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姉と弟

 ◆


 シャムシールから五万の軍を預かり五日。ハールーンは一路、マディーナとヘラートの中間地点へ向かっていた。

 進路でいうならば北東へ向かった訳だが、そのルートに街道はない。故に行軍は、ひたすら砂の大地を踏破する、という苦行だ。

 騎馬は砂に足を取られ、遅々として進まない。

 人は重い荷物を背負い、踝まで埋まる砂に辟易する。

 唯一、駱駝だけが背中の瘤を揺らしながら、悠々と足を進めていた。


 もっとも、ヘラート、マディーナ間にはささやかながら街道が存在する。

 街道といっても、所詮は沙漠の上。多少砂を固めてあり足場がしっかりしている、と云う程度。それも時期によっては砂に埋もれ、存在があやふやになるようなものだ。

 だが、それでもハールーンは街道の存在を有難く思うことにした。正直、砂漠と道を歩くのでは、速度が二倍は違うだろう。

 少人数の旅ならばともかく、軍事行動に道は欠かせないと、改めて思ったハールーンである。


 さて、ハールーンの目指す場所は、その街道だ。

 ドゥバーンは街道を放置すれば、ナセルが必ずマディーナを急襲するという。それも、自らが率いる軍を割いて。

 だからこそ、その最短距離である街道を押さえることが、今回ハールーンに与えられた最初の任務なのである。


 ハールーンが任務を知ったのは、純白の象に乗った爽やかな男が使者として現われたからだ。

 それ以前は、「北東を目指し、敵を撃滅せよ」――というアバウトな命令しか与えられず、やや閉口していたハールーンである。


 ちなみに使者は、ハールーンの行軍開始から三日後に現われた。

 そしてドゥバーンの策を聞いたハールーンは、開いた口を塞ぐ事を忘れる。


「いや、いくらなんでもそれは――そんな事が可能なのぉ?」


「ふん。悔しいが余はあの女――ドゥバーンのたった一言――たった一言の流言によって国を奪われたに等しい。となれば、今回も可能なのではないかな? 現に、今のところは全てがあの女の掌の上だ。

 余が直接この場にきたのも、情報の漏洩を極度に嫌ったあの女の考え。敵のシーリーンとやらいう女は、付与魔術に詳しいそうでな。此方の念話を聞くことも可能らしい。

 ――ともかく、詳しくはこの手紙に書いてあるそうだ。読めば納得も出来るだろうよ」


 苦笑するヴァルダマーナは、それほど悔しくもなさそうに一通の手紙をハールーンに渡した。


(へぇ、シーリーン姉さんって、やっぱり凄いんだなぁ。それにしても、そういう事は最初から言って欲しいよねぇ。いくら念話の盗聴が心配といっても、やりようはあるだろうにぃ。

 ……って、あれ? 国を奪われたに等しいって? この人はぁ?)


 不平顔をしていたハールーンは、使者がアーラヴィー国王ヴァルダマーナと知り、またも驚いた。


(何で一国の王が、使者なんかやっているのぉ?)


 不思議に思ったハールーンだったが、ヴァルダマーナは我関せず。

 必要な事をハールーンに伝えると、目をきょろきょろと動かし、目ざとくアーザーデを見つけた。


「いい女だな? な? ハールーン将軍のアレか?」


 そして小指を立てるヴァルダマーナ。


 ハールーンは曖昧に小首を傾げると、ヴァルダマーナはニンマリとした。


「なあ、ハールーン将軍。今日は、ここに泊まっていってもよいか? もしもあの女が望むならば――余と同衾してもらいたいのだが」


 はて、とハールーンは思った。

 ヴァルダマーナといえば、大変な愛妻家ではなかっただろうか?

