第三次カルス会戦 2 ~僭帝の契約~
◆
ドゥバーンのフローレンス軍に対する策は、辛辣だった。
第一段階としてジーン・バーレットを使い、フローレンス軍の補給路を分断。
第二段階としてナセル軍との不和を引き起こし、相争わせる――という策である。
さらに第三段階としてフローレンス軍の軍事目的――今回の名目は”聖地奪還”だ――を完膚なきまでに砕き、ナセルの虚を衝くべくシャジャルが行動中であることも、明記しておこう。
即ちドゥバーンはニ正面作戦をニ虎共食にすり替え、あまつさえ各個撃滅を目論んでいるのだ。
故にシャジャルはセムナーンへ到達すると、そのまま軍を率い、一路、オロンテスへと向かっていた。
「あたしだって兄者の側で戦いたいのにっ! ぐすんっ!」
とは、最近胸が膨らみ始めた王妹シャジャルの言である。
ともかく今は、ドゥバーンの策も第二段階の佳境だ。
第一段階により焦りの生まれたフローレンス軍だからこそ、ドゥバーンに騙される。危機的状況に陥ったとき人は、それがたとえ小さな希望だと分かっていても、縋らずにいられないからだ。
今回の場合は、迫るナセル軍に希望を見出したフローレンス軍である。だからこそ希望が絶望に変わるとき、人はまさに色を失うのであろう。
「なぜ、ナセルどのは裏切ったのだ?」
フローレンス軍の幹部は思うだろう。しかし理由は無い。何故ならば、ドゥバーンの罠だからである。
もはやフローレンス軍は、ドゥバーンの操り人形といっても過言ではない。
もちろんフローレンス軍中にも、ドゥバーンの操り糸を見る者はいるだろう。
しかし見えた時点で切り離しても、人形は既に身体の自由を失っている――というだけのこと。
とはいえ、この操り人形の殺傷力は――限りなく高い。
ドゥバーンは常にもう一方の操り人形――ナセル軍と、付かず離れず、ゆっくりカルス平原を目指していた。ただし、ナセル軍から見える兵の数を一定に保ちつつも、徐々に減らし、大きく迂回するルートでカルス平原の東側へ本隊を回りこませる。
こうしてドゥバーンはフローレンス軍を西、北、東から包囲した。
布陣は、西にシャムシール、北にナセル、東がダスターン隊だ。
南を空けてある理由は、言うまでもないだろう。食料の少ない彼らが南へ逃げたならば、その先にあるのは餓死だけなのだから。
「フローレンスはともかく……騙されますか? あのナセルが……」
以前、シュラがドゥバーンに問いかけると、口元に怪しげな笑みを貼り付けた軍師は言った。
「騙されずとも、此方の真意に気付かねば問題無いのでござる」
「では、メフルダートは?」
「かの者は、正面の戦以外に興味なかろう。大丈夫にござる」
実際のナセルは、ここ暫くの間、状況を分析する余裕を失っている。
シーリーンが戦死したとの報を受けた褐色の梟雄は、平静を装いつつも茫然としていたのだ。
味方がハールーンに敗れて壊滅したとの報は、ウルージが齎した。
そもそも暗殺団が報告すべき事をウルージが言うのもおかしな話だが、その点に気付く余裕さえナセルは失っていた。
「シーリーンが負ける可能性は、あった。だが、彼女をして帰還出来ぬとは……」
最悪の場合でも、シーリーンが死ぬ事は無い――そう思っていたナセルである。
「ぐっ……シーリーンどの……それにしても許せぬのはハールーン! 実の姉を手にかけるとは、必ずや我が手で……!」
シーリーンに仄かな恋心を寄せていたザールも、その情報に接すると下唇を噛み締めて呪詛の言葉を吐き出した。
尤も、近頃はシーリーンとナセルの関係に気付いていたザール。だから彼は、もはや結婚間近となった憧れの女教師を見るような目で、シーリーンを見ていたのだが。
ともかくシーリーンはナセルにとって部下であり、情婦であり、支えだったのかも知れない。
思いの他、ナセルの心にはポッカリと穴が開いた。
「人は死ぬ。シーリーンもまた人。今更、俺が何を悲しんでいる――」
ドゥバーンの部隊を追跡中、馬上で表情を変えないナセルは、どこかいつもより投げやりだった。
それを自らへの信頼と受け取ったのは、メフルダート。
いや、信頼も確かに事実であろう。もしもメフルダートが戦術においてナセルよりも優れていなければ、茫然とする余裕など生まれなかったはずだ。
だからこそ、メフルダートは敬愛するナセルの喪失感を慮る。
「聖帝! すでに各国より全軍がカルスの地を目指しております! いよいよシャムシールと決着をつけるとなれば、腕が鳴ります! ぜひ、此度の総指揮も私にっ!」
メフルダートの声に、ナセルは小さく頷いた。
(テヘラの部隊はヘラートへ向かっておるだろうな?)
