バレオロゴスの罠 23
◆
「シャムシールどの。些か――やりすぎではないかの?」
白く長い顎鬚をしごきながら、真紅のローブを纏う老人が言った。
彼の右側には白髪の――いや、黒髪にも見える――不思議な青年が立っている。ヒョロヒョロなのか筋肉質なのか、まるで判然としない青年だ。彼は白いチュニックを着て、青いズボンを穿いていた。
青年を挟んで奥には、純白のローブを纏いフードを目深に被った少女が、前後に揺れならが退屈そうに立っている。かなり身長の低い少女だ――幼女、と表現した方がよいかもしれない。
彼等の周囲には、完全武装の戦士達が百名ほど。全員かなりの手練だと思われる。そんな戦士達が、鈍色地の鎧に映える金の装飾を煌かせながら、整然と佇んでいた。
正直、凄まじい威圧感がある。神殿騎士団と比べれば、まるで大人と子供であろうほどに。
“コンッ”
老人が手に持った杖で、凍った地面を突いた。乾いた音と共に、透明の波紋が大気の中へ広がってゆく。
その瞬間、光が戻り――というより、あらゆる出来事が逆行してゆき――雲も、人も、風も――何もかもが、氷に閉ざされる前の世界へと戻っていった。
この現象が何であるのか、想像は出来る。時間が巻き戻されたのだ。しかし――それを現実として見せ付けられると、ただただ恐怖しか抱けない。
私は咄嗟に、巨大な円柱と化した竜巻を見た。どうやらこれは、そのまま凍っているらしい。私はホッと安堵の溜息を吐く。
「あれは、厄介じゃからのう……そのままじゃ」
老人がしわがれた声で、頼んでもいないのに私の疑問に答えた。
「フォッフォッ」
「心を、読んだのか?」
「いかんかね、シュラ。わしはこれでも、神なのじゃが?」
長い眉毛の下で、目を細めた老人が私を見る。何もかも見透かすような視線で、薄気味が悪い。
「ちっ……」
反論など無益だろう。どうせ心を読むのだ。
私が老人から視線を外すと、上空から何かが降ってきた。
「ぐっ……ああああああああっ!?」
フランチェスコ――いや、ヘルメスだった。
彼が恐怖に顔を歪め、手足をバタつかせている。自らに何が起こっているのか、理解できないのだろう。それでも必至にもがき、空中で姿勢を制御しようとしていた。
陛下はヘルメスに目もくれず、「フォッフォッ」と笑う老人に問いかけている。
「クロノスどの……かな?」
「……はへ?」
「ク、クロノスどの……ではないのかな? その……時空を操っていたようだし……」
老人の態度が豹変した。
しゃんとしていた腰が曲がり、杖無しでは立てないかの様な姿勢になる。そして涎を垂らしながら、陛下に右耳を向けていた。
「ふぁ~……そう、かもしれん。あ? そうだったかのう? はて、はて? わしの名前はなんじゃったかな? クロノスというのか、わしは? のう、若者よ。教えてくれんかね? あれ? お主の名前はなんじゃったかな? 確か、シャム……シャム……はて? 最近、忘れっぽくてのう……困ったものじゃ」
老人が首を傾げ、同じ場所をクルクルと回っている。
もはや私に見せた知性の煌きは消えて、そこにはただ、耄碌した老人の姿しかなかった。
陛下が「えっ?」と仰り、後ずさる。もちろん恐怖からではなかろうが、慄くのも当然だ。
凄まじい威圧感と共に現われ、時間を操ったかと思えば、結果、単なるボケ老人だった。これでは正直、たまらない。
しかし何なのだ、この老人は。先程は私の心まで読んでみせたのに、今は本当にボケている。
神とは、こんなに意味の分からない存在なのだろうか?
「クソじじいっ! お前の名前はクロノスだ。シャムシールの言うとおり、合っていりゅっ! ボケるにゃら、時と場合を選べっ!」
白いローブの少女が、早口でまくし立てる。手に持った杖で小刻みに地面を叩き、イラついているようだ。
こっちは、せっかちなのだろうか? だが――所々、噛んでいなかったか?