 顎に指をあて、首を傾げるハールーンの顔は、どこか幼い。

 長い睫毛を伏せて悩ましげに「ふむ」といったハールーンに、ヴァルダマーナは少し妙な気分になった。


「いやな、シャムシール王の妻達を見ておったら、無性に羨ましくなってな。あ、いや、なんだ。何ならお主と同衾するのもいいな、な? あ、ああ、お主は男か? 男なのか? いや、男だよな? 男でもいいかもしれん……む? いや、それはダメだ。余の何かがダメになる気がする。すまん、少し混乱した」


 ハールーンは着痩せするし、髪も短髪という訳ではない。長い睫毛と整いすぎた容姿を見れば、もしかしたら闇妖精ダークエルフの女かもしれないと、ヴァルダマーナはちょっとだけ期待したのだ。


 言動の怪しいヴァルダマーナを胡乱な目で見たハールーンは、オレンジ髪を掻きながら苦笑する。


「やだなぁ、ボクは男ですよぉ。ヴァルダマーナさまは、第二夫人でも探していらっしゃるんですかぁ?」


 ハールーンの苦笑に、胸を締め付けられたヴァルダマーナは危険だった。

 新たな道に目覚めそうである。

 ハールーンなら、ハールーンなら、男でもいい。そんな気さえしてくるのだ。


 しかし――ヴァルダマーナの脳裏に、憤怒の形相を浮かべたパールヴァティが過ぎる。

 今宵、ここでアーザーデかハールーンと熱い一夜を共にしたとしよう。


(ばれたら、余の首は――飛ぶ――かもしれない)


「ば、馬鹿をいうな! 妻は一人で十分だ! 余、余はただ、誰かと一緒に眠りたかっただけなのだ! だが、ハールーン将軍も一人寝は寂しいだろう? そこな女性も、な。……そこで余が、このように申し入れてだな――」


 ヴァルダマーナの思考は、出張に行った恐妻家のサラリーマン――もとい愛妻家と同じであった。

 家は大切だが、外ではハメを外したいのだ。

 要するに、ろくでなしである。

 しかも妻の顔が過ぎり、結局ハメを外せないチキン野郎でもあった。言い訳まで述べている。

 ここでもしアーザーデと同衾したならば、ヴァルダマーナは狼に変わる気マンマンなのだ。

 ハールーンと同衾しても、狼に変わるだろう。いや――変わっていいのか?

 ヴァルダマーナは今、激しく欲望と恐怖がせめぎあっていた。

 

(結局、ばれなければいいのだ)


 これがヴァルダマーナの結論となる。


 サーリフを間近で見て育ったハールーンは、そんなヴァルダマーナを見て「なるほど」と思った。

 何しろサーリフも「エルミナーズ恐し」の一念で、彼女の生前、妾を持つことは無かったのだから。

 

 しかしハールーンは偉い。

 ヴァルダマーナの気持ちが解ったからといって、アーザーデを差し出したりはしなかった。

 自分が同衾する事も無い。

 いっそ、きっぱりと断ったのである。

 もっとも、断り方は微妙であったが。


「それじゃあ、ダメですぅ。アーザーデは小さな頃から共に育った、姉の様な存在。一夜の同衾では、大切にしていただけると思えませんからぁ。大切にして頂けないなら、ご紹介するのはお断りしますぅ。それにボクはシャムシール専用だから、もっとダメですぅ。うふふぅ」


 アーザーデは聞き耳を立てていただけに、がっかりした。

 

「アーザーデは俺の女だ!」


 というのをハールーンに求めることは無理だとしても、もう少し言い方があるではないか、と。

 ましてシャムシール陛下専用とは、どういう意味なのか、と。


 ヴァルダマーナは慄いた。

 シャムシール王は、男色家だったのか、と。

 なるほど、あれだけ美しい妻達を得ても、動じないはずである。童貞なのも、さもありなん。

 致し方ない。

 ハールーンがいるのだから。

 ハールーンは美しい。

 ヴァルダマーナは、何故か完敗だと思った。


(だが余は、そこまで変態にはなれぬ)


「ふむ」


 ヴァルダマーナは意外にも腕を組んで暫し考え込むと、あっさりと身を翻した。

 恐らくアーザーデの視線が常にハールーンへ向いている事に、気付いたのであろう。

 わりと目ざといヴァルダマーナは、どうでもいい時に気を使う。


「そう――か。お主はシャムシール陛下専用か、それは失礼した。アーザーデどのは、そのハールーン将軍の姉も同様では、余が口出しすることではないな。では、ハールーン将軍、せめて武運を祈らせてもらおう。それから――」


