更け行く夜
◆
アエリノール達が帰宅するのを見送ると、ハールーンが片目を開けてむっくりと起き出した。
まったく、起こすのが困難な人物だけに、自動で起きてくれたことはありがたいことである。
「追いますかぁ」
もっとも、今回、ハールーンは寝ていた訳では無いらしい。一応敵地でもあるし、緊張感を持って仕事に取り組んでいるようであった。
確かに、アエリノールがこの国の重要人物ならば、追って、隙があれば暗殺するのも手なのだろう。
ただ、俺としては、アエリノールもオットーも、なんとなくもう殺す気にはなれないんだけど……
困ったもんだ。
「いや、追っても気付かれる。悪ければ返り討ちに遭うぞ」
「ま、そうですねぇ」
結局、ネフェルカーラとハールーンは、互いにそんな風に納得しあっていたのである。
部屋に戻ると、シャジャルが床に転がっていた。
どうやら気を利かせて、俺の為にベッドを空けておいてくれたらしい。ありがたいが、ここで妹の厚意に甘える訳にもいかないよね、っと。
そう思って、シャジャルを持ち上げてベッドに運ぼうとしたら、目を覚ましてしまったのである。
「あ、兄者!」
頬を真っ赤にして、俺の腕の中で暴れまわるシャジャル。
ちょっと、落ちるから暴れないで欲しい。お姫様抱っことか、俺、初めてなんだから。
そんな感じで目を覚ましきってしまったシャジャルに、一人窓際で夜空を眺めていたネフェルカーラが声をかけた。
「そうだ、シャジャル。浴場にでも行かぬか? おれも砂漠を歩いたせいで髪が砂まみれだ。お主の髪も洗ってやろう」
ちょっと待ってくれ、ネフェルカーラさんよ。あんた、散々自分は男だ! とか言ってるくせに、シャジャルと一緒にお風呂ですか? おかしくないですか。
「はい! 行きます!」
とはいえ、いつの間にやらすっかりネフェルカーラに懐いてしまったシャジャルである。蒼い瞳を輝かせて喜んでいた。
ふむ。まあ、いいか。
「ふん、シャムシール。貴様の言いたい事など分かっておる。
……普段、言い寄ってくる者が多すぎるから、おれは男だ、と、言っているだけだ」
あ、納得。覆面してたりヴェールをしてたりする理由もそういう事か。確かに、奴隷騎士の中でもネフェルカーラが群を抜いて美人なのは間違いない。ファルナーズがあと三年くらい経って成長して、やっと互角になれるかどうか。実際、その残念な資質さえなければ、金髪長耳美女のアエリノールにだって引けを取らないし。
……まてよ。アエリノールもわりと残念な人かもしれないぞ……
ならば、互角?
「ねえねえ、シャムシールぅ。ボク達も浴場に行こぉ! 洗いっこしよぉ!」
俺が静かにネフェルカーラについて考えていると、ハールーンがつまらない事を言ってきた。
風呂に入るのは構わないが、洗いっこってなんだ。
俺は、このオレンジ髪の垂れ目男の心境が理解できない。しいていうなら、まったく謎だ。まさか、俺の事が好きなのか? 危険すぎるだろう、この男。
「お、おう。でも、洗いっこはしないからな!」
「えー!」
えー! じゃない。
浴場は、宿の主人に場所を聞くと、すぐに分かった。歩いても五分とかからない場所にあるらしく、俺たちは迷うことなくたどり着いたのである。
そして、石造りの建物内部に入ると、男女に別れ、それぞれの浴場に向かった。
もちろん最初は俺も、ロマンを求めてネフェルカーラの後をつけたさ。
でも、シャジャルにはじっとり目で見られるし、ネフェルカーラには蛆虫を見るような瞳を向けられるしで……散々だったのだ。
ハールーンは、終始鼻歌を歌いながら服を脱いでゆく。いつでも楽しそうな奴である。
それにしても、目を疑ったのが蒸し風呂だ。これはいわゆるサウナだった。ただでさえ暑かった一日の終わりを、なぜにサウナで締めくくらねばならんのか! とは思ったが、とりあえず入る。
あれ、結構良いね!
