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平穏の中で

※完全に番外編です。ストーリーに影響はありません。蛇足といえば蛇足ですので、お好きな方だけ、どうぞ。


 ◆


 教室の引き戸を開けて、教壇の前に立つ。

 普通の教師なら引き締まる瞬間とでも言うのだろうが、おれの場合は違う。面倒くせぇ。

 誰がいて、誰がいないか――など、見れば分かる。一発だ。それなのに、いちいち呼ぶのは、生徒に対する教師の優位性を示したいが為の儀式に過ぎない。


 ――もっとも、昨今はその優位性が失われて久しい。だから問題も多いのだけど。

 もちろんおれだって、モンスターなペアレンツは恐い。だから、無難にしようとは思っていた。


「長谷川。長谷川信二はせがわしんじー。いるかー?」


「はーい」


「東」


「はい」


「久織ー」


「……」


久織悠聖ひさおりゆうせいー?」


「……」


「後ろの席で、スマホいじってる久織ー。エロ動画削除しろー。特におれのケツを映したやつー」


「……そんなの、映してないし!」


「返事は、”はい”。いるなら、ちゃんと返事しろよー。なー」


「……はい」


「次、藤田ー」


「はい」


 ――――


 高校教師になって早六年。担任を受け持つようになって、二年――楽しみはボーナスだけの生活だ。もちろん、部活の顧問は断固拒否。帰宅部顧問ならば、考えなくもない。

 とはいえ、おれは元来が真面目だ。それゆえに一学期の頭から、各家庭に訪問。生徒個人個人に関して、かなり把握している方だと思う。

 

 大体の家庭は、問題ない。ごくごく一般的な家庭が多かった。たまに母子家庭や父子家庭もあるが、今の時代ではデフォルトだ。この程度の家庭環境で問題を起こすような子供は、決して多くない。


 ただ、例外はいる。久織だ。

 奴は一年の頃から、とかくおれの目に付く生徒だった。聞けば、家庭環境は他に輪をかけて特殊で、問題は起こさないまでも、予備軍のようには見えた。


 久織はボサボサの髪を耳の半ばまで伸ばし、何日も洗っていないようなワイシャツで登校していた。

 おれは幾度となく廊下で捕まえ、注意したものだ。


「久織。お前、髪切れ。服もきちんと洗って、ピシッとしろよ。せっかくイ、イ、イケメンなのに、勿体無いぞ?」


「先生、なにそれ? ツンデレですか? 先生こそモテまくってるのに、どうしていつも真っ黒い服なんですか? 教師なのに中二病ですか? ……あと、地味にジョジョ立ちするの、やめてもらえません?」


 しかし殆どの場合、逆に注意された。ジョジョを知ってるなんて、友達になれるかもしれない――そう思ったおれは、次第に久織に好意に似た感情を覚えた。あれ、なんだこれ。


 久織が一年生の頃は、誰かと連れ立って家に帰るところを見た事が無い。友達が居ないのだろうか――? そう思ったおれは心配になって、声を掛けたことがある。

 その時は、「先生ほどじゃないと思います――」と言われた。

 図星だった。そうだ――おれは友達が欲しかったのだ。

 だから家でワインを三本開けた。友達は酒だけだったからだ。そのせいで翌日学校を休んだが、誰も悪くないと思いたい。

 少なくとも有給休暇は、あと十日ほど残っている。使ったって、いいんだろう?


