バレオロゴスの罠 5
◆
「囚われている人達は、今、何処にいる?」
陛下はシーリーンの双眸を見据えて、問いかけた。その姿からは、今からでも彼等の救出に向かおう、という気概が見受けられる。
「レオ五世の宮殿、その地下に」
シーリーンの返答は明確だった。
私も自らが調べて得た情報を陛下に語り、囚人を開放し、天使を一人でも生け捕りに出来れば、レオ五世が行なったことの明確な証拠になるであろうことを告げる。
「なるほど……シュラはあくまで、法に照らしてバレオロゴス大公国を裁けと?」
「はっ。無論、この件を利用して内乱を発生させ、軍を進駐させる方策もございますが――」
私があえてこのような提案をすると、ハリムとシーリーンが目を吊り上げ睨んできた。
「無論そうなれば、無辜の民が多く死ぬことと相成りましょう。これは、陛下の望むところではありますまい? 故に、ここはなるべく穏便に、事を運ぶ方が宜しいかと」
あとに続けた私の言葉に、ハリムは胸を撫で下ろしている。シーリーンは顔を顰めているが、主導権が陛下にある事を知らしめる為にも、この程度の脅しは必要であろう。
「だが、レオ五世が素直に従うか?」
「はは……」
陛下のお言葉に、シーリーンが苦笑した。私も堪えきれずに笑ってしまう。ハリムと陛下はキョトンとして、首を傾げていた。
「陛下のお力は、一軍を超えます。もしもレオ五世がつまらぬダダを捏ねるなら、その時こそ陛下御自ら、正義の鉄槌を下してやればよろしいでしょう。とはいえ神が出てくるとなれば、さすがに一筋縄ではいかぬやも知れませぬが……」
「シュラ……俺を魔王か何かと思っていないか?」
「陛下だって、神なのでしょう? ご自分の力がどれ程のものか、正しく理解した方がいいと思うわね」
シーリーンが、呆れたように言う。まあ、尤もだ。陛下はあれで、ご自身の力を過小評価しておられる。
「陛下は唯一無二にして、絶対なる地上の支配者であらせられます。何ゆえ私が陛下を、魔王如き低俗なる輩と比べられましょうか」
私も私で、最大限の賛辞を送った。
しかし残念ながら、陛下はションボリしてしまわれた。
あ――もしかして陛下は、またも自分が化け物扱いをされた、とでも思ったのであろうか?
――――
スラムの寺院から宿に戻ると、窓から西日が差し込む時刻になっていた。
あれから少し相談をした結果、「宮殿を襲撃するのは深夜にしよう」ということで落ち着いた私達は、いったん宿へ戻ることにしたのだ。
この時シーリーンも連れてきたのは、まだ完全には彼女を信用出来ないからだった。
夜には襲撃部隊を率いたハリム達と宮殿の北にある森で合流する予定だが、その時に何の保険もないでは危なすぎる。
陛下は当然の如く私と二人で戻ろうとしたが、私としては、そういう訳にもいかなかったのだ。
「この部屋に、二人で泊まろうとしていたの?」
シーリーンが部屋に入るなり、驚き目を見張っていた。
宿の主人には銀貨を一枚追加してやり、その口を封じている。
「豪気だねぇ! こんなに美人の嫁が二人もいるなんて!」
などと宿の主人が陛下に言っていたが、残念――陛下の嫁は今のところ五人。ああ、間もなく七人になるか。いや、八人に増えるかもしれんな。
ええと、ネフェルカーラさま、アエリノールさま、ドゥバーンさま、ジャムカさま、シェヘラザードさま、それにシャジャルさまとジャンヌ、サラスヴァティが加わって……。
ちっ、数えるのがバカバカしくなってきた。
ともかく、こうして私達は宿で深夜を待つことにしたのだ。
「――襲撃の時間を待つといっても、ここで何もしない訳にもいかないでしょう? それに貴方たち、気付いている?」
シーリーンが、宿の周囲を覗う闇の者の気配を察知して言った。
「ああ。どうも――私と同じような匂いを持った者が、うろついているな」
