バレオロゴスの罠 25
◆
陛下がネフェルカーラさまに耳を引っ張られて帰国して以来、私はクロエと共にバレオロゴスの内治を司っていた。
そしてようやく三週間前、ベリサリウスに全権を委任して、私達は帝都への旅路についたのである。
もちろんクロエを伴って帝都へ赴いたからには、彼女が陛下の寵を受けるのは必然。そうなった理由はいくつかあるが、もっとも大きな理由は――次代の大公に陛下の血族を――と望むバレオロゴスの民心が大きかったことである。それが、クロエを後押ししたのだ。
陛下としても、馬車一杯の嘆願書を目にすれば、折れざるを得なかった――というのが実情であろう。
あれから五ヶ月――帝国暦三年も晩秋となり、マディーナを吹き抜ける風が西から北へと向きを変えた。けれど夏と変わらぬ活気に満ち溢れた街路では、物売り達の威勢のよい声が飛び交っている。
そのお陰で、ようやく帝都に帰ってきたのだ――と、私は実感できた。
もっとも――夏であれ秋であれ、気温は大して変わらない。その意味では、商人達が変化するはずも無いのだが。
「なあ、シュラ! シュラ! 我輩が前に来たときには、もっと建物は小さくて……えと、こんなに人はいなかったぞ!」
私と並んで馬に揺られるクロエが、めまぐるしく顔と瞳を動かしながら言う。
きっと、この数年で目覚しく発展した帝都マディーナに、心が躍っているのだ。
街路には貴金属の店や干し肉屋、パン屋などが軒を連ねている。
規則正しく並んだ石畳は、下町ですら整備が行き届き、ひび割れすら見当たらない。また、等間隔で十人規模の奴隷騎士の詰所があり、治安も万全だ。
「全世界から、今や、このマディーナに人が集まっています。有体に言えば、ここは世界の文化、経済、学問の中心地になりつつあるのですよ」
私は遠くに見える幾つかの尖塔を指差しながら、「あれは大学」「あれが真教の、こちらが聖教の教会です」と、いちいち説明をする羽目になった。
とはいえ――今や超巨大都市となった帝都マディーナを一日で回り、説明することなど不可能だ。
「これからは、こちらで暮すのですから、見物は後日になされませ」
だから私はこう言って、クロエを諭す事にした。
けれど彼女のワクワクは止まらないらしく、馬首を廻らせ、人だかりの中へと向かってゆく。
はぁ……他人の迷惑も考えて欲しいものだ。
「……シュラ、シュラ! ここはなんだ? 人が集まり、並んでおるぞっ!」
「劇場です。どうやら今は――皇帝陛下が王になるまでの話を、上演しているようですね」
私は遠くにある看板を眺め、クロエに伝えた。
多分、というか確実に、闇妖精である私の方が、クロエより目が良いからだ。
「見たいのだがっ!」
「なりません、まずは宮殿に向かいませんと。陛下が首を長くしてお待ちですよ」
いくら広い街路とはいえ、私達は百人規模の隊列。市井の人々の間で、明らかに目立っている。それを気にせずフラフラするクロエは、民衆にとって迷惑な存在であろう。
だから私は首を左右に振って、民に「すまぬ、バレオロゴスの姫君ゆえ、世間知らずなのだ」と謝っておいた。
民は私が肩に掛けた五頭竜のマントを見ると、「いえ、将軍さまに頭を下げられちゃ、たまりませんや」などと言ってはいたが……。
「お、おお、済まぬ! 我輩、ちょっと浮かれすぎておった!」
馬上でクロエも、ペコリと頭を下げる。
彼女も私と民のやり取りを見て、少し反省したらしい。道の中央へ戻ると、胸を張って凛とした表情を浮かべていた。
陽光を受けて、クロエの赤毛が炎のように揺らめいている。真一文字に結んだ口からは、固い決意も窺い知れた。
まったく、感情の起伏が激しい小娘だ。
街の喧騒に浮かれていたかと思えば、今度は我が身を囲む視線が気になり始めたか。
まあ――共に五ヶ月も過ごしたのだ。クロエに対する同情心は、私にもある。
彼女にとってここは、ある意味で敵地。何しろバレオロゴス事変と呼ばれる先の一件は、「帝国に対する反逆を企てた一派の仕業」、として処理をされたのだ。
確かにそれは事実であったが――それ故に心無い群臣や民衆の間でクロエは、我が身を陛下に売って、バレオロゴスの安全を買った売女、などとも言われている。
流石にマディーナ近辺でそのような噂は余り聞かないが、国境沿いではよく耳にしたものだ。
ある時など、クロエは真っ青になって下唇を噛んでいた。余程悔しかったのであろう。
「皇帝陛下は、我輩を愛しておられるっ!」
あの時のクロエは、街道沿いで噂をする農民相手に叫んでいた。
もちろん、その言葉にイラっとした私が彼女をぶん殴って、気絶させたりもしたが。
あれ、これ――私、もしかして同情していないのか? むしろ嫉妬か?
