バレオロゴスの罠 2
◆
まず市場で陛下用のチュニックとズボン、それからブーツと数打ちの曲刀を買い揃えた。
流石に陛下もボロボロの寝衣のままでは嫌だったのだろうが、私としては正直、あのままの方がマシだったような気がしてならない。
なにしろ私は朱色地に黄色のラインが入ったチュニックを選んだ陛下のセンスに辟易し、丈の短い紺のズボンをかっこ悪いと思いながらも、陛下の為にお金を支払ったのだ。
「ほら、シュラ! ハーフパンツ!」
陛下はこのように仰ってご機嫌だったが、ブーツとズボンの間から素足が見えているではないか。
私には“はーふぱんつ”なるのもが分からないし、珍妙な組み合わせにしか見えなかった。
そういえば、ブーツもまた酷いものだ。
新品を買えばいいものを、辺りにある店で中古品を見つけて、「これでいい」などと仰られた。
私から見れば、それは薄汚れてちょっと臭そうだったのだが。
だが――服や靴などはまだマシだ。選んだ刀剣――これが酷い。
子供の玩具か? と疑いたくなるほど稚拙な刃で、こぼれるべき研ぎ澄まされた箇所が少しも無い。これはもう、打撃用なのだな? と私が思っていると、陛下は嬉しそうにこう申された。
「この剣、今買ったら鞘も付けてくれるって。え? この皮袋!? これも付けてくれるって!? それで合わせて百ディナールだって! うおおお! シュラ、これ絶対買いだろっ! 買おうっ!」
「安すぎだ、騙されているっ! 鞘は普通付いている! 大体、刀剣は己の命を預けるもの! 値段で選ぶな! あと袋! よく見ろ、破れているっ!」
――と言いたいところだったが、あんなに嬉しそうな顔をされてはズルイ。私は何も言わず、陛下に中銀貨を一枚、渡してしまったのだ。
こうして陛下は今、ダサい服に短いズボン、そして臭そうなブーツと穴の開いたずた袋――最後に斬れない剣を装備して、意気揚々と歩いておられるのだった。
まったく。黒一色で装備を統一なされば、あれほど凛々しく逞しいお姿になるというのに――いや、だがいいか。
陛下が黒を纏えば、それは即ち黒甲帝であることを民に知らしめるようなもの。お忍びならば、これでちょうどいいのだ。
それ故に陛下は、あえてこうしたのであろう。やはり、底の知れないお方だな。
――――
それにしても陛下が徒歩で前を歩き、私が馬でその後ろを進む。なんとも不思議な光景だ。
時折南から吹き抜ける風が、私の肌を撫でる。
風が僅かにベタつく理由は、三ファルサフ(約十五キロ)ほど南方に海があるからだ。
「シュラは、ラツィオに行った事があるか?」
陛下もこの潮風を感じてか、振り返って私に問うた。
ラツィオとはトラキア地方最大の港を有する、海上交易国家だ。もちろん我が帝国に恭順している同盟国でもある。
「いいえ。ですが、ここの視察が終わったらラツィオに行き、船で本国へ戻るつもりです」
私は陛下やネフェルカーラさまなどと違い、機動飛翔だけで長距離移動など出来ない。だから帰還するだけなら、船が一番良い移動手段なのだ。
「船か……」
陛下が意味深に顎をさすっている。
まさか付いて来るつもりだろうか? いや……流石にそれはマズイ。数日ならばともかく、船旅となれば十日は掛かるだろう。
ここで過ごす時間と合わせて、一体何日、陛下は私と一緒にいるおつもりだ――「ぶほっ!」
いかん、鼻血が……。
「まあいい、それより宿はここだな?」
陛下が足を止めて、通りに面した一軒の建物を指差している。
「はい。ごく一般的な宿をお望みとあらば、此方が最適かと」
私が頷くと、陛下はそのまま宿へと向かった。
私は先程陛下に地図を見せ、宿の場所をいくつか教えた。その中でも陛下は特に、上流階級の者や裕福な商人以外が泊まる宿を指定されたので、私はこの場所を推薦したのだ。
私自身も当然コンスタンティノポリスに入るのは初めてだが、今まで散々周囲から見ていたし、何より闇隊を潜入させて詳細な地図も完成させている。だから道に迷う事など、ありえないこと。
それに陛下も地図を一度見れば、場所を覚えてしまうようだ。実際、軍を率いて戦場を往来しておられた方だから、この程度は造作もないのであろう。
「あ、シュラはここにいてくれ。俺が交渉してくるよ。何しろ俺、従者だからな」
宿を目の前にして、陛下が私を振り返って言う。なんだかちょっと嬉しそうだ。
「ごめん下さい」
間の抜けた声を発しながら、シャムシール陛下が宿の中へ入って行く。
以前から少し思っていたのだが、陛下はもしかして、虐げられることが好きなのではないだろうか?