と、聞くことさえしなかった。億劫であった。しかしメフルダートならば、その程度のことを言うまでも無い。これも信頼ではある。
ナセルの目的は、より強固なシバールを作り上げ、西域のフローレンスや東のクレイトと互角に戦える国と為すこと。
その為には強大な軍事力と経済力が必要であり、だからこそ中央集権的な帝政を目指している。
クレイトが攻め寄せたのは、ナセルにとって実に好都合だった。
現体制では東の帝国を防ぎ得ない、という事を如実に物語れたのだから。
しかしフローレンスの侵攻は、早すぎた。
(俺は間違えたのか? フローレンスなどと手を結ばず、シャムシールと共にシバールを盛り立てる方策もあったのではないか――? そうすれば、シーリーンはまだここに――。いや、俺は友を、サーリフを滅ぼした。シャムシールはサーリフに恩義を感じている。ならば共存する道は、無い。
いや、そうではない。シーリーンといえども、たかが一人の女。俺が、そんなものの生き死にに囚われているというのか……)
――――
明日にもフローレンス軍と再合流しようという地点に到達した日の夜。つまり現在よりも、僅かばかり時間を遡る――
その時、ナセルは一人、薄暗い天幕の中で酒を煽っていた。
状況を不自然と思わなかったわけではない。ダスターン隊に誘導されている――その思いは、数日前から感じていたナセルだ。
しかし指揮権はメフルダートに預けている。
(メフルダートを信頼すべきだ)
そんな奇麗事を建前として、ナセルは自らの殻に篭り続けていた。
ナセルは自らの弱さを、生まれて初めて痛感している。
何よりシーリーンという女がナセルにとって、一国に値する価値を持っていた――そう気付いてしまったのだから、自嘲するしかない。
シェヘラザードを捨ててまで望んだ事を――シーリーン亡き今、為す気にならない。
(三十を過ぎて、俺はこれほど脆かったのか。ふふ……いっそ、笑えてくるではないか)
「おおーーっ! プロンデルの犬がぁぁ!」
「攻めよ! 裏切り者のナセルを殺せっ!」
ナセルがぼんやりしていると、天幕の外から怒号が聞こえた。緊迫した事態を物語る声だ。
しかしナセルのいる本陣からは、まだ遠い。
”ふん”
決戦の前に夜襲とは、敵の軍師も随分と姑息な――。
(俺には、死者を弔う時間すら与えられぬのか……)
ナセルがそう思った時、言語の違いに気がつき愕然とする。
「裏切り者のナセル」
そう言った言葉は、確かにフローレンスのもの。
ならば攻撃を仕掛けてきている兵は、フローレンス軍ではないのか?
