第三次カルス会戦 1
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真暦ならばファルヴァルディーン月、聖暦なら三月の二十九日、深夜のことである。
ドゥバーンが口角を吊り上げ、ナセルが泥酔し、シャムシールがパヤーニーに物語を聞かせている刻――シュラは、敵の只中にいた。
敵とは、カルス平原に滞陣中のフローレンス軍である。
カルス平原は草原というには砂っぽく、沙漠というには水気の多い土地だ。その水源となるのはいくつかの泉、そして沼。
それらは遠く海から地下を通り、長い年月をかけて流れ着く水だ。したがって塩分は無く、飲料に適した真水である。
とはいえ多数の人間が生活するには十分の量といえず、かといって放置出来る様な土地でもない。
それ故に、古来から幾度と無く戦場となっている場所――それがカルスの地であった。
シュラはカルスの草を、音も無く踏む。隠密用の魔法を重ね掛けした上、馬の蹄には布を巻き、消音する。無論、部下達の馬も同様だ。
こうしてシュラは、メフルダート麾下の奴隷騎士に扮して百の騎兵を率い、プロンデル軍の糧食が保管してある後方を襲う。
――ここに至る経緯は、こうである。
フローレンス軍に糧食があると判断したドゥバーンは、暫くその隠し場所を探るも、一向に影も形も無い。途方に暮れた彼女に朗報が齎されたのは、数日前の事だった。
「敵中に、突如として山の様な小麦が現われました! 宮廷魔術師が魔法により保管していたものかと!」
闇隊の言う事は、どうにも怪しい。だが空間魔法というものがあるのなら、大量の食料を保管して運ぶ事も可能だろう。
ドゥバーンは戦慄した。それが事実なら、戦略戦術の常識が変わる。
しかし今は、そんな事を考えている場合ではない。
敵に糧食がある事は確かだ。故にドゥバーンは作戦の決行を決意し、シュラを送り込んだのである。
手際よくプロンデル軍の糧食に火を付けたシュラは、馬首を返してメフルダートの陣へ紛れ込む。この時は、既にフローレンス軍の軍装に変えていた。
闇の中、一枚の上着を脱ぐだけでそうなるよう、ドゥバーンは装備を整えている。また、シュラの手際も淀みない。
燃え盛る糧食を見て、フローレンス軍内には怨嗟の声と悲鳴が入り混じる。
「ナセル軍だ! ナセル軍が侵入して、俺達の食料を燃やした!」
「ちくしょう! 奴等、俺達を裏切りやがった!」
シュラの部下達が、口々に流言を撒き散らす。
「どういうことだ! ナセル軍は味方だろうっ!」
「明日から、俺達は何を食えばいいんだっ!」
「そんな事より、今を生き延びろっ!」
シュラの背後を追いすがるフローレンス軍は、当初、少なかった。しかし徐々に膨れ上がり、ついには蒼い鎧を纏った一人の将が現われる。
オーギュストだった。
オーギュストは兵の混乱を収め、部隊を統御すると、一気呵成にナセル軍に噛み付いた。
結果、ナセル軍の混乱は、フローレンス軍のそれを上回る。
或いはナセルが通常だったなら、ドゥバーンの罠も見破ったかもしれない。
しかしこの時、様々な事情が絡み合い、ナセル軍の指揮官は未だメフルダートだった。
だからプロンデルの戦馬鹿が、味方を裏切って攻め込んできたと思った――いや、思いたかったのだ。
「盟友シャムシール王の為、ナセルを討ち取れ!」
「な、何? プロンデル陛下はシャムシール王と結んだのか?」
「知らなかったのか? だからナセルが夜襲を仕掛けてきたらしい!」
シュラの流言も、当然ながら功を奏した。
いよいよメフルダートの目尻はつり上がる。唾を飛ばして部下を怒鳴りつけるメフルダートは、一向にダスターン隊の陣形をつかめず、近頃は常に不機嫌となっていた。
「おのれ……プロンデル……! やはり裏切っておったかっ!」
そもそもドゥバーンは事ある毎にプロンデルがナセルを裏切ったと、メフルダートだけに伝わるよう、情報を流していたのだ。
だからこれは、ドゥバーンによる思考誘導でもある。
とはいえこの時のナセルが泥酔状態であるとは、流石のドゥバーンも考えていない。なればこそ手早く状況を支配し、敵中に修復しきれぬ傷を付けてやらなければならなかった。
そうすればまずプロンデルがナセルを見限り、ついでナセルも戦いの決心をせざるを得ないだろうから。
