平穏の中で
※完全に番外編です。ストーリーに影響はありません。蛇足といえば蛇足ですので、お好きな方だけ、どうぞ。
◆
教室の引き戸を開けて、教壇の前に立つ。
普通の教師なら引き締まる瞬間とでも言うのだろうが、おれの場合は違う。面倒くせぇ。
誰がいて、誰がいないか――など、見れば分かる。一発だ。それなのに、いちいち呼ぶのは、生徒に対する教師の優位性を示したいが為の儀式に過ぎない。
――もっとも、昨今はその優位性が失われて久しい。だから問題も多いのだけど。
もちろんおれだって、モンスターなペアレンツは恐い。だから、無難にしようとは思っていた。
「長谷川。長谷川信二ー。いるかー?」
「はーい」
「東」
「はい」
「久織ー」
「……」
「久織悠聖ー?」
「……」
「後ろの席で、スマホいじってる久織ー。エロ動画削除しろー。特におれのケツを映したやつー」
「……そんなの、映してないし!」
「返事は、”はい”。いるなら、ちゃんと返事しろよー。なー」
「……はい」
「次、藤田ー」
「はい」
――――
高校教師になって早六年。担任を受け持つようになって、二年――楽しみはボーナスだけの生活だ。もちろん、部活の顧問は断固拒否。帰宅部顧問ならば、考えなくもない。
とはいえ、おれは元来が真面目だ。それゆえに一学期の頭から、各家庭に訪問。生徒個人個人に関して、かなり把握している方だと思う。
大体の家庭は、問題ない。ごくごく一般的な家庭が多かった。たまに母子家庭や父子家庭もあるが、今の時代ではデフォルトだ。この程度の家庭環境で問題を起こすような子供は、決して多くない。
ただ、例外はいる。久織だ。
奴は一年の頃から、とかくおれの目に付く生徒だった。聞けば、家庭環境は他に輪をかけて特殊で、問題は起こさないまでも、予備軍のようには見えた。
久織はボサボサの髪を耳の半ばまで伸ばし、何日も洗っていないようなワイシャツで登校していた。
おれは幾度となく廊下で捕まえ、注意したものだ。
「久織。お前、髪切れ。服もきちんと洗って、ピシッとしろよ。せっかくイ、イ、イケメンなのに、勿体無いぞ?」
「先生、なにそれ? ツンデレですか? 先生こそモテまくってるのに、どうしていつも真っ黒い服なんですか? 教師なのに中二病ですか? ……あと、地味にジョジョ立ちするの、やめてもらえません?」
しかし殆どの場合、逆に注意された。ジョジョを知ってるなんて、友達になれるかもしれない――そう思ったおれは、次第に久織に好意に似た感情を覚えた。あれ、なんだこれ。
久織が一年生の頃は、誰かと連れ立って家に帰るところを見た事が無い。友達が居ないのだろうか――? そう思ったおれは心配になって、声を掛けたことがある。
その時は、「先生ほどじゃないと思います――」と言われた。
図星だった。そうだ――おれは友達が欲しかったのだ。
だから家でワインを三本開けた。友達は酒だけだったからだ。そのせいで翌日学校を休んだが、誰も悪くないと思いたい。
少なくとも有給休暇は、あと十日ほど残っている。使ったって、いいんだろう?