ネフェルカーラさまに何をされても大体の場合は笑って許すし、私の先程の暴挙に対しても、「シュラは恐いなー」と言って笑っておられた。
そして今も私の従者になりきり、それが楽しそうだ。
宿の壁にある金属製の輪に手綱を絡め、愛馬を一撫でしてから、私も宿に入った。既に陛下は、宿の者と交渉を始めている。
「二人で一部屋っていうのは、どうしても無理なのかな?」
「ああ、寝台が一つしかないし、騒がれても困るんでね」
「一部屋借りたら、もう一人が廊下で寝るくらいは構わないだろ?」
「ああ、その辺に寝るってんなら構わないよ。ほれ――食堂で寝るヤツ等もいるくらいだからな」
「わかった、じゃあ俺が外で寝るよ。それと朝食がまだなんで、出来れば用意してもらいたいんだが……」
「朝食は二人分だな? そいつぁ別料金になるが、いいかい?」
「ああ、構わない。別に貧乏って訳じゃあないからな」
「じゃあ、全部で八百ディナールだ」
宿は石と煉瓦と木材で作られているようだ。少なくともアーチ状の入り口は石と煉瓦の混合だし、床は木材で出来ていた。
入り口の先はすぐ食堂となっており、中はそれなりの広さがある。夜はご多分に漏れず、酒場にでもなるのだろう。
階段は上へ続くものと下へ続くものがあって、下へ続くほうは真っ暗な闇が広がっていた。
交渉が終わるとシャムシール陛下は私の元へ歩み寄り、「今日はここに泊まろう。もちろん俺は外に寝るから、シュラは安心してくれ。ああ、そうだ。これから朝食も出してくれるってさ」と言って笑っている。
いやいや、おかしいぞ。――陛下のこの提案はマズイ。何だって陛下が外で寝るのだ。私と陛下は君臣だから、普通は逆だろう。
「陛下、陛下が外で寝るというのは、おかしいです。お考え直し下さい」
「気にするな。今の俺はシュラの従者だろ?」
「――現実は違います。私が臣下です。なので私が外で寝ます。もしそのような事をして、ネフェルカーラさまにバレたら……」
「ダメだって、シュラは女の子だし。その時は俺が説明するから」
「あ――いや、ですから私は元闇隊だし闇妖精だし、どこでも寝れるんです。お気になさらず」
「俺だって元奴隷だぞ? 昔はよく、檻の中でハールーンと寝ていた。だから俺は、外でいいんだ」
そうだったのか……。私はこの時、初めて陛下の秘められた思いを知った。なんだかとても悲しく、そしてネフェルカーラさまやドゥバーンさまに同情を禁じえない。
「そうですか。陛下は本当は男の方が趣味だったのですね……」
「ん? んー!? 違うからね? シュラ、違うからね!? ハールーンとは何もないからね! 俺、女の子が大好きだからね!」
あ、そういえばそうだ。そもそもここへ飛ばされた理由も、シャジャルさまやジャンヌ、それにサラスヴァティに手を出したからではないか。なんだか今度はイライラしてきた。
「はぁ、分かりました。じゃあ私が部屋で寝ます。陛下は肥溜めででも夜を明かしてください」
「ちょ、それはいくら何でも。普通に床でいいよね? ね? シュラ……」
イライラするので陛下を無視して、私は渋々宿の主人の下へと歩く。靡く銀髪が鬱陶しい。
ともかく陛下が行った交渉の結果に基づき、代金を宿の主人に支払わなければ。
私は麻袋から銀貨を一枚出し、中銀貨二枚の釣りをもらった。
八百ディナールで一部屋を借りて今日の朝食も付くなら、まあ適正だろう。文句はない。
しかし宿の主人は私を見ると、少しだけ申し訳無さそうに言った。
「さっきの話、ちょっと聞かせてもらったよ。あんたら夫婦なんだろ? だったら、一つの部屋に二人で寝てもいいぜ? その――男女とは知らなかったんだ。すまないな、ここは男ばっかりしか泊まらんから」
ふむ。男女なら同室でいいのか。
だがおい、待て、宿の主人よ。今の会話で、どうして私達が夫婦だと思うのだ?
