第三次カルス会戦 10
※ 本日二話目です。
◆
カルス平原は今、異様な空気に包まれていた。
一般の兵が決して入れない結界に閉ざされた空間で、彼らの主君達が戦っているのだ。
一人はナセル。
一人はプロンデル。
そして今一人は、シャムシールだった。
彼らの中で、プロンデルは既に軍を失っている。
いや――失っているという表現はおかしいだろう。
プロンデルは自らの転移魔法にて、数万の将兵を突破させた。故に、シャムシール軍よりもさらに後方で砂煙が上がっている。
つまりフローレンス軍は、壊滅を免れたのだ。
将としては、ウィルフレッドが生き残り、クレアが生き残り、ヒルデガードが生き残った。
その上で数万の兵が生き残ったのだから、本国に戻れば、なんとか体勢を立て直せるだろう。
尤も、フィアナも生き残った。
彼女がこの敗戦で、一体何を思うかは想像出来ない。
だが少なくとも、神聖フローレンス帝国の聖性に対して疑問符をぶつけてくることは間違いないであろう。
事実、後のフィアナはフローレンス帝国から離脱し、聖騎士団領を創設し、自らが総帥となって辣腕を振う。
やがて「赤き巨星フィアナ」と呼ばれる彼女は「黒甲帝シャムシール」の盟友となる事により、歴史に燦然と輝く名前を残す。
そしてフィアナは幾度もクレアに煮え湯を飲ませるのだから、歴史とは物語よりも奇なるものだ。
また、フィアナと不死王サクルとの友情物語が吟遊詩人によって広く歌われ、百年後の世界で彼女達の逸話は”友情”の代名詞となる。
彼女達の友情の影には一人の男の復活があったというが、その真相は、結局誰も知らなかった。
とはいえこの時のフローレンス軍は、疲弊していた。
一路本国を目指すにしても、途中、ジーン・バーレットの軍に阻まれる可能性がある。
そもそも総大将であるプロンデルの姿が見えなかったのだから、作戦は失敗かと思われた。
だがウィルフレッドは、言い放つ。
自らも深手を負い息も絶え絶えな状況だったが、毅然とした声で、だ。
「帰還する――」
「なっ! プロンデルを待たねぇつもりですかっ! てめぇ! 従兄弟で親友面しといて、最後の最後でプロンデルを見捨てるってぇんですか! 恩を仇で返すってんですかっ! 私は一人でも助けにいくですよ!」
フローレンス軍を救ったのは、プロンデルだけが使える転移魔法だった。
それは大陸を席巻する折、幾度となく敵の出鼻を挫き、神速の用兵と恐れられたものだ。
だが、それを今回は退却に使ったということである。
「ヒルデガード、貴女は、貴女だけは行ってはいけない」
所々砕けた緑色の鎧から血を滴らせながら、クレアがいう。彼女もまた、満身創痍だった。
「ああ、貴女が……貴女だけが希望だ。第二代となる皇帝が、貴女の中にはいるのだから……」
ウィルフレッドも、小さく頷いた。
クレアもウィルフレッドも、シャムシール軍に完膚なきまでに叩かれた。
クレアはパールヴァティに及ばず、ウィルフレッドはネフェルカーラに殺される所だったのだ。
確かにヒルデガードが本当に全力で戦えば、アエリノールとの相討ちも狙えるだろう。
だが――それでどうなるというのか。
ヒルデガードは顔を顰め、腹の前で両手を組んだ。
その動作で、大切な杖を落としてしまう。
「どうして二人が、知ってやがるのです?」
おずおずと声を出したヒルデガードは、悔しげであり、悲しげだ。
子供を産む前に、夫となるべき人物を失わなければならない。
そしてそれが、夫の作り上げた国の為なのだから、どうにもならないもどかしさがあった。
プロンデルは言った。
「男児ならリチャード。女児ならエリザベス――余に万が一のことがあらば、この名前にせよ」
ヒルデガードは、お腹の中に居る子供が、男児である事を知っていた。
だからアエリノールと戦っている最中、幾度も「リチャード」と、声を掛けている。
それでなのか理由は分からないが、アエリノールの攻撃も何処かしら弱い部分があった。
上位妖精は他の種族と比べて、”共感”する能力が高いというが、それが理由だったのかも知れない。
ヒルデガードの眼から、大粒の涙が零れる。
「プロンデルに聞いていた――喜んでいたよ」
「あの馬鹿皇帝――子供の顔も見ねぇで、死にやがるつもりですか――」
「いや――あの場に、魔王の干渉があった。これはプロンデルも本意では無いだろう。だが、同時に最も望む結末かも知れない。
プロンデルは――負けて帰国することを潔しとする男ではないから」
