第三次カルス会戦 11
◆
ネフェルカーラが口元の薄布をとった。
息が荒い。
それは右腕を失った痛みと、流れ出た血がそうさせるのであろう。
ネフェルカーラは治癒魔法が苦手だった。だから今も、腕は一本のままである。
「イズラーイールの子よ、降伏すれば可愛がってやるぞ」
”ワサリ”とエベールの髪が揺れ、赤かった瞳に金色が差す。ローブの内側から覗く衣服は、魔力が織り込まれた鎖帷子だ。
エベールはその手に持った禍々しい杖を見て、満足げに笑う。
「くくっ……我が杖は”混沌の魔杖”。あらゆる魔術師が羨望してやまぬ逸品よ」
杖の上部にはめ込まれた紫水晶の中央に、縦長の瞳が現われる。そして漆黒の杖そのものには、血管と思しき凹凸が生まれ、脈動を始めた。
「これはかつて、神々が作り上げた竜を封じたものだ――名前くらいは聞いた事があろう」
「知らぬ。知っていたとして、興味もない」
だが――ネフェルカーラの答えは、にべもない。
そもそも右手が捥げて剣が持てないから、ネフェルカーラは不機嫌なのだ。
当然、杖だって持てない。
左手に持ってもいいが、出来れば主武器は右手で持ちたいネフェルカーラは、大切そうな武器を意味無く自慢されて、ご立腹である。
「……テムテムも知らぬだろう? あんなもの」
「わふん?」
いつの間にやら餌付けに成功したネフェルカーラは、地獄の番犬を一頭手に入れていた。
本当の所は餌を食べさせると見せかけて”魅了”を使ったのだが、そんな種明かしをする必要もないだろう。
とりあえずネフェルカーラはテムテムと名前を付けたので、少しだけほっこりしている。
ちなみにテムテムとは何処かの言葉で”良い子”という意味だ。――というのは、ネフェルカーラの勘違いである。
「まあよい。いけ、テムテム!」
「わふんっ!」
ネフェルカーラが手懐けた犬(地獄の番犬)を、エベールにけしかけた。
元々が番犬である。
戦うという事に関して、地獄の番犬が臆するという事は無い。それは例え同族であろうと、混沌の魔王であろうと、だ。
ネフェルカーラの地獄の番犬は、雨の中を疾駆した。
そして強靭な後ろ足で大地を蹴り、跳ぶ。
鋭い牙が並ぶ三つの首が、獰猛な眼光を携えてエベールの首を狙う。
「ばうっ!」
テムテムの咆哮は若干可愛いが、容姿は凶悪そのものなのだ。
対するエベールの方も、小さく言葉を発した。
「行け」
「グルルルルルルル――」
テムテムがエベールの喉元へ喰らい付こうとした刹那、もう一頭の地獄の番犬が躍り出た。
こうして、二頭の犬は互いの首に噛み付き合い、絡み合う。
同時にエベールは漆黒の杖を翳し、小さな魔方陣を形成する。
魔方陣が小さいと言っても、そこに含まれる魔力は膨大だ。
恐らく、禁呪を圧縮して放つつもりだろう。
エベールの戦闘能力は決して高く無いが、その知恵によって、今まで数多の強者を退けてきた。その自負が、彼の口元に笑みを形作る。
「水の大公へ申し上げる儀あり。汝の恩寵は誰の為ならんや――古の盟約は既に破られた。故にそなたは無限の力を解き放つ。さあ、汝こと水の大公よ――」
エベールは、第三位階の禁呪を操る。
そしてこの詠唱は、まさしくそれであった。
魔方陣が広がらないのは、水の力を小さく留める為に過ぎない。それが解放されれば、恐ろしいまでの水圧がネフェルカーラを襲うであろう。
「ふむ――青い魔方陣――ならば水系魔法か?」
だがネフェルカーラは目を細めて、状況を観察していた。
これはいつもの油断ではない。
今度ばかりは、ネフェルカーラも余裕が無かった。だから観察しつつ、彼女も禁呪の詠唱を始める。
互いの詠唱は重なり合い、先に魔法を撃ち出した方が勝利を収めるかと思われた。
「遍く海を束ねし水の帝王に申し上げる――我と汝の思いは一つなり――」
ネフェルカーラが詠唱を続けながら無造作に、足を前に踏み出した。
同時に、二頭の犬が光となって消え去る。