 一端言葉を切ると、笑顔を作ったヴァルダマーナ。褐色の肌から覗く白い歯は、国民達から大人気だ。輝く白い歯は、ハールーンと互角である。

 そして実は、その戦闘力も今は互角である。

 二人は短い会話の中で、互いの力量に気付いていた。

 ただ、ヴァルダマーナが気付いて、ハールーンが気付いていないことが一つ、あったのだ。


「戦となれば、己の生死さえ定かならず。ハールーン将軍。アーザーデどのを大切と思うなら、抱いてやるがよい。その者、お主を弟とは見ておらぬようだぞ? ――ああ、お主が女にも興味があるのなら、な」


 良い事を言った!

 そう考えるヴァルダマーナは、マントを翻して颯爽と象に乗る。


 一方でハールーンは、


「何を言い出してるの? コイツゥ?」


 と、訳がわからなかった。

 ハールーンは、男も女もどちらもいける。

 だが、現在好きな人はシャムシールだ。

 とはいえ、それが色恋かどうか、ハールーンには分からない。

 

 友情――そういえばそうだろう。

 愛情――だとしても、違和感を抱かない。


 だが、アーザーデを不幸にもしたくない。

 女性として魅力的だとも思う。

 けれどハールーンには、根本的な問題があった。

 かつて彼は、女として扱われた事があったのだ。

 それ故に、自分の性別がよく分からない――というより、男として機能出来ないのである。

 つまりEDだ。

 それは過去のトラウマと云ってもいいだろう。しかし同時に甘やかな思い出でもあるから、ハールーンは混乱するのである。


「パオーン!」


 象は長い鼻を高く掲げ、鳴き、大空に舞ってゆく。


 アーザーデは頬を染めて、ハールーンから目を逸らした。

 しかしハールーンは、胡乱な目でその様を見る。


(そっか、アーザーデは、ボクの事が好きなのかぁ。だったら普通は、悩まないんだろうなぁ)


 ともかくハールーンは、沙漠の行軍を再開したのである。


 ◆◆


 更に五日後。

 ハールーンは、ドゥバーンが指定した地点で陣を張っている。

 

 ドゥバーンの策は順調だと、連絡を逐一受けているから心配はしていない。

 ナセルはテヘラから六万をヘラートへ送り、リヤド、オロンテス、シラズからはカルス平原へ向け、合計十二万を送っているという。

 それと同時にシャムシールの後背を断つべくマディーナへの攻撃に、精鋭の別働隊を送るそうだ。

 つまりそれがナセルの策だと、ヴァルダマーナが携えたドゥバーンの手紙には書いてあった。

 ちなみにドゥバーンの文字はミミズが死んでぐったりしているような雰囲気で、ある意味達筆である。


 それにしても、テヘラはウルージ王の国だろう。どうしてそれをナセルが動かせるのか? そう不思議に思ったハールーンは、不意に眉を吊り上げた。


(裏でナセルと繋がっていたのか! あの売国奴ぉ!)


 わかってみた所で、作戦に変更はない。

 大体、ウルージが売国奴だとするならば、シャムシールは簒奪者になりそうだ。

 どちらにしても、現体制の崩壊は止まらない。


 そこでハールーンの任務だが、それはナセルの策を悉く妨害することにある。

 一つは、ナセルが本隊から切り離してマディーナへ送るであろう部隊を撃破すること。これにより、シャムシールは後背の憂いなく戦うことが出来る。

 その為にこそ、ヘラート、マディーナ間を結ぶ街道を封鎖するのだ。

 もう一つは、ヘラートの北方から現われるであろうテヘラ軍を撃滅すること――だ。

 それがなって、初めてヘラートが解放される。


 しかしナセル軍本隊がどうなるのか、ハールーンの不安は尽きない。


(本当に、ドゥバーンの策に引きずられているのだろうか?)