立ち上がったナセルは、ふらりと身体を揺らす。
昼間から浴びるように飲んだ酒のせいで、平衡感覚を保てない。
そんな時に、見たくも無い顔が天幕の入り口に見えた。
「何の用だ、ウルージ」
酔眼を向けられたウルージは、ゆっくりとナセルに歩み寄り、平伏する。そして後に付いて来た男を、改めて紹介した。
「此方のお方は――魔王エベールどのにございます」
魔王と紹介されたエベールは、魔力を解放した。言葉だけではナセルが信じないと、確信しているからだ。
一方ナセルは魔王の魔力を、敏感に悟る。並みの上位魔族など比較にならない、強大さを感じた。
「ふん。只の従者ではないと思っておったが、魔王だったか。で、俺の首でも取りに来たか?」
しかし――魔王を相手に恐れも怯えも見せないナセルは、どうしようもなくナセルである。
一分の勝機でもあれば、彼は戦うことを躊躇わないのだ。
或いはそれがテュルク人特有の気性かも知れないが、だからこそ彼は、サーリフと親友でもあった。
千鳥足ながらも、隙の無い動作で曲刀の柄を握るナセル。
対して、闇の中より一人の女が現われた。
”シャリン”
乾いた響きと共に、銀の刀身が闇の中で煌く。
闇の中から現われた女は細身の剣を構えると、冷笑も露にナセルへ詰め寄った。
「身の程知らずが愚かにも、エベールさまに剣を向けようとするなんて、ねぇ……」
「く、くくっ、許してやれ、ダムラ。その者もまた、因果の理に翻弄されるあわれな小鼠よ」
女――ダムラの冷笑を、エベールが窘めた。
二人は平伏すらせず、ナセルの前に立っている。エベールの身長はナセルにほぼ等しく、ダムラは頭半分程小さい。
ナセルは細めた目の殺気を僅かばかり減らして、つまらなそうに言った。
「因果の理? 運命やら因果律やらという、胡散臭い話か? 生憎と、そんなものは信じておらぬ」
エベールはローブのフードをずらし、顔を全て見せる。
その顔は端整で、美青年と言っていいだろう。とはいえ魔王というにしては、若すぎる。少なくともナセルが思い描く魔王とは、随分違ったイメージだ。
「くくっ、まあ、胡散臭いだろう。だが――お前はここで自らの因果の理から脱しない限り、命を失う。失えば、シーリーンと共に描いた理想はどうなる? 消え果るだろう――ああ、まさにシーリーンは無駄死にだ。いや、それだけではない。お前の為に散っていった者達は皆、すべからく無駄死にという事になるのだ。
――くくっ、くははは! 随分と愉快な話だな。野心の成れの果て、お前は誰も守れず、自らの命さえ失ってゆくのだ」
エベールの言葉で、ナセルの目が見開かれる。
酒のせいで充血した目が、爛々と輝いた。
(俺はまだ、生きている。一体、何を呆けていたのだ、俺には、やらねばならぬ事があるというのに)
ナセルの身体に闘志が宿る。
因果など知った事ではない。だが、あからさまに死ぬと言われては、無視し得ぬことも事実だ。
「因果律によって、俺はどちらに滅ぼされる? プロンデルか、シャムシールか……」
「ほう、わかるのか?」
「状況を見れば、推察くらいは出来る。俺には力が足りぬ」
「その割に、私に挑みかかろうとしたではないか」
「確率の問題だ。プロンデルであれ、シャムシールであれ、貴様であれ、俺が勝つ可能性もある……ただ、負ける可能性が高いだけだ」
ナセルの言葉に満足したエベールは右手を翳し、ナセルの額へと近づけてゆく。
ナセルは眉根を寄せて怪訝そうな表情を作るが、拒む訳ではない。
「なればこそ、だ。私と契約をせぬか? お前を因果の理から外してやろう。さすれば、新たな力も手に入るぞ。代償は、抗うこと――そして心臓に巻かれる鎖だ」
ナセルは躊躇した。
シバール至高の位は”聖帝”。それは、邪悪なる者から民を護る者の称号である。
そして初代聖帝は魔王を名乗るものと熾烈な戦いを演じたという。
ナセルは悩んだ。
その位をして、魔王の配下になるというのか――と。
そして代償。「抗うこと」とは何か。「心臓に巻かれる鎖」とは――これは想像ができた。
ナセルは暫し瞼を閉じて、迷う。
「俺に力を授けて、貴様に何の益がある?」
「私は混沌の魔王。世界が――のモノになるのを望まぬだけだ。だから抗え、全てに」
エベールの表情は思いの他、余裕が無い。
エベールが余裕を失う理由は、二つあった。
一つはクレアという重要な手駒を失ったこと。そしてもう一つは、パヤーニーという駒が、完全に裏切ったこと。
エベールにとっては、どちらも半神の手先になったのだから面白くなかった。
だがクレアには、制裁を加えようにも既に心臓の鎖はない。