まさかあれか? 王と従者プレイを楽しむ変態夫妻だとでも勘違いしたか? ふざけるなよ、お前、消すぞっ!
「はははっ! そんなに嬉しそうな顔をして――奥さん、よっぽどダンナの事が好きなんだねぇ。羨ましいぜぇ」
む。わ、私が嬉しそうな顔だと? 何を馬鹿な。殺戮隊と呼ばれる部隊の長であるこの私が……――だが、まあいい。ここで揉め事を起こす必要もあるまい。
「お、奥さんだとぉ……もにょもにょ……では主人、そういうことで世話になる。外に私の馬が留めてあるので、厩に回しておいてくれ」
だから私は大人しく宿の主人から部屋の鍵を受け取ると、こう伝えてから陛下の下に戻った。
一応陛下にも宿の主人に勘違いされた旨を伝え、夫婦と偽り同室に泊まろうと提案する。
同室であれば、私が床に寝ればいいのだ。これで何の問題もないだろう。
「そういうことなら、シュラが嫌でなければいいよ」
「え――私が嫌? まさか、私が陛下を嫌うなど、あり得ません」
「そう? でもさ、なんかホラ、朝もアレだったし、さっきもさ……だから俺、シュラに嫌われてるような気がして……」
私は思い切り顔を横に振った。何を馬鹿な。
どうして私が陛下を嫌うものか! その勘違い、おかしいだろう! むしろ逆! 好きなのに! 大好きなのに! 陛下の為なら何回だって死ねるのにっ!
「シュラ……どうした、顔が真っ赤だぞ?」
私が顔を振り続けていると、陛下が顔を近づけてきた。近い、近い! 恥ずかしい! “バンッ”
あ――また陛下の顔をグーで殴ってしまった。
まさか私如きの攻撃が当たるとは思わなかったが、当然ながら陛下は無傷……ではないな。顔に鼻がめり込んでいる。とりあえず引っ張り出しておこう。ふう。
「痛い、痛い、痛い! シュラ、やっぱり俺のこと嫌いだろうっ……!?」
「何を馬鹿な、誤解です――とにかく朝食を準備してくれるそうですから、席について待ちましょう」
「お、おう……」
ガランとした食堂には、私達二人と給仕の女――それから、奥で調理を担当しているだろう男が居るだけだ。
先程私が代金を支払った男は二階に上がって、もう姿を見せない。きっと客室の掃除でもしているのだろう。
「その、シュラ、すまない」
「なんです、藪から棒に。陛下に謝られるいわれは御座いませんが?」
「その――ちょっと馴れ馴れしかったかなと思って」
陛下が申し訳無さそうに、私の目を見つめている。その黒い瞳はどこまでも深く、私は吸い込まれそうだ。
このままでは、この気持ちがバレてしまう。だから私は慌てて目を逸らす。
「は、まさか? その辺の未熟な乙女じゃあるまいし……気になどしません」
「そうか、ならいいが――ん、シュラ。何か嬉しい事があったのか? 耳が上下に動いているぞ」
「え? は、はわっ……はわわっ……」
いかん。耳の動きで感情が……! これではアエリノールさまと同じく、馬鹿の烙印を押されてしまうぞ!