だが状況はドゥバーンの予測よりも簡単に進む。
メフルダートは悩まず、全軍をフローレンス軍へと振り向けた。
戦術的な判断は、相変わらず正しいメフルダートである。
突出したオーギュストの部隊をみて、数を数万と判断したのだろう。ならば、全軍で圧せば勝てると考えていた。
こうしてナセル軍は、フローレンス軍と激突する。
フローレンス軍にしても、糧食をメフルダートに燃やされたと思っているのだから、もはや敵だ。
そういう事になった。しかし現実は違う。
シュラの奇襲により、フローレンスの糧食が燃やされる。
そして逃げるシュラを追ったフローレンス軍が、ナセル軍の陣に攻め込んだ。
攻め込まれたナセル軍の指揮をとるメフルダートは、即座に応戦――戦の泥沼に入り込んでゆく。
実際は、こうであった。
ドゥバーンはそもそも自身の部隊を使って、巧妙にメフルダート軍を誘導していたのだ。丁度、フローレンス軍の背後を衝いてもおかしくない位置へ。結果は、成功である。
「ドゥバーンどの――どうやら成功だな。これ程見事に、敵と敵が相争うとは思わなんだ……」
馬上から遠く敵陣を見つめるダスターンは、ドゥバーンの凛とした横顔を見る。
怜悧な瞳は青と黒のオッドアイ。そこに宿る確かな知性は、一国に冠絶するだろうドゥバーン。
ダスターンは、そんな彼女こそシャムシールの至宝だと思った。
「こんな成功よりも、シャムシール陛下と性交したいでござる」
轟々と燃え上がるフローレンス軍の糧食を眺めやり、ドゥバーンは呟く。
ダスターンは、がっかりした。がっかりしつつ、もう一度ドゥバーンを見る。すると黒髪を後ろで束ねた美しい女性――少々痛めの軍師がダスターンの目に映った。
(まあ、完璧過ぎる軍師というのも恐いか……。このくらいとぼけている方が、案外よいかもしれぬな、うむ)
ダスターンの目は、曇りがちである。
「さて、ダスターン将軍。我等が同盟軍――メフルダートどのと、共同戦線といくでござる。間もなくシャムシール陛下も動こう。ここで一気に、フローレンス軍を包囲殲滅するでござるよ」
◆◆
メフルダートは歯軋りをしている。
「おのれ……プロンデル……! やはり裏切っておったかっ!」
「まだ、わかりませぬ! 罠の可能性もございます! ここは一時、様子を見られますよう! 何より、まずは聖帝陛下にご連絡をっ!」
「何を悠長な! 今まさに、奴等が斬り込んで来ておるぞ! 迎撃せぬかっ!」
メフルダートに進言する部下の声は、震えていた。
既にフローレンス軍が一部を此方に向けているのだ、猶予は無い。猶予はないが、フローレンス軍は数を減らしているといっても、未だ二十五万はいる。対するメフルダートは十三万の軍を率いるのみ。
メフルダートの部下からすれば無謀な戦いに思えるのだから、この苛烈な王に思いとどまって欲しいのだ。
「奴等が全軍で攻め寄せる訳でもあるまい! 負けはせぬ!」
ニヤリと笑うメフルダートの判断は正しい。ただしそれは戦術的なものであって、大局は無視したものだ。
「で、ですが数が……!」
「何度も言わせるな! 負けはせぬ! 戦えっ!」
メフルダートの軍に向かった部隊は、聖光青玉騎士団が主力であった。
先日の敗戦により、オーギュストは後方へと下げられていたのだ。
オーギュストは敵の襲撃に違和感を覚えた。
しかし糧食を守れなかった点を自らの不手際と考えた彼は、手近な敵へと押し迫る。
彼の内心は、こうだ。
(敵がナセルであれシャムシールであれ、異教徒に違いは無い。これは聖戦……ならば重要な点は殺すことだろう。いや――そうではないな。私には、それしか出来ないだけだ)
それにただ糧食を燃やされただけとなれば、オーギュストに未来はない。
あの場にあった糧食が、全てなのだ。
兵の士気を鼓舞するためにも、全ての糧食を集めて見せた。故に兵は安堵し、プロンデルに従う事を再度誓ったものである。
それを燃やされたのだから、放置すれば死罪は免れないオーギュストだ。
(死ぬのは別に構わない、どうせ私は売国奴だ。もとより碌な死に方をするとも思っておらぬ。だが死ぬにしても、どうせならば戦って死にたい)
そうも思ったオーギュストである。