「皇帝としてはそうでも、父親としてはどうなんですか! 私を散々弄んで、結果、捨てやがるんですかっ!」
ヒルデガードの悲痛な叫びに、沈黙することしか出来ないクレアとウィルフレッドだ。
しかしヒルデガードは満身創痍となった兵達を見回して、彼らに「皇帝を救え!」などと言う事も出来ない。
だから力なく膝を折って、砂の大地に拳を打ち付ける事しか出来なかった。
「皆、ゆくぞ」
ウィルフレッドは兵達に、素早く撤退を命じた。
ヒルデガードは、ウィルフレッドの配下が抱えて馬に乗せる。
馬車は全て、失っていた。
敗軍でありながら隊列を揃えて、整然と行軍させるウィルフレッド。その力量は、流石の一言であろう。
馬上の人となったヒルデガードは、側を進むウィルフレッドに恨めし気な眼を向けた。
「ウィルフレッド卿……てめぇだって王家……今は皇家の血を引いてるじゃねぇですか。第二代の皇帝なら、てめぇがなればいい。やっぱり私は、プロンデルを助けにいくです……」
馬上から、再び空を翔けようとするヒルデガードの腕を、クレアが掴む。
「なりませぬ。どうしてもと言うのなら、私が……」
クレアの言葉に絶句したヒルデガードは、意外そうに目を丸くしている。
ヒルデガードとクレアは、元来が不仲だ。
それにも拘らず、ヒルデガードが行くと言い張るなら、自分が行くとクレアは言った。
クレアは既に魔力も尽きて、回復さえ出来ていない。肩から流れ出る血が、未だに止まってもいないのだ。
そんなクレアが再び戦場に戻るなど、それこそが自殺に等しい行為だろう。
「て、てめぇは宰相とイチャコラしてればいいでしょうが!」
「国家の為に、自らを犠牲にする覚悟は出来ているわ」
ヒルデガードはクレアの瞳を、真正面から見た。
そこにはただ、武人として国に仕える者の瞳がある。
「……あああ、もうっ! 分かった! どうせこの期に及んで助けにいっても、プロンデルの馬鹿は喜ばねぇですし……てめぇらの好きにするです!」
ヒルデガードの言い分に溜息をついたクレアは、苦笑を浮かべつつ言った。
事実をありのままに、だ。
「だけどヒルデガード。貴女は皇帝陛下の強さを信じていないの? 彼は紛れも無く世界最強よ――だから何食わぬ顔で、暫くしたら戻ってくるかもしれないわ」
クレアの言葉に漸く落ち着きを取り戻したヒルデガードは、鼻を鳴らしてそっぽを向く。
これ以上クレアと会話を続けると、あらぬ友情を抱きそうで、恐かったからだ。
「――ふんっ。最初っからそう信じてるですよ!」
結局、再び地上に下りたヒルデガードは、皆と行軍を共にした。
お腹の子供は心配だが、今はそれ以上に、馬の使用は重傷者を優先すべきだ。そう考えたヒルデガードである。
しかしローブのフードを深く被ると、その後の行軍中、彼女は一言も口を聞くことはなかった。
彼らの帰国は困難を極めた。
まず、制海権を全てシャムシールに奪われていたため、結局どのルートからも食料の補給を得られない。
それだけではなく、進軍中に突破してきた街の住民達から恨みを買っていた彼らは、時に矢を射掛けられたりもした。
果てはフローレンス領内に入った途端、ジーン・バーレットの軍と遭遇したのである。
理由は多々あるが、撤退路をなるべく海沿いにした為だろう。海が近ければ、塩も取れるし魚も取れる。貝を拾う事も可能なのだ。
要するに食糧事情の観点から、フローレンス軍は海沿いを進む他なかった。
無論、その程度の事情が分からないジーン・バーレットではない。
ジーン・バーレットは、波打ち際に艦隊を控えさせていた。そして、常にフローレンス軍を捕捉し続けていたのである。
副将の石頭将軍ロスタムと闇隊のアハドも優秀だった。
食料は自給自足しか出来ず、士気も最低となっていたこの時のフローレンス軍が、ジーン・バーレットを破れるはずもない。
だからこの時、聖光緋玉騎士団の副団長フィアナがジーン・バーレット率いる軍の前に名乗り出た。
「私は聖光緋玉騎士団のフィアナだ! ジーンどのに目通り願いたい!」
フローレンスの敗残兵が通るであろう道で、見事に待ち伏せをしていたジーンをここで呼び出せなければ、フローレンス軍は壊滅する。
しかしジーンは眼帯姿も真新しく、軍団の前に姿を現した。
フィアナにとっては、望外の幸運であったろう。
だがこれは、ジーン・バーレットがフィアナの剣術に敬意を抱いていた故のこと。決して運ではない。
