聖騎士達の撤退
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純白の大理石が敷き詰められた荘厳な空間を彩るのは、真紅の絨毯と黄金の玉座。
そこはオロンテスの王城、謁見の間である。
玉座の下方には金牛騎士団のオットーと銀羊騎士団のレオポルドが、護衛の為に控えていた。
玉座にその身を収め、怯えた瞳を眼下で直立する騎士達に向けるのは、オロンテスの現王リジュニャンその人である。対する騎士は、聖光緑玉騎士団副団長たるクレア。
以前はアエリノールが団長を務めていればこそ、彼女の威名はそれ程の異彩を放たなかったのだろう。しかし、リジュニャンはオットーより聞いたハインリッヒ邸襲撃の真相によって、クレアという存在に畏怖を覚えていた。
アエリノール背信の確証を得るため、クレアは魔族と奴隷騎士を利用した。そして、同時に敵と繋がっていたハインリッヒも処分した。それも、証拠が無い以上、非公式に、アエリノールに葬らせる事によって。
――目的の為には手段を選ばない女。そして容赦呵責のない女――
それが、リジュニャン王のクレアに対する認識となったのである。
リジュニャンの眼下では、オットーがいつでも剣の柄に手をかけられる様、一足飛びで斬りかかれる様、僅かに腰を落とし、身体を捻っている姿が見える。
確かに、クレアと共にいる騎士の一人は、オットーよりも巨漢である。しかし、もう一人は、クレアと同じ程度の身長をした、女性としてもごく普通の体躯である。いっそ、クレアよりも細身な程だ。
もちろん、彼女が妖精である事を考えれば、体格差などは問題にもならないであろうが、聖騎士団長とは、剣術の達人であるオットーが、それ程に警戒を要する相手だというのだろうか?
それよりも、いかにアエリノール背反事件があったにせよ、聖騎士達は本来、味方ではないか。
リジュニャンの焦燥は、オロンテス最強の騎士が顕にする警戒感さえ不快に思うほど、高まるばかりである。
「ですから、幾度も申し上げましたように、法王猊下が聖戦をお認めになる事は御座いません」
「そ、それは分かった。致し方ないとしよう。されど、それど、そなた達が引き上げるとは、如何なることか?」
半ば玉座から腰を浮かし、手を縋るように伸ばしてクレアに問うリジュニャンである。
援軍が来ないどころか、現有の戦力にさえ去られては、シバール国に勝てる要素が無くなるではないか。
「それは、私の与り知る所では御座いませぬ」
褐色の髪に褐色の瞳を持つクレアは、一見すると人当たりの良さそうな笑顔を浮かべて、冷厳なまでに国王の問いを遮断した。
彼女は跪く事さえしていないのだから、いっそ不遜ですらある。しかし、彼女の背後に控える騎士二名こそが聖騎士団が誇る最高の騎士、ジーン・バーレットとオーギュストであるのだから、如何なる事態が起ころうとも、自身が傷つく事は無い。その自負心が、膝を折ることを潔しとしなかったのだ。
ましてクレアは、この国王を無能だと、内心で断罪しているのだから、尚更である。
「それは、私が説明しましょう……。
我が大陸……いや、本国では、聖教会の権威を認めぬ愚か者が跋扈しつつあります。
リジュニャン王、見捨てる様で悪いが、我等とて、余裕がある訳ではないのです。今は、ここに戦力を割けぬ、という法王猊下のご判断、悪く思われませぬよう……」
「しかし、ここは聖地であろう!」
「聖地は奪還すれば良い。されど、聖都を奪われる訳にはゆかぬ、と、法王猊下は仰せになりました」
銀髪の騎士、ジーン・バーレットは、リジュニャンに対して一定の理解を示している様だ。
彼女は答えると、直立の姿勢を崩さないまま、玉座のリジュニャンを黙然と眺めやる。真実、彼女の内心は、この国を去る事に関して後ろ髪を引かれる想いであった。
尤も、想いの大半は、別にオロンテスの救済等ではない。かつての同胞、アエリノールの行方が気になるのだ。
クレアの報告を受けて急ぎオロンテスに来てみれば、確かにあれ程嫌悪していた魔族と共闘をしていたアエリノールである。しかも、罪ありとは言えオロンテスの大貴族を闇討ちするなど、どう考えてもおかしい状況であったのだ。