そして今、オーギュストとザールの部隊が激突している。
しかし、流石に”聖戦”状態にある聖騎士は強く、じりじりと押されてゆくザールの部隊。
次々と兵を投入し、メフルダートはザール隊が戦線を維持する手助けをした。
暫くすると、ダスターン隊がフローレンス軍の後方へ襲い掛かる。
神象が陣中に突入すると、見る間に混乱の巻き起こるフローレンス軍。将を幾人か討ち取られているのだろう。
まさか敵対しているダスターン隊に助けられるとは思わなかったメフルダート。彼は舌打ちをしつつも部隊を再編させて、オーギュストの迎撃に専念をする。
◆◆◆
「なんだこれは? なんなのだ、これは? 右も左も敵ばかりではないか? 一体いつ、敵の数がこれ程までに増えたのだ?」
プロンデルは寝衣を着たまま天幕の外へ出ると、満面に喜色を浮かべていた。これで喜んでしまう辺り、どこまでも戦争好きなプロンデルは、もう救いようがない。
そんな彼の前に馬を駆って颯爽と、うら若い女騎士団長が現われる。まるでこの事を予測でもしていたかのように、彼女は完全武装だった。
「糧食が、燃やされました。そして現在、ナセル軍と聖光青玉騎士団が交戦中です。
……オーギュストは、してやられたのです、陛下。糧食を燃やしたのは、おそらくドゥバーン麾下の者どもでしょう。それに乗じて攻め込んできたダスターンの軍が証拠です。間もなくシャムシールの本軍も攻め寄せて参りましょう。もはや一刻の猶予もなりません。撤退を――」
銀色の紋様が入った深緑色の鎧を纏うクレアが、プロンデルに進言する。
クレアの言葉には、僅かながらオーギュストへの哀れみがあった。
クレアとオーギュストの肉体関係は、継続しなかった。けれど状況が違えば、或いは――と思う今のクレアは、自嘲する。
(私は彼の生活を壊し、未来を奪った。今更、哀れんだ所で何も変わらないわね)
オーギュストは”あれ”が原因で恋人と別れてしまった。だからクレアとしても、オーギュストが誘えば断りはしなかったであろう。だが彼が誘ってくることは、決して無かった。
オーギュストは、クレアに対して罪悪感を抱いたのだ。それが周囲からは、淡い恋心にでも見えたのだろう。
結局互いが互いに罪悪感を感じあう間柄になったのだから、二人の間には奇妙な”しこり”が残った。
”しこり”を残したまま、彼はここで死ぬだろう。仮に死ななくても、糧食を燃やされた罪は万死に値する。ならば、騎士団長への復帰は絶望的だ。
だからもう――クレアとオーギュストが会うことはない。
それはともかく、「撤退」というクレアの提案は尤もだった。
このまま夜の闇に飲まれ襲撃を受け続ければ、朝を迎える頃、軍は壊滅するであろう。
それでもプロンデルやウィルフレッドが死ぬと、クレアは思わない。
だが、軍が壊滅すれば、国を維持できなくなるではないか。ここにいる部隊は精鋭だし、何より、遠征して兵を失った皇帝を、一体誰が支持するというのだ。そんな懸念が、クレアの脳裏を過ぎる。
「ふむ、クレアの言、然り」
プロンデルは、唸るように頷く。
流石に兵の命を慮ったのであろう。今後、本当に食料が無くなるのだ。ならば、一刻も早く国へ帰らねばならない。
帰還する道中、自らの馬さえ食さねばならないだろう。それでも、全員が生きて故郷の土を踏めるはずもない。
金髪の皇帝は徐に寝衣を脱ぐと、ヒルデガードに着替えを持って来るように頼む。
プロンデルは戦い、国を支配する為に生まれた男だ、服を着る術など無い。だから服を脱ぐ――というより、破り捨ててヒルデガードを呼んだ。
「ヒルダ! 服っ!」
「めんどくせぇですね。服も一人で着れないなんて、ガキかジジィくれぇのモンですよ」
ヒルデガードを愛称で呼んだプロンデルは、僅かばかり”しまった”という顔をした。多分、二人だけの時しか呼ぶなとでも、ヒルデガードに言われているのだろう。
不機嫌そうに現われたヒルデガードは、それでも甲斐甲斐しくプロンデルに衣服を着せてゆく。しかし、あえて下半身は後回しだ。いうなれば、羞恥プレイであろう。
ちなみにここは、天幕の外。
プロンデルの身体は一切、無駄な肉がない均整の取れたものだ。さらにシャムシールが見たら絶対に羨ましがるであろう、見事なビッグマグナムが股間にぶら下がっていた。