 ちなみに久織が二年になった今は、おれと連れ立って帰ることがある。しかし、おれは友達ではないので、相変わらず友達がいないようだ。……お互いに。


 去年のある日、おれが校舎裏で女子生徒に告白されている現場を久織に見られた。


「……気持ちは嬉しいが」


「先生、好きな人とか、その、いるんですか?」


「そういう訳じゃないが」


「じゃあ、どうして付き合ってくれないんですか?」


「いや、教師と生徒だから……」


 おれに断られた女子生徒は、泣きながら走り去った。それを目で追った久織はといえば、スタスタとおれの前に来て、こう言い放った。


「先生。問題はそこじゃねーと思います。教師と生徒以前に、大きな問題があると思います」


「ほむ?」


「ほむ? じゃないでしょう」


 少し苛立ったように眉を寄せた久織は、もしかしたら、おれの事が好きなのかもしれない。生徒と心が通じるなんて、教師冥利に尽きるな。


「あれじゃ、あの子、冷静になったら勘違いしますよ」


「ラノベの知識か? 童貞くん」


「ほわっ!?」


 久織は頬を真っ赤に染めて、両手で顔を押さえながら走り去った。乙女みたいなヤツだ。


 ◆◆


 翌年、久織は無事、二年生になった。ヤツの担任となったおれは、二十八歳になるっぽい。

 天変地異がおきて、おれだけ二十六歳にならないだろうか。或いは、二十七歳で止まってくれてもいい。お願いします、神よ。


「そろそろキミも、結婚を考えんかね? 私の親戚の子達だが、皆、いい所に勤めている。どうかね? え? え?」


 教頭から見合い写真を貰うと、吐き気がするほど鬱にになる。「今がお前の旬――あとは枯れるだけだよ」と言われているような気がするのだ。

 見合いの写真は、どれもある程度加工したベストショットなのだろう。それでアレなのだから、全員絶望的だ。とはいえ、肩書きだけは立派な方々である。流石におれも、丁重にお断りした。

 ……そのせいで、ますます鬱になる。


 いかんいかん――気分を変えよう。


 そう、おれはエルフなのだ。だから二十八歳なんて、まだまだ子供。慌てない、慌てない。……あわて……ない、ぞ。


 という訳で、おれは久織の家にいる。

 やはり問題のある家には、こまめに足を運ばなければ。それが教師の鑑たる、おれの仕事だ。


「先生。なんで先生がまた、俺の部屋にいるんだよ」


「家庭訪問だ」


「先週も来ただろ! なんなんだよ!」


「進路相談だ」


「――ああ」


「今日な――教頭に見合いを勧められた。一応は断ったのだが……」


「自分の進路相談かよ!」


「いけないか? おれだって悩むのだ!」


「自分で解決しろよ! 成人おとなだろ!」


「冷たい! 冷たいぞ! おれが結婚したら、気軽にここへ来れなくなってしまうではないか!」


「むしろお前、ここを何だと思ってるんだ! 気軽に訪問するなよ!」


 む? 怒られた。

 しかし、おれが頻繁にここへ来るのは、理由がある。教師として、来なければならないのだ。

 おれは最初の家庭訪問で、久織家の異常性に気が付いた。

 彼の父母は、幼い頃に離婚。その後、父と、再婚した相手と共に三人で暮していたという。

 しかその父も、数年前に国外で死亡。どうも、怪しげな仕事をやっていたようだな。金に困ったりはしないが、きな臭い男だったようだ。

 という訳で今、久織は未亡人である継母(二十八歳)と同居中。まあ、普通に考えれば歪むだろう。


 窓からオレンジ色の陽光が差し込んでいる。もう夕方だった。それはそうだ。下校時刻を過ぎてから来たのだ。その後ひとっ風呂浴びて、ビールを飲みつつ個人面談中だから、そんな時間にもなる。

 そしておれは言った。


「しかし久織。お前もラッキーだなぁ」


 まったく、おれが1Kのくそ狭いマンションで一人暮しなのに、なんだって高校生の久織が美人義母とウハウハ同棲なのだ。なんだかイライラしてきた。


「なんで?」


「だって、お父さんは亡くなったけど、あんな美人のお母さんがいるじゃないか。なんかもう――毎日ムッハーって感じじゃないか?」


 カラスの鳴き声が聞こえる。

 ここは閑静な住宅街だが、地方都市の性か、車で三十分も走れば緑も豊富だ。よってカラスの鳴き声には事欠かない。

 久織の家は、豪華だ。生卵をぶつけたくなるようなコンクリート壁の二階建てで、地下室とガレージがある。おれなら地下室、ガレージ、どちらでも優雅に住めるだろう。家賃二万円で、是非お願いしたい。


 ……と、おれがそんなことを考えられるほどたっぷり沈黙したあと、久織はこう言った。


「なあ? 教育委員会に訴えていいか? お前に心はあるのか?」


「ん?」


 おれが久織を見つめると、目を逸らされた。照れているのだろう。舌打ちもしている。


「――でも、残念だな。今日もお母さん、帰ってこないんだろう?」


「ああ、帰ってこないよ。……って、なんで俺が、いちいち答えなきゃ――」


「――そうか、それはつまらないな」


「……お前、何ニヤけてるんだ! もしかして継母かあさん目当てか!? この変態教師!」


 む? ニヤけた? なんだろう。たしかに心の何処かが弾んだ。「久織と二人きりだ」と、思ったからだろうか。しかしおれは二十八。久織はまだ十七歳。何かがあるはずも無い。あってはいけないのだ。