ちなみに久織が二年になった今は、おれと連れ立って帰ることがある。しかし、おれは友達ではないので、相変わらず友達がいないようだ。……お互いに。
去年のある日、おれが校舎裏で女子生徒に告白されている現場を久織に見られた。
「……気持ちは嬉しいが」
「先生、好きな人とか、その、いるんですか?」
「そういう訳じゃないが」
「じゃあ、どうして付き合ってくれないんですか?」
「いや、教師と生徒だから……」
おれに断られた女子生徒は、泣きながら走り去った。それを目で追った久織はといえば、スタスタとおれの前に来て、こう言い放った。
「先生。問題はそこじゃねーと思います。教師と生徒以前に、大きな問題があると思います」
「ほむ?」
「ほむ? じゃないでしょう」
少し苛立ったように眉を寄せた久織は、もしかしたら、おれの事が好きなのかもしれない。生徒と心が通じるなんて、教師冥利に尽きるな。
「あれじゃ、あの子、冷静になったら勘違いしますよ」
「ラノベの知識か? 童貞くん」
「ほわっ!?」
久織は頬を真っ赤に染めて、両手で顔を押さえながら走り去った。乙女みたいなヤツだ。
◆◆
翌年、久織は無事、二年生になった。ヤツの担任となったおれは、二十八歳になるっぽい。
天変地異がおきて、おれだけ二十六歳にならないだろうか。或いは、二十七歳で止まってくれてもいい。お願いします、神よ。
「そろそろキミも、結婚を考えんかね? 私の親戚の子達だが、皆、いい所に勤めている。どうかね? え? え?」
教頭から見合い写真を貰うと、吐き気がするほど鬱にになる。「今がお前の旬――あとは枯れるだけだよ」と言われているような気がするのだ。
見合いの写真は、どれもある程度加工したベストショットなのだろう。それでアレなのだから、全員絶望的だ。とはいえ、肩書きだけは立派な方々である。流石におれも、丁重にお断りした。
……そのせいで、ますます鬱になる。
いかんいかん――気分を変えよう。
そう、おれはエルフなのだ。だから二十八歳なんて、まだまだ子供。慌てない、慌てない。……あわて……ない、ぞ。
という訳で、おれは久織の家にいる。
やはり問題のある家には、こまめに足を運ばなければ。それが教師の鑑たる、おれの仕事だ。
「先生。なんで先生がまた、俺の部屋にいるんだよ」
「家庭訪問だ」
「先週も来ただろ! なんなんだよ!」
「進路相談だ」
「――ああ」
「今日な――教頭に見合いを勧められた。一応は断ったのだが……」
「自分の進路相談かよ!」
「いけないか? おれだって悩むのだ!」
「自分で解決しろよ! 成人だろ!」
「冷たい! 冷たいぞ! おれが結婚したら、気軽にここへ来れなくなってしまうではないか!」
「むしろお前、ここを何だと思ってるんだ! 気軽に訪問するなよ!」
む? 怒られた。
しかし、おれが頻繁にここへ来るのは、理由がある。教師として、来なければならないのだ。
おれは最初の家庭訪問で、久織家の異常性に気が付いた。
彼の父母は、幼い頃に離婚。その後、父と、再婚した相手と共に三人で暮していたという。
しかその父も、数年前に国外で死亡。どうも、怪しげな仕事をやっていたようだな。金に困ったりはしないが、きな臭い男だったようだ。
という訳で今、久織は未亡人である継母(二十八歳)と同居中。まあ、普通に考えれば歪むだろう。
窓からオレンジ色の陽光が差し込んでいる。もう夕方だった。それはそうだ。下校時刻を過ぎてから来たのだ。その後ひとっ風呂浴びて、ビールを飲みつつ個人面談中だから、そんな時間にもなる。
そしておれは言った。
「しかし久織。お前もラッキーだなぁ」
まったく、おれが1Kのくそ狭いマンションで一人暮しなのに、なんだって高校生の久織が美人義母とウハウハ同棲なのだ。なんだかイライラしてきた。
「なんで?」
「だって、お父さんは亡くなったけど、あんな美人のお母さんがいるじゃないか。なんかもう――毎日ムッハーって感じじゃないか?」
カラスの鳴き声が聞こえる。
ここは閑静な住宅街だが、地方都市の性か、車で三十分も走れば緑も豊富だ。よってカラスの鳴き声には事欠かない。