(ちょっと、あれ、すごい)
クレアの視線が、プロンデルのビッグマグナムに注がれる。
直視するわけではなく、目の端でそーっと。
基本ビッチなクレアは戦時にも関わらず、少しだけ下半身が疼いてしまった。
「クレア……ダスターン隊には聖光緋玉騎士団を当てるよ。それで問題ないね?」
少しジットリした目でクレアを見たウィルフレッドは、事務的な口調で言う。
軍師としてのクレアは優秀だが、女性としては少し奔放に過ぎると思うウィルフレッドであった。
「いえ、なりません。全軍をシャムシール王が率いる部隊に向けるべきでしょう。兵力でいえば、正面が最も薄い。そこへ集中し、中央突破を図るのです」
「だが、それでは後方の部隊はどうなる?」
「――犠牲は、やむを得ません。何より、この状況で全方位に対応すれば、我等の全滅は時間の問題となります」
溜息交じりのクレアは、ドゥバーンの名を心に刻んだ。
――罠があるだろう、と、考えていた自分。それでも見破れなかった。
さらにはヒルデガードが出した糧食を警戒して後方へ置いたのに、その場所さえ把握してしまったドゥバーン。
恐らくはメフルダートを計算ずくであの場所へ導き、流言を用いてぶつけたのであろう。
もしもあの女がいなければ、フローレンスは既に大陸を席巻していたはず。そして私の思う通りの世界に――
そう思えば、クレアの表情は闇色に染まる。
クレアはプロンデルより幻界の記録を貰った。
即ち、彼の眷属となったのだ。
だからこそ最悪の状況でも、打開する術をプロンデルが持っていることを知った。
で、あれば。
クレアはこの戦が、負けでもいい。
上位魔族とは何か? 世界とは何か? 人とは何か? その全てを理解すると、新たな理想が生まれたからだ。
いや――しかし、プロンデルが本国へ戻り、再び覇権を確立出来るだろうか?
ここを突破出来るとしても、大多数の兵を失うであろう事に変わりは無い。
だからこそ、クレアは再起の為に全力を尽くそうと決意した。
(それでも、やらなければ。私の今まで歩んだ道は、血塗られたもの。今更、血の量が増えた所で、どうという事もないわ……罪は、最後に償えばいいのだから)
そしてクレアはウィルフレッドの瞳を見つめる。
(大丈夫。剛のプロンデルと柔のウィルフレッド――二人を要にすれば、幾度でも帝国は甦る)
「わかった、クレアの言うとおりにしよう。全軍で正面突破を図る。となると、オーギュストには死んでもらう事になるが……」
「構わないでしょう。聖騎士は、本質的に皇帝陛下の敵ですし。本来ならばフィアナも切り捨てたいところですが、彼女の突破力は必要なので……」
ウィルフレッドの声に頷いたクレア。彼女は覚悟を込めた瞳を、最愛の宰相へ向けた。
今のクレアには、人類最強の力がある。心臓を縛る呪いも、既にない。
(だからこの力で、理想の国を作り上げなければ……! 神も人も妖精も魔族も、全てが混然一体となった理想郷を……!)
今ならば、師――ジャンヌの懸念もよく分かる。
(人類至上主義など、歪だわ)
それにしても、クレアは不思議だった。
今はこれほど生気に満ち溢れたウィルフレッドが、どうしてマディーナから撤退して以降、意識を取り戻さなかったのだろうか?
もう一人の上位魔族と、何か関係があるのだろうか?
何かがある――そう考えたクレアだが、今はそれ以上を考える余裕がなかった。
いよいよ禍々しい不死骸骨の集団が、目視出来る程に近づいている。その上空には火竜を駆るジャムカと、ただの魔族にしては強大な力を持つ女、ザーラがいた。
右翼からは忌々しい女魔術師ネフェルカーラが迫り、左翼から迫るアエリノールは周囲を圧する気を放っている。
今、陣の中空で巨大な光が弾けて消えた。
恐らく師匠――ジャンヌのメタトロンだろうとクレアは考える。
(多分、理想は同じ――だけど、それでも敵同士なのよね――ごめんなさい、師匠。貴女を殺すわ)
「余に続け! 血路を切り開かねば、砂漠に屍をさらすこととなろうぞ!」
クレアが振り返ると、プロンデルが勇ましく叫んでいた。
すでに白金の竜――ペンドラゴンに跨り、皇帝は空に舞い上がっている。
クレアも愛馬を駆り、敵前へ向かう。
今は蛮勇を奮うとき――そう心に決めて、クレアは骨と斬り結ぶのだった。