ただしジーンがフィアナとの会見に応じたといっても、背後に三万の兵を従え、海には百隻の艦艇を並べている事に変わりは無いのだ。交渉が決裂に終われば、フローレンス軍の壊滅は目に見えていた。
「久しいな、フィアナ。命乞いかな?」
「まあ、似たようなものだ」
屈託の無い言葉を発したフィアナだが、その表情は仮面で分からない。
「ふむ。しかし単に命乞いをされたとて、私が逃す理由にはならんが?」
「我等を逃す代償、これでどうか?」
この時のジーンは、純白の戦衣に銀鎧を纏っていた。
その様は煌びやかで、美しい。
一点、左目を青い宝石のはめ込まれた眼帯で覆っているところが勇ましいが、それ以外の雰囲気は柔らかなものだった。もとよりフィアナはジーンにとって、旧友だ。
だが馬上から一つの目でフィアナを見下ろすジーンは、いつでも彼らを蹂躙する構えである。何故なら旧友よりも、愛しいシャムシールが優先だから。かつての仲間であれ、倒す事に躊躇いなどない。
後に権謀術数とヤンデレな狂気を武器としてシャムシールの第七夫人へ上り詰めるジーン・バーレットに、死角はないのだ。
そんなジーンにフィアナが提案したことは、奇抜だった。
フィアナは神速で抜刀し、自らの左腕を切り取る。
そして仮面の下にある口を歪めてこう言った。
「ここには五万の兵がいる。いや――もはや兵とは呼べぬ、羊の群だ。だが――そのうち三万が聖光緋玉騎士団。故に、彼らの命と引き換えに、私の左腕で勘弁してほしい」
「ふむ……では残り二万は、私の自由にして良いのだな?」
ジーンは白い指を顎に当てて考える。
確かに剣豪として名高いフィアナの左腕だ。その価値は計り知れない。
しかしだからといって、敵軍を逃す理由にはならないのだ。
「……私はいつか聖教国を再興すると……そう言っている……! ジーン、お前の軍門に下る訳ではない!」
フィアナの言葉が腑に落ちたジーンは、漸く頷いた。
「なるほど。私はもう、聖教国など興味ないな。だが――そうであれば、今しばらくこの地は騒乱が続こう。ならばシャムシール陛下も望み給うこと。よい、去れ――フィアナ」
こうしてジーン・バーレットは馬首を返し、ハイレディン率いる海賊艦隊と共にマディーナへ引き上げたのである。
もちろんその前に、ジーンはシャムシールへ宛てた手紙を書いていた。
――――
シャムシール陛下におかれましてはご機嫌麗しゅうございます。
さて、私、ジーン・バーレットはいよいよ海を渡り、陛下の下へとまいります。
長く苦しい戦いが終わりを告げると思えば、安堵の溜息と共に、陛下への慕情が募る次第。
ああ、陛下、お慕い申し上げております。
私が戻った暁には陛下の愛しいお体を私が、私だけが愛し奉りますからアエリノールなんかに渡さない。絶対にアエリノールには渡さないへいかはわたしのものわたしのものへいかのあいがなければわたしはいきていけないあいしてますあいしてますあいしてますころしてしまいたいほどに。
やはり未来の第七夫人は、恐かった。
◆◆
カルス平原の戦場は、いよいよ大粒の雨が降っている。
辺りの草や葉が雨を弾き、瑞々しい音を立てていた。
アエリノールの髪も雨を吸って、しんなりとしている。
彼女に対するダムラの銀髪も同様だった。
アエリノールとダムラは既に百合以上、剣を交わしている。
時に魔法を織り交ぜるダムラに対し、アエリノールは今のところ魔法を使っていない。
というより、アエリノールの得意魔法は”爆轟雷”だから、雨の中で発動させるのは危険だろう。
尤もアエリノールが、それに気付いている節はない。
ダムラが中空に無数の闇を産む。
闇は姿を獣の様に変えて、アエリノールに迫った。
まるで小鬼のようである。
対してアエリノールは光球を闇と同数、中空へ生み出した。
形作るは、やはりどんぐり。
どんぐりと小鬼が正面からぶつかり、四散する。
「あんた、一体何がやりたいのよ……」
ダムラの表情が引き攣る。
馬鹿にされているとしか思えないのだ。
剣技においては互角の様に見えるが、実のところアエリノールは何かを試している。
それに気付かない程愚かなダムラではなかった。
「見えそうで、見えないのよ……」
唇を尖らせながら、不服そうに言ったアエリノールだ。
(見えそうで見えない――とは、一体何の事であろう)
そう思ったとき、ダムラの背筋に冷たいものが走った。
(この女、未来を見ようとしているんじゃないの?)