パヤーニーの方は――いつでも始末が出来るはずだ。しかし、パヤーニーも只者ではない。魔王程の者でも一時は無関心を装い、隙をつかねば不死公であるパヤーニーを完全に滅することは出来ないであろう。
どちらもエベールを苛立たせ、余裕を失わせるに十分な理由である。
だが、その事をナセルが知る由などない。
だから単にエベールは、「――」に世界を奪われたくないのだろう――そう結論付けたナセルである。
では「――」とは、誰か。
ナセルの耳では判然としなかった。どこか、別の言語で言ったのだろうか? だが、そんな事はどうでもよかった。
ナセルには守りたいモノがあったのだ。
それは約束。
それは野望。
それは帝国。
それは人。
そしてシーリーン。
だから力を欲した。
そこに何かしらの代償があるとしても。それにすら、抗えばよいのだ。
ふと気が付くとナセルは両膝を付いて、額にエベールの手を受け入れていた。
心臓が、途端に重苦しくなった。しかしナセルは、体中から漲る力も同時に感じる。
「絶望が、渇望を生む。私はお前に、力の種子を与えた。結果は――見事だな、ナセル」
「なんだ、これは?」
ぼんやりとナセルの身体が光っていた。
青白い燐光を帯びたナセルは、全身の魔力を絶え間なく循環させている。
「絶対……防御……」
既に剣を鞘に収めたダムラが、忌々しげに言う。これでもう、彼女がナセルに勝つ術は無くなったからだ。
一方で、さらさらと音を立てて崩れた物がある。
それは、ウルージの形をしていたモノだ。
見れば衣服はそのままに、崩れた砂の中から現われたのは、綺麗な白骨である。
「おお、魔力を込めるのを忘れておった」
エベールが振り返り、言う。
ウルージはエベールの魔力によって動く、砂の人形だった。
だが同時に、骨はウルージのものだ。故に、記憶は残っていた。といっても、残滓程度のものだが。
つまり、ウルージは既に死んでいた。
そもそもウルージ如きに、フェリドゥーンを殺せるはずがなかったのだ。
フェリドゥーンは、腐っても聖帝だった。
だからウルージがフェリドゥーンの寝所に忍び込んだ時点で、既に返り討ちにされていたのだ。返り討ちにされた死体を、エベールが拾っただけの話。
フェリドゥーンを実際に殺したのは、誰あろう闇妖精のダムラだった。
そしてウルージの記憶を見たエベールは、ナセルという男に興味を持った――という事である。
「だが、もう用などないな――」
エベールの言葉に、ナセルが右足を出す。
ナセルに踏まれ、”ベキリ”と音を立てて割れるウルージの頭蓋骨は、滑稽だ。
ナセルとて、もはやウルージに用などない。
これで漸く一つ、胸のつかえが取れた気になるナセルであった。
「ところで魔王どのは、余の戦に手を貸してくれるのかな?」
「状況による――というより、私の戦闘能力に期待をするな。それ程でもないのだ」
エベールは、別に謙遜している訳でもない。
純然たる戦闘力でいえば、もはやクレアやナセルの方が上だろう。
だからこそ心臓に鎖を巻いて、保険をかけるのだ。そうして寿命を縛るのも、時間を与えすぎれば、自らが滅ぼされる可能性があるからである。
尤も、それでエベールが弱いかと言われれば、決してそうではない。
単純に彼は魔術師であるから、近距離戦闘が苦手というだけのこと。だからこそダムラを常に側近くにおいて、護衛させているのだ。
逆に言うと二人が揃えば、プロンデルやシャムシールといえども一筋縄ではいかないだろう。
「ふむ――まあよい。この力があれば、勝てるかもしれんな」
漸く不敵な笑みを浮かべたナセルは天幕から出ると、混戦状態となった本陣を見て、溜息を吐いた。
◆◆
こうして現在。
オーギュスト隊に突入されたナセル軍は、月明かりに照らされた砂上で一進一退の攻防を繰り広げていた。
そんな最中、ザールは戦場を疾駆し、蒼い鎧の騎士達を縦横に斬り伏せる。
それが出来るのもザールの膂力が並外れているからであり、無尽蔵と思える体力が為せる技だった。
「何処だ、何処にいる?」
ザールは血刀を手に、目を皿のようにして敵将を探す。
ザールは既に馬を三頭程、乗り換えていた。
走り、斬り、探す。
指揮官としてあるまじき行為だが、それも仕方がないのだ。
ザール以外の者では、聖戦を発動している聖騎士を倒すことが容易ではない。奴隷騎士三人から五人が一組になって、漸く聖騎士一人と互角なのだ。
だからザールは指揮を現場の千人長へ任せると、戦況を一気に好転させうる方法に固執していた。
即ち、敵将との一騎討ちである。