ネフェルカーラの周囲を覆う結界が、無音、透明な圧力となって二頭を消したのだ。
「あ、テムテム……」
少し涙目になったネフェルカーラだが、これも戦いだ。致し方ない。
エベールも、ゆっくりと足を前に出す。
同時に無数の光球を撃ち出し、ネフェルカーラを迎撃した。
エベールとて、無詠唱魔法の使い手なのだ。
エベールの攻撃で、ネフェルカーラの結界に幾つかの穴が空く。
地獄の番犬を容易く葬るネフェルカーラの結界に穴を開けるのだから、エベールの攻撃力は生半可なものではない。
軽やかなバックステップで、ネフェルカーラはエベールの攻撃をかわす。
「当たらなければ、どうということはな……いっ!」
ネフェルカーラは、肩に被弾した。
あまりの乱射に、流石のネフェルカーラも避けきれなくなったのである。
「おおおおっ!」
怒ったネフェルカーラはカイユームばりの結界を構築し、エベールの攻撃を防ぐ事にした。
最初からそうしていれば痛い思いをしないのに、地味に手を抜くからネフェルカーラは怪我をするのだ。
「さて、続きだな――水の帝王に物申す――汝、何の故ありて世界を水で満たさんとす。――我は請い願う。汝が我の眷属とならん事を――」
ネフェルカーラは詠唱しつつ、印を結ぶ。
右手を失っているが為に、左手だけで、だ。
それでもその動作は、誰よりも美しい。
そして彼女が新たに契約をしようとしているのは、水帝――所謂、禁呪第二位階の法則である。
「我が声に耳を傾けたまえ、大公よ――生きとしいける者の恵みにして破壊の導! 水を濁流となし、我が敵を滅し給え! 瀑布の蹂躙!」
エベールは魔法の詠唱を終えた。
”ゴゴゴゴゴ”
周囲が、あからさまに不穏な音に包まれる。
エベールの描いた魔法陣が、いつの間にかネフェルカーラの頭上に輝いていた。
しかし――。
「大公ごときが、帝王に物申すことなど出来ぬぞ――ふは、ふは、ふはははははっ!」
ネフェルカーラの一喝で、水は小さな雨粒となって降り注ぐ。
これから大瀑布の如き水の奔流を作り出すはずだった全てが、ネフェルカーラの一言で霧散した。
「ふははははは……! これが混沌の魔王だと――? この程度で、魔王だと? 笑わせてくれる。ウィルフレッドの阿呆の方が、よほどに強かったぞ!」
「ひっ……! 馬鹿な! イズラーイールと私は、互角だったのだぞっ! それが、なんだ! 一体なんなのだっ!」
ネフェルカーラがまた一歩、足を前に踏み出すと、エベールは杖を捨てて後退る。
「ダムラッ! 何をしている! 私を護れっ! 契約だろうっ!」
しかしエベールが助けを求めるダムラは、既に二分されていた。
ちょうどエベールが尻餅をついたところに、ダムラの下半身が転がっている。
「ひっ!」
エベールが涙目になる。
「わ、私が悪かった! ネフェルカーラ! いや、ネフェルカーラどの! 協力しよう! これからは、私もシャムシール王に協力を……!」
ネフェルカーラの口元が、小さく歪む。
弓なりになった口は、しかし彼女の機嫌を物語らない。
ネフェルカーラは、敗者が掌を返すような言動が嫌いだった。
ましてや、それが嘘であれば尚更だ。
「パヤーニーを操ったのも、クレアとかいう女を操っていたのも、結局は貴様なのだろう。随分と腹黒い貴様が、シャムシールの役に立つというのか?」
「あ、あれは契約をしたに過ぎん。断じて操ってなど……! す、少なくとも私は、パヤーニーを操り切れなかった。パヤーニーは……不幸な事故だったのだ……」
エベールは目を伏せている。そして、嘘を付いていた。
だが、ダムラが死んだ今、エベールはネフェルカーラに縋るより他、道がない。ならばネフェルカーラの同僚であったパヤーニーを助けるとでも言えば、助かるのではないかと考えた。
「不幸な事故だと? 詭弁も甚だしいが……そのような言い訳をもって、シャムシールに仕えると?」
「あ、ああ。私は役に立つ。特に権謀術数も、これからは必要だろう――」