 もしもダスターン軍が去った後、ヘラートにナセルが居残っていたならば、ハールーンは危地に陥る。とにかく今はドゥバーンを信じるしかないハールーンだった。


 それにしてもドゥバーンは、一体何処でナセルとウルージが結んでいることに気付いたのであろう。

 ウルージがフェリドゥーンを暗殺した――その情報からここに結びつけたなら、些か短絡的ではないだろうか? とも思うハールーンだ。


(いや、そんな事も無いか――。現実的に考えて、フェリドーンを暗殺したウルージが取れる行動は、それほど多くない。プロンデルかナセル――或いは北に抜けて魔族イブリーズの庇護を受ける。その三択の中で、もっともウルージが有利になるのは、ナセルと結ぶ事――必然かぁ)


 どちらにしてもハールーンは五万の兵を率い、立て続けに二戦して二勝しなければならないらしい。

 割と貧乏くじを引いたようにも思えるが、五万で三十万弱の兵とあたるシャムシールを思えば楽だろう。


 ともかくドゥバーンの見立ては正しかった。

 ナセル軍は本隊から三万を切り離し、シーリーンを主将として此方へ送り込んでいる。

 ハールーンは遠方から迫る人馬の影を見て、心を曇らせた。

 敵将がシーリーンだと分かったからだ。


 ナセルの旗は、黒地に銀の鷲が描かれている。

 だがシーリーンだけは、それを赤地にすることが許されていた。


 シーリーンは闇隊ザラームに匹敵する情報組織、暗殺団アサシンの長だった。

 そして現在のシーリーンは、ナセル麾下の上将軍アル・アーミル

 即ち真紅の地が意味する所は、それ全て、彼女が吸い上げた”血”という意味である。

 

 ハールーンは、姉に負けると思わない。

 そもそも五万対三万で、兵力の上でも此方が有利なのだ。それに――シャムシールから貰った”現界の記録(カフカス・レコーズ)”によって、自身が英霊体質であると気付いたハールーンである。

 負ける要素がないのだ。


(だけど、姉さんは降伏なんかしない)


 そう思えばこそ、ハールーンの心は曇るのだ。


(では、姉を殺すのか?)


 ハールーンは、その考えを慌てて否定する為に、大きく首を左右に振った。

 

(戦って、勝つ。それ以上は――分からない。だけど、ドゥバーンは知っていたんだ。シーリーンが、姉さんがここにくるって。もしもボク以外が姉さんと戦って、それで殺したりしたら、きっとボクはその人を恨むだろう……それが例え、シャムシールでも……)


 考えを纏めると、ハールーンは馬から愛竜へ移乗する。

 

「ウィンドストーム!」


 大空へと舞い上がったハールーンは、上空から敵の陣形を確認する。

 隙がなく、見事な陣形だった。

 いくら兵力に差があるといっても、シーリーンは大規模殲滅魔法を持った戦術級魔術師だ。

 魔法の使い方によっては、簡単に戦局を変える事が出来る。

 アーザーデも戦術級ではあるが、恐らくシーリーンには及ばないだろう。

 やはりハールーンは自分がシーリーンを抑えるしかないと覚悟して、アーザーデに指揮権を委ねる事にした。


 ◆◆◆


 アーザーデは馬上で声を張り上げる。


「前進せよっ!」


 目一杯伸ばした横陣が、整然と敵に向かって歩き出す。

 敵は騎馬や駱駝が目立つが、此方は歩兵が主体だった。

 騎兵は少しでもプロンデルの機動力に対抗する為、シャムシールが多く率いている。

 駱駝もいるが、食料や資材の運搬が主で、戦闘用は少ない。

 そもそもシャムシール軍は、あえて駱駝よりも騎馬を重用していた。

 それはネフェルカーラがもとより、シバール平定後の事を考えていたからである。

 取らぬ狸の皮算用――まさしくネフェルカーラにぴったりの言葉だ。


 正午を少し過ぎた頃。

 気温は一日で最も高い時刻に差し掛かる。

 正面に敵。頭上は照りつける太陽があり、足元には熱砂。

 大よそ人が活動すべき時ではないし、場所でもない。

 そんな所で互いの兵達は、表情が視認出来る位置まで近づいていた。

 

