第二次カルス会戦 1
◆
聖暦一八五三年三月二十二日。
神聖フローレンス帝国初代皇帝プロンデルは、人生で初めての負け戦を経験した。
ウィルフレッドに首根っこを掴まれて撤退した彼は、ふと眼下の惨状を改めて見る。
別に人が死ぬ事は構わない。
従軍した者が死ぬのは、ごく当たり前のことなのだ。
その覚悟さえ無いものは、そもそもいらない。
そのようなことではなく、プロンデルは認識を改めた。
シャムシール王は、最強の敵である――と。
プロンデルは、自らの内にある神――ガイウス・コルネリウスの記憶を辿った。
生まれた時から慣れ親しんだ、別人格。だが、ある日を境に完全に自身と同化したかのような、それの記憶だ。
「”全ての知識”に接続、”幻界の記録”を――」
プロンデルの脳裏には、幻界でシャムシールが引き起こした事件の数々が映し出される。
それは知識の果実を食べた事、暴食の泉の水を飲んだ事――神々のペットを殺したこと――などなど。
「ウィル――シャムシールが何者であるか、知っていたのか?」
「まさか。私の”幻界の記録”に書かれていたことは、幻界の破壊者シャムシール――としか。だが、それでも推測すれば、彼が只者ではないことは理解出来る」
「ふむ。ヤツは、神々とも敵対しているぞ……」
「ほう? ではいっそ――今からでも盟を結ぶか?」
「負けて敵に尻尾を振れとでも? 余は犬ではないぞ!」
プロンデルの表情は複雑だ。
自らに匹敵する敵に出会えた喜びと、初めての敗北による屈辱と――。
だから大声の中に怒りはないが、と言って現状を許容出来るものでもない。そんな顔だった。
「無謀な戦をしておいて、よく言う。それより、当面の糧食がないぞ」
苦笑したのはウィルフレッドだ。プロンデルのそんな想いは、承知の上だった。だからこそ明け透けに、昔のままの口調で従兄弟に語りかけている。
プロンデルもまた、従兄弟の口調に無骨な配慮を感じ取っていた。
プロンデルとて、単に武力のみで皇帝にまで上り詰めた訳ではない。
人に見えない所でなら計算もすれば、策も練る。そもそも、戦で兵が死ぬのは当然と思っても、戦以外で兵を死なせる事の無い人物だからこそ、皇帝になれたのである。
故にプロンデルは、糧食に関して奥の手を持っていた。
「なに、ヒルデガードに非常食を大量に持たせてある。それで当面は凌げよう」
「ああ、彼女は確か、空間魔法を随分と使うからな。それにしても、非常食が非常食を持っているとは――」
「ああ――ん? ウィル、今、何と言った?」
ヒルデガードの貧相な身体は、非常食といっても食べる場所など、そうはないぞ?
しかしまあ、丸焼きにしたら美味いかもしれん。
上位妖精の丸焼きか……。
(っと、いかん)
不意に自身の妄想が現実味を帯びたので、慌てて頭を振ったプロンデルである。
ヒルデガードは食欲を満たす相手ではなく、性欲を満たす相手なのだ。非常時でも、食べてはいけない。
「い、いや、何も? プロンデル、気にしすぎだ」
(プロンデル……私の冗談を本気にするとは……やはり本当に馬鹿なのだろうか?)
「な、ならばいいが」
「ところでプロンデル。いつまで私が貴方の襟首を掴んでいなければならないのだ? いい加減、腕が疲れるのだが」
「……薄情なペンドラゴンが先に帰ってしまったからな。そもそもウィル、お前は鍛え方が足らんのだ。このまま帰陣して、精々腕に筋肉を付けろ」
ペンドラゴンとは、プロンデルの愛竜である。
しかしかの竜は雌であり、浮気性のプロンデルと反りが合わない。というより、問題はペンドラゴンがプロンデルに惚れている所だ。
竜に惚れられるプロンデルも凄いが、人間――半神に惚れてしまう竜もまた、凄いだろう。
尤も上位の属性竜ともなれば、人化する事も不可能ではない。なので、あながち不毛な恋と云う訳でもないのだが、今の所、実る可能性は低いようだった。
なのでウィルフレッドは、本陣まで筋トレをするハメになったのである。
――――
帰陣したプロンデルとウィルフレッドは、いよいよ作戦を練り直す。
食料問題が解決した以上、撤退派の意見が封殺された形だ。本当はウィルフレッドも戦に不安を覚えていたが、こうなれば仕方が無い。
軍の再編に要した日数は、五日。
ウィルフレッドは頭を悩ませながらも状況を分析。北よりナセル軍が迫りつつあると知った。
それと同時にダスターン率いるシャムシールの本軍も迫っていたが、両軍の数を合計すれば、まだまだ此方に軍配が上がる。
フローレンス、ナセル連合軍の約四十万に対し、シャムシール軍は十五万に過ぎない。
さらにシャムシール軍は五万の別働隊を残しているが、それでも戦力にして二倍の開きがあるのだ。
問題の食料だが、ヒルデガードは出鱈目な魔力により、四十万の兵が半年は活動出来る程の小麦を保有していたので解決した。
「老後の蓄えが台無しじゃねえですかっ!」
ヒルデガードは文句を言っていた。
しかしヒルデガードにとって、老後とは一体何年あるのだろう?