久織の家は、豪華だ。生卵をぶつけたくなるようなコンクリート壁の二階建てで、地下室とガレージがある。おれなら地下室、ガレージ、どちらでも優雅に住めるだろう。家賃二万円で、是非お願いしたい。
……と、おれがそんなことを考えられるほどたっぷり沈黙したあと、久織はこう言った。
「なあ? 教育委員会に訴えていいか? お前に心はあるのか?」
「ん?」
おれが久織を見つめると、目を逸らされた。照れているのだろう。舌打ちもしている。
「――でも、残念だな。今日もお母さん、帰ってこないんだろう?」
「ああ、帰ってこないよ。……って、なんで俺が、いちいち答えなきゃ――」
「――そうか、それはつまらないな」
「……お前、何ニヤけてるんだ! もしかして継母さん目当てか!? この変態教師!」
む? ニヤけた? なんだろう。たしかに心の何処かが弾んだ。「久織と二人きりだ」と、思ったからだろうか。しかしおれは二十八。久織はまだ十七歳。何かがあるはずも無い。あってはいけないのだ。
いやまて。なんだかおれは、永遠の十七歳という気がしてきた。
「久織。二人きりだな」
「なんだ! 急に! いっそ俺が目当てとか!?」
「当たり前だろう。おれは教師で、お前は生徒。だったら、おれの目的はお前以外にないぞ。――まあいい。義母が戻らんのなら、今日はおれが晩飯を作ってやろう。特別だぞ」
ドキドキする。こんなことはいつ以来だろうか。
久織と目を合わせると、赤面しそうだ。あ、そういえば、ビールを既に三本飲んでいた。顔が赤くなるのも、ドキドキするのも飲みすぎだろう。これはいかん。
「いいよっ! どうせお前のレシピなんて、カレーとシチューとハヤシライスだろ!?」
「見事な黄金三種であろう」
「何、胸を張ってるんだ! 作り方、全部一緒だろ! もう帰れよ!」
「……わかった」
「って、そこは押入れだ! ドラえもんかよっ!」
「どら焼きなど、いらん」
結局この日は、おれが腕によりをかけてカレーを作ってやった。なんだかんだと言いながら、久織はおれを追い出さない。
それどころか最終的には「……カレー、作ってくれよ」と言った。素直じゃない男だ。
「おい。なんでこんなに水っぽいんだ?」
「ふははははは! まるで下痢だな!」
しかし――あまり食べてもらえなかった。美味しくなかったのだろうか?
いや、そんなことはない。ちょっと味は薄いが、確かにカレーだ。ルーを多めにかければ、問題あるまい。
◆◆◆
なんと言えばいいのだろう。
久織の顔には、常に孤独の影があった。
だからおれは不憫に思えて、何とかしようと躍起になったのかもしれない。
いや――そうじゃない。そうではなかったはずだ。
だけどあの時のおれは教師で、久織は生徒に過ぎなかった。それ以上の関係性など、望むべくもなかった。仕方の無いことだったのだ。
あれは、一学期の期末試験が終わったあとの事だ。
おれはいつもの通り、久織の家へ遊びに――ではなく――家庭訪問へ行った。
そして久織のパソコンを使い、試しに奴のキャラでネトゲをプレイしてみたのだ。
『やあやあ! 皆の集! 今日はどこにいく? ヾ(≧∀≦)ノ』
『……え? トマトマさん……喋った?』
なんと久織は、”トマトマ”などというふざけた名前でプレイしていた。まったくけしからんネーミングセンスだ。おれなら間違いなく”漆黒の波動――ブラック・テイル”さんになるのに。
『ふっはー! よろしくね!w(*゜д゜*)w』
……と、一時間ほど”トマトマ”の所属するギルドメンバーとプレイして、おれは良いことを思いついた。カッコイイキャラを久織にプレゼントしてやろう。
『キャラを変更しますか? Y/N』
『トマトマLv99は消えますが、よろしいですか? Y/N』
……断じて、おれは善意からのことだった。
しかし久織は、このことを知ると烈火の如く怒り狂った。
「なんなんだよ! 漆黒の歯動Lv1って! せめて波動だろ! 歯が動いてグラグラかよ! どこの歯周病患者だよ! しかも黒って、虫歯かよ!」
「いや、ブラック・テイルまで入らなくて。スマン」
「はぁ!? そこじゃねぇよ! そもそもなんで”トマトマ”消してんだよ! 普通に新規で作れよ!」
なんて大人気無い奴なのだろう。たかがゲームキャラで。
「まあまあ、トマトマは消えたけど、おれがいるじゃないか!」