それにしても――ボケる時と場合を選べって……それは無茶だろう。
「あ、やっぱりクロノスでいいんだよな? ハデスから特徴は聞いていたけど、違ってたらどうしようかと思ったよ。
ていうか、大丈夫か? その……家で大人しくしていた方がいいんじゃ……? ボケちゃってるなら、ちゃんと介護の人を付けてさ……」
陛下が、心配気な声を出しておられる。何なら両手を広げ、クロノスがいつ転んでもいいように、準備までしていた。
ちょっと! 優しくしてどうするのです! ここはビシッといくべきでしょうに!
「ボケとらんよ! わしは!」
クロノスが立ち止まり、ぐりんと陛下に半身を向ける。そして言葉を続けた。
治ったのだろうか?
「フォッフォッフォッ――シャムシールどの。なんとな、わしこそが真実の――時間の概念を知る者じゃ。これこそ永劫回帰というものじゃて。
……あ? ん? じゃが、なんで永劫が回帰するんじゃったっけ? 分からなくなってもーた」
いや、ダメだ。治っていない。やはりボケたままだ。
クロノスが頭に被っている尖り帽子を持ち上げ、首を傾げている。そして同じ場所で再び回り出し、「そう、これ。回帰、回帰」と言っていた。
暫くすると――何としたことか。赤い尖り帽子がブルブルと震えだし、喋り始めた。
「クロノス! しっかりしろ! アリアドネに怒られんぞっ! てゆーか、もう怒られてんよっ!」
ちなみに帽子の先端は、折れ曲がっている。中ほどの黒っぽい飾に見える部分が、どうやら口だったらしい。
「お、おお? あのちっぱい女が、わしを怒るじゃと!? 浮気がばれたんかのう!? なら、大変じゃ! あの女は嫉妬深いのじゃ……謝ったら、許してくれるかのう?」
「なんだと! お前、アリアドネとデキてんのかっ!? 八千年間童貞だったお前がっ! チクショウ! やるじゃねぇか!」
「フォッフォッ! そんな気がするだけじゃ!」
もはや帽子と会話を始めた老人は、手が付けられない。
「あーもう! なんなのだっ! お前のことなど、私はちらんっ!」
白いローブの少女が、顔を真っ赤にして怒っている。多分アリアドネというのは、この女の名前なのだろう。
そりゃあ、たとえ妄想でも、こんなジジイの相手などしたくあるまい……。
いやまて……この女、今もまた、噛んだのか?
だとすれば、それで、真っ赤になって恥ずかしがっている……ということも、ありうるぞ。
「しらん! では困るぞ、アリアドネよ。わしは、えーと……その……ところで、わし、何歳じゃったかのう?」
「興味もないわっ!」
アリアドネが、大きく足を踏み鳴らした。“ズンッ”と大地が揺れる。クロノスの帽子は、これで口を閉じた。
壁や建物からパラパラと破片が零れ落ち、その衝撃の大きさを物語っている。
そのお陰かクロノスの瞳に知性が戻り、再び陛下に向き直っていた。
「あ、思い出したぞ、シャムシールどの……じゃったな? ジャンヌ・ド・ヴァンドームは元気かのう? ほれ……確かあの者も時空を操ったはずじゃが」
「あ、ええ、元気ですよ。元気すぎるほどですがね……」
いきなり口調の戻ったクロノスに、陛下が面食らっておられる。それで思わず、陛下も丁寧な口調になってしまわれたのだろう。
「そうか。あの者――あと千年もすれば、更なる高みも目指せたであろうに。それを、わざわざ現界で過ごそうなぞ、愚かなことよな」
「そうですかね? 彼女は充分――楽しそうに暮していますよ」
だが、空気は張り詰めていた。
クロノスの様子が戻った当初こそ戸惑っておられた陛下だが、今は油断なく相手を見据えておられる。
杖を握ったクロノスと、片手で大剣を構える陛下。どちらも動かぬまま、暫くの時が経過した。
ネフェルカーラさまも、さり気なくアリアドネを牽制する位置へと移動している。
会話は惚けているが、正面の三人は皆、凄まじい魔力を放出していた。だからこそネフェルカーラさまも、警戒なさっておられたのだろう。
「ところでシャムシールどの。今日はお主に、我等が主を紹介しようと思うてな。それで、やってきたのじゃ」
「……彼、ですか?」
陛下の頭が僅かに動き、不思議な青年を見る。