「ふむ? だからというて、貴様が自らの信条を曲げてまでシャムシールに仕えるとは思えぬがな」
「信条とて、曲げて見せる!」
「ほう――そこまで言うか、ならば話してみよ。貴様の信条――そして決意を。その上で、命を助けるかどうかを考えてやる」
ネフェルカーラの言葉に、エベールは高揚した。ここまでくれば、説き伏せるなど容易だ。そう考えたのである。
だが――そんな素振りを見せぬよう、エベールは拳を握りしめ、腕を震わせて心底悔しそうに口を開く。
「たしかに私は神が憎い。我等天使を奴隷か何かのように勘違いした聖教も好かぬ。だからこそパヤーニーを真教の盾に、そしてクレアを聖教の毒にしようと考えた――だが、それらの策は、既に潰えたのだ――ゆえに」
「解せんな。クレアという女は、魔族を蛇蝎の如く嫌っておっただろう。それが何故、聖教の毒になるのだ?」
「それはそう思わせることで、戦を起こさせる為。もとよりあの女は敬虔な聖教徒だ。何がどう転んでも、上位魔族を信じたりはすまいよ。
――それを、それを……あの忌々しいウィルフレッドめが……私の呪縛ごと――!」
エベールが怒りに肩を震わせている。
ウィルフレッドはシャムシールの敵だ。ならば、敵の敵は味方という図式も成り立つ。
――多少演技過剰だとしても、これは有効であろうとエベールは考えていた。
しかしネフェルカーラは、欠伸をする。
別にクレアのことなど、どうでもいいのだ。ウィルフレッドも、もはや敵ではない。
どちらも「今度会ったら殺してやろう」という程度にしか考えていない相手なので、そんな事を言われても、といった感じだ。
正直、ネフェルカーラはエベールが面倒になってきた。
そんなネフェルカーラの反応に、エベールは慌てる。
「パ、パヤーニーだが、私なら、復活させる事も出来る。それだけでも、シャムシール陛下の役にたつであろう?」
ネフェルカーラの緑眼が動いた。
しかし次の瞬間、溜息を吐いたネフェルカーラの意図が分からないエベールは、目を瞬かせる。
「嘘をつくな」
ネフェルカーラの声は冷たい。
反論を許さない、凍てついた空気を纏っている。
「ま、まあ、確かに無理かもしれんが……ともかく、私がシャムシール王の役に立つというのは、本当だ! ネフェルカーラどの――だから助けてはくれぬか?」
「ふむ――」
ネフェルカーラは首を傾げつつ、左手をエベールに翳す。
「大地の王よ、今、汝に不浄なる者の魂を預けん。我と我が友の願いを聞き届けるならば、その懐に宿りし剣にて彼の者を貫き、もって永久の闇に消し去り給え――大地還元」
瞬間、エベールの真下が割れた。
割れた大地から鋭い岩が現われて、魔王の体を貫く。
その魔法は、さながらパヤーニーが好んで使うものの様であった。
だが、それだけではない。
そのまま鋭い岩はエベールを刺した状態で、大地の空洞へ沈んでゆく。
辺りが、酷く揺れる。
そしてネフェルカーラの魔法が完全に収束した時、その場に魔王の痕跡は無かった。
ネフェルカーラはこの時、こう思ったのだ。
(パヤーニーは、こやつに殺されたのだな。いや、最初から死んでいたけども。だとすれば、おれが奴にしてやれることは……ええと、眠いな。まあいい、手向けをやろう。とりあえず手向けだ。パヤーニーよ、安らかに眠れ――まあ、眠いのはおれだけども)
ちなみに、話を聞いた後に助けるかどうかを考える――という話は、ネフェルカーラの嘘だ。
どちらに転んでも、ネフェルカーラはエベールを殺すつもりだった。
つまり彼女が考えたのは、エベールの殺し方だったのである。
「ふう。では、シャムシールを助けにゆくか……」
踵を返したネフェルカーラの体が、ぐらりと揺れた。
既に彼女は体力も無く、魔力も枯渇している。そして眠い。
それでもシャムシールが心配だった。
だが流石のネフェルカーラも、その場に倒れ伏す。
「む? おれは歩きたいのだが?」
