バレオロゴスの罠 1
◆
帝国暦三年、初夏――私が訪れた街の城壁は、未だ瓦礫の山だった。それはかつてフローレンスの皇帝プロンデルが、世界に覇を唱えんとした名残である。
先の大戦から四年、街の中央にある宮殿には五頭竜の軍旗が翻り、ここがシャムシール帝の庇護下にある街である事を示しているにも関わらず、未だその状況にあることが、私には許し難かった。
我が帝国には、いわゆる皇帝直轄領の他に、属州と藩国、そして同盟国という括りがある。
皇帝直轄領とは言わずと知れたシャムシール陛下の本領で、マディーナがまさにそれだ。
そして藩国というのは皇帝配下の王が納める土地で、例えばヘラートはハールーン王の領土である。
属州とは総督が納める土地で、今はオロンテスがそうだ。
王は子孫への相続権を有するが、総督にはそれがない。任期も四年と決まっているのだが、むしろハールーン王など、「そっちの方がいいよぉー」と言い出す始末だった。
最後に同盟国だが、これはアーラヴィー王国など、帝国に恭順した諸外国という扱いだ。
大小合わせると二十カ国に及び、この勢力圏をもってシャムシール陛下は、世界最大国家の皇帝として君臨しておられる、という訳だ。
さて、そこで今、私がいるこの地だが――ここ“コンスタンティノポリス”は帝国から北西、トラキア地方の主要都市で、バレオロゴス大公国の首都だ。
かつては東西交易の最重要拠点として発展した要衝だが、交易の途絶えた今となっては単に西と北に敵国を抱える軍事境界線と化している。
とはいえこの国も、我が帝国にとっては重要な同盟国だ。
言い方を変えれば、ここは帝国にとって西と北に対する防波堤。だからこそ私は、ここ暫くの間情報を集め、この街をつぶさに観察している。
それはこの地が、敵国のモノとならぬ為に……。
私の名はシュラ。第三皇妃のドゥバーンさまにお仕えする武人だ。そして闇妖精のご多分に漏れず、銀髪赤眼をしている。
それ故に、魔族、人間、テュルク人、沙漠民、妖精、闇妖精など、雑多な人種が集るこの街の調査を任されたのだろう。
本来ならば、ドゥバーンさまのお側を離れず常にお守りしたいのだが、今は彼女たっての願いにより、この地の巡検を行っているという次第であった。
そう――あれは二月ほど前のこと。ドゥバーンさまは私にこう言われのだ。
「バレオロゴス大公国に、不穏の動きがあるでござる。どうも闇隊だけでは、対処しきれぬ様子。――シュラ、見てきてくれぬか?」と。
もちろん全権委任という形だから、最悪の場合、私の一存でバレオロゴス大公国を滅ぼすことも出来る。
といっても――一人で来ている訳だから、それほどの軍事力など持っていないが。
――――
さて、バレオロゴス大公国に不穏の動きあり――との件だが、結論から言えば、ドゥバーンさまの読みは正しかったと言わざるを得ない。
私が昨日までに得た情報で、我が帝国の側であるはずのこの国が、奴隷をフローレンスに輸出して資金を得ているという事実が分かった。
これは二重の罪にあたる。
一つには、我が国が国交を閉ざしているフローレンスと交易を行っていること。今ひとつは皇帝が認めた人の権利を、この国が無視していることである。
といっても、決定的な証拠がある訳ではない。
たとえば奴隷売買の証文や、フローレンスとの密約文などだ。
これらが無ければ、いくら世界最強の帝国と言えども、同盟国を断罪することなど出来ない。
もしも仮に証拠も無く断罪すれば、他の同盟国が不安を覚えること必定だからだ。
それ故に、私は確かな証拠を集めるため、コンスタンティノポリスへ入ることにした。これ以上、外から情報を集めていても埒が開かない。
奴隷売買の現場を押さえ、バレオロゴス側の将軍の一人でも捕縛できればいいだろう。そうしたら口を割らせ、その後に大公レオ五世を問い詰めればよいのだ。
この国の主であるレオ五世が、このとき罪を認めればよし。もしも認めなければ、闇隊をもって蹂躙するのもいいだろう。それとも、夜陰に乗じて寝首でも掻くか……。