「「全軍突撃フジューム!」」


 両軍から叫び声が聞こえたのは、ほぼ同時だ。

 

 ハールーンはウィンドストームを上昇から下降へ転じ、ソニックブームを巻き起こしながら敵の騎兵へ突入してゆく。

 

 オレンジ色の髪を靡かせて、万の騎兵にただ一人突入するハールーンを無謀と見たのは、シーリーンだけではない。

 敵将シャムシールならばいざしらず、何故、我が弟がそのような無茶をするのか? 

 理解が出来ないシーリーンは、後方から迎撃の為、魔法を放つ。

 

炎槍ナール・ハルバッ!」


 シーリーンの放った炎の槍は、三本だった。

 音速で飛来するハールーンより、速い。さながら迎撃ミサイルのようだ。

 しかしハールーンに一切の迷いはない。

 曲刀を抜き放つと、ただ水平に一閃しただけである。


「絶対切断――」


 僅かばかり目を細めたハールーンの剣は、三本の槍を同時に切り裂いた。

 六つに裂けた炎の槍は火球となり、ついで消えた。


「なっ……」


 シーリーンは驚き、口元を押さえて瞼を瞬かせる。

 数ヶ月前のハールーンは、あの魔法になす術も無く退いたはず。

 しかし今のハールーンは、魔法に動じる事も無く、既に騎兵の蹂躙を始めていた。


 ハールーンは姉の放ったであろう炎槍ナール・ハルバを防げた事に、ホッと胸を撫で下ろす。

 ハールーンの力は、”絶対切断”だ。

 これは”絶対破壊”や”絶対防御”と並ぶ、人類最高の力である。

 その事を頭では理解していたハールーンだが、実戦で使うのは今日が初めてだった。

 だからさっきも迷いが無い様に見えて、


(ホントに斬れるかなぁ?)


 なんて思っていたりもした。


 だが、ここまでくればもう、ハールーン無双である。

 曲刀が敵に触れさえすれば、絶対に斬れるのだ。

 防御不可能な攻撃である。

 敵騎兵の足は、ハールーンの出鱈目な強さに押され、酷く鈍ってゆく。

 

 ハールーンが戦っていると、アーザーデの指揮により歩兵が最前線に到着した。

 いつの間にかシーリーン軍は三方をハールーン軍に囲まれ、防戦一方となってしまう。


(くっ、ハールーンを舐めていた訳ではないけれど、少ない兵力で勝とうなんて、私の思い上がりだったわ)


「陣形を再編するっ! 再編しつつ後退! 重装兵を前に! 弓隊、弩隊は敵将だけを狙えっ! 私は極大魔法を使うっ!」


 シーリーンは兵を下げ、体勢を立て直そうと、馬上から叫ぶ。

 馬が動くたび、シーリーンの豊かな胸は革の胸甲と共に揺れるが、部下達がそれに見惚れる余裕はなかった。

 