倒れたネフェルカーラの側に、アエリノールが小走りで駆け寄った。「ふふん」と鼻を鳴らす彼女は、いつになく勝ち誇った顔をしている。
「……仕方ないわね、わたしが肩を貸してあげるわよ!」
「不本意だ……」
こうしてネフェルカーラは、アエリノールの手を借りて立ち上がる。
アエリノールは治癒魔法をネフェルカーラに施し、とりあえず失われた右腕を再生させた。
そこでアエリノールも、腰から崩れ落ちる。
彼女とて、限界まで魔力を使っていたのだ。
そして二人は、一歩も動けなくなった。
「馬鹿なのか、貴様! おれ達が助けねば、シャムシールを助けられる者などおらんのだぞ!」
「だって、仕方ないじゃない! 腕を戻すのって大変なんだから!」
「だから、腕などそのうち生えてくるのだ! 今は戦が優先だろうが!」
「そんな事いってると、両手を斬るわよ!」
「上等だ! 貴様など別の世界に閉じ込めてくれるっ!」
口だけが元気な二人は肩を寄せ合い、暫く罵り合うのだった。
◆◆
ナセルは鎧を着ていない。
その事に関して、ハールーンは訝しむ。
(あれは、寝衣だ)
だがナセルはプロンデルはおろか、シャムシールの攻撃も弾いていたように見えた。
ハールーンは肩幅よりもやや大きく、足を広げた。
曲刀は両手で持ち、前後左右、何処へでも跳べる体勢をつくる。
「ハールーン、報いを受けよ」
無造作に近づくナセルの自信がどこにあるのか、ハールーンには分からない。
しかし、ナセルの斬撃は見えているハールーンだ。
曲刀を振りかぶったナセルの隙を付き、胴に鋭い一閃を叩き込んだハールーンは、勝機を見た。
しかし――。
ナセルは倒れない。
それどころか、ナセルの腹部はほんのりと輝き、チリチリと音を立てている。
「何を驚く――これが”絶対防御”だ」
ハールーンの眉が動く。
(ボクは”絶対切断”。なのに、どうして斬れない?)
ハールーンは、状況を観察する。
そして幾度もナセルに斬撃を叩き込む。
「はぁぁぁ!」
裂帛の気合を込める。
だが、決して気合の問題ではないだろう。
そして、ナセルの剣技は凄まじかった。
竜巻の様に回転する剣が、徐々にハールーンの体力を奪い去る。
剣技はもとより、膂力においてもハールーンはナセルに遠く及ばない。
「ただでは殺さぬぞ。シーリーンの無念、思い知れ――」
ついに片膝を付いたハールーンへ、猛然と迫るナセルだ。
そこへウィンドストームが現われて、ハールーンの襟を加えて飛び退る。
「ウ、ウィンドストーム……!」
今まさにハールーンが居た場所へ、ナセルの剣が突き立った。
(ボクの曲刀が当たると、ナセルの表面が淡く輝いて”チリチリ”と音がする――なのに、ナセルの身体には届かない。ボクの能力は”絶対切断”なのに――)
ハールーンはウィンドストームに抱えられつつ、考えた。
そして一つの仮説に至る。
(あれはボクの”絶対切断”が”絶対防御”を切り裂いているから、起こるんじゃないのか? だとすれば――同じ所にニ撃入れることが出来れば、あるいは――)
ハールーンは、希望を得た。
「ウィンドストーム、ありがとう。下ろしていいよぉ」
「グルル……(しかし、勝機が………)」
「大丈夫ぅ、ボクは不敗だよぉ。世間では、そう言われている」
「グルル、グル(せっかく妻を娶るというのだ、早々に、死ぬなよ)」
ハールーンの顔が、一瞬だけ青ざめた。
なぜ、ヘラートをさっさと離れてシャムシールの下へ来たかといえば、ウィダードが恐かったからという理由もある。
なぜならば……。
アーザーデは、既に女だ。
だからハールーンも、素直に行為に及ぶ事が出来る。
しかしウィダードは、まだ八歳だ。
それなのに、アーザーデに対抗しようとする。
「だいいちふじんとしてっ!」
などと言って、ハールーンの寝室へ入ってきたかと思えば裸になる幼女を前に、ハールーンは戦慄を覚えた。
(これなら、戦っている方がマシだよぉ!)
とは、誰にも言えない。
ウィダードに比べれば、ナセルなんて!
