姉と弟
◆
シャムシールから五万の軍を預かり五日。ハールーンは一路、マディーナとヘラートの中間地点へ向かっていた。
進路でいうならば北東へ向かった訳だが、そのルートに街道はない。故に行軍は、ひたすら砂の大地を踏破する、という苦行だ。
騎馬は砂に足を取られ、遅々として進まない。
人は重い荷物を背負い、踝まで埋まる砂に辟易する。
唯一、駱駝だけが背中の瘤を揺らしながら、悠々と足を進めていた。
もっとも、ヘラート、マディーナ間にはささやかながら街道が存在する。
街道といっても、所詮は沙漠の上。多少砂を固めてあり足場がしっかりしている、と云う程度。それも時期によっては砂に埋もれ、存在があやふやになるようなものだ。
だが、それでもハールーンは街道の存在を有難く思うことにした。正直、砂漠と道を歩くのでは、速度が二倍は違うだろう。
少人数の旅ならばともかく、軍事行動に道は欠かせないと、改めて思ったハールーンである。
さて、ハールーンの目指す場所は、その街道だ。
ドゥバーンは街道を放置すれば、ナセルが必ずマディーナを急襲するという。それも、自らが率いる軍を割いて。
だからこそ、その最短距離である街道を押さえることが、今回ハールーンに与えられた最初の任務なのである。
ハールーンが任務を知ったのは、純白の象に乗った爽やかな男が使者として現われたからだ。
それ以前は、「北東を目指し、敵を撃滅せよ」――というアバウトな命令しか与えられず、やや閉口していたハールーンである。
ちなみに使者は、ハールーンの行軍開始から三日後に現われた。
そしてドゥバーンの策を聞いたハールーンは、開いた口を塞ぐ事を忘れる。
「いや、いくらなんでもそれは――そんな事が可能なのぉ?」
「ふん。悔しいが余はあの女――ドゥバーンのたった一言――たった一言の流言によって国を奪われたに等しい。となれば、今回も可能なのではないかな? 現に、今のところは全てがあの女の掌の上だ。
余が直接この場にきたのも、情報の漏洩を極度に嫌ったあの女の考え。敵のシーリーンとやらいう女は、付与魔術に詳しいそうでな。此方の念話を聞くことも可能らしい。
――ともかく、詳しくはこの手紙に書いてあるそうだ。読めば納得も出来るだろうよ」
苦笑するヴァルダマーナは、それほど悔しくもなさそうに一通の手紙をハールーンに渡した。
(へぇ、シーリーン姉さんって、やっぱり凄いんだなぁ。それにしても、そういう事は最初から言って欲しいよねぇ。いくら念話の盗聴が心配といっても、やりようはあるだろうにぃ。
……って、あれ? 国を奪われたに等しいって? この人はぁ?)
不平顔をしていたハールーンは、使者がアーラヴィー国王ヴァルダマーナと知り、またも驚いた。
(何で一国の王が、使者なんかやっているのぉ?)
不思議に思ったハールーンだったが、ヴァルダマーナは我関せず。
必要な事をハールーンに伝えると、目をきょろきょろと動かし、目ざとくアーザーデを見つけた。
「いい女だな? な? ハールーン将軍のアレか?」
そして小指を立てるヴァルダマーナ。
ハールーンは曖昧に小首を傾げると、ヴァルダマーナはニンマリとした。
「なあ、ハールーン将軍。今日は、ここに泊まっていってもよいか? もしもあの女が望むならば――余と同衾してもらいたいのだが」
はて、とハールーンは思った。
ヴァルダマーナといえば、大変な愛妻家ではなかっただろうか?
