疑念と疑惑
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なぜにハールーンがデブッチョ公爵ハインリッヒに片膝をついているのかは、まったく謎だ。まあ、謎と言ったらあいつの存在そのものが謎なので、あまり気にしないでおこう。
俺は輝く白大理石を大またに歩き、ハールーンの前に出る。
変顔でもして驚かせてやろうと思ったのだ。
どうせ潜入するなら、俺に一言あっても良よいのでは? そう思うと、制裁してやりたくなったのである。
俺は、デブッチョ公爵を通り過ぎて、振り返った。
表情は寄り目、プラス豚鼻固定、更にアイーンを付け足そう。
よし、俺の渾身の技を受けるが良い。そして、デブッチョ公爵の眼前で笑い転げるのだ。
む、笑い声が聞こえない……。
ハールーンならば、この技で轟沈するはずなのに、なぜだ? この俺が滑っただと!?
ならば、奥義を繰り出すまでのことっ!
「おい! 貴様、この神聖な王城で変な事をするなっ!」
「ぐえっ」
後頭部に、俺はチョップを食らった。お陰で「奥義、瞬間ズボン下ろし」が出来なかったではないか。
しかし、俺に気配を悟らせないとは、この男は誰だ?
俺が振り向くと、そこには筋肉男爵ことオットー氏が、腰に手を当て呆れ顔で立っていた。
ふむ。まあ、神聖かどうかはともかく、変な事はしていた。
悪気は正直あるし、言われてしまえば申し訳ない。
でも、まあ、ハールーンせいだよ?
正面に向き直ると、ハインリッヒ公爵が青い瞳に怒気を溜め、お腹をプルプルと揺らしているではないか。
どうやら、俺は公爵を怒らせてしまったようだ。
こうなっては、ハールーンと俺がお友達でしたー、と、ネタバレするしかな……い?
問題が発生した。オレンジ髪がハールーンじゃないのだ。
よく見ると、滑らかなオレンジ髪はハールーンよりやや長く、藍色の瞳は、ちょっと釣り目だ。それでもハールーンと間違える程に似てはいるが、垂れ目ではない分、強気な印象を受ける。
それに、立ち上がったハールーン似の人物は、俺よりも背が低かった。加えて、身に着けた赤いチュニックを見れば、胸元がふっくらしている。いわゆる巨乳さんだ。
つまり、ハールーンがお饅頭とかを入れて遊んでる訳じゃなければ、この人は女性だった。
「す、すみません、人違いでした。そっちの女の人が俺の知り合いと似てたもので……」
「人違いで済むか、無礼者! 斬り殺してくれるわっ!」
無表情を貫くオレンジ髪の巨乳を差し置いて、デブッチョ公爵が怒っている。
はて? あんたに変顔した訳じゃないよ。あんたが後ろを向いている隙にやってたのに、気付いちゃった?
「いや、すまぬ公爵殿。この者は未だ作法に不慣れなゆえ」
一度、ハインリッヒ公爵は剣に手をかけそうになったが、オットーの一睨みで大人しくなったようである。お陰で俺は、腰の剣に手をかける必要がなくなった。
あれ? 俺、筋肉達磨に助けられているのでは……。
その前に、変顔は作法の問題か?
