下の御為に、ナセルさまの御命令を実行しただけのこと……要らぬ詮索は、身の破滅を招く」


 シーリーンが覗くザールの瞳は、驚くほど澄んだ褐色だ。戦闘以外を未だ知らない青年は、不平顔でシーリーンに問うていた。

 彼は、ナセルの縁者にしてアシュラフの側近。言うなれば、将来の出世が約束された身分である。

 だからなのか、辛酸苦渋を舐め続けたシーリーンから見れば、彼の考えは甘すぎることこの上ない。その思いから、少しばかり強い口調で言い返してしまったのであろう。

 もっとも、その事に気がついたとき、少しばかり後悔したシーリーンである。決して、その甘さが嫌いという訳ではなかったのだ。


「……そうだな。詮無い事を申した」


 曲刀を鞘にしまったザールは、シーリーンの言葉を是として頷いた。

 そもそも、ナセルは叔父である。叛意を抱く必要など感じないし、敬意すら抱いているのだから、わざわざ好んで嫌われる必要など無いのだ。それに、シーリーンに嫌われたくもない。

 だが、テュルク人の血をナセルよりも色濃く引く自分であれば、サーリフが同胞に見えただけの事である。同胞を殺すなど、やはり、心が痛んでも仕方無いだろう。


「さあ、ナセルさまの天幕へ戻りましょう。私の肩に手を置いて」

 

 ザールは周囲を見渡して、物言わぬサーリフ・マルムークの一団と、それを蹂躙するオロンテス騎士達を目に映す。それから、シーリーンに向き直り、彼女の左肩にそっと手を置いて、言った。


「よろしく頼む」


 シーリーンは転移する直前、オロンテス西門を眺め、ハールーンの姿を探した。しかし当然、ハールーンの姿は見えない。

 間もなく配下の暗殺団アサシンが動きだす頃だろう。もしかしたら、もう動いているかもしれない。

 とにかく、ハールーンが毒煙に耐えてくれれば、シーリーンはそれで良いと思う。

 だが、これとて二ヶ月を費やし練りに練った魔法である。いかに開放する者がシーリーン以外になるとはいえ、容易く破れるものではない。ハールーンにどれ程、魔法の素養があるかは未知数だが、先日戦った限りでは、到底毒煙に耐えられるとは思えなかった。


「転移します」


 気持ちを切り替えて、シーリーンは言った。

 所詮、自分には巨大なモノに抗う事など出来ないのだから――


 二人の姿が消え去ると、この場から動く者は居なくなった。

 辺りを虚しく一陣の風が舞い、物言わぬ兵の衣服が揺れる。そしてサーリフの躯は、ついに砂の上に倒れた。


 ◆◆


 二人の姿が消えて少し経つと、紫色の煙も消え去った。後に現われたのは、奴隷騎士マルムークの死体を蹂躙する銀羊騎士団アルギュロスアリエスだった。


 銀羊騎士団アルギュロスアリエスの団長レオポルドは、内心に思い出す。


「来る日、狼煙が上がりましたなら、背後から西門を攻める軍を襲って下さいまし。

 その為に、城外で待機をして頂きたいのですが、待機なさる場所は此方でご用意いたしましょう。なに、一万人程度を養うなど、ナセルさまには容易いこと。

 ……それから、ある程度時間がたちましたならば、降伏は必ずナセルさまに。

 さすればその後、貴方さまは、リヤドの将軍となられます……ご返答やいかに?」


 ある日、リヤド国宰相ワズィール、ナセル卿の名代と名乗った朱色髪の女が現われた。

 その女は大量の金貨と、このような提案を携えていたのだ。

 金貨は素直に受け取った。

 提案を信用するかどうかも、レオポルドは悩まなかった。どだい、自身の未来を考えた時、オロンテスにいたのでは、良くて討ち死に、悪ければ晒し首としか思えなかったからだ。

 仮に嘘でも、城に篭って戦うのではなく、堂々と会戦を行うだけのこと。もとより篭城などレオポルドの趣味ではなかったし、それならば、敵に一矢酬いる事が出来る。望む所だった。

 そして、提案が真実ならば、これ以上美味い話はない。


「シーリーンとやら。良かろう。ナセル殿によしなに」


 だから、レオポルドの返答は早かった。

 返答を聞いて微笑を浮かべた朱色髪の女は、目を細めて、金貨の袋を追加したものだった。


 レオポルドは今、戦場を睥睨し、馬上から槍を振っている。

 抵抗すら出来ない奴隷騎士マルムークを屠るなど、実に容易い作業だった。

 返り血が、羊の頭を模した銀色の冑を赤く染めてゆく。実に痛快なことである。


「蹴散らせ! 銀羊騎士団アルギュロスアリエス、前進せよ!」


 真紅のマントを靡かせたレオポルドの声が、騎士たちの耳に届く。

 歓声と悲鳴が交互に聞こえるのは、戦場のならい。勝者がいるならば、必ず敗者も存在するからだった。  

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