当然私も、元闇隊だ。それに気付かぬ訳がない。
陛下も寝台に腰掛けて窓の外を眺めながら、つまらなそうに仰った。
「五人、いや、九人か」
恐らく帝国の巡検士が来たと門衛から報告を受けたレオ五世が、私に監視を付けたのだろう。それが五人。それに加えて、この地で私が指揮する闇隊が四人。陛下は見事に、気配を察知しておられた。
「と、なると――シーリーン。お前も私の従者ということにしておこうか。なに、名を聞かれたら、殺気を撒き散らせばいい」
「そうすれば相手が勝手に、私を闇隊だと思ってくれるのね?」
私が言うと、シーリーンはその意図をすぐに察した。流石にかつて、ドゥバーンさまと智謀を競った女だと思う。
「でも、その前に相手から疑われない方が得策だと思わない? 貴女が本当にこの街を巡検しているだけだと思われれば、レオ五世の間者も黙っていると思うのだけど」
「うむ。確かに、警戒されたくはないな。だが、どうすればいい?」
「そうね、さっきはスラム――街の悪い部分を見たわ。だから今度は、良い部分。例えば、そうね――近くに浴場があるのだけど、行ってみない? 貴女が旅の疲れを癒す為に浴場へ行くような巡検士であれば、なんだか賄賂が効きそうな人に思えてくるんじゃないかしら?」
「そうだな――レオ五世を油断させる為にも、そうしてみるか」
なるほど、シーリーンの提案は尤もだ。敵を油断させるには、こちらが寛いでいるように見せることも有効だろう。
そんな訳で、私達はシーリーンの案内で浴場へ向かうことになったのである。
◆◆
浴場に到着すると、老若男女が楽しそうに騒いでいた。
巨大な白煉瓦の建物は、中央にドーム型の屋根がある。一見すると寺院か宮殿のような建物だが、その左右に濛々と黒煙を噴出す煙突があって、ここが浴場であることを誰の目にも明らかにしていた。
入り口は真ん中で仕切られており、男女が別々に入るようだ。
小さな浴場では時間によって男女を分けるようだが、ここは広く、そのような必要がない。
私は妙に残念がる陛下に暫しの別れを告げて、女用の浴場へと足を運んだ。当然シーリーンも共にいる。
なるほど――これ程広い浴場は、シバール広しと云えどもあるまい。流石は、かつて栄えた大帝国の末裔を名乗る国の浴場だ。
花崗岩で作られた巨大な浴槽には乳白色の湯が張られて、その周辺で人々が身体を洗っている。
そうかと思えば壁を隔てて、サウナがあった。
思えば久しぶりに足を延ばせる浴槽に入り、私は思わず「ふぅ」と溜息を漏らしてしまう。正面では母が子を抱しめ、幸せそうに笑っていた。
シーリーンも私の隣に座り、正面の親子を見ているようだ。
「きちんとした市街に住める三割は、昔と変わらない暮らしが出来ているの。でも、それは数多の犠牲者の上に――ね」
朱色の髪を頭上で纏めているシーリーンが、目を細めて私に言った。
「そのようだな。といって、そこの母子に罪がある訳でもなかろう」
私は、湯を肩に浴びながら答える。まるで湯と共に、溜まった疲労が流れ落ちて行くかのようだ。
それにしてもシーリーンの胸は、なんと大きいのだろう。これでは陛下が目を奪われて当然だ。女の私ですら、思わず見入ってしまうのだから。
とはいえ、なんと人をイラつかせる胸であろうか……。
「なんというか……随分と重そうな脂肪の塊だな」
「……シュラ、貴方、案外面白いことを言うのね。捻り潰してあげましょうか?」
「む……生意気な。でかいからって、勝った気になるなよ。大切なのは、形だからな」
「……あ、貴方、もしかして気にしてるの? 無表情だから気付かなかったわ。
その……いいじゃない……妖精族は総じて小ぶりだし、その中では、貴方の胸は立派だと思うわよ」
「そうか?」
「そうよ、自信を持ちなさい」