そう、ハールーンには思えた。
それに考えてみれば、自分が姉を姉と認識出来ずに殺すなんてことが、あるだろうか――。
答えは、否――だ。
だったら簡単なことだろう。
ハールーンはこの戦いに決着を付けて、暫く姉を探す旅に出る。
シャムシールと離れ離れになるのは、もちろん寂しい。
だが、何度も考えたが、このままでは八歳のウィダードと結ばれてしまうかも知れない。
それは、人としてどうなんだろうとハールーンは真剣に考えた。
だから、五年だ。
(五年間、ボクは姉さんを探す。そして、見つかっても見つからなくても、帰ってきたとき、ウィダードを妻にすればいい)
その為にも、ハールーンにとってナセルは邪魔だ。
姉を戦いの道に引きずり込んだ張本人。
それを滅してこそ、姉を連れ帰り、正道へと戻す事が出来るだろう。
ハールーンは、再び大地に足をつける。
純白の戦衣には、赤い彼自身の血が無数の染みを作っていた。
マントも、既にボロボロだ。
それが如実に、ハールーンとナセルの実力差を物語っている。
しかし――
「ナセル――貴方は姉さんが死んだと、本当にそう思っているのか? ボクは姉さんと戦いたくなかった。姉さんも、きっとそうだ。でも、貴方の事も裏切れなかった――だったら、そんな人の選択はどうなると思う――?」
唐突なハールーンの問いに、ナセルの表情が揺らぐ。足元の石を踏んで、ジャリと音がなった。
「板挟み――か。シーリーンにとっては、どの道も茨よな」
「ナセル、貴方の目的はなんだ? ボクは、姉さんが信じた貴方が悪だとは、どうしても思えない。今からでも遅くない、我が王に降れ」
ハールーンの言葉に、ナセルの視線が泳ぐ。
確かにナセルにとって、シバール国民の信望が厚いシャムシールとこれ以上敵対する理由は、少ない。
ましてその事がシーリーンを苦しめるとあらば、尚更だった。
ナセルはゆっくりと唾を飲み込む。
「俺はサーリフまでも屠った。友を――だ。この期に及んで、ヤツの遺志を継ぐ者の軍門には降れぬよ……」
ハールーンは頷く。
そして、一足飛びに間合いを詰めた。
第一撃目、ハールーンは斬撃をナセルの頭に放つ。
ナセルは防御を無視して、突きをハールーンに放った。
身体を開いてナセルの突きを、何とかかわすハールーン。しかし胸甲が抉れる。紙一重だ。
「ここだぁっ!」
ハールーンが叫んだ。
手首を返して薄い靄が覆うナセルの頭上に、ハールーンが斬撃を放つ。
”絶対切断”であるハールーンの斬撃に、力は必要ない。
ナセルの額が、割れた。
ハールーンは第一撃目で”絶対防御”を斬り裂いた。しかし同時に”絶対防御”は”絶対防御”として、絶対切断を防いでいる。
だが絶対の能力には、それぞれタイムラグがあった。
それは、その力を獲得してから詰んだ経験が、モノを言うのかも知れない。
少なくともハールーンの能力の方が、僅かに発動が早かった。
今回の勝敗は、ただそれだけのことだった。
ナセルの身体は前のめりに倒れ、額から血溜まりが広がってゆく。
血と雨が混じり、カルス平原の草花を濡らす。
「はぁぁ……っ」
ハールーンはその場で膝を折る。
精神も肉体も、限界を超えた戦いだった。
ハールーンは、ただ唯一の勝機を掴んだに過ぎない。実力では、ナセルに及ばなかったのだ。
ただナセルが”絶対防御”を過信して、攻撃に重きを置いた。それに付け込んだだけのこと。
ハールーンは辺りを見渡した。
見れば、ネフェルカーラとアエリノールも文句を言いながら、シャムシールの戦いを見守っている。
援けに入りたいが、ハールーンにももう、余力が無い。
ハールーンは拳に力を込めてシャムシールの勝利を祈るより他、今は出来そうもなかった。
ウィンドストームは結界の中に入ってしまった事を後悔しているかのように、ブルブルと身体を震わせている。
(まあ、シャムシールとプロンデルの間に入りたいなんて、普通は思わないよねぇ――凄すぎるもん)
思えばハールーンも、仮に自身が万全だったとして、シャムシールの援けになるかと考える――。
結局無理だと判断を下したハールーンは、ウィンドストームと共に、戦いの決着を見守ることにした。