程なく、ザールはオーギュストを見つけた。
自身とそれ程変わらない体躯に、銀の装飾が施された蒼い鎧だ。特に注目したのは、両手に構えた二本の剣である。
二本の剣はどちらも既に血塗れであり、馬上で揺らめくその巨体は、ザールをして戦慄を与えるものだった。
「我が名はザール。押して参るっ!」
「聖光青玉騎士団――団長オーギュスト」
混戦の中、両雄は互いに馬を寄せる。
ザールの曲刀が、オーギュストの首へ吸い込まれるように動く。巨体に似合わず、流麗な剣技を誇るザールだ。
オーギュストは二本の剣を交差させ、ザールの斬撃を受け止めた。
聖戦の力を持ってしても、ザールの膂力はオーギュストを上回る。これがテュルク人か――と、一瞬感慨に耽ったオーギュストは、魔法を唱えた。
「水よ――我が敵を覆い、災いを振り払え。水球」
瞬間、ザールの身体を水の膜が覆う。
”ゴポリ”と音がした。ザールが思わず、水を飲み込んだ音だ。
彼には、魔法に対抗する術がない。
魔法を使えないテュルク人を屠るには、物理魔法よりもこうした搦手が有効であると、オーギュストは知っていた。
ザールの顔が苦悶に歪む。
浅黒い肌が、みるみる赤く染まる。
怒りと、呼吸が出来ない為だ。
もがいても、暴れても、身体の回りに張られた水はどうにもならない。
こんなものが、一騎討ちであってよいものか――! ザールの叫びは、しかし泡となって消える。
その時ゆっくりと、だがしっかりとした足取りの馬がザールの側に寄る。
そして翳された曲刀が水の膜に触れると、”バシャリ”と音を立てて、それは崩壊した。
「ひ、卑怯だぞ、オーギュストッ!」
荒い息を吸い、吐き出しながらザールは唸る。
しかし彼の唸りに答える者は、敵将ではなかった。
「戦だ、卑怯も何も無い。ザール、お前の油断だ――下がれ」
「し、しかし叔父上――いや、陛下っ!」
「黙れ。あの者に、お前では勝てまい。だから余が始末をつけてやろうと言っているのだ」
馬上のナセルは、ザールと比べれば三回り程も小さいだろうか。
しかし、それでもオーギュストの目には、そう映らない。
白い絹の着物のまま曲刀だけを構えるナセルが、どうしてか強敵に思えるオーギュストは暫し悩む。
「一応、言おう。これはシャムシールの罠だ。我等が敵対する理由は、ない」
ナセルの声は、玲瓏たるものだ。オーギュストは耳に心地よいその声を、すんなりと受け止める。
「だとして私の罪は免れぬし、そもそも異教徒に容赦をする必要を認めぬ」
だがオーギュストの口元に浮かんだのは、苦笑だった。
対して、ナセルも乾いた笑みを浮かべている。
「余の部下になる道も、あるぞ」
「私は信仰を、捨てるつもりは無い」
「殉じるか。それもよかろう」
そうして、ナセルが動く。
銀色の弧を描く曲刀が、幾筋もオーギュストへ迫る。
オーギュストは二本の剣を巧みに操り、ナセルの攻撃を避けていた。
ナセルの斬撃は重い。
しかしザールほどではなかった。
オーギュストは悩む。
恐らくナセルには、自分の魔法が通じない。しかし剣技なら、自身が勝っているのではないか――と。
攻勢に転じたオーギュストの剣が、ついにナセルの額を一閃した。
しかしオーギュストが敵の額を貫いたと思ったその瞬間――ナセルの曲刀が水平に弧を描き、右の脇腹を斬り付ける。
「がっ!」
オーギュストの鎧は、魔力を帯びている。だから生半可な力でこれを破ることは出来ない。
しかし容易く鎧を切り裂いたナセルは、続く斬撃をすぐに準備していた。
オーギュストの肩へ、ナセル渾身の一撃が振り下ろされる。
肩から胸元へ、斬り裂かれたオーギュストは自らに回復魔法を掛けた。
だが、間に合わない。
回復が間に合わない速度で、ナセルの斬撃が迫る。
さらに炎の魔法を使うナセルは、オーギュストの左手を燃やした。
いつしか魔力の枯渇したオーギュストは、左手を自ら切断した。左手の炎が全身に回ることを防ぐ為である。しかし、それはオーギュストの戦力を半減させた。
二刀流ではないオーギュストの剣技は、ナセルに遠く及ばなかったのだ。
やがてオーギュストの腹に、深々とナセルの曲刀が突き刺さる。
オーギュストは口から大量の血を吐いた。
すでにオーギュストは馬も失い、砂を踏みしめる二本の足も震えている。
破損した鎧の隙間から溢れる血――そして左手の無い身体は、彼の命運が既に尽きていることを物語っていた。
(私は、クレアに計られて国を売った――いや、本当にあの時、私は魅了にかけられたのか? あえて抗魔しなかったのではないか。そしてその後、どうしてあの女の言いなりになった――?