「緊張を?」
ともかく、クロエの瞳が翳ったので、私は軽く彼女の腕に触れ、声を掛けた。
「少し……我輩が皆に、どう思われているのかと思うと……」
「そのようなこと、人が生きていれば誰もが考えること。誰がどう思うか――など気にしても始まりませぬ。重要なのは、己の気持ち。それこそが、真実にございます」
「む……流石は、ドゥバーンの殺戮隊と恐れられる将。気持ちが強い……!」
おのれ、小娘。喧嘩を売っておるのか? せっかく、慰めてやろうと思っているのに!
「どちらにせよ閣下には、陛下という後ろ盾もございますれば」
「閣下はもうよせ、シュラ。我輩、大公位は返上したのだ。それに、そうだな――考えてみれば、我輩が売女だとして、買っていただくのは陛下! 思えば、これ以上の上客はおるまいっ! なっ!?」
くっ……やはり、励ますのではなかった。私も陛下に買って頂きたい。正直、お代もいらぬ。
「御意」
私はクロエから距離を取り、震える拳を押さえつけた。
しかし空気を読まぬ小娘が、今度は私のマントの裾を掴んだ。
「なあ、なあ、シュラ。ところで、少し教えて欲しい。この街――帝都はいかほどに広いのだ? 城壁も無いし、見渡す限り、家、家、家――果てが見えぬのだが?」
「ああ、それは――人口増加に伴って、ネフェルカーラさまとアエリノールさまが城壁を取り壊しましたからね。今は、かつてのマディーナ群の三分の一が、帝都と呼べましょう。それを特区として二十八の県に分け、統治しております」
「ほう? 県っ! では例えばその県の長――ええと、何というのだろう?」
「県令です」
「うむ、県令か! それとシュラでは、どちらが偉いのだ?」
「――官位という意味では、私です。将軍位にある者は、そう多くありませんから」
「そうであった! シュラは将軍であった!」
は? なんなのだ、この小娘は。少し気を許すと、途端にイラっとくる。
確かに今、私が率いる兵は百名程度だが、堂々と五頭竜の軍旗を翻して、貴様の護衛をしているのだぞ。まったく。
「我輩もゆくゆくは、陛下の軍で将軍になりたいものよ! むはー!」
とはいえ、改めて感心したのか、クロエが私をキラキラした目で見つめてくる。そういう眼差しならば、悪くは無い。
「どちらにしても、クロエさまとて賜りましょう……将軍位を」
私は微笑を浮かべて頷き、クロエの未来を保障した。
「うん、まあ、でも……近々賜るであろうものは、所詮飾りだ。我輩は……その……お主のように功績を立て、実力に見合ったものが欲しい」
クロエが何やら話しているが、生憎と私の側に部下が来た。
もう間もなく、クロエを歓迎する行列が見えてくるとのこと。
警護隊は、帝都防御指揮官であるジーン・バーレットが、直接率いているという。
「あの女か……面倒だな……」
地下から回りたいな――と、思わなくもない。
「こう見えて我輩――お主を尊敬しておるのだぞ」
「――ん? 今、なんと?」
「あ……聞いていないとはっ! シュラめっ! に、二度は言わぬ!」
なんだ? ジーンのことを考えていたら、うっかりクロエの言葉を聞き逃してしまった。
が――まあ、そんなことは、どうでもよかろう。
実際、彼女が陛下の夫人になることはない。
そのことに罪悪感を覚えられた陛下が、直々に「なるべく高い地位でクロエを迎えよ」と、仰られたそうだからな。