「……触ってもいいか?」
「ダメよ」
ふむ。大きな胸と私の胸、違いを探ろうと思ったが、シーリーンに断られてしまった。
シーリーンは今、両手で胸を隠し、私に背を向けている。
私だって、拒絶されれば触ろうと思わない。何も後ろを向かなくたってよいのに。
「帝国による平和は、未だ近からず、か」
私はシーリーンの背中にある矢傷と、目の前の幸せそうな母子を見比べて呟いた。
シーリーンも平和に暮していれば、子供がいてもおかしくない年齢だ。
私は寿命の長い闇妖精だからいいとして、今の時代、人が人らしく幸福に暮すというのは、存外大変なことなのかも知れないな。
そう思うと、なぜ陛下が奴隷の解放を強硬に推し進めたのか、その理由が漸く理解できた気がする。
少なくともこの街は、闇で人を虐げ奴隷を売って、このような公衆浴場を維持、運営している。これが事実なのだ。
この場所の笑顔は、即ち虐げられる人々の涙で出来ている――という訳だな。
私は頭を振って湯から上がる。するとシーリーンが苦笑しながら、私に言った。
「私は奴隷制度をシャムシール帝ほど否定しないけれど、誰でもお風呂に入れる生活がいいわよね。それが平和だと思うわ」
「そうだな、同感だ」
――――
結局シーリーンがここへ誘ったのは、スラムと中心街の落差を、我等によりはっきり認識させる為であったのだろう。
いや。我等というより、シャムシール陛下に、か。
「シュラ、早かったな」
私達が浴場から出ると、外には既に陛下がおられた。
「はい。陛下も随分と早うございましたな」
「ああ。風呂に浸かったら、この国の歪さを余計に感じてな」
こう仰られたきり、陛下は宿に帰るまで口を閉ざしてしまわれた。街路を馬車で行く者に嫌悪の眼を向けておられたから、シーリーンの企みは、差し当たって成功したということだ。
尤も、この企みを阻止する如何なる理由も、私は持たなかったが。
――――
宿に戻る頃には、藍色の空が広がっていた。
食事は既に準備が出来ているらしく、席に付くとすぐに料理が供された。
この宿に泊まっているのは全員が男だから、食事中、私とシーリーンは随分とジロジロ見られたものだ。
しかし私のマントに描かれた紋章を知る者が、私達に近づこうとする者にそれとなく注意を促しており、大事に至ることはなかった。
「しっかし、アンタすげぇなぁ! シャムシール帝国の将軍さまを嫁にしちまうなんてよぉ!」
二階の部屋へ戻ろうとしたら、陛下が宿の主人にこんな事を言われて「えへへ」と笑っていた。あれ? 陛下が照れてる? もしかして私にもチャンスが……?
というか宿の主人。この期に及んで、まだ私達を夫婦と思うのか。逆に凄いな……。
「あれはシュラって言って、将軍の中でも下位なんですよ。実力が無いからこんな所に飛ばされて……ねぇ、ア、ナ・タ」
くぅー! シーリーンめっ! 私を愚弄するだけでなく、陛下の腕に絡みつき、あまつさえ豊満すぎる胸を押し付けるなど!
なにやらモタモタしておると思ったら――まさか陛下に取り入ろうという魂胆ではあるまいなっ! 斬り捨ててくれるっ!
私が踵を返して振り返り、剣を抜き放とうと思ったら――
「いや、シュラは立派だよ。別に下位なんかじゃないし、俺にとって、とても大切な人だからね」
陛下がシーリーンを腕から離し、私を見つめながら、このように仰ってくれた。ああ、幸せだ。
私は剣を鞘に収め、先に部屋へ戻る事にした。
どうせシーリーンは、私をからかっているだけだろう。相手にするだけバカバカしい。うん、そうだ、そうに違いない。
私が部屋に戻ると、開け放たれた窓から一通の封書が舞い込んだ。そこにはジャカランダと剣の紋様が刻まれているから、ドゥバーンさまからの手紙だな。
とはいえ、誰が持ってきたのだ?