そう考えて、ジリッと一歩、あとずさったダムラは警戒した。
彼女の鎧は、迷彩仕様だ。夜のうちは黒く、朝になるにしたがって、徐々に色彩豊かになってゆく。だから今は、曇天の灰色と辺りの深緑色を混ぜたような色合いになっている。
未来で言えば光学迷彩のような仕様だろうが、これも鎧に込められた魔力によって為していた。
だからアエリノールは敵を捉え難く、実はさっきからずっと辟易していたのだ。
「見えたっ!」
アエリノールは一瞬だけ、丸い目を細めた。
ちょっとだけ釣り目のアエリノールは、目を細めると何故か美人度が増す。
それはシャムシールにとっても不思議なことであった。
「下着は――紫なんだねっ!」
「は!?」
(確かに私の下着は紫だけど、それが何か?)
ダムラの思考は混乱した。
なんで未来を見ようとしている女が、自分の下着の色を言い当てたのか、理解が出来ない。
しかし現実は違った。
アエリノールはダムラの迷彩鎧に辟易していただけ。
微妙なところで剣の狙いが逸れる。
急所を狙ったつもりが、そうでない場所を突いている。
それもこれも、あの紛らわしい鎧が悪い。
(だったら、鎧を見なければいいじゃない!)
そう思って目を瞑ったら、うっかり転んだアエリノール。
「やるじゃないっ!」
その時アエリノールがそう叫んだら、ダムラは唖然としていた。
「いや、あんたが勝手に転んだだけ……だし?」
そこでアエリノールは目に魔力を込め続けた。
迷彩を――撃ち破る為に。
そうしてアエリノールはついに、透視魔法を身に着けたのだ。
思春期の男子なら泣いて喜びそうな力を、アエリノールは戦いの中で得た。
大地を蹴ったアエリノールの動きは速い。
即座にダムラが反応しても、肩口に受けるであろう突きを避けることが出来なかった。
ダムラは衝撃を緩和する為に、自ら後方へ飛ぶ。
同時に回復魔法を展開して、被害を最小限に抑える――ことが出来ない。
続くアエリノールの攻撃は、真下からだ。
「風刃ッ!」
巻き上がる突風が、ダムラの体を突き上げる。
そのまま再びアエリノールは剣を構え、鋭い突きを上空へ向けて放つ。
「閃牙――!」
それはアエリノールが初めて見せる、自らの奥義だった。
超高速で全身を捻り、自らを砲弾の様に打ち出して、敵を穿つ。
それはもはや、穿つというより破壊する――といった方がいいだろう程の威力だった。
ダムラはアエリノールに心臓を貫かれた。
それと同時に、上半身と下半身を分断される。
アエリノールのコンボは完璧だった。
まずは、敵の迷彩を無効化して防御力を低下させる。
そして軽く一撃。続く魔法で敵の隙を作り、大技でとどめ――だ。
しかし当のアエリノール本人は、剣に付いたダムラの上半身を無造作に捨てた。
多分、何も考えずにやった事だろう。
そしてアエリノールの剣は、折れた。
彼女の技に、剣が耐えられなかったのだ。
この技を凌げる剣士はいない。
かつてアエリノールは、この技を封印したままフィアナと試合をしていた。
剣が折れれば、試合に負けるからだ。それは避けたかった。
故に、アエリノールは最強の剣士と呼ばれた事が無い。
しかし結局の所、本当に世界最強の剣士はアエリノールだったのだ。
――とっても馬鹿だけれど。