だから実質的な権限は無いが、その分、栄誉ある地位が与えられることとなろう。
私とクロエは背後に百名の兵を従え、マディーナの市場を抜けてゆく。
やがて宮殿の大手門が見える辺りに到達すると、街路の側道には奴隷騎士達が整然と並び、彼等の背後に群衆が犇いていた。耳を劈くほどの歓声も聞こえる。
「「シャムシール帝国万歳!」」
「「帝国に、永遠の繁栄を!」」
「「バレオロゴス公国万歳!」」
「「永久の盟友よ!」」
クロエを迎える為に、陛下が用意したものだろう。この軍を指揮してるのは、当然ジーン・バーレットだ。
門の手前で彼女と会った私は、一瞬だが怖気を覚えた。たった一つの瞳で、射抜くようにクロエを睨んでいたからだ。
ジーンは陽光に煌く銀色の髪と、ネフェルカーラさまを彷彿させる緑色の瞳を持つ妖精。それが何ゆえ、クロエを憎憎しげに睨んでいるのであろうか。
「な、なあ、シュラ。クロエどのは暴漢にあって、あえなく命を落とされた――ような気がせぬか?」
む? 唐突にジーンが、私に馬を寄せてきた。そして何を言い出すかと思えば、これだ。
「いや、せぬ」
「むぐっ、即答とはっ! 貴様! このままお主等を宮殿の中に入れれば、私の陛下が、その小娘の伽をせねばならぬのだぞっ!」
「いや、ジーン。何か色々、間違っているぞ。まず、陛下はお主のモノではないし、伽をするのはクロエの方で、間違っても陛下ではない。言うなら、閨を共にするだけだ」
「シュ、シュラ……お前の認識は、間違っているぞ……断じて間違っている……」
まずいな、この女、今にも剣を抜きそうだ。
「いや、ジーン。これも陛下の、皇帝たる責務であらせられる。それを我等如き臣下が論じるなど、無礼であろう。が――そうは言っても、陛下とて辛かろうよ。愛するお主と、未だ結ばれぬのだからなぁ」
「は、はは……そうだろ? そう思うだろ? 私も不思議でならんのだ……うむ、うむ……」
この女は、やはり少しばかり痛い。
とにかく自分が陛下に“愛されている”と思い込んでいるせいで、陛下に絡むこととなると、異常に近視眼的になるのだ。
それ以外では、妖精でありながらも闇妖精である私を差別しないとか、良い所もあるのだがな……。
「あ、陛下……」
私は手を翳し、開いた門の先を見た。
「え、陛下?」
ジーンは私の視線の先へ、馬を走らせる。
まあ、この女の扱いは、私にとって馴れたもの。
いくらアエリノールさまに匹敵する力を持っていようと、弱点さえ知っていれば、どうとでも対応できるのだ。
「さ、参りましょう。五竜宮殿へ」
私はクロエに頷き、先へと進むことにした。
◆◆
「おかえりなさい、シュラ。あ、でも――すぐに次の任務かしら?」
謁見の間にて任務の終了を告げると、巨大な柱の林立する廊下でシーリーンに会った。柱にもたれて腕を組み、ちょっと嫌らしい流し目で私を見る朱色髪の女を、私はとても殴りたい。
「なんだ、おっぱいオバケ。無論、すぐにも出発するぞ。どうせ帝都に長居した所で、何も無いからな……」
「なによ、その言い方は。せっかく、わざわざ、お別れを言いに来たのに」
「お別れ?」
私はシーリーンの姿を、まじまじと見た。
いつもと別段、変わったところの無い将軍の制服だ。
私と色違いのマントを付けているが、それはこの女が、私よりも格下だからである。当然のことだ。