 いやまて。なんだかおれは、永遠の十七歳という気がしてきた。


「久織。二人きりだな」


「なんだ! 急に! いっそ俺が目当てとか!?」


「当たり前だろう。おれは教師で、お前は生徒。だったら、おれの目的はお前以外にないぞ。――まあいい。義母ははが戻らんのなら、今日はおれが晩飯を作ってやろう。特別だぞ」


 ドキドキする。こんなことはいつ以来だろうか。

 久織と目を合わせると、赤面しそうだ。あ、そういえば、ビールを既に三本飲んでいた。顔が赤くなるのも、ドキドキするのも飲みすぎだろう。これはいかん。


「いいよっ! どうせお前のレシピなんて、カレーとシチューとハヤシライスだろ!?」


「見事な黄金三種であろう」


「何、胸を張ってるんだ! 作り方、全部一緒だろ! もう帰れよ!」


「……わかった」


「って、そこは押入れだ! ドラえもんかよっ!」


「どら焼きなど、いらん」


 結局この日は、おれが腕によりをかけてカレーを作ってやった。なんだかんだと言いながら、久織はおれを追い出さない。

 それどころか最終的には「……カレー、作ってくれよ」と言った。素直じゃない男だ。


「おい。なんでこんなに水っぽいんだ?」


「ふははははは! まるで下痢だな!」


 しかし――あまり食べてもらえなかった。美味しくなかったのだろうか?

 いや、そんなことはない。ちょっと味は薄いが、確かにカレーだ。ルーを多めにかければ、問題あるまい。


 ◆◆◆


 なんと言えばいいのだろう。

 久織の顔には、常に孤独の影があった。

 だからおれは不憫に思えて、何とかしようと躍起になったのかもしれない。


 いや――そうじゃない。そうではなかったはずだ。

 だけどあの時のおれは教師で、久織は生徒に過ぎなかった。それ以上の関係性など、望むべくもなかった。仕方の無いことだったのだ。


 あれは、一学期の期末試験が終わったあとの事だ。

 おれはいつもの通り、久織の家へ遊びに――ではなく――家庭訪問へ行った。

 そして久織のパソコンを使い、試しに奴のキャラでネトゲをプレイしてみたのだ。


『やあやあ! 皆の集! 今日はどこにいく? ヾ(≧∀≦)ノ』


『……え? トマトマさん……喋った?』


 なんと久織は、”トマトマ”などというふざけた名前でプレイしていた。まったくけしからんネーミングセンスだ。おれなら間違いなく”漆黒の波動――ブラック・テイル”さんになるのに。