「だからと言って、無礼であろう! ワシの背後でシーリーンに妙な顔をするなどっ!」
デブッチョが玉の汗を額に浮かべながら、俺を睨みつけてくる。
まあ、別に剣を抜かれても怖くないけど、ここで騒ぎが起きても困ってしまう。
王国一の切れ者は、随分と短気なようだった。
「クスクス……。私は面白うございましたよ。
……閣下、私はこれで……」
オレンジ髪の巨乳は、微笑を浮かべて俺とオットー男爵を交互に見ると、ハインリッヒに一礼してその場を去ってしまった。
「さて、公爵殿。この場で剣を抜かれると仰るならば、俺も共に相手を致すが、いかがかな?」
「くっ! に、二度目は無いぞっ! 下郎!」
俺もオットーも、左胸につけた紋章こそ違うが、同じく青のチュニックに黒いズボン、それに直剣という騎士のいでたちだ。
赤のチュニックを身に纏うハインリッヒは、あくまでも文官である。ならば武官二人を相手に、一人では喧嘩をする気にもならないだろう。捨て台詞と共に去って行く。
今回の事は、ハールーンを見つけたと思って喜び、冷静さを失った俺が原因だ。全面的に俺が悪い事は間違いないし、目立って良い立場でもない。
オットーが仲裁に入ってくれなければ、場合によっては最悪の事態になっていたかもしれないのだ。俺はとにかく、オットー男爵に、礼を言おうと思った。
「ありがとうございます。助かりました」
「……ふん。ハインリッヒが剣など抜いたら、貴様、容赦をしなかったであろう? 俺は神聖な王城を、豚の血で汚したくなかっただけだ。
大体、貴様、こんな所で何をしておる? この先は『紺碧の間』だ。騎士団長か侯爵以上の者しか入れぬ場所だぞ。あまつさえそのような場所でとぼけた事をやるなど……いかに聖光緑玉騎士団と言えども無礼であろう」
む。まずいぞ。一難去ってまた一難、という奴だ。
筋肉男爵の茶色い瞳が鋭さを増している。確かに、俺の行動は怪しいから当然だった。
「あ、そのトイレに行ったら道に迷いまして……王城に連れてきて頂くのは初めてなんです……それに、あのオレンジ髪の女性が知り合いに見えたもので」
「ふむ? あの女は、ハインリッヒの配下であろう? シーリーンと言ったか……」
「そのようでした。結局、俺の知り合いじゃあなかったです」
「で、あろう。……しかし貴様、どこぞで会っておらんか?」
あ、まずい、このおっさん。昨日俺がちょろちょろ見てた事に気が付きそう。俺を見つめる疑惑色の眼差しが、どんどん濃さを増している様だ。
「あ、シャムシール。こんな所で何をしているの?」
おお! アエリノール、素晴らしいタイミング。
残念エルフが「紺碧の間」とやらから出てきた。ぴんと張った長い耳が、今の俺には、とても凛々しく見えている。
「迷子になりました。アエリノールさまがここに居てくれて良かった」
「子供か、キミは! まったく、もう! わたしが居ないとダメなのだから……!」
残念な俺の救世主は、あまり無い胸を反らしていた。
俺が感謝の微笑みを浮かべている事に、大変気を良くしているようだ。その表情には”ドヤッ”とした成分がかなり含まれている。
俺は、生まれて初めて美人を殴りたい、という衝動に駆られた。
俺とアエリノールを見ていたオットーは、”ぽん”と手を打つと、妙に納得した顔を浮かべて口を開く。
「ああ! 貴様、昨日、宿の酒場におったな! と、すると……なるほどアエリノール、お主、油断も隙もないな! 俺も危なかったわ!」
数秒の沈黙の後、アエリノールは”ふっ”と鼻で笑い、黄金の髪を掻き揚げながら、人差し指をオットーに向けて、言い放つ。
「……そ、そうなのですっ! わたしは隣の席にも兵を伏せていた。
愚か者め、泳がされていた事に今頃気が付きましたかっ!
あ、貴方などは所詮、わたしのへのひゅら……手の平の上で踊っているに過ぎないのですっ!」
どうやらオットーの誤解に、アエリノールが乗っかった模様。挙句に、肝心な所で噛んだ。
お陰で俺への疑惑は消えたけど、なんだか頭痛がしてきた。誰かこの残念騎士を止めてくれ。
「ふむ。困ったな。だが、俺はオロンテスを裏切ったりなどせぬ。むしろ、俺はハインリッヒこそが怪しいと思っておるのだが……」
「そ、そうなのか?」
残念騎士と筋肉男爵の二人が、首を傾げて悩んでいる。
アエリノールは、自分の推測さえも容易く覆るようだ。既にオットーを疑う素振りは見せていない。
まあ、国に対する裏切りってことなら、言動からすると俺もハインリッヒが怪しいと思う。あまりにも和議を否定しすぎて、逆に変なのだ。
それに、ハールーン似の美女って、もしかしたら砂漠民じゃないだろうか? だとすれば、ナセルの配下だとしても不思議じゃない。
もっとも、その二つを整合性を持って繋げることは、俺には出来ない。だから、あくまでも勘に過ぎない俺の推測なのだが。