しかしおれは大人だ。子供を宥めるなど容易いこと。親指を立てて、ニヤリと笑ってやった。
すると驚いたことに殴ってきやがったので、カウンターパンチをボディに叩き込んでやった。顔を傷つけると、体罰だなんだと五月蝿いから仕方が無い。
「げ、げふっ……なんなんだよ、もう放っといてくれよ。先生だっていい年なんだから、俺なんかに構ってたら結婚遅れちゃうだろ。お見合い、行けよ……だいたい――」
久織は蹲りながら、こう言った。掌が白くなるほど、拳も握り締めている。
おれはショックだった。
久織にとって、おれは邪魔者だったのだろうか。おれが他の誰かと結婚しても、久織は少しも辛くないのだろうか。
――おれは目の前が暗くなった。おれは何を求めて、ここへ来ているのだろう。いや、おれは久織に、何を求め始めていたのだろう。
ああ、そうだ。おれは教師として、久織の未来を心配していたのだ。危うい所で勘違いをした。
おれが久織に、何かを求めていいわけが無い。
久織の為に、おれがいるのだ。教師とは、そういったものだから。
それにしても、こんな久織は初めて見る。感情を露にし、ブルブルと震えていた。(痛いだけかも知れないが)
しかし、まてよ? この状況は――。
「悠聖――大丈夫だ。お前はただ、感情を爆発させただけだ。それは、とても良いことなのだぞ?」
おれは久織を抱きしめた。そして、あえて名前で呼ぶ。愛情たっぷりだ。人と人は、まず感情でぶつかる。それから理解を深めればいい。
家族関係の希薄な久織には、きっと目から鱗だったはず。おれはそれを、教えてやれた気がする。
グッジョブ、おれ。
けれど、どこで間違えたのだろう。するりとおれの腕の中から逃れ、その後、ヤツはトイレに籠もってしまった。あれ?
「――じゃない……大丈夫じゃない……とにかく帰れよ……!」
この後、いくらおれが「ご飯だぞー。シチューが出来たぞー!」と呼んでも、トイレから出てこなかった。
「夏にシチュー作るな! この馬鹿っ! ていうか、腹が痛いんだよ!」
なるほど、それでトイレに。
◆◆◆◆
その夜。おれは久織と少しだけ語り合った。
おれはビールを、久織はコーラを飲んでいる。
場所は彼の部屋だ。机の上は整頓されていて、良くも悪くも、あまり使っていない感じがした。
机の脇には本棚があって、ラノベや漫画がしまってある。
最近ではおれの蔵書も増えてきているから、見ているとつい和んでしまう。
「で、えっちな本は、何処に隠しているんだ?」
と聞いたが、「そんなもんは、ねぇ!」と言われた。
怪しいので家捜しをしたが、確かに出てこない。その代わり、パソコンからは激しい画像がわんさと出てきて、流石のおれも赤面してしまった。むろん、全消去だ。なんだか無性にイラついた。
「久織。ビールを取ってきてくれ」
「自分で行けよ」
「おれが酔っ払って転んだら、お前の責任問題だぞ?」
「いや……生徒の部屋で酔っ払う教師の方が、教育委員会にとっては問題だろうと思うけど」
そう言いながらも久織は一階へ降りて、冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取ってきてくれる。
良い子だ。うん、良い子に成長した。
――ん? おれは一体、何の為に家庭訪問を繰り返していたのだ?
久織がムスッとした顔で、おれに近づく。ビールを頬に付けられたおれは、冷たさでビックリした。
「久織は、おれが嫌いか?」
おれは久織からビールを受け取り、聞いた。さすがに唐突な質問だったのだろうか。ヤツはオロオロと戸惑っている。
「き、嫌いなヤツの為に、ビールなんか用意しないだろ」
「では、好きなのだな」
「ちょ……!」
両手を左右にふって、ジタバタしている。ビンゴだ。おれのことが好きに違いない。
「す、好きとか嫌いとか――そういうんじゃないでしょ。先生は先生だから、正直いって、上手くやらなきゃ――と思ってる。……進学希望だし――」
「つまり、おれに付き合うことが、義務だと思っているのか? ビールでおれを買収しようと?」
「先生だってそうでしょう? 仕事だから、俺が落ち零れないようにって、俺の家に来てるんでしょ? 実際、俺、成績上がってるし――」
「ふむ。そうやって、いつも自分を誤魔化すのだな」