顎に指をあて、首を傾げるハールーンの顔は、どこか幼い。
長い睫毛を伏せて悩ましげに「ふむ」といったハールーンに、ヴァルダマーナは少し妙な気分になった。
「いやな、シャムシール王の妻達を見ておったら、無性に羨ましくなってな。あ、いや、なんだ。何ならお主と同衾するのもいいな、な? あ、ああ、お主は男か? 男なのか? いや、男だよな? 男でもいいかもしれん……む? いや、それはダメだ。余の何かがダメになる気がする。すまん、少し混乱した」
ハールーンは着痩せするし、髪も短髪という訳ではない。長い睫毛と整いすぎた容姿を見れば、もしかしたら闇妖精の女かもしれないと、ヴァルダマーナはちょっとだけ期待したのだ。
言動の怪しいヴァルダマーナを胡乱な目で見たハールーンは、オレンジ髪を掻きながら苦笑する。
「やだなぁ、ボクは男ですよぉ。ヴァルダマーナさまは、第二夫人でも探していらっしゃるんですかぁ?」
ハールーンの苦笑に、胸を締め付けられたヴァルダマーナは危険だった。
新たな道に目覚めそうである。
ハールーンなら、ハールーンなら、男でもいい。そんな気さえしてくるのだ。
しかし――ヴァルダマーナの脳裏に、憤怒の形相を浮かべたパールヴァティが過ぎる。
今宵、ここでアーザーデかハールーンと熱い一夜を共にしたとしよう。
(ばれたら、余の首は――飛ぶ――かもしれない)
「ば、馬鹿をいうな! 妻は一人で十分だ! 余、余はただ、誰かと一緒に眠りたかっただけなのだ! だが、ハールーン将軍も一人寝は寂しいだろう? そこな女性も、な。……そこで余が、このように申し入れてだな――」
ヴァルダマーナの思考は、出張に行った恐妻家のサラリーマン――もとい愛妻家と同じであった。
家は大切だが、外ではハメを外したいのだ。
要するに、ろくでなしである。
しかも妻の顔が過ぎり、結局ハメを外せないチキン野郎でもあった。言い訳まで述べている。
ここでもしアーザーデと同衾したならば、ヴァルダマーナは狼に変わる気マンマンなのだ。
ハールーンと同衾しても、狼に変わるだろう。いや――変わっていいのか?
ヴァルダマーナは今、激しく欲望と恐怖がせめぎあっていた。
(結局、ばれなければいいのだ)
これがヴァルダマーナの結論となる。
サーリフを間近で見て育ったハールーンは、そんなヴァルダマーナを見て「なるほど」と思った。
何しろサーリフも「エルミナーズ恐し」の一念で、彼女の生前、妾を持つことは無かったのだから。
しかしハールーンは偉い。
ヴァルダマーナの気持ちが解ったからといって、アーザーデを差し出したりはしなかった。
自分が同衾する事も無い。
いっそ、きっぱりと断ったのである。
もっとも、断り方は微妙であったが。
「それじゃあ、ダメですぅ。アーザーデは小さな頃から共に育った、姉の様な存在。一夜の同衾では、大切にしていただけると思えませんからぁ。大切にして頂けないなら、ご紹介するのはお断りしますぅ。それにボクはシャムシール専用だから、もっとダメですぅ。うふふぅ」
アーザーデは聞き耳を立てていただけに、がっかりした。
「アーザーデは俺の女だ!」
というのをハールーンに求めることは無理だとしても、もう少し言い方があるではないか、と。
ましてシャムシール陛下専用とは、どういう意味なのか、と。
ヴァルダマーナは慄いた。
シャムシール王は、男色家だったのか、と。
なるほど、あれだけ美しい妻達を得ても、動じないはずである。童貞なのも、さもありなん。
致し方ない。
ハールーンがいるのだから。
ハールーンは美しい。
ヴァルダマーナは、何故か完敗だと思った。
(だが余は、そこまで変態にはなれぬ)
「ふむ」
ヴァルダマーナは意外にも腕を組んで暫し考え込むと、あっさりと身を翻した。
恐らくアーザーデの視線が常にハールーンへ向いている事に、気付いたのであろう。
わりと目ざといヴァルダマーナは、どうでもいい時に気を使う。
「そう――か。お主はシャムシール陛下専用か、それは失礼した。アーザーデどのは、そのハールーン将軍の姉も同様では、余が口出しすることではないな。では、ハールーン将軍、せめて武運を祈らせてもらおう。それから――」
一端言葉を切ると、笑顔を作ったヴァルダマーナ。褐色の肌から覗く白い歯は、国民達から大人気だ。輝く白い歯は、ハールーンと互角である。
そして実は、その戦闘力も今は互角である。
二人は短い会話の中で、互いの力量に気付いていた。
ただ、ヴァルダマーナが気付いて、ハールーンが気付いていないことが一つ、あったのだ。
「戦となれば、己の生死さえ定かならず。ハールーン将軍。アーザーデどのを大切と思うなら、抱いてやるがよい。その者、お主を弟とは見ておらぬようだぞ? ――ああ、お主が女にも興味があるのなら、な」
良い事を言った!