『ふっはー! よろしくね!w(*゜д゜*)w』


 ……と、一時間ほど”トマトマ”の所属するギルドメンバーとプレイして、おれは良いことを思いついた。カッコイイキャラを久織にプレゼントしてやろう。


『キャラを変更しますか? Y/N』


『トマトマLv99は消えますが、よろしいですか? Y/N』


 ……断じて、おれは善意からのことだった。

 しかし久織は、このことを知ると烈火の如く怒り狂った。


「なんなんだよ! 漆黒の歯動Lv1って! せめて波動だろ! 歯が動いてグラグラかよ! どこの歯周病患者だよ! しかも黒って、虫歯かよ!」


「いや、ブラック・テイルまで入らなくて。スマン」


「はぁ!? そこじゃねぇよ! そもそもなんで”トマトマ”消してんだよ! 普通に新規で作れよ!」


 なんて大人気無い奴なのだろう。たかがゲームキャラで。


「まあまあ、トマトマは消えたけど、おれがいるじゃないか!」


 しかしおれは大人だ。子供を宥めるなど容易いこと。親指を立てて、ニヤリと笑ってやった。

 すると驚いたことに殴ってきやがったので、カウンターパンチをボディに叩き込んでやった。顔を傷つけると、体罰だなんだと五月蝿いから仕方が無い。


「げ、げふっ……なんなんだよ、もう放っといてくれよ。先生だっていい年なんだから、俺なんかに構ってたら結婚遅れちゃうだろ。お見合い、行けよ……だいたい――」


 久織は蹲りながら、こう言った。掌が白くなるほど、拳も握り締めている。

 おれはショックだった。

 久織にとって、おれは邪魔者だったのだろうか。おれが他の誰かと結婚しても、久織は少しも辛くないのだろうか。


 ――おれは目の前が暗くなった。おれは何を求めて、ここへ来ているのだろう。いや、おれは久織に、何を求め始めていたのだろう。


 ああ、そうだ。おれは教師として、久織の未来を心配していたのだ。危うい所で勘違いをした。

 おれが久織に、何かを求めていいわけが無い。

 久織の為に、おれがいるのだ。教師とは、そういったものだから。


 それにしても、こんな久織は初めて見る。感情を露にし、ブルブルと震えていた。(痛いだけかも知れないが)

 しかし、まてよ? この状況は――。


「悠聖――大丈夫だ。お前はただ、感情を爆発させただけだ。それは、とても良いことなのだぞ?」


 おれは久織を抱きしめた。そして、あえて名前で呼ぶ。愛情たっぷりだ。人と人は、まず感情でぶつかる。それから理解を深めればいい。

 家族関係の希薄な久織には、きっと目から鱗だったはず。おれはそれを、教えてやれた気がする。

 グッジョブ、おれ。


 けれど、どこで間違えたのだろう。するりとおれの腕の中から逃れ、その後、ヤツはトイレに籠もってしまった。あれ?


「――じゃない……大丈夫じゃない……とにかく帰れよ……!」


 この後、いくらおれが「ご飯だぞー。シチューが出来たぞー!」と呼んでも、トイレから出てこなかった。


「夏にシチュー作るな! この馬鹿っ! ていうか、腹が痛いんだよ!」


 なるほど、それでトイレに。


 ◆◆◆◆


 その夜。おれは久織と少しだけ語り合った。

 おれはビールを、久織はコーラを飲んでいる。

 場所は彼の部屋だ。机の上は整頓されていて、良くも悪くも、あまり使っていない感じがした。

 机の脇には本棚があって、ラノベや漫画がしまってある。

 最近ではおれの蔵書も増えてきているから、見ているとつい和んでしまう。


「で、えっちな本は、何処に隠しているんだ?」


 と聞いたが、「そんなもんは、ねぇ!」と言われた。

 怪しいので家捜しをしたが、確かに出てこない。その代わり、パソコンからは激しい画像がわんさと出てきて、流石のおれも赤面してしまった。むろん、全消去だ。なんだか無性にイラついた。


「久織。ビールを取ってきてくれ」


「自分で行けよ」


「おれが酔っ払って転んだら、お前の責任問題だぞ?」


「いや……生徒の部屋で酔っ払う教師の方が、教育委員会にとっては問題だろうと思うけど」


 そう言いながらも久織は一階へ降りて、冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取ってきてくれる。

 良い子だ。うん、良い子に成長した。

 ――ん? おれは一体、何の為に家庭訪問を繰り返していたのだ? 

 久織がムスッとした顔で、おれに近づく。ビールを頬に付けられたおれは、冷たさでビックリした。

 

「久織は、おれが嫌いか?」


 おれは久織からビールを受け取り、聞いた。さすがに唐突な質問だったのだろうか。ヤツはオロオロと戸惑っている。


「き、嫌いなヤツの為に、ビールなんか用意しないだろ」


「では、好きなのだな」


「ちょ……!」


 両手を左右にふって、ジタバタしている。ビンゴだ。おれのことが好きに違いない。


「す、好きとか嫌いとか――そういうんじゃないでしょ。先生は先生だから、正直いって、上手くやらなきゃ――と思ってる。……進学希望だし――」


「つまり、おれに付き合うことが、義務だと思っているのか? ビールでおれを買収しようと?」


「先生だってそうでしょう? 仕事だから、俺が落ち零れないようにって、俺の家に来てるんでしょ? 実際、俺、成績上がってるし――」


「ふむ。そうやって、いつも自分を誤魔化すのだな」


「別に誤魔化してなんか。だいたい、先生に何がわかるってんだよ」


「――おれも、両親がいなくてな。だから、お前の気持ちが少し分かるのだ。いや、言い換えよう。家族がいなかった。だから、感情のぶつけ方が分からなくて――常に人を避けていた。平凡であろうとして、善良であろうとして、日々、足掻いた。本当は、足掻く必要こそ無いのにな」