サウナから出ると、プールのような浴槽に身体を滑り込ませた。
「ねえ、シャムシール。キミはこの先、どうしたいのぉ?」
浴槽に並んでその身体を沈めながら、ハールーンが俺に聞いてきた。
実に悩ましい問いである。
「そうだな。まずはサーリフさまから取り返さないとならないものがある。だから、まずは百人長になるしかないかなぁ」
実は、日本に帰りたい、という気持ちが一番大きい。しかし、半年以上が既に経過しているのだ。現実的に考えれば「それは無理なんじゃないか」と、思い始めてもいるのだ。
それに、家族の事や友達のことは気になるが、こっちと違って命の心配をしなければならない、という事もないだろう。だから、慌てる必要も感じなかった。
「ハールーンこそ、ずっと奴隷騎士でいるつもりか?」
「ボク? ボクは……。砂漠民の国をいつか作れたらなぁ、って。大それたことだよねぇ、ははは」
なぬ? なんとなくハールーンに将来のことを聞いてみたら、仰天な答えが帰ってきた。
なんと、コイツ、目指せ王様! だったのである。
流石に、裸の付き合いゆえだからだろうか、口も滑らかに自身の境遇をさらっと語ったハールーンである。
なんでも、お馬鹿なオレンジ髪は砂漠民の「火が族」出身で、族長の一族だったんだそうだ。だけども、リヤドの王アシュラフに一族の城市を滅ぼされてしまったと。
ちなみに、火が族というのは、砂漠民の中でも最も抵抗したらしく、族長の一族は処刑、それ以外の者も奴隷階級に落とされて散り散りになったんだそうな。
だけど、族長の一族と知りながらも、幼かったハールーンを哀れに思ったサーリフの嫁が、こっそりと匿うように自分の奴隷にしたそうだ。
「サーリフの奥さんっていうと、あれなの? ファルナーズのお母さん?」
「そうだよぉ。強くて美人で……サーリフさまよりも強かったよぉ! ただ、五年前に病で亡くなってしまわれたけどぉ」
むう、サーリフより強い鬼女って。あの小鬼も、いずれとんでもなく強くなるんだろうか……
だが、なるほど、と、俺は納得した。
奴隷としてだけど、ハールーンはファルナーズと一緒に育ったのだ。それに、奴隷と言っても、一般的な教育と戦闘技術をサーリフや、その超強いお母さんに仕込まれたというのだから、強くても納得である。
しかも、ファルナーズには、戦闘訓練で「あえて負けてあげていた」などと言うのだから、お前、ホントはどんだけ強いんだよ? なんて思ってしまった。
もっとも、こんなことをあまり長々と敵地で話していて良いものでもない。俺は辺りを見回して若干警戒をした。
しかし、煙る湯気が僅か先も曖昧にし、愉快そうに笑いあう声や垢すり職人の掛け声などで、俺たちの声などすっかり掻き消えている。まあ、安心だろう。
風呂とは、なんとも刹那的な快楽を提供する場であるらしい。
オロンテスの住民も未来の不安を押し込めて、風呂を存分に楽しんでいるようである。
俺とハールーンが浴場を後にして宿に戻ったのは、たっぷり二時間近くが過ぎた後であった。
いつもよりもすっきりとした表情で部屋に戻ると、ネフェルカーラは口をへの字に曲げて怒り、シャジャルは泣きそうな顔になっている。
「どうした?」
「どうした、ではない。敵地でここまでゆったりと浴場を堪能する奴等など初めて見たわ! この馬鹿共が!」
「兄者ー。心配だったー! 囚われたかと思いましたぁ」
火照った身体を黒いシミューズに包んだネフェルカーラが、厳しい口調で文句を言う。うん、色っぽい。
シャジャルも、しっかりと髪を洗ってもらったらしく、蒼い髪が蝋燭の光に反射して美しい。窓から入り込む風を受けて、蒼髪がきらきらとそよぎ、流れているよ。
俺とハールーンは互いに顔を見合わせて、肩を竦める。
ハールーンはその仕草がとても絵になっていたが、俺はどうだろう? 若干失敗したかもしれない。だって、俺はそこまでイケメンじゃないんだもの……くぅ。やっぱ、ハールーンむかつくぜ。
◆◆
館に戻り、寝室の灯りを消し、寝台に潜り込んでもアエリノールの記憶に燻る顔があった。
ネフィと名乗ったあの女。間違いなく、どこかで会っているはずだ。
舞踏会? それとも御前試合?
いや。
舞踏会など、興味のないアエリノールである。そんな所で会っていたのだとしても、このように気になることなどあるまい。
ならば、御前試合か?
それも、ありえない。この国には、アエリノールの記憶に留めおかれる程の達人などいないのだから。
ならば、どこで?
アエリノールは自らの記憶を辿る。
十年、二十年、百年……上位妖精族である彼女にとって、十年の歳月などひと時に過ぎない。けれど、あの女の面影は、そんなに最近の事ではないように思えるのだ。
そう、思い出した。やはりあの女はネフィなどではない。
ネフェルカーラ……あの忌々しい魔族の女。
人の世に干渉せぬが習いの上位妖精族の自分に、人と関わるきっかけを作った女。
だが、なぜこのような場所にいるのだろう?
疑念を疑念のままにするアエリノールではない。
彼女は、すぐに寝台から置きだして、着替え、剣を握り締めて館を後にする。
もしも、あの場所にネフェルカーラが留まっていれば良し。いなくても、今のアエリノールには、魔族を探す手段など幾らでもあるのだ。
何しろ、彼女は唯一神を奉ずる五大聖騎士団が一つ、聖光緑玉騎士団の団長なのだから。
ハールーンと主人公の入浴とか、誰得だよ? と思って書いてました。