 鼓が打ち鳴らされ、怒号と共に部隊の再編命令が駆け巡る。


 同時に、魔法兵に強力な結界を張るよう、シーリーンは命令を下した。

 自身は集中力を高め、ハールーン軍の本陣を目掛けて、殲滅魔法を準備するシーリーンだ。

 瞼を閉じて、心を静かにするシーリーン。 

 シーリーンはまだ若い。

 それは、見た目だけの事ではない。

 彼女は妖精エルフ魔族イブリーズ達と違い、正真正銘の二十五歳だ。

 にもかかわらず、”隕石召喚ハグル・ナイザキ”を始めとして、条件さえ整えれば、転移魔法さえ扱える。

 ――シーリーンは天才なのだ。その才能は、ジャンヌ・ド・ヴァンドームに匹敵し得るだろう。


 シーリーンは天才ゆえに、自ら魔法を生み出す事が出来る。

 そして彼女は考え、気付いたのだ。

 隕石を召喚出来るのならば、火山も召喚出来るはずではないか、と。


 だが、隕石と違って火山は大地と炎が密接に関係している――ならば――そうか、炎の精霊王ジンニー・アファーリート


 こうしてシーリーンは本人も気付かぬままに、精霊魔法エレメンタルの最高峰に至っていたのである。


 アーザーデの巧みな包囲戦術を抜け出したシーリーン軍は、騎馬を下げ、重装歩兵が前に出る。

 前に出た歩兵達は結界に守られつつも、更に盾を前に翳して亀のような隊形を作った。

 後退しつつも陣形の再編成を、シーリーンはやってのけたのだ。

 その上、極大魔法の準備をしているのだから、シーリーンの力は末恐ろしい。

 もしも彼女があと二千年生きたなら、ジャンヌと互角の魔力を持ち、ネフェルカーラの如き破壊魔法を使い、アエリノールに比肩する剣を操ることだろう。


 ハールーンは、ふと背筋に寒気を覚える。


(姉さんが、何かを狙っている)


 竜首を返し、本陣にいるアーザーデの下へ急ぐハールーン。


 ”ゴゴゴゴゴゴゴ”


 大地が揺れて、轟音が響く。

 沙漠が徐々に盛り上がってゆき、ハールーン軍の本陣がせり上がる様が見えた。


”ドドォーン”


「怒れる炎の精霊王ジンニー・アファーリート。――大地に眠る力と共に、我が前に顕現せよ。噴火サワラーン


 シーリーンの詠唱は終わった。

 シーリーンの跨る馬さえ、怯えて嘶き、前足を高く持ち上げている。

 それ程に、辺りの様子は一変していた。


 沙漠の中央に隆起した岩山は、その中ほどから赤黒い砲弾のような溶岩を撒き散らす。

 同時に噴煙が辺りに充満し、ハールーン軍は視界を失った。それらはしかも、ただ視界を塞ぐだけではない。熱いのだ。魔力によって自らの身を守れない者は、次々と倒れる程に。

 さらに火口から溢れ出る赤々としたマグマが、次々とハールーン軍本陣の兵を飲み込んでゆく。


 だがハールーンはアーザーデを既の所で抱きかかえ、救う事に成功していた。

 流石にこの状況では、アーザーデも顔を青くしている。

 しかしすぐさまハールーンの背にしがみ付くと、状況を確認しつつ、対応可能な魔法を脳裏に浮かべた。

 滑空する竜に乗っていれば、安全という訳でもない。

 大地からの熱は上空にも伝わってくるし、火口から噴出す溶岩が猛烈な勢いで迫ってくるのだ。


「こ、これは――一体? 精霊王の気配を感じます。一体、何を媒体ににすれば、これ程強力な炎の精霊王ジンニー・アファーリートを使役できるというの……」


 アーザーデの言葉に対し、曖昧に頷くハールーンは、状況に眉を顰める。


「でも、だからといってやらせはしないっ! ――豪雨マタル・ガゼィールよ! 大地に恵みをっ!」


 アーザーデは、流石だった。

 敵が使った魔法が火ならば、水で静めればいい。当然の帰結だが、アーザーデは火が族の出身だ。

 しかし火が族の出身でありながら、水系統の精霊魔法エレメンタルもよく使う。滅多にいる人材ではなかった。

 とはいえ、シーリーンとアーザーデの地力に差があることは仕方が無い。

 ある程度の炎を抑えるとアーザーデは肩で大きく息をして、倒れ込む様にハールーンの背に身を寄せた。


 戦場の変化は目まぐるしい。

 溶岩に雨が当たり水蒸気が立ち込めると、戦場はさらに見通しの利かない場当たり的な空間となっていた。

 