私は他者から嗜虐的だと言われる笑みを浮かべて、馬を進める。そして街の正式な入り口を示す門の前に立った。
街を囲む外壁の殆どは瓦礫だ。その中にあって、木造の門がこじんまりと佇んでいる。
門の手前には平屋の兵舎があって、十人程度が常時詰めているようだ。
とはいえ今、目の前にいる男は二人で、その辺のゴロツキと似たような目を私に向けていた。
「へえ? アンタ、闇妖精かい?」
一人が私の長衣の袖を掴み、ヒラヒラとしてみせる。「案外上質だな」
「絹だ。貴様のような下賎な者が――触るな」
これはドゥバーンさまより奪っ――賜ったもの。下衆に触れさせて良いものではない。私は気づかれないよう手刀を男の手に叩き込み、これを払った。
蜂にでも刺されたと勘違いした男が、無駄に宙を睨み付けている。
こんな所で無用の時間を掛けている場合ではない。だから私は、左肩に掛けたマントの紋章を見せた。
黒地に銀で五頭の竜が描かれている。このマントは、シャムシール帝国における将軍位以上の者だけが着用を許された、特別なものだった。
「それがどうした? ここはバレオロゴス大公国だぞ。どうしてシバールの――失礼、シャムシール帝国の将軍さまだからって、素通り出来る道理がある?」
「ふん、バレオロゴス大公国の軍権は、我が皇帝陛下が預かり給うところ。しかるにこの紋章だけで充分なのだが――まあ良かろう。これを見ろ」
職務熱心という皮を被り、ゴロツキがのたまっている。恐らくは賄賂でも欲しているのだろう。
やましい所が無ければ盟主国の将は、いかなる同盟国においても優遇されるのが習い。それを悪用するつもりは無いが、こうまで蔑ろにされれば、やはり不愉快な気分にもなる。
とはいえ、ここで無用の騒ぎを起こすのもマズイ。
金を渡すのも癪なので、本来は宮殿において取次ぎを願う為の手形を、目の前の門衛に見せることにした。
「第三皇妃より預かった手形だ。大公に用がある。偽者と思うか? ならばこの剣をとくと見よ。これこそ私が主より賜りし魔剣、シャムシール帝の魔力が籠もっている――斬れぬものなど無いぞ。何なら、お主らで試し斬りしようか……」
「た、確かに本物のようで……。その、ア、アンタ、誰なんでさぁ?」
私が抜き放った曲刀を見て、門衛達は後ずさった。ユラユラと白い燐光が刃の周りを覆っていて、誰が見ても強力な力を秘めていることが分かるからだろう。
「手形をしっかり見ていないのか? 私はシュラと申す者、書いてあっただろう」
手形を懐にしまいつつ、怯えた門衛を一瞥してから私は馬腹を蹴った。
「あれはマズイ。“ドゥバーンの殺戮隊”って知らねぇのか!? アイツ、その隊長だぜ……!」
「なに? 殺戮隊てって言やぁ二年前、真教の熱狂的信者を皆殺しにしたってーアレかっ!? なんだってそんなヤツが、ここへ!? あっ!」
「で、でけぇ声出すんじゃねぇ! 知らねぇよ! どっちにしろ、大公閣下に御用だろ? 俺達にゃ関係ねぇ!」
どうでもいい噂話を、長々するものだ。必要がなければ私だって、殺戮などしないというのに。
――不快な記憶が思い起こされる。
幾度剣で突き、刺し、斬っても、眼を剥いて迫る狂信者たち。自爆の魔法を身に纏い、部下に抱きつき果てる者共。
だから私は、全力をもってその場にいる敵を全て殺したのだ。殺さざるを得なかったから。
私はそのまま門をくぐり、街の目抜き通りを進む。
私は朝の陽光を浴びながら、“殺戮隊”と呼ばれても、仕方がないのかもな――と思っていた。
◆◆
それにしても、街の目抜き通りはそれなりに復旧しており、巨大な寺院も再建が為されている。とはいえ、戦後四年を経てこの程度の回復というのは、正直なところ疑問を抱く。
街路の端々を歩く子供達は皆薄汚れていて、大人たちはよそよそしい。
しかも、軒を並べる商店へ買い物に来る者は兵士かゴロツキばかりだから、私は不快な気分になった。
「一般の者は、物も買えんのか? 街の中に入ってみれば、随分と酷い」
ふと私が馬を止めて立ち止まっていると、周囲をぐるりと子供達が囲んだ。どうやら物乞いらしい。孤児だろうか?