流石にあの量は、多すぎだ。一日四食食べたとしても、ヒルデガードが一人で食べきるには二十万年近く掛かってしまう。
もっとも、飲料水は足りない。
ヒルデガードが持っていたのは、大量の酒だった。それでは意味がないのだ。
カルス平原にある小さな泉だけでは、いつ枯渇するかわからないから、結局のところ長期戦は避けねばならないだろう。
「戦は無益です。今は、兵力が残っているうちに本国へ帰るべきでしょう。場合によっては、シャムシール王に賠償金を支払ってでも……です」
クレアの主張は変わらない。
現状の戦力比なら、万全を期して攻めれば勝てる。そう、大方の者が予測を立てる中で、だ。
(だが――)
クレアは、どうしようもない不安に駆られるのだ。
死んだと思われたシャムシールが、生きていた。
そして、大量の死体を中核とした”不死隊”。
あれは、戦死者が増えれば増えるほど、敵の戦力が増すという事ではないか?
ならば、敵の実数に騙されてはいけない。
敵の数は減らない。あまつさえ、此方の戦死者を取り込めるならば、いずれ兵力さえ逆転されるのではないか?
プロンデルの豪奢な天幕の中で、完全武装の騎士達が円卓を囲む。
改めて撤退案を語るクレアに、同調する者がいた。
「私もクレアどのの意見に賛成だ。不死隊と戦って戦死した部下の末路を見たが、ぞっとする」
円卓に置かれた地図、その上に置かれた”不死隊”を示す駒を指先で突付き、嫌悪感に満ちた表情を浮かべるフィアナだ。とはいえフィアナの表情は、下半分しか分からない。
何しろ鮮やかな桃色髪の下に、頬から目までを覆う白い仮面を装着しているのだ。
これでどうしてパヤーニーが気に入るのか、理由が分からない。
それはともかく、フィアナはもとより遠征そのものを疑問視している。
そもそも、法王が命を賭してまで行った聖戦なのに、なぜ異教徒と手を結んでいるのか。そこからして腹立たしいフィアナだった。
彼女の任は、法王の剣たる聖光緋玉騎士団の現場指揮官であり、法王の守護であったのだから、現状が腹立たしいのも当然であろう。
「私も撤退に賛成です。骸骨やら腐乱死体やらにされたら、たまったモンじゃねぇですから」
天幕の隅で猫を撫でながら、ヒルデガードがボソボソと呟く。
しかし、誰も彼女の意見は聞いていなかった。
彼女は物資補給の功績で再び宮廷魔術師に任じられていたが、だからといっていきなり皆の敬意が集まる訳ではない。
大体、先程も、
「なぜ神聖な会議の席に、獣を連れて参ったか!」
などと、将軍の一人に怒鳴られていたヒルデガードである。
結局会議は、プロンデルが「やはり戦いたい」と言ったこと。他の将軍達が皆、プロンデルに追従したことで、シャムシール軍に再び挑むという運びになった。
ウィルフレッドは会議の最中、クレアの表情を見る。
クレアは、この戦いに”負ける”と、考えているようだ。
ウィルフレッドはその要因を考えた。すると、答えはすぐに出る。
(聖騎士とプロンデル直属の将軍達の中に、軋轢がある。なるほど、勝っている時ならばいいが、一敗した後だ、外様の聖騎士達は厭戦気分にもなろう。まして、プロンデルの能力に疑問を持つものもいるだろうしな)
ウィルフレッドは思考を纏めると、ここで双方の融和を図る為、一案を出す。
「此度の戦は、主将をオーギュストどのに任せたいが、いかが?」
ウィルフレッドは宰相として、大きな決定権をもっている。
プロンデルにあるのは、最終決定権と拒否権だ。
つまりプロンデルが発した命令は絶対だが、命令を発するには前段階がある。
プロンデルが決定する前段階では、ウィルフレッドが決定を下す事が出来た。そしてそれは、プロンデルが拒否しない限り通るのだ。
「なっ、ぐっ! なぜ、余を差し置いて……!」
プロンデルは、歯軋りをしている。
悔しいのだ。
しかし、言わずもがな、理由は解る。解らなければ、大軍を統御する総帥など務まらないのだ。
「陛下は、負けました。雪辱はなさりたいでしょう。されど、オーギュストどのをはじめ、聖騎士の面々もまた歴戦の勇士。陛下の負け戦に、様々、思うところがあったのでは?」
ウィルフレッドの言葉にも、沈黙を守る聖騎士達。
流石に、面と向かって皇帝批判をする者はいない。しかし空気は張り詰めた。
「無論、オーギュストどのが指揮を執らぬとあれば、陛下が直接陣頭指揮に当たられることとなろうが……されど、些か今回の作戦は、陛下に向かぬように思えまして」
「余に、向かぬ?」
「私の作戦案が、ですが……」
「ふむ、よい。申してみよ、宰相」
プロンデルが興味を示した。
ただ前回の敗北を理由にされたのでは、立場が無くなるプロンデルだ。
しかしそれだけではないと、ウィルフレッドは言っている。