闇隊の気配は無い。では我が隊の者か? ――そう思っていたら、“ごろり”と床に、拳ほどの大きさの“何か”が落ちた。
しかもその“何か”は、突如として動き始め、あろう事か喋り始めたではないか……。
「むむぅ……おのれ小娘! 余を、伝令などに使うとはっ! おお、そなたは確かザーラとか申す……ぐえっ! 踏むでない! 無礼者っ! 余を誰だと思って――ぐえっ!」
なんだ、気持ち悪い……。
干からびているが、二つの無花果の間に長芋を挟んだような形状――これは紛れもなく“男性のアレ”ではないか? しかも喋るし、どうなっている。勢いに任せて幾度も踏んでしまったが、靴は汚れていないだろうか……。
とりあえず、さらにグリグリ踏みつけてみると、ジタバタと暴れる感触がある。しばらくこのままで、息絶えるのを待とう。ああ、気持ち悪い。
「ザ、ザーラ、やめぬか、ザーラ!」
しかも私をザーラと間違えるとは、ふざけたヤツ。似ているのは、瞳の色だけだろうが。
とりあえず私はアレを踏みながら、書状の封を切り、目を通す。するとそこには、驚くべき内容が記載されていた。
――――
この手紙が届く頃、シュラの側にはきっと、ネフェルカーラさまに蹴り飛ばされ、地面に頭をめり込ませた浮気者の陛下が居るであろう。
当然のことながら、シャジャルとの関係、ジャンヌとの約束、サラスヴァティとの密会などを、あの方に告げたのは拙者だ――ざまぁでござろう。な? な?
――――
なんと、全てがドゥバーンさまの策略だったというのか。しかもざまぁって……。
ちらりと私が横に目をやると、陛下が扉を開けて、シーリーンと共に戻ってきたところだった。妙に彼女と親密になっている風だから、確かに陛下は浮気者に違いない。
……うん、ざまぁだ。ざまぁに違いない。
ともかく、先を読み進めよう。
――――
それはさておき、陛下をバレオロゴスに飛ばした理由は、その地で蠢動しておるのが“神”ではないか、と推測した為でござる。
いや、拙者も迂闊であった。全てを現界の事案と思い込み、お主に一任するつもりであったが、相手が神となれば些か分が悪い。
さりとて未だ証拠も掴めぬ最中、軍を送るわけにも行かぬ。それゆえ拙者はこうして秘密裏に、我が国の最大の戦力をバレオロゴスに送り込んだ次第でござる。
これで、もしもレオ五世の背後に神の存在があったとして、充分に対処が可能でござろう。
――――
最大戦力って……ドゥバーンさまは陛下を何だと思っておられるのだ? とりあえず危険な所にぶっこめば、何とかなる――なんて考えているのではあるまいな?
まあいい、続きだ。
――――
それからこの手紙は、貯水庫で見つけた面白きモノに持たせたでござる。水を掛けて復活させれば、これもまた立派な戦力になるでござろう。不死王サクルの保障付きでござる。
どちらにせよ、この件が拙者の考え違い、あるいは杞憂であるに越したことはないのでござるが……充分気をつけて、シュラには無事に帰ってきてほしいのでござる。かしこ。
――――
なるほど、ドゥバーンさまは全て、お見通しだったのだな。それで陛下を、私の為に……。少し泣けてきたぞ。
……ん? ところで手紙を持たせた面白きモノとは、何であろう?
「うがー! うがー! 足をどけよー!」
まさか、これか?
私は踏みつけにしたままの、アレの叫び声を聞いていた。なんだかもう、絶対に足をどけたくない。
「あれ? パヤーニーの声が聞こえる……」
陛下が声に反応して、私の足元を見た。まさかな――という顔をしておられるが、私の方が、「まさか!?」だ。
「おお! その声は、陛下! パヤーニーですぞ! ザーラが余を踏んづけて、足をどけてくれぬのです! いくら余がイケメンだからって、げふうううっ!」
「貴様、顔すらないだろうがっ!」
思わず、本気で踏んでしまった。
しかしパヤーニーといえば、初代の不死王の名ではないか?
私が恐る恐る足をどけると、干からびたアレはピンと佇立して言い放ったのである。
「おお、シャムシール陛下、お久しゅう! 余、パヤーニー、ここに帰還せり!」
「え? パヤーニー……なぜ、ち〇こ……?」