万が一この女が私と同格になったら、絶対に制服を隠して引き裂き、ズタズタにしてやる――と心に決めた。
「そうよ、私も明日には出征するから」
「なに、どこへ?」
出征と聞けば、私だって行きたい。
といっても、私は第三夫人の直属。故に、ドゥバーンさま自身が戦に出ぬ限り、私が戦場に立つことはなさそうだが。
「聖教国よ」
「ほう? ついに聖光緋玉騎士団、フィアナを討つか」
「逆よ。彼女を助ける為に、軍を動かすの」
「はっ!? 意味が分からん! どういうことだ!?」
「要するに天使の軍団を失ったフィアナが、藁にも縋る思いで陛下を頼ったってこと。英霊体質であるクレアやウィルフレッド、それに上位妖精のヒルデガードが相手だもの。いくら彼女でも、一人じゃ勝てないでしょ」
「だが……だからといって、このような同盟が成り立つのか?」
「成り立つでしょう。だって今や、我が国には信教の自由があるのだもの」
「しかし、だからといって我等の中に、聖教を信じる将などおらぬぞ? 誰がフィアナと手を携えられるというのだ!?」
「それなら、ご心配なく。一人、有力な将が改宗したわ。まあ、改宗と言えれば――だけれど」
「だ、だれだ?」
「パヤーニーよ。何でも、我が神はシャムシール大帝お一人なれば、真教であれ聖教であれ、変わらぬ! なんて言ってね。彼が、聖教国の救援に志願したのよ」
「えっ……あのミイラが?」
「そう、あのミイラよ」
「「はぁ」」
思わず、私とシーリーンの溜息が被ってしまった。
「アレにどんな思惑があるのかは……まあ、分かっているけれど」
シーリーンが苦笑している。
私は彼女の肩に手を置き、慰めた。
「どうせヤツの思惑は、フィアナであろう? さんざ、好きだなんだと申しておったからな」
「ええ、そうみたい。フィアナを助けて結婚するぞー! って、息巻いてるわ。――ただ、その彼の副将に、志願したんだけどね」
「なに? どうして、そんな真似を……」
「それは――だって私は新参だし、地位に見合うだけの功績を立てる必要があるもの。シャムシールも、納得してくれたわ」
「そうか。では、お前も改宗を?」
「ええ、もちろん。でも、世界の神はシャムシールなのよ? だったら確かに、どっちでも同じだわ」
「それもそうか……」
シーリーンの言葉に頷き、私は納得した。
確かに、陛下の下に宗教は平等だ。どちらにしろ崇めるお方は、陛下しかいないのだから。
だが、なんだ? シーリーンの物言いが、なにやら引っかかるぞ。
「――ちょっと待て、シーリーン。お前、さっきから陛下を呼び捨てにしていないか?」
「え……あら、そうだったかしら? ごめんなさい。寝室での癖が、つい……」
ん? 聞き間違いか? 私の長い耳が、ピクピクと震えている。微細な大気の振動に、不穏なものを感じたぞ?
「よく、聞こえなかったが……シーリーン。寝室……だと?」
「あ、あは、あははは……! なんでもないの! それじゃあね、シュラ! 私は出征の準備があるから、また……!」
そう言うとシーリーンは、手をヒラヒラと振り駆け去ってゆく。
「あ、待て! おっぱいオバケ! 待たぬかっ!」
◆◆◆
「陛下ぁぁぁ!」
私は矢も盾もたまらず、陛下の執務室へ押しかけた。そこには黒檀の机を前に、様々な書類を決裁する凛々しいお顔があって――「へ、陛下……シーリーンとは、その……もにょ……」
ああ、ちゃんと喋れない!