いや、そんなことはどうでもいい。私は一時の欲望に目が眩んだ愚か者だ。私が優しいカミーユを傷つけ、捨てた事に変わりは無い。
クレア――魔性の女――あの女がいなければ、いや――私はあの女に惹かれていた。だが、それさえ、もういい。もう、疲れた――)
オーギュストは聖教国に生まれ、何不自由なく育ち、類稀な力を持っていた為に騎士となる。
そして二十代にして聖騎士団の中でも有数の騎士となり、団長となった。
その前半生は周囲の期待と羨望に彩られ、本人も幸福の中で生きただろう。しかし晩年は、裏切りと失意の中に自らを沈めた。
後に――彼が再評価される時代――彼にたった一つの過ちが無ければ、聖教国は滅びなかったと云われる。
オーギュストとは、それ程の騎士だった。
オーギュストの身体がぐらりと揺れる。
ナセルは口元を引き結び、前に倒れ伏すオーギュストを馬上から見た。
オーギュストは絶命した。
側で戦いを見守ったザールは、叔父の戦いぶりが信じられない。
叔父が魔法を使う事は知っていた。
しかし、あの防御は何だったのか?
全ての攻撃を避けなかった。致命となるような首への斬撃でさえ。心臓への突きでさえ――。
「何をしている、ザール。兵を纏め、フローレンスを叩け。二度と奴等に祖国の土を踏ませるな」
「で、ですがシャムシールも……」
「ヤツとの決着は、後だ」
ナセルの眼光は鋭い。
だがザールはその中に、悲しみを見出した。
ザールとてシーリーンのいない今、戦い、勝利しても喜びは半減している。
そう思えばナセルの戦いは、既に不毛なものなのではなかろうか。
「行け」
しかし急かされたザールは馬首を翻し、部隊を纏める。
シャムシールの本隊へ向けて突撃を敢行するフローレンス軍は、後方から迫るザールにとって、格好の餌だった。
「聖帝、ご無事であられたか」
ザールが去ると、数十騎の供回りと共に豪奢な鎧を身に着けた男が、ナセルの前に跪く。メフルダートだ。
頷いたナセルを窘めるよう、メフルダートは更に言葉を続けた。
「一騎討ちなど、慎んで欲しい。御身に万一の事あらば、どうなさるおつもりか」
倒れ伏したオーギュストを一瞥すると、”やれやれ”といった表情を浮かべたメフルダートである。
「すまんな。だが、たまにはよかろう。余も、腕試しがしたくなったのだ」
「聖帝が強いことなど、百も承知だ。だから――」
「いや――プロンデルや今のシャムシールには勝てるかどうか、わからぬ」
メフルダートはナセルの言動をいまいち理解出来ない。
個人を潰すには集団だ。
いかにプロンデルやシャムシールが強くとも、軍事力でそれを無力化する術は幾つもある。
そんなことは、それこそナセルが誰より知っているはずではないのか。そう思うメフルダートだ。
メフルダートの疑問を察したナセルは、苦笑する。そして、新たに言い添えた。
「意地の問題でもある」
「陛下がそう仰せならば、私に何かを言うつもりはない。ところで、ウルージの姿が見えませぬが……」
「ああ、奴なら死んだ」
漸く、メフルダートの表情は緩む。
この混戦に何らかの成果があったとするならば、不愉快なウルージが死んだことで十分ではないか。そう思えたメフルダートである。
そしてナセルの言い方を聞くに、ウルージは死んだのではない。殺されたのだろう。
つまりウルージはナセルに必要性を認められなかったのだと、メフルダートはこの時、考えたのだった。
◆◆◆
ナセル軍とオーギュスト隊が激しい戦闘を繰り広げていた頃――ダスターン隊も苛烈な攻撃をフローレンス軍へ仕掛けていた。
フローレンス軍の混乱する後背を、まずジャービルの赤獅子槍騎が蹂躙した。
それからダスターンが歩兵隊を率い、重厚な隊列を組んで前進する。