(あの、アエリノールに、余計な知恵を付けた者がいる、それは、或いは……)
ジーンの思考は、しかしそれ以上の考察を許さなかった。
所詮、アエリノールは裏切り者だ。そして、仲間を疑うなど、もっとも侮蔑すべき行為。
友誼よりも騎士の責務が重い事は、彼女も分かっているはずである。
――次に会えば、唯、敵として斬るのみ。
そう考えて、ジーンは友人に対する想いを自制した。
それよりも、今、聖教会を悩ます首魁を、聖騎士団は全力を挙げて討たねばならないのだ。
一介の辺境領主に過ぎなかった男が、僅か数年で王となり、先日、いよいよ皇帝を名乗ったのだから。
◆◆
皇帝とは、地上における神の代理人であり、法王とは、万物の理を民に伝える神の憑代。
つまりは、法王こそが皇帝を任命する権利を有し、皇帝が各地の王を任命するのが古の習いなのだ。
しかし、ここ数百年、聖教会は何人にも帝冠を授けていない。何故なら、法王が直接に王を任命する方が、何かと都合が良いのだから。
現在、聖教会を国教と仰ぐ国々は、カフカス大陸に大小合わせれば五三カ国ある。そして、皇帝を僭称する男の支配下に属したと思われる国が、凡そ十五カ国。
皇帝を僭称する男は、そもそもが高貴な生まれであった。僧籍に入れば、いずれは法王にさえなれたであろう。しかし、彼の武勇がそれを許さなかったのだ。
彼は、あまりに強すぎた。
彼は生まれこそ高貴であったが、その手元には僅かの軍勢しか持っていなかった。だが、それは何ら問題にならなかったのである。
彼の槍は天を穿ち、斧は魔王さえ両断する。そう言われる程に、彼の力は常軌を逸していた。
見る間に軍勢は増え始め、それから、彼こそが神の子である、と、彼に心酔した枢機卿達が言い始めたのだ。
そして、彼は皇帝へと押し上げられた。
だが、獅子の鬣の如き黄金の髪を戴く彼の頭上には、帝冠など不要であったのだろう。
「戦いこそ、我が全て。世界が余に付いて来ると言うならば、好きにすれば良かろう!」
彼は、武将、兵の全てに聞こえるように、ある戦勝後に、こう言ったとも云う。
彼を包む歓呼は大気を震わせ、賞賛する喝采は地響きとなり、大陸を覆ったと云われた。
彼は宮殿を持たない。
戦陣こそが宮殿、馬上こそが謁見の間だと嘯いたと言う。故に、日々、兵を進めるのだと。
――皇帝プロンデル、時にニ八歳。今まさに、カフカス大陸に覇を唱えんとしていた――
もはやプロンデルは、五大聖騎士団を持って当たらねば、止められる相手では無い。そう、法王は判断を下すしかなかったのである。
◆◆◆
オロンテス王リジュニャンとの謁見の後、聖光緑玉騎士団が駐屯する館に帰還したクレアは、未だ騒然としている騎士たちを前に柔らかな笑顔を見せる。
騎士達にとっては、未だ前日の事件が信じられないのだ。朝から団長が造反した、等と言われては、副団長が王城から戻るまで、気が気では無かったに違いない。
「皆、心配する事はありません。元団長の罪が、あなた方に及ぶ事は在り得ませんから」
だが、その言葉だけで収まるものではない。当然、アエリノールに心酔している騎士達もいるのだ。
「アエリノール様がおらんなら、俺も出てゆく!」
「あの方が裏切るなど、到底信じられん!」
大半が副団長であるクレアの説得に応じたが、一部、狂信的とすら言える程のアエリノール信奉者も居た。
彼等の大半は、妖精や半妖精といった者達であり、かつて、何処とも知れぬ場所からアエリノールが自ら拾ってきた、彼女の子飼いとも言える騎士達である。
当初、同じく妖精であるジーンが彼等を説得しようとしていたが、クレアが自ら事態の収拾を買って出た。
「彼等は私の仲間です、悪いようには致しませんので。
さ、それよりもジーン様には、法王猊下に事の顛末を報告して頂きませんと……」
そう言われてしまえば、本来の任務はアエリノールの背信を見極める事と、聖光緑玉騎士団の撤退命令を伝えに来ただけのジーンには、為す術とて無い。
「わかった。宜しく頼む」
そう言い残すと、急ぎ転移魔法を発動させて、聖都へと戻ったのである。
そしてクレアは、彼等アエリノール派を人知れず処分した。