そう考えるヴァルダマーナは、マントを翻して颯爽と象に乗る。
一方でハールーンは、
「何を言い出してるの? コイツゥ?」
と、訳がわからなかった。
ハールーンは、男も女もどちらもいける。
だが、現在好きな人はシャムシールだ。
とはいえ、それが色恋かどうか、ハールーンには分からない。
友情――そういえばそうだろう。
愛情――だとしても、違和感を抱かない。
だが、アーザーデを不幸にもしたくない。
女性として魅力的だとも思う。
けれどハールーンには、根本的な問題があった。
かつて彼は、女として扱われた事があったのだ。
それ故に、自分の性別がよく分からない――というより、男として機能出来ないのである。
つまりEDだ。
それは過去のトラウマと云ってもいいだろう。しかし同時に甘やかな思い出でもあるから、ハールーンは混乱するのである。
「パオーン!」
象は長い鼻を高く掲げ、鳴き、大空に舞ってゆく。
アーザーデは頬を染めて、ハールーンから目を逸らした。
しかしハールーンは、胡乱な目でその様を見る。
(そっか、アーザーデは、ボクの事が好きなのかぁ。だったら普通は、悩まないんだろうなぁ)
ともかくハールーンは、沙漠の行軍を再開したのである。
◆◆
更に五日後。
ハールーンは、ドゥバーンが指定した地点で陣を張っている。
ドゥバーンの策は順調だと、連絡を逐一受けているから心配はしていない。
ナセルはテヘラから六万をヘラートへ送り、リヤド、オロンテス、シラズからはカルス平原へ向け、合計十二万を送っているという。
それと同時にシャムシールの後背を断つべくマディーナへの攻撃に、精鋭の別働隊を送るそうだ。
つまりそれがナセルの策だと、ヴァルダマーナが携えたドゥバーンの手紙には書いてあった。
ちなみにドゥバーンの文字はミミズが死んでぐったりしているような雰囲気で、ある意味達筆である。
それにしても、テヘラはウルージ王の国だろう。どうしてそれをナセルが動かせるのか? そう不思議に思ったハールーンは、不意に眉を吊り上げた。
(裏でナセルと繋がっていたのか! あの売国奴ぉ!)
わかってみた所で、作戦に変更はない。
大体、ウルージが売国奴だとするならば、シャムシールは簒奪者になりそうだ。
どちらにしても、現体制の崩壊は止まらない。
そこでハールーンの任務だが、それはナセルの策を悉く妨害することにある。
一つは、ナセルが本隊から切り離してマディーナへ送るであろう部隊を撃破すること。これにより、シャムシールは後背の憂いなく戦うことが出来る。
その為にこそ、ヘラート、マディーナ間を結ぶ街道を封鎖するのだ。
もう一つは、ヘラートの北方から現われるであろうテヘラ軍を撃滅すること――だ。
それがなって、初めてヘラートが解放される。
しかしナセル軍本隊がどうなるのか、ハールーンの不安は尽きない。
(本当に、ドゥバーンの策に引きずられているのだろうか?)