「あ、シュラ。聖教国に出兵する件かな?」
ペンを置き、顔を私に向けて、陛下が仰った。凝っておられるのか、トントンと軽く自分の肩を叩いておられる。
私は急いで陛下の後ろへ回り、肩を揉んで差し上げることにした。
「あ、その件も、確かに気になります。パヤーニーが司令官とのこと。大丈夫なのでしょうか?」
「それは、問題ないだろう。パヤーニーの戦術眼は、ドゥバーンも保障しているし――お?」
一瞬、戸惑ったように肩を竦めた陛下だが、すぐに「お、おお……」と嬉しそうな声を出された。
ふふ……私は人体の破壊法を知り尽くしている。だから逆に、身体が快楽を得られる場所にも詳しいのだ。
えい! えいっ!
「ふぁっ! そこっ!」
陛下が諸手を上げて、喜んでおられる。
と、そこで扉が半分だけ開き、あどけない少女が顔を覗かせた。不死王サクルだ。
「陛下――やっぱりなんでもない」
入室しようとしたサクルがジットリとした目を陛下に向け、半開きの扉を閉めた。
扉が閉まる直前、僅かばかり開いた隙間から「シュラも、愛人になった」という声が、ボソッと聞こえる。
うわぁ、意味深。
嬉しい誤解ともいえるが、けれど――「も」とはなんだ? 陛下には、既に愛人がいるのか? やはりシーリーンなのだろうか!?
むしろそれを問い質す為に、私はここへ来たのではなかったか!
しかし、それよりも今は陛下と二人っきり。迸る私の情動が、口よりも先に身体を突き動かすのだ。
私は肩を揉む手を止め、陛下に後ろから抱き付いてみた。それから腕の先に触れ、指に指を絡めてゆく。
この機会に私は、徹底的に陛下とイチャイチャする所存だった。
「シュ、シュラ!?」
「凝ってますね、陛下」
陛下の耳元に唇を近づけ、私は囁いた。腕を陛下の胸元へ這わせ、鼓動も確かめてみる。
ふふっ……緊張しておられるのだろうか? まるで早鐘のように、陛下の心臓が脈打っていた。
「陛下は、肌の色が黒い女は、お嫌いですか?」
言いながら、陛下の耳をアマガミする。
“カプッ”
「ふぁっ!?」
目を閉じて身体をビクリと震わせた陛下が、とても可愛い。
“ガタンッ”
けれどこれで、陛下がついに動き出された。立ち上がると一気に振り向き、私の両肩を掴む。それから「どういうつもりだ?」と言われた。
「どうって……ただ、陛下がお疲れの様子だったので、揉みほぐして差し上げようと……」
陛下の目が、少し怒っている。恐い……「すみません」と、言うしかなかった。
俯いて言った私の頬を、陛下がそっと撫でてくれる。その指が、少しだけ湿っていた。
ああ、いつの間にか、私は泣いていたのか。「ぐすんっ……」
おかしいな――涙が止まらないぞ。
「ど、どうしたんだ、シュラ」
「え、えと、えっと……わ、分かりません。でも、陛下はシーリーンと……その……したんですよね!?」
「あ、あれは、だってシーリーンが、肩身が狭いっていうから!」
「やっぱり、そういう関係になったんですね! ……えぐっ! それなのに私のことは、見向きもしてくれないで! やっぱり、褐色肌の女なんて、嫌いなんですねっ!」
「ちょ、シュラ……そんなに暴れるな……! シーリーンの肌だって、褐色だろ?」
「比べるなんて、酷い! 酷すぎますっ!」
私は抱きとめられながら、ポカポカと陛下の逞しい胸を叩いていた。
皇帝陛下にこんな事をして、私は一体、何を考えているのだろう?
「落ち着いてくれ、シュラ……! 見向きもしないって、どういう……」
鈍い! 余りにも陛下は鈍い!