私は慌てて髪で耳を覆い――覆い――ああああ――耳が長すぎて覆えないっ!
私は仕方なく咳払いをして、話題を強引に変えることにした。
「コホン……そんなことより、この地の現状をどうご覧になります?」
「ああ……街の中央にある宮殿は、立派なものだった。目抜き通りの市場も賑わっている。だけど――そうだな。物乞いが多い。それに、買い物客の層が一定だったな」
「情報によりますれば奴隷を売買して得た富で、宮殿を復旧させた――とのこと。また、郊外の復旧は殆ど手付かずにございます」
「へえ。レオ五世の報告では、大分整ってきたから、近くの軍を引き上げて欲しいって事だったけど?」
“コトリ”
ようやく料理が、私達の前に置かれた。
といっても固いパンに、ペースト状にしたレンズ豆のソースを付けて食べるだけのシンプルなものだ。
私は「陛下がこのようなものを……」と苦笑したが、陛下は逆に笑ってこう言われた。
「為政者が民と同じモノを口にしなくなったら、終わりだよ」と。
そして、こうも言われたのである。
「だから民が食べるものを、どうやって良くするかを考えるのが為政者の仕事なんだ」
◆◆
食事を終えると私は陛下と二人、街をくまなく歩いて回った。
百聞は一見にしかず――という訳だ。パッと見て復興していないな? と思っても、細かい所で進んでいるのかもしれない。だから陛下は、街並みをしっかり見たいと仰られたのだ。
槌音は絶えず、街は確かに復興へと向けて歩んでいるかに見える。
確かに目抜き通りはそれなりに商店が並び、集合住宅も散見していた。
しかし、一度目抜き通りを外れて入り組んだ街路を進んで行けば、そこにあるのは人々の絶望を具現化したかの如き廃墟しかない。
復興という名の虚栄の陰で荒んで行くだけの場所が、このコンスタンティノポリスには生まれていた。
「スラムか……」
その地区に足を運ぶと、陛下は呟いた。
瓦礫と廃材を重ね合わせた、雨風を凌ぐ為だけの住居。そこらに充満する、腐った匂い。
死体も街路の隅にうず高く積まれている。それでも全てが骨だけになっているから、疫病を防ぐ為に、誰かが魔法で燃やしたのだろう。
腐臭を放っているのは、むしろ怪我を負った人々の身体だった。
加えてこの場所は常に怒号が聞こえ、悲鳴が折り重なる。喧騒というには余りに物騒な、そんな一角を差して陛下は“スラム”と表現されたのだった。
「何をしにきた、帝国の犬!」
薄暗く、狭い街路に私達が踏み込むと、一人の男が目の前に立った。そして周囲は、武装した集団に囲まれている。――それこそ瓦礫の上や真ん中、小さな小屋の屋根に至るまで、三百六十度全てが敵意に満ちていた。
といって別に「やられた」と思う程ではない。周囲の気配はずっと察知していたし、目の前の男など大した脅威にもならぬ。
ただ、背後に膨大な魔力を迸らせて、此方をずっと見ている女がいる。それだけが厄介なのだ。
その時、女が物陰から姿を現した。
彼女は朱色の髪に褐色の瞳――そして革の鎧を身に着けている。
よく見れば、その女は誰かと似ている気がする。誰だ?
そして私は気付いた。
不敗王ハールーン――彼に似ている!
「シーリーン――こんなところで……!」
姿を現した女に驚き、陛下が私の横で声を上げていた。
陛下もきっと、私と同じように考えていたのだろう。
そう、そうだ。私も思い出した。
あの女はナセルの元腹心。先の大戦の折、行方不明になったと聞いていたが、よもやこんな所で生きていようとは。