「彼、だと? 無礼な物言いはやめにょ! 我等は皆、第一級神格を有するとはいえ、中には明確な序列がありゅの――あるのだっ!」
アリアドネがフードの奥から、藍色の大きな瞳で陛下を睨んでいる。だが――やっぱり噛んでいた。
噛むくらいなら、早口で喋るのをやめればいいのに。
◆◆
ちょうどそんな時、地上に落ちたヘルメスが不思議な青年を前に、震え声を出していた。
「む、無名神よ、なぜ、このような場所へ?」
けれど青年は無言でヘルメスを見下ろし、冷たい視線を向けている。
それにしても、この男の目は何色であろう。透き通る水晶のようでもあるし、全てを飲み込むような黒曜石のようにも見えた。
そこに実体があるのに掴み難いというか……存在自体がぼやけている……とでも言えばよいのか……よく分からぬ。
「お前こそ、ここで何をしていた?」
ようやく口を開いた青年から漏れ出た声は、古井戸の底から聞こえるような、底冷えのするものだった。
「わ、私は貴方の為に……ことを為そうとしておりました……」
「それは、どういう意味だ?」
「必ずや将来、貴方の怨敵となるであろうシャムシールを、抹殺しようと考えたのですっ!」
跪き、地面の土を握り締めながらヘリオスが語る。けれど青年は、微動だにしなかった。
「私はそれを、求めていない」
「な、なぜ……!? 何ゆえで……ぐわっ!」
この時、白いローブを纏う少女が、ヘルメスと青年の間に割って入った。
彼女は強かにヘルメスの顔を蹴りつけ、猛っている。
「なぜ、だと? ヘルメス! 己の愚行を考えてみるがいいっ! 貴様は我等一同が同格と認めたシャムシールを、主神の許可なく攻撃したのだ! 明らかに非はきちゃま……貴様にあるだろうが!」
獰猛な少女の、甲高い声が響く。が――噛んだ。やはりまたも、明らかに噛んだ。
やばい、この子、ちょっと可愛いぞ。
「ぐ、愚行……だと? アリアドネッ! お、お前のようなチンチクリンに、私の崇高な考えが分かってたまるかっ! 全ては無名神さまの御為よ!」
「うるしゃい! だゃまれ!」
大きく背中側に足を振り上げ、振り子の原理を利用して、少女は再びヘルメスを蹴飛ばした。いけ好かない男の顔が、見事に跳ね上がる。
“ガシッ”
鮮血が飛び散り、ヘルメスの悲鳴が上がった。「ぐわっ!」
「この、身の程知らずがっ! 身の程知らじゅが! みにょほどょ……! う……うぅん」
アリアドネはヘルメスを蹴りまくりながらも、どんどん噛んでゆく。
「噛むのも蹴るのも、もっとやれ!」と言いたかったが――本人も気にしているようで、彼女の顔がみるみると高潮してゆく。
なんだろう……凄くナデナデしてあげたい。これ、母性本能だろうか。
あ……アリアドネが、蹴った拍子に転んだ。うわぁ……目に涙を溜めている。
「ぐ、ぐう……ア、アリアドネ……貴様……シャムシール如きの肩を持つというのか……?」
ヘルメスが腫れ上がった顔を押さえながら、凄まじい形相で少女を睨む。
一方、転んだ拍子にローブのフードが後ろにずれたアリアドネ。白金に輝く長い髪が、背中に流れている。
緩く波打つ彼女の髪は、四方八方に跳ねていた。随分美しい髪の毛だが――どうやら残念なことに、ひどい癖毛のようである。
それはともかく――彼女は大きく股を開いて転んでいた。そのせいで、完全に中身をヘルメスに見られている。どうやらそれが、酷く気に入らなかったらしい。
ローブの袖で涙をゴシゴシぬぐって、アリアドネが立ち上がった。
がんばれ、アリアドネ! 私が応援しているぞ!
私は生まれたばかりの小鹿を見守る、母の気持ちになっていた。
「そういうわけではない! 主神がシャムシーリュ……シャムシールと戦えと仰せなら、戦う! だが今は、そうではない! それだけだ! それよりも貴様、私が転んだのを見たな! 下着を見たにゃ! こんちくしょうっ!」
凄まじい剣幕で、少女が猛っている。が――その動機は完全にブレていた。
ついでに何故か、ネフェルカーラさまも紛れてヘルメスを蹴っている。
「ふははははは! このゴミ虫めがぁっ! ふはははははは!」
三日月のような笑みを浮かべて、本当に嬉しそうだ。酷いお方である。