張り詰めていた空気が、多少なりとも和んだ。
これでウィルフレッドは、この場を支配したと云えるだろう。彼は大きく頷くと、指揮棒の先を机上の地図に乗せ、流れる様に説明を始めた。
「――このように包囲すれば、数に劣る敵軍は崩壊するより他、ありませぬ。そして主力の中軍と右翼を聖騎士の皆様に――」
作戦は簡潔にして壮大。中軍を突出させた後、後退。両翼をせり上げ、包囲陣形を敷く――というものだ。
これはシャムシール軍も好んで使う戦術である。
というより――そもそもが古来よりある騎兵機動戦術だ。しかし大陸の名将と呼ばれた者達は皆、この戦術を得意としていた。
つまりは、どちらが先に包囲陣形を完成させるか――というのが会戦の基本である。先に包囲された方が、殲滅されるのだから当然だった。
だから愚将というものは兵を闇雲に動かし、包囲という行為を怠る。故に敵を逃したり、側面を衝かれたりして負けるのだ。
クレアはウィルフレッドの説明を、微笑で受けとめた。
これならば、負ければ後に叛旗を翻すであろう聖騎士の数が減るだけ。
勝てば、それはそれでいい。
「う、うーむ?」
「陛下にご異存なければ、私はこの任を受けようと思いますが」
唸るプロンデルに片膝を付いて平伏したオーギュストは、やる気に満ちている。
アエリノールの回し蹴りを喰らった時には、どうしてやろうかと思ったが、あのまま乱戦で彼女を見失った。
もとより、竜に乗り大空を翔るアエリノールに近づくことは難しい。だからこそ、戦術によって倒そうと考えたオーギュストである。
別にオーギュストはアエリノールを嫌っている訳ではない。
しかし彼女が聖騎士団を去ってから、自分の人生が歪なモノに変わったと思うオーギュストは、納得出来ない何かをアエリノールに――或いはシャムシールにぶつけたかった。
「よかろう――やってみよ」
こうしてプロンデルは、オーギュストに全軍の指揮を任せる事にした。
たまには他人の戦を見るのもいいか――などと考えたプロンデルは、自軍の命運さえ他人事なのだ。
フィアナが一瞬だが、「ほう」と口に出して感嘆の声を上げる。
やはり彼女もプロンデルが指揮を執るより、同じ聖騎士であるオーギュストが指揮官の方が、やる気も出るらしい。
こうして再びフローレンス軍は動き始めた。
正面にオーギュスト率いる聖光青玉騎士団。
右翼をフィアナが率い、左翼をヒルデガードが指揮する。
皇帝の側に将達は揃い、進軍していた。
しかし右翼のフィアナは、既に部隊と共にいる。中央のオーギュストは、部隊の先頭に立っている。
だから皇帝の側にいる今作戦の中核武将は、サボリ魔のヒルデガードだけだった。
ヒルデガードには災難な人事だった。
もしも聖光緑玉騎士団の人員が十分にいたら、こんな事にはならなかっただろう。
本人は「働きたくないでござる!」と喚いていたが、火急の事態ゆえに、やむなく一軍を指揮する事になってしまったのだ。
そして、「撤退すべし」という意見に関してのみ、どうしてか犬猿の仲であるはずのクレアとヒルデガードは意見を共にした。
「馬鹿じゃねぇですか? どうして敵の罠が一個だと決め付けるのですか!? おい、プロンデル! その少ねぇ脳みそで、しっかり考えやがるのです!」
「だから、罠など噛み破ればよかろう」
「てめぇが噛み破れるのは、私の下着くれぇのもんですよ! 最低野郎が! 下着がねぇと、すーすーして気持ち悪いじゃねぇですかっ! 戦いたくねぇです! 撤退させろ! 休ませろ! 働きたくねぇです!」
どうやらヒルデガードは昨晩プロンデルに下着を噛み破られて、ノーパンらしい。
本陣から左翼へ向かう前に、散々愚痴をプロンデルにぶつけていた。
クレアは溜息を一つ吐き、プロンデルの代わりにヒルデガードへ答える。
「戦わなければならないのは、貴方が宮廷魔術師に戻ったからでしょう。戦時だけは働くというのが、宮廷魔術師の決まりごと。今が、その時ではありませんか」
「しまった! です。戦時の宮廷魔術師は、過労死するほどのアレだと。私、このままではやべぇかもしれねぇです」
両手を頬に当て、がっくりと膝を折ったヒルデガードは、やはりこの期に及んで働きたくなかった。
というか皆が馬に乗っているのに徒歩を貫くヒルデガードは、乗り物が苦手だ。
馬車に酔う。船に酔う。挙句の果てには、おんぶでさえ酔うのだから、馬になど乗れない。だけど酒に酔うのは大好きらしい。彼女は一体、何処までダメになれば気が済むのであろうか。
「ところでヒルデガード。罠が一つでは無い、と先ほど言っているように聞こえたが?」
不安気なウィルフレッドの声が響く。
先日のように大規模な罠が、また展開されているというのだろうか?