 一瞬の沈黙が降りた。けれど久織は結局、窓際に立って外を見ながら話題を逸らす。


「カッコイイこと言って誤魔化すなよ。で――結局、俺の”トマトマ”と”エロ画像”は、どうしてくれるんだよ……」


「さて……夜も更けた。寝るとするか」


「いや、帰れよ! そこは!」


 流石のおれも、”エロ画像”はともかく”トマトマ”はすまないと思っている。なので話題を変えよう。というか、寝よう。

 横になったベッドは、久織のものだ。僅かに汗の匂いがする。しかし、嫌いではない。おれは胸いっぱいに、久織の匂いを吸い込んだ。

 けれどそんな自分が照れくさくて、つい話を変な方向へ持っていってしまう。


「くんくん――イカの匂いがするぞ。久織。ベッドの上でイカを食べるのは、感心せんな。それとも、別のことか? ん? 何をした? え? おれにも教えてくれよ?」


「ちょ! 先生、ほんと最低だな! みんなに先生の実態をばらすぞ!」


「……そうしてみたら、どうだ?」


「い、言った所で、誰も信じないだろ。それに、もしも誰かが信じたら、それこそ先生、問題になるんじゃないか? ――女教師、生徒の家で飲酒――とか。その程度ならいいだろうけど、もっとおかしな話にならないとも限らないだろ?」


「ほう? おれの為に、久織は黙ってくれているんだな。随分と、いい子ではないか」


「――って、目を瞑るな! 寝ようとするな!」


「ふふ……今日はちょっと疲れた。泊まる。なに、大丈夫だ。お前は下で寝るからな――どうせ」


「そ! そういうんじゃねぇよ! いいのかよ! 先生――彼氏とか――いないのかよ? 俺だって――男なんだぞ」


「ほむ――」


「だから”ほむ”って、なんだよ!?」


 おれは久織に背を向け、柔らかなタオルケットに包まった。

 別に、今夜どうなろうと構わない。そう思った。教育委員会も、文部科学省も、免職も恐くない。

 そうであれば、教師が生徒の恋人になって悪いという法は無いはずだ。無いはずだが――。

 

 どのくらいの時間が過ぎただろうか? 

 久織が、おれの頭を撫でてくれる。ゆっくりと、優しく――。

 心地よい眠気と柔らかな情欲が混ざって、なんとも言えない心地だ。


 それからさらに時間が経ち、久織の腕が、おれの体を包んだ。

 ”ドクン、ドクン”と心臓の音が聞こえる。自分の鼓動と久織の鼓動が重なっている。

 緊張した。久織も緊張しているのだろう。大人らしく振舞いたい。けれど出来ない自分がモドカシイ。


「や、やっぱり、帰る!」


 口が勝手に動き、望まない声を出す。


「きょ、教師と生徒で、みだらな関係になる訳には……いかない!」


 今まで積み上げた常識が、おれの本質を作り変えていたのかもしれない。

 おれは立ち上がり、部屋を出で階段を下りた。無様だった。

 

「先生」


 玄関の手前で、久織に声を掛けられた。

 振り返ると寂しそうな目で、おれを見ている。捨てられる子犬も、こんな目をするだろうか。

 だけど、違う。おれはお前を、捨てるんじゃない。


「先生――また、来てくれる?」


「――あ、当たり前だ。教師が生徒の家を訪問して、何が悪い」


「……待ってるよ」


 おれは頷き、逃げるように久織の家を後にした。

 途中、何度躓き、転んだだろう。

 1Kのみすぼらしいマンションへ帰りついたとき、おれはもう、靴を履いていなかった。涙で顔もぐしょぐしょだ。

 

 多分きっと、おれは二度と久織の家に行かないだろう。行けないのだ。


 感情の大切さを説いた人間が、舌の根も乾かぬうちに理性を優先させる。しかも根源を辿れば、ささやかなプライドの仕業だった。

 所詮おれは、そういう大人になってしまっていた。

 なにが、一人称「おれ」だ。

 所詮、その辺の女と何も変わらないじゃないか。


 だけど――それだけじゃない。

 

 あの時、久織がおれの名を呼んで、そして「好きだ」と言ってくれれば――きっと踏みとどまれた。いや、踏み外せたはずだ。


 いや、よそう。自分の不甲斐なさを、教え子のせいにするのは――。


 そして夏が終わる頃、久織はおれの前から消えた。いや、おれの前からだけじゃない。誰の前からも消えてしまった。


 おれのせいだと思った。

 だからおれは、教師を辞めた。

 そして願った。もう一度だけでいい、久織悠聖に会いたい――と。


 ◆◆◆


 ふと、目を覚ますと枕が湿っていた。

 