「あの、俺もハインリッヒが怪しいと思います。さっきの女は砂漠民じゃないですか? だとすれば、敵と繋がっている事も考えられるんじゃ……」
……筋肉達磨が”はっ”っとした顔で俺を見る。
あんたも大丈夫か? この位の可能性は気付いて欲しいもんだ。こんなんだから、さっきのハインリッヒなんてのが国内随一の切れ者、なんて言われてるんだと思う。
もっとも、俺がこの推測を言ってしまうのは「賭け」だ。
シーリーンが味方なら、売ってはいけないだろう。けれど、城に潜入している以上、俺はオットーに信用される必要もあるのだ。
どちらにしても、何かあれば、ネフェルカーラがきっと何とかしてくれる。
そんな、の〇太がドラ〇もんを頼るような思考が俺の脳裏を過ぎったが、これもあながち間違ってはいないだろう。そう思って、俺の気持ちは楽になった。
その後、俺の推測に戦慄したらしい筋肉男爵オットーが、「相談をしたい」という事で、「盗聴不可能な密室」という場所に行く事になった。
もちろん、その際クレアも合流したのだが、彼女から噴出す強大な負のオーラを感じたのは、真に遺憾な事である。
「クレアさん、すみません、待ちました?」
「(私を一人きりにするなんて、万死に値しますわ……)
いいえ、むしろ心配していましたよ。シャムシール、大丈夫ですか?」
後光さえ差すような微笑を浮かべていても、拳の震えは誤魔化せませんよ、クレアさん……。
「そういえば、どうして俺の変顔がオットー男爵にも、ハインリッヒ公爵にもわかったんです?」
「磨きぬかれた大理石の柱は、鏡の如くあらゆるものを映すのだ。暗殺を防ぐ意味合いもある」
俺は、密室に着くと、不思議に思っていた事を口にした。
オットーは、さも当然の様にその理由を語る。
つまりオロンテスの王城は、ただ壮麗なだけの宮殿ではない、という事だ。
知らず、俺は改めて慄然としていた。
◆◆
密室、というのは、四方を石壁に囲まれた室内訓練場だった。
俺としては、めくるめく嫌な予感しかしなかったが、あっさりとそんな嫌な予感が当たることになる。
「話の前に、シャムシール。アエリノールに認められたという実力、俺にも見せてみろ」
ほら筋肉達磨は、やっぱり脳筋でした。
練習用の剣と盾を渡されると、アエリノールとクレアが椅子に座って見守る中、八メートル四方程の空間で、俺とオットーの剣戟は始まった。
とっとと終わらせたい俺は、最初から全力を出してオットーを吹き飛ばしてしまうつもりだ。だから、盾を前に構えて無造作に前進する。
すると、オットーは筋肉に似合わぬ素早い動きで、俺の左側に回りこんで細かく打ち込んできた。
こっちは盾があるから防ぐには困らないけど、どうにも防戦一方で剣が振るえない。
「うーむ」
中々、小賢しい戦い方を、オットーはするようである。
仕方なく、俺もなるべく早く動いてオットーの先回りをするように心がける。それでやっと剣同士が絡み合うと、今度は、いなされてしまった。
更に二合、三合と打ち合っても、オットーには触れる事すら出来ない。
もっとも、それは相手にしても同様で、オットーの攻撃は全て俺の盾で受け止めていた。
「いくぞっ……!」
オットーが表情を引き締め、俺に突進してくる。
瞬間、筋肉達磨の身体が俺の眼前から消えた。いや、残像が残っていたが、それは蜃気楼のようなもので、本体ではないだろう。
焦った俺は、左右を探す。
いや、こういう時は、後ろだ! そう、俺の知識(主にマンガやアニメ)が告げていた。
俺は振り返り、オットーの斬撃を、何とか剣で受け止めたのである。
止めた拍子に互いの剣が折れてしまい、試合続行は不可能になった。
俺の背中に冷たい汗が流れる。それ程に、オットーは強かった。
「ふう。強いな! アエリノールも人が悪い。これ程の猛者を隠しているとは、な。
だが、流石は聖光緑玉騎士団の聖騎士だ。騎士隊長でこれ程なのだから、副団長の実力も拝見したいものだ!」
「ははは! 驚きましたか! 驚きましたか! クレアは強いですよ! シャムシール五人分! つまり、わたしの半分は強いですからっ!」
なんだろう、耳だけじゃなく、鼻まで伸びてる気がするアエリノールだ。そして、その基準がわからない。
「ほうっ? それほどか! 是非一度お手合わせを願いたいっ!」
筋肉達磨ときたら、興味津々に目を輝かせている。お前はどこの戦闘民族だよ。
「うふふ。(この脳筋共)そんな事より、ハインリッヒ公爵の件です。
「訓練場で訓練をしないと不自然だ、と、お二人が仰るからシャムシールとの稽古を認めただけですからね。本題を忘れないで下さい」
「は、はい……」
「う、うむ」
クレアの言葉に、残念騎士と筋肉達磨が同時に項垂れている。
間違いなく、この二人は本題を忘れていたのだろう。
まったく、どうしてくれよう、この二人は。
ていうか、やっぱりクレアさん、天使のような笑顔で、何処か裏があると思うんですが。