私は懐から小銭の入った袋を取り出し、彼等に分け与えてやった。
もちろんこれが偽善たどいうことは、私にも分かる。しかしここで彼等を無視するなどということは、どうしても出来なかった。何故なら私も孤児で、物乞いをしたことがあるからだ。
もちろん物乞いなどすれば、蹴られ、殴られ、唾を吐きかけられることもある。それでも生きる為には、仕方が無い事だったのだ。
「皆で分けるがいい」
当然、次から次へと子供達がやってくる。だから私はこう言ったのだ。早い者勝ちでは浅まし過ぎる。孤児ならば、だからこそ分け与える事を覚えねば。
私は独占しようとする子供を叱り、逆に全てを皆に与えようとする者も叱った。
しばらくすると子供に紛れて、一人の男が私の前に現われた。流石にいくら私でも、大人の、しかも男にまで施そうとは思わないのだが……。
私は男を馬上から、眉を顰めながら眺める。
男は全身黒尽くめの衣服だが、ボロボロだった。しかも擦り傷がそこかしこにあって、髪の毛は焦げてチリチリだ。
そして男は私の目の前で倒れると、一言――「シュラ――助けて」と呟いた。
はて、このような所に知り合いがいただろうか? と思ったが、己の名を知る者を無碍にも出来ない。
私は馬を下りて、男を介抱した。
男の顔は煤で汚れていたが、整った目鼻立ちは見覚えがある。
というか――「へ、陛下っ!」思わず私は叫んだ。
「あ、朝起きたらネフェルカーラに……雷撃とか炎槍とか色々やられて……吹飛ばされた……」
「い、一体、何をやったらそんなに怒られるのですか……」
「……うん。シャジャルが俺の子供を妊娠して、ジャンヌと結婚の約束をして、サラスヴァティとキスしているところを見られてたらしい」
「うわぁ……最低ですね」
思わす私は腕に抱えていた陛下の頭を、地面に落としてしまった。その反動で右手を陛下の顔にめり込ませる。
あ、これは反動ではなかった。むしろ私の奥底から沸きあがった衝動だ。許すまじ、陛下。まじ許すまじ。
私のグーパンチの衝撃で、街路が窪んだがそれは仕方あるまい。多分きっと、全部陛下が悪いのだ。それに陛下の後頭部は頑丈だから、これといって特に問題ないと思う。多分。
「し、仕方がないだろう!? シャジャルは誰にも渡したくないし、ジャンヌはしつこいし、サラスヴァティは――何だかんだ言って可愛いじゃないか」
大丈夫だった。しかも陛下はニヘラっと笑い、問題なく反論している。だがこれは、所謂クズ反論というやつだ。イラッとする。
「そーですね」
今度は陛下の腹部に短刀を刺してみる。あのプロンデルを打ち破ったお方だ。この程度は意にも介さないだろう。浮気するなら、私ともしやがれ。どうせクズなら、とことんやれ!
「げふううっ!」
あ――お腹に刺さった。どうやらネフェルカーラさまにやられて、流石の陛下も随分と弱っているらしい。そうだ、いっそのことグリグリしておこう。ククク。私に手を出していない罰だ。ファーハハハ!
なんでサラスヴァティに手を出して、私に手を出さないのか理解できない。ああ、許せない。許せない――ユルセナイ。
「ぐああああ! シュ、シュラ! ちょっと! 内臓! 内臓がっ!」
「おや、空腹ですか? 仕方がないですね」
あまりやりすぎても、あとで責任問題になる。まあ、陛下に限ってこの程度で怒るとも思えないが、どこで誰が見ているか分からないのだ。
皇帝をぶん殴った挙句、刃物で腹を抉ったとなれば、「虫が付いていた」という言い訳では多少キツイ。バレないうちにやめておこう。まあ、バレそうなら目撃者を消せばいいだけだが……。
ともかく私は陛下に回復魔法を施し、手をとって立ち上がらせる。「ちっ」
「ねえ、シュラ? 今舌打ちした? したよね?」
「いいえ。――ともかく陛下はマディーナへお戻り下さい。私は仕事がありますので」
「え、ちょ……それは……ええと、シュラはなんでここにいるの?」
「視察です。ドゥバーンさまより、この地に関する全権をお預かりしております」
「そ、そうか……ではシュラ、グズグズするな。まずは宿へ案内してくれ。ああ、近場で俺の服と――剣も買っておこう。確かに、ここは不穏な匂いがするからな! そりゃもう、プンプンする! だから俺は今から、お前の従者だ。さあ、視察するぞ!」
「は? なんで宿? なんで服と剣? あの……帰りたくないのですか?」
「何を馬鹿な……民の暮らしをつぶさに見るのも皇帝の務め。ましてや不穏の匂いが……うむ、これはよい機会だ。だからシュラ、さあ――視察するぞ! 視察するぞっ!」
どうやら陛下は、大事なことだから二回言ったらしい。決して帰りたくない訳ではない――と言いたげな目で私を見つめてくる。
その目はまるで、主人に捨てられそうな子犬のようだった。
「はっ」
私は陛下に恭しく頭を垂れ、その意に従うことにした。
決して陛下の目が子犬のようで可愛かったからではないし、陛下と二人きりになれる、この状況が少し嬉しいなんて……私は思っていないぞ。いないったら、いない。
シュラが主役です。
お好きな方だけ、よろしければどうぞ。