「別に誤魔化してなんか。だいたい、先生に何がわかるってんだよ」
「――おれも、両親がいなくてな。だから、お前の気持ちが少し分かるのだ。いや、言い換えよう。家族がいなかった。だから、感情のぶつけ方が分からなくて――常に人を避けていた。平凡であろうとして、善良であろうとして、日々、足掻いた。本当は、足掻く必要こそ無いのにな」
一瞬の沈黙が降りた。けれど久織は結局、窓際に立って外を見ながら話題を逸らす。
「カッコイイこと言って誤魔化すなよ。で――結局、俺の”トマトマ”と”エロ画像”は、どうしてくれるんだよ……」
「さて……夜も更けた。寝るとするか」
「いや、帰れよ! そこは!」
流石のおれも、”エロ画像”はともかく”トマトマ”はすまないと思っている。なので話題を変えよう。というか、寝よう。
横になったベッドは、久織のものだ。僅かに汗の匂いがする。しかし、嫌いではない。おれは胸いっぱいに、久織の匂いを吸い込んだ。
けれどそんな自分が照れくさくて、つい話を変な方向へ持っていってしまう。
「くんくん――イカの匂いがするぞ。久織。ベッドの上でイカを食べるのは、感心せんな。それとも、別のことか? ん? 何をした? え? おれにも教えてくれよ?」
「ちょ! 先生、ほんと最低だな! みんなに先生の実態をばらすぞ!」
「……そうしてみたら、どうだ?」
「い、言った所で、誰も信じないだろ。それに、もしも誰かが信じたら、それこそ先生、問題になるんじゃないか? ――女教師、生徒の家で飲酒――とか。その程度ならいいだろうけど、もっとおかしな話にならないとも限らないだろ?」
「ほう? おれの為に、久織は黙ってくれているんだな。随分と、いい子ではないか」
「――って、目を瞑るな! 寝ようとするな!」
「ふふ……今日はちょっと疲れた。泊まる。なに、大丈夫だ。お前は下で寝るからな――どうせ」
「そ! そういうんじゃねぇよ! いいのかよ! 先生――彼氏とか――いないのかよ? 俺だって――男なんだぞ」
「ほむ――」
「だから”ほむ”って、なんだよ!?」
おれは久織に背を向け、柔らかなタオルケットに包まった。
別に、今夜どうなろうと構わない。そう思った。教育委員会も、文部科学省も、免職も恐くない。
そうであれば、教師が生徒の恋人になって悪いという法は無いはずだ。無いはずだが――。
どのくらいの時間が過ぎただろうか?
久織が、おれの頭を撫でてくれる。ゆっくりと、優しく――。
心地よい眠気と柔らかな情欲が混ざって、なんとも言えない心地だ。
それからさらに時間が経ち、久織の腕が、おれの体を包んだ。
”ドクン、ドクン”と心臓の音が聞こえる。自分の鼓動と久織の鼓動が重なっている。
緊張した。久織も緊張しているのだろう。大人らしく振舞いたい。けれど出来ない自分がモドカシイ。
「や、やっぱり、帰る!」
口が勝手に動き、望まない声を出す。
「きょ、教師と生徒で、みだらな関係になる訳には……いかない!」
今まで積み上げた常識が、おれの本質を作り変えていたのかもしれない。
おれは立ち上がり、部屋を出で階段を下りた。無様だった。
「先生」
玄関の手前で、久織に声を掛けられた。
振り返ると寂しそうな目で、おれを見ている。捨てられる子犬も、こんな目をするだろうか。
だけど、違う。おれはお前を、捨てるんじゃない。
「先生――また、来てくれる?」
「――あ、当たり前だ。教師が生徒の家を訪問して、何が悪い」
「……待ってるよ」
おれは頷き、逃げるように久織の家を後にした。
途中、何度躓き、転んだだろう。
1Kのみすぼらしいマンションへ帰りついたとき、おれはもう、靴を履いていなかった。涙で顔もぐしょぐしょだ。
多分きっと、おれは二度と久織の家に行かないだろう。行けないのだ。
感情の大切さを説いた人間が、舌の根も乾かぬうちに理性を優先させる。しかも根源を辿れば、ささやかなプライドの仕業だった。
所詮おれは、そういう大人になってしまっていた。
なにが、一人称「おれ」だ。
所詮、その辺の女と何も変わらないじゃないか。
だけど――それだけじゃない。
あの時、久織がおれの名を呼んで、そして「好きだ」と言ってくれれば――きっと踏みとどまれた。いや、踏み外せたはずだ。