私はキッと陛下を睨み付け、その茫然とした顔に、自分の顔を近づけた。そして何かを言おうとした陛下の口へ、強引に自分の唇を押し当てる。
「んぐっ……」
「こうひうころれふ……」
陛下は目を瞬かせながら、私の唇を受け入れている。
まあ――こうでもしないと多分、陛下には何も伝わらないだろう。
すると、力強く抱しめられた。それから私の口に陛下の舌が滑り込んできて……。
唇を離すとキラキラとした透明の糸が、私と陛下の間を薄く結んでいる。
本当のキスが終わると――私はガクガクと揺れる足腰のせいで、その場へへたり込んでしまった。
「シュラ――キスしながら喋るなんて、ずるいぞ……」
――――
それからは、夢のような時間だった。
政務を切り上げてくれた陛下が、私を寝室へと招いてくれたのだ。
「妻にすることは出来ない。それでも、いいのか?」
こんなことを言われて、普通なら頷く女はいない。けれど相手は、唯一絶対なる地上の支配者。私に否などあろう筈が無かった。
「ああ、シュラ……そのう……」
「なんでしょう?」
私は行為が終わって暫くすると、寝台から降りて、再び衣服を身に着けてゆく。
陛下が申し訳無さそうに、私の顔を見上げている。
「まさか、その……初めてだったとは思わなくて」
「はは……夢が、叶いました。私如き者を抱いて下さり、感謝いたしております。あ、でも……ドゥバーンさまには、御内密に」
ポリポリと頬を掻いた陛下が、そのまま立ち上がって私を抱しめてくれる。
私は本心を申し上げただけなのだが、寂しげな顔で陛下は私を見ておられた。
「一応隠すけど――もしもバレたら、その時は全力で謝って、シュラも愛人だ、って言うよ」
「そんなことを……他の奥方様達に露見したら、今度はアエリノールさま辺りに蹴飛ばされますよ?」
「はは……蹴飛ばされた先が、またシュラの任地だったりしてな。それならそれで、嬉しいかも……」
「シーリーンの任地かも……」
私は少しだけ冷たく、陛下に言った。これ以上こんな会話をしていたら、いつまでも離れられないからだ。陛下を独占したくなってしまう。
「あ、陛下。一つ、教えて下さいませんか?」
「ん?」
「無名神と戦っていたとき、陛下は誰をご覧になられたのです?」
「ああ……サーリフさまだよ。あの人がいなければ、今の俺は無いだろうから」
サーリフ……か。陛下を最初に奴隷として買い求めた、かつてのマディーナ太守。
なるほど、彼が全ての始まりだったのかもしれぬ。決して受けた恩を忘れぬ、陛下らしい。
「そういう意味でも、ファルナーズには幸せになってもらいたいと思うんだけど……あ、ゴメン、シュラ。これは今、君に話すことじゃなかったかな……」
「いいえ――そんなことはありません。そうですね、ファルナーズ――彼女が気になるのであれば、奥方の列に加えられては如何でしょう。テュルク人の血も、帝国には必要かと」
「いや、でもなぁ……それだったら……」
バツが悪そうに頭を掻く陛下に、もう一度だけキスをして口を塞ぐ。
「私は、相応しくありません」
この後、陛下が何を言うのか、予測が出来た。どうせ――
「だったら、闇妖精が一人、妻にいたっていいだろう」
とでも言うに決まっている。私が始めてだったせいで、責任を感じておられるのだろう。
けれど闇妖精の血は、栄えある帝国の皇族に相応しくない。何よりこれは、殺戮を好む呪われた血。私自身が、子孫を残したくないのだ。
だから私は陛下に一礼して、寝室を後にした。
――――
次の任務は、既に決まっている。
神が最大の仮想敵だとしても、当面の目標は別にあるのだ。
未だ、世界は陛下の下に平定されたわけではない。
西には神聖フローレンスあり、東にはクレイトが依然、巨大な力を誇っている。
さらに今、北方で新たな魔王が蠢動しつつあった。
私はドゥバーンさまより、魔王の動向を探るよう命を受けた。
故に、任地は北方だ。
ドゥバーンさまに出立の挨拶を終えると、宮殿を去って私は一人、騎乗する。
北への道は、長く険しい。けれど砂塵の舞う薄茶色の世界が、今の私にはとても煌びやかに、輝いて見えるのだった。
―― 異世界奴隷が目指すもの! ――
バレオロゴスの罠
――了――
これにて「バレオロゴスの罠」終了です。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。