火矢を放ち続け、いよいよ敵の戦意が削がれたという頃合に、パールヴァティとヴァルダマーナの神象が姿を現すのだ。
それでもプロンデル麾下の将軍達は諦めない。諦めれば、プロンデルの怒りを買うと知っているのだ。プロンデルは怯惰を忌避する。そして部下にそれを許さない。
「我等が敵を押し留める! 前方では、皇帝陛下が血路を切り開いてくださる! それまで、我等はここで敵を食い止めるぞ!」
将軍の一人が叫ぶ。
冑に豪奢な羽飾りを付けた、屈強な将軍だ。
「おう、自殺志願者じゃな? わらわの前で、よくもそのような事が言えたのう」
音も無く転移にて現われたのは、純白の巨象に乗る、見目も艶やかな麗人だ。
その名をパールヴァティという彼女は、プロンデルに匹敵するであろう戦好きにして夫好きである。
燃え盛る敵陣の中、パールヴァティは楽しそうに移動する。
名のある騎士を、一人でも多く討ち取ろうという魂胆だ。もっとも、彼女は余り殺生を好まない。
だから時折、
「峰打ちじゃ」
などと訳の分からない事を言って、彼女は敵兵に全身打撲を与え、去ってゆく。
敵兵にとってパールヴァティは、実にありがた迷惑な存在だった。
しかし向かう所敵無しといえるパールヴァティは、上機嫌だった。
何ならこのままプロンデルのところまで行き、首を取ればシャムシール王に褒められるであろうか? などとも考えている。
パールヴァティはネフェルカーラよりも無邪気で、アエリノールより利口なのだから、やることは大体無茶苦茶だった。
栗毛の馬に跨る将軍は、眼前で浮く巨象を見上げ、奥歯を噛み締める。
(なぜこんなモノが、敵なのだ)
だが彼もある意味では小プロンデル。退くことを知らない男だ。
槍を斜め上に構え、突撃の構えを見せた。
全力の突撃なら、たとえ象と云えども、貫くことは可能だろう。
「飛べぇ! 我が愛馬よぉぉっ!」
そして退く事を知らない将軍は、全力で馬を走らせる。
しかし次の瞬間、純白の巨象は彼の背後に現われて、パールヴァティが指先から稲妻を放つ。
雷光は細く、小さい。
しかし豪奢な羽飾りを付けた冑の将軍は、それだけで命を失った。
見た目だけでは測れない、パールヴァティの魔法である。
「峰打ちじゃ、安心せよ」
もちろん稲妻に峰などない。これを峰打ちと言って通用するのは、アエリノールくらいだろう。彼女ならきっと、
「そっか、よかった」
といって、剣を構えなおすはずだが。
それにしても象の上から周囲を睥睨するパールヴァティは、つまらなそうにしている。
弱い敵に、飽きてきたのだ。
シャムシール軍と戦った時は、もっと血湧き肉踊るものだったというのに……などと考えるパールヴァティは、小さく欠伸をした。
一方でヴァルダマーナも、敵兵を思うまま蹂躙している。
ここにいる兵達が主力ではない事に気が付いたのも、ヴァルダマーナが先だった。
「はーっははははは! 喚け、叫べ、許しを請え! 余がお主らの前に現われたことを、不運と思い諦めよ!」
実に機嫌が良さそうに無双するヴァルダマーナは、久しぶりに英雄気分だった。
飛来する矢を豪槍で弾き、徐に象を転移させて敵将を屠る。
実に思い通りの戦いが出来るので、楽しくて仕方が無い。
「シャムシールどのが居らねば、余が世界で三番目の戦士であろう!」
こんな事を思ってしまうヴァルダマーナは、プロンデルに会ったら腰を抜かすだろう。
というか、意外と謙虚なヴァルダマーナである。
それでも実際、ここにはヴァルダマーナに敵し得る将はいなかった。
「とはいえ、どうもシャムシールどのの本軍に敵兵が集中しておるようだ。とすれば、ここは主力ではないな。ならば、はやく助けに行ってやるとしよう。シャムシールどの……童貞のまま死ぬでは、ちと可哀想だ……ぷっ」
こうしてナセル軍とダスターン隊により、フローレンス軍の後方部隊は壊滅したのである。