いや、よそう。自分の不甲斐なさを、教え子のせいにするのは――。
そして夏が終わる頃、久織はおれの前から消えた。いや、おれの前からだけじゃない。誰の前からも消えてしまった。
おれのせいだと思った。
だからおれは、教師を辞めた。
そして願った。もう一度だけでいい、久織悠聖に会いたい――と。
◆◆◆
ふと、目を覚ますと枕が湿っていた。
「母さま――どうかされましたか?」
おれを見つめる緑色の目が、心配そうだ。幼子が、おれの肩を揺らしている。ハーディ? ハーディか。――我が愛しき息子よ。
ふとおれは、目元に指を当てた。湿っている。濡れている。
誰の仕業だ! おれの目を濡らすなど! と怒りが沸きあがった。
しかし考えてみれば、おれにそのような事を出来る者など、シャムシールしかおらぬ。
「おい! 起きろ! 起きぬか、シャムシール! おれの目が濡れておる! 貴様、一体何をしてくれた! ――ハーディは下がっておれ! 雷撃!」
おれは、隣で眠るシャムシールを起こした。
「ぎゃあああ! ……あ、朝からなんだよ、ネフェルカーラ」
「おれの目に、水が! 貴様、一体何をした!」
チリチリになった髪を治癒魔法で戻しながら、シャムシールが目をこすっている。
「……なんか、悲しい夢でも見たんじゃ無いのか? 俺はもう少し寝るよ」
む? 夢――夢といえば、そういえば妙な夢を見たな。そのせいか?
それより、おれの雷撃も弱くなったものだ。シャムシールの髪を焦がす程度のことしか出来ぬとは。
だが、宮殿は吹き飛ぶのだな。まったく――なんという脆弱な結界か。構築したのは誰だ? 罰してくれる。
まあ、それはいい――。
ガッコウ? キョウシ? なんなのだ、あの世界は。あれがシャムシールの言っていた、日本とやらであろうか。
まあ、考えても仕方なし。幸い、ベッドだけは無事だ。おれももう少し、寝るとするか。
と、その前に――夢で見たあの女。なんと言ったかな。妙にシャムシール――いや、ユウセイと親しげであったが。
「――シャムシール。ミサトという女を知っておるか? キョーシとかいう職業の……」
俺の質問に驚いたのか、シャムシールが再び目を開いて、半身を起こす。
まっさらな白絹の寝具が、朝日を浴びて光沢を放っている。その上に、シャムシールの見事な肉体が零れた。
「……え? ネフェルカーラ……どこでその名前を?」
おお。さすがおれのシャムシール。逞しい胸板だ。ミサトなど、どうでもいい。
見ていたら、見惚れてウットリしてしまった。頬擦りでもしよう。スリスリ……。
「ふわぁ――今の――夢に出てきたのだ。だがまあ――よい――所詮、夢の女だ――もう一眠りすれば、忘れていよう。しかし――今度浮気なぞしたら、本当に殺すぞ。そして、浮気じゃない、妻にする! などと申してみよ……未来、永、劫――すぅ――すぅ」
朧気ながら、頭を撫でられているような……。ああ、おれは昔から、シャムシールに頭を撫でられると……弱い……のだ……。
「ふぅ……寝てくれたか。まったく。――それにしても、ネフェルカーラから深怜先生の名前が出るなんてなぁ」
「父上。その”ミサトせんせい”というのは、どのような方なのですか?」
「……ああ、そうだな。俺が、はじめて本当に好きになった人、かもな。ネフェルカーラと、よく似た人だったよ」
「おお! では、父上の、はじめてのあいじんですね!」
「……ちょ、ちがっ! ハーディ! どこでそんな言葉を!? で、出かけよう。そーっと、そーっとだぞ。ネフェルカーラがニヤニヤしている間に、狩りにでも行こう!」
「あーっ、シャムシール! どこにいくのー? わたしも連れてってー! あ、ハーディ! はい、おはようのどんぐり、あげるねっ! うふふっ!」
「わ、ありがとうございます、アエリノールさま。……けど、てんじょうは出入り口ではないですよ?」
「いいじゃない。おっきな穴が空いてたんだから」
「うん、そうですね。ところでアエリノールさまは、”ミサトせんせい”という父上のあいじんを、ごぞんじですか?」
「ん? んー? ……シャームーシールーッ!」
一応、最後の場面の時代設定は、帝国暦九年。
ハーディは帝国暦三年に生まれた、という設定です。