 ハールーンも全魔力を解放して、古代語魔法エンシェントによる結界を出来るだけ多くの兵へ掛けてゆく。

 そんな事をせずにシーリーンを倒しにいけばよさそうなものだが、この期に及んで、未だハールーンの中には迷いがあった。

 それに、後ろで弱弱しく自身の腰を掴むアーザーデに、ウィンドストームの最大戦速は耐えられないだろう。

 そう思ったハールーンだ。


 しかしハールーンが望まずとも、姉は弟を退けたかった。

 退けねば、ナセルに与えられた任務が達成出来ないのだから。


炎槍ナール・ハルバッ!」


 濛々と立ち込める水蒸気の中、背後から炎の槍が迫った。

 ハールーンの反応が一瞬遅れたことで、アーザーデの背中に”それ”は直撃してしまう。


「ぐうっ!」


 短い悲鳴が上がり、アーザーデの口から血が零れ落ちる。

 ハールーンの白い戦衣に、真紅の染みが出来た。


「アーザーデ姉さんっ!」


「アーザーデ?」


 白い煙幕の様な水蒸気が晴れてゆくと、宙に浮かぶ影がハールーンの前に現われた。

 やはりそれは、シーリーンだ。


「なんていうことを……してくれたんだ、姉さんっ!」


「ま、待って、ハールーン。その子が、アーザーデだとでも言うの?」


「それ以外の、誰に見えるっていうんだっ!」


 ぐったりとして落下しそうになるアーザーデを左手で抱きとめると、憤怒の形相を浮かべたハールーンはウィンドストームを駆った。

 

 ハールーンの怒りを代弁するかのようにウィンドストームが、火炎を吐き出した。

 しかしそれは当然の如く、片手でシーリーンにかき消される。

 竜として多少のショックを受けたウィンドストームだが、持ち前の優速でシーリーンに迫った。


 ハールーンは曲刀を構え、真っ直ぐに突く。

 曲刀は突く武器ではない。

 しかしハールーンにとって、そんな事は問題にならなかった。

 ”絶対切断”という力の前には、攻撃の特性など意味が無い。

 

 ハールーンの曲刀は、シーリーンの右肩を切り裂き、貫く。

 だが、怒りに任せても尚、ハールーンの刃は鈍かった。

 そこで下へと斬り下げれば、シーリーンの身体は分断されるのだ。


「ハールーン……まって……シーリーンさまを、殺しては、だ、め」


 ハールーンの腕の中、苦しげに息をするアーザーデは、うっすらと目を開ける。

 瞬間、ハールーンはシーリーンの肩から曲刀を退く。


「ヨ、治癒ヨアーレグ・リーナ


 血の滲む肩口を押さえつつ、シーリーンが治癒を施したのはアーザーデだった。


「わ、私とてアーザーデと認識していれば、攻撃など……いや……今は敵、なのか」


 不意に慈愛の表情を浮かべたシーリーンに、ハールーンは何もいえなかった。

 ただ、呼吸の整ったアーザーデが微笑を浮かべ、ハールーンに頷いている。

 

 ハールーンは眼下を見て、混戦を知った。


 シーリーンは、自らに治癒をかけることなく、落下してゆく。

 魔力が尽きたのか、それとも逃げたのか判然としない。

 結局、濛々とたゆたう霧状の靄が、シーリーンの姿を隠した。

 

 空が漆黒に染まり、無数の隕石が浮かぶ。

 やはりシーリーンは、魔術師らしくハールーンから距離を取っただけのようだ。

 視認されない位置から、”隕石召喚ハグル・ナイザキ”を使ってきた。


 隕石は次々と落下し、ハールーン軍に襲い掛かる。

 ハールーンは隕石を斬った。斬りまくった。

 ウィンドストームは速く、ハールーンの斬撃は正確だ。

 隕石の多くは、ハールーンに食い止められた。


 無限かと思われた隕石群が、あと数個になった。

 シーリーンによる殲滅魔法は、打ち止めになったようだ。


 ハールーンは隕石を斬り尽くすと、奥歯を噛み締め、下降し、敵に向かう。

 自分の甘さから、味方に多くの被害を齎した事が許せないハールーンだった。


 ここから先のハールーンは、ただただ敵を蹂躙した。

 シーリーンの存在を無視して、ひたすらに。

 

 結果として一万を失ったハールーン軍は、シーリーン軍を壊滅させた。

 そして――シーリーンは行方知れずとなった。 

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