一人一人ではない。全員を纏め、彼女が放った闇に属する魔法によって、塵さえ残さずに、である。
騎士団の公式記録には「逃亡」とのみ記され、内部の騎士達から見れば、この出来事は、あたかも副団長クレアの温情であったかのように仕組んだのだった。
「くふ、くふふふ……(奴等の断末魔ときたら)」
始末を終えたクレアは、自室で寛いでいた。
部屋は、アエリノールが暮らしたものと変らない広さであり、館の中では彼女の部屋の隣に位置する。だが、調度品の趣味は、残念な上位妖精とは比べるべくも無いほどに、良かった。
長椅子に座り、魔術の本に視線を落としながらも、夕方の愉快な光景が忘れられず、図らずも口から笑いが漏れている。
卓に置く銀杯の葡萄酒は半ばを残しても尚、クレアの頬は、僅かに桃色に染まっていた。
「楽しそうだね、クレア」
窓辺に立ち、銀杯を傾けて葡萄酒を煽りつつ、小さな眼鏡をかけた巨漢のオーギュストがクレアを見る。
彼は、クレアに相談がある、と呼ばれ、心ならずも彼女の部屋へ来ているのだ。
酒を飲むのはクレアに勧められたからでもあるが、独身の、それも美女とさえ呼べる程に整った容姿のクレアと二人きりになる事が、どうにも素面では耐えられそうもないからである。
国に戻れば結婚を約束した恋人も居るのだが、ただ、相談事で二人きりになる程度ならば、咎められはすまい。
そうは思っても、魔力が齎す乳白色の灯りの下で、艶かしい陰影を浮かべるクレアを見ると、下賎な欲望が鎌首をもたげる、まだ若いオーギュストであった。
「そうですか……?」
「うん。
……それにしても、ジーンが羨ましいね。転移の魔法で聖都まで一日と掛からないのだから、妖精というのは……。
私達なんて、馬で急いでも一〇日は掛かるのに、ね」
オーギュストは溜息を吐き出すと、残りの葡萄酒を飲み干した。そして、自身の邪念を振り払い、銀髪緑眼の潔癖症な同僚を思い浮かべる。
来る時は、ジーンに散々文句を言われながらも、転移魔法のご相伴に与り、一日半でオロンテスに到着したオーギュストである。帰りの行程を考えれば、気が重くなるのも当然と言えた。
「ジーンさま……。そうですね。羨ましく思いますわ」
褐色の瞳に毒を湛え、目を細めたクレアの心情は、しかしオーギュストには伝わらない。
オーギュストにとってクレアは、多少の腹黒さこそ認めても、あくまで優秀な仲間なのだから。
しかし、クレアの内心は昂ぶり、荒れていた。
彼女は、カフカス人至上主義者なのだ。そして、それはつまる所、魔族も妖精も沙漠民さえも認めない、敬虔な聖教信奉者である事を意味する。
故に、彼女はアエリノールを排除し、その信奉者を始末した。
次は、ジーン・バーレットの番である。妖精族など、滅んでしまえば良い。
それなのに、カフカス人でありながら、オーギュストはジーンが羨ましいだと? 冗談はその伊達眼鏡だけにしろ……。
しかし、クレアは全ての思いを飲み込んで、魔術の本を閉じて立ち上がる。
「ふふ。オーギュストさま……。私、少し酔ったようです。明かりを消して下さらない?
……(魅了)」
オーギュストは、グラスを木製の卓に置くと、艶めいたクレアの瞳、柔らかな唇に吸い寄せられた。
そしてクレアの清楚な肢体は、オーギュストの前に甘美な艶治となって現われる。
魔力によって齎されていた灯りはオーギュストによって消され、ほの暗い空間に、二人の男女が裸体を顕にした。
二人は、荒い息を吐き、縺れるように寝台に倒れ込んだ。
オーギュストの分厚い胸板に押し包まれて、クレアの嬌声は止まらない。けれど、聖光青玉騎士団の団長は、虚ろな瞳を中空に漂わせて、自身の恋人に詫びる思いが胸を裂く。
――私は何故、クレアを――
「くふ、くふふ……オーギュスト様。
この関係、誰にも知られたくなければ、私の言う事を幾つか聞いて下さらないかしら?」
汗ばんだオーギュストの太い首に両腕を絡めて、クレアは呟くように、喘ぐように声を出す。
オーギュストには、もはや拒む術とて無かったのである。
主人公不在……すみません。
クレアとオーギュストの描写。
あの程度なら、大丈夫……だと信じてます。