だとするならば、単純な戦術だけで勝てるとも思えない。
(いや、罠は無い――私は、シャムシール軍の動向を確認していた。落とし穴など、掘る素振りも見せなかった)
とはいえ、それもそれで不気味ではある。
敗北したとはいえ、未だ二十五万を数えるフローレンス軍に対し、シャムシール軍は五万。五倍の兵力差を鑑みれば、何を頼みに対陣しているのか、ウィルフレッドは不思議でならないのだ。
「そこまで分かれば、苦労しねぇです。大体、それを考えるのがクレアの役目でしょうが! このクソビッチ!」
ヒルデガードはぷんぷんしている。余程、働きたくないらしい。
ヒルデガードの暴言に、ピクリと片眉を上げたクレアだが、そこは穏便にしようと我慢する。
ビッチと言われれば、否定は出来ないクレアだ。
(といっても、私の経験人数って、六人――だったかしら? わりと普通じゃない? 普通、よね?)
残念ながら経験人数を朧気にしか覚えていない時点で、アウトだ。
そのうち、酔った勢いならノーカンとか言い出すだろうクレアは、立派なビッチだった。
「クレアが荒んでいた事は、私も知っている。例え一万人と経験があろうとも、私は――」
そんな事よりクレアが頭にきたのは、ウィルフレッドのフォローだろう。
(一万人となんて、やれるか、馬鹿!)
とりあえずウィルフレッドからプイと顔を背け、ヒルデガードの問いにクレアは答える。
「もう一つの罠――ねぇ。地形、人材――それから、時――考えられるのは――」
「はやく考えねぇと、私は左翼に行っちまいますよ!」
クレアはヒルデガードに促され、思考を進めた。
瞳を閉じても、馬が感覚によって進んでくれる。問題はない。
(待っている――? 援軍を? シャムシール軍の援軍ならば、ダスターン隊と、あとはシャジャルが率いる十万――だけど、シャジャル隊がここに辿り着くには、さらに時間がかかるわ。だとすれば、此方の勝機は今。
だけど――ただ待つだけなら、あえてこの地にいる必要もないわね。もっと違う何か――かしら)
「やはり、今のうちに、転進すべきかも知れません……」
クレアは、異様な胸騒ぎを覚えた。
今、この場を去らねば、本国に帰る機会を永遠に失うような、そんな感覚だ。
「ふっ。聖騎士達の損失は、ある意味好都合にもなるだろう?」
冗談めかすウィルフレッドに、掠れた声でクレアは言った。
「現実を見れば、地の利は敵にあり、人の和も同様。そして時も――すでに失している可能性が――だとすれば、我等はこの地に屍を晒すことになりましょう」
クレアの強い眼光に一瞬たじろいだウィルフレッドだが、ここはあえて正面から見返す。
「転進など、出来ない。帝国の威信を示さず帰国しては、それこそ民に示しがつかぬ。それに、最悪の場合でもプロンデルの力を持ってすれば、離脱する程度は可能だろう――」
こうしてフローレンス帝国軍は、シャムシールの陣を三方向から包囲するよう部隊を進めた。
もっとも、右翼、左翼とも道の無い砂漠の只中を進むハメになる。故に予定通りとはいえ、妙に中央の部隊が突出した。
それを後ろから見る形となったクレアは、まさに臍を噛む思いであった。
「オーギュストは強い……でも、それは十万までの話。……やっぱり、負けるわ」
長くなったので、二話に分けます。
もう一話、今日中に投稿します。