「母さま――どうかされましたか?」


 おれを見つめる緑色の目が、心配そうだ。幼子が、おれの肩を揺らしている。ハーディ? ハーディか。――我が愛しき息子よ。


 ふとおれは、目元に指を当てた。湿っている。濡れている。

 誰の仕業だ! おれの目を濡らすなど! と怒りが沸きあがった。

 しかし考えてみれば、おれにそのような事を出来る者など、シャムシールしかおらぬ。


「おい! 起きろ! 起きぬか、シャムシール! おれの目が濡れておる! 貴様、一体何をしてくれた! ――ハーディは下がっておれ! 雷撃ラアドゥン!」


 おれは、隣で眠るシャムシールを起こした。

 

「ぎゃあああ! ……あ、朝からなんだよ、ネフェルカーラ」


「おれの目に、水が! 貴様、一体何をした!」


 チリチリになった髪を治癒魔法で戻しながら、シャムシールが目をこすっている。


「……なんか、悲しい夢でも見たんじゃ無いのか? 俺はもう少し寝るよ」


 む? 夢――夢といえば、そういえば妙な夢を見たな。そのせいか?


 それより、おれの雷撃ラアドゥンも弱くなったものだ。シャムシールの髪を焦がす程度のことしか出来ぬとは。

 だが、宮殿は吹き飛ぶのだな。まったく――なんという脆弱な結界か。構築したのは誰だ? 罰してくれる。


 まあ、それはいい――。

 ガッコウ? キョウシ? なんなのだ、あの世界は。あれがシャムシールの言っていた、日本とやらであろうか。

 

 まあ、考えても仕方なし。幸い、ベッドだけは無事だ。おれももう少し、寝るとするか。

 と、その前に――夢で見たあの女。なんと言ったかな。妙にシャムシール――いや、ユウセイと親しげであったが。


「――シャムシール。ミサトという女を知っておるか? キョーシとかいう職業の……」


 俺の質問に驚いたのか、シャムシールが再び目を開いて、半身を起こす。

 まっさらな白絹の寝具が、朝日を浴びて光沢を放っている。その上に、シャムシールの見事な肉体が零れた。


「……え? ネフェルカーラ……どこでその名前を?」


 おお。さすがおれのシャムシール。逞しい胸板だ。ミサトなど、どうでもいい。

 見ていたら、見惚れてウットリしてしまった。頬擦りでもしよう。スリスリ……。


「ふわぁ――今の――夢に出てきたのだ。だがまあ――よい――所詮、夢の女だ――もう一眠りすれば、忘れていよう。しかし――今度浮気なぞしたら、本当に殺すぞ。そして、浮気じゃない、妻にする! などと申してみよ……未来、永、劫――すぅ――すぅ」


 朧気ながら、頭を撫でられているような……。ああ、おれは昔から、シャムシールに頭を撫でられると……弱い……のだ……。


「ふぅ……寝てくれたか。まったく。――それにしても、ネフェルカーラから深怜みさと先生の名前が出るなんてなぁ」


「父上。その”ミサトせんせい”というのは、どのような方なのですか?」


「……ああ、そうだな。俺が、はじめて本当に好きになった人、かもな。ネフェルカーラと、よく似た人だったよ」


「おお! では、父上の、はじめてのあいじんですね!」


「……ちょ、ちがっ! ハーディ! どこでそんな言葉を!? で、出かけよう。そーっと、そーっとだぞ。ネフェルカーラがニヤニヤしている間に、狩りにでも行こう!」


「あーっ、シャムシール! どこにいくのー? わたしも連れてってー! あ、ハーディ! はい、おはようのどんぐり、あげるねっ! うふふっ!」


「わ、ありがとうございます、アエリノールさま。……けど、てんじょうは出入り口ではないですよ?」


「いいじゃない。おっきな穴が空いてたんだから」


「うん、そうですね。ところでアエリノールさまは、”ミサトせんせい”という父上のあいじんを、ごぞんじですか?」


「ん? んー? ……シャームーシールーッ!」

一応、最後の場面の時代設定は、帝国暦九年。

ハーディは帝国暦三年に生まれた、という設定です。

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