もしもダスターン軍が去った後、ヘラートにナセルが居残っていたならば、ハールーンは危地に陥る。とにかく今はドゥバーンを信じるしかないハールーンだった。
それにしてもドゥバーンは、一体何処でナセルとウルージが結んでいることに気付いたのであろう。
ウルージがフェリドゥーンを暗殺した――その情報からここに結びつけたなら、些か短絡的ではないだろうか? とも思うハールーンだ。
(いや、そんな事も無いか――。現実的に考えて、フェリドーンを暗殺したウルージが取れる行動は、それほど多くない。プロンデルかナセル――或いは北に抜けて魔族の庇護を受ける。その三択の中で、もっともウルージが有利になるのは、ナセルと結ぶ事――必然かぁ)
どちらにしてもハールーンは五万の兵を率い、立て続けに二戦して二勝しなければならないらしい。
割と貧乏くじを引いたようにも思えるが、五万で三十万弱の兵とあたるシャムシールを思えば楽だろう。
ともかくドゥバーンの見立ては正しかった。
ナセル軍は本隊から三万を切り離し、シーリーンを主将として此方へ送り込んでいる。
ハールーンは遠方から迫る人馬の影を見て、心を曇らせた。
敵将がシーリーンだと分かったからだ。
ナセルの旗は、黒地に銀の鷲が描かれている。
だがシーリーンだけは、それを赤地にすることが許されていた。
シーリーンは闇隊に匹敵する情報組織、暗殺団の長だった。
そして現在のシーリーンは、ナセル麾下の上将軍。
即ち真紅の地が意味する所は、それ全て、彼女が吸い上げた”血”という意味である。
ハールーンは、姉に負けると思わない。
そもそも五万対三万で、兵力の上でも此方が有利なのだ。それに――シャムシールから貰った”現界の記録”によって、自身が英霊体質であると気付いたハールーンである。
負ける要素がないのだ。
(だけど、姉さんは降伏なんかしない)
そう思えばこそ、ハールーンの心は曇るのだ。
(では、姉を殺すのか?)
ハールーンは、その考えを慌てて否定する為に、大きく首を左右に振った。
(戦って、勝つ。それ以上は――分からない。だけど、ドゥバーンは知っていたんだ。シーリーンが、姉さんがここにくるって。もしもボク以外が姉さんと戦って、それで殺したりしたら、きっとボクはその人を恨むだろう……それが例え、シャムシールでも……)
考えを纏めると、ハールーンは馬から愛竜へ移乗する。
「ウィンドストーム!」
大空へと舞い上がったハールーンは、上空から敵の陣形を確認する。
隙がなく、見事な陣形だった。
いくら兵力に差があるといっても、シーリーンは大規模殲滅魔法を持った戦術級魔術師だ。
魔法の使い方によっては、簡単に戦局を変える事が出来る。
アーザーデも戦術級ではあるが、恐らくシーリーンには及ばないだろう。
やはりハールーンは自分がシーリーンを抑えるしかないと覚悟して、アーザーデに指揮権を委ねる事にした。
◆◆◆
アーザーデは馬上で声を張り上げる。
「前進せよっ!」
目一杯伸ばした横陣が、整然と敵に向かって歩き出す。
敵は騎馬や駱駝が目立つが、此方は歩兵が主体だった。
騎兵は少しでもプロンデルの機動力に対抗する為、シャムシールが多く率いている。
駱駝もいるが、食料や資材の運搬が主で、戦闘用は少ない。
そもそもシャムシール軍は、あえて駱駝よりも騎馬を重用していた。
それはネフェルカーラがもとより、シバール平定後の事を考えていたからである。
取らぬ狸の皮算用――まさしくネフェルカーラにぴったりの言葉だ。
正午を少し過ぎた頃。
気温は一日で最も高い時刻に差し掛かる。
正面に敵。頭上は照りつける太陽があり、足元には熱砂。
大よそ人が活動すべき時ではないし、場所でもない。
そんな所で互いの兵達は、表情が視認出来る位置まで近づいていた。
「「全軍突撃!」」
両軍から叫び声が聞こえたのは、ほぼ同時だ。
ハールーンはウィンドストームを上昇から下降へ転じ、ソニックブームを巻き起こしながら敵の騎兵へ突入してゆく。
オレンジ色の髪を靡かせて、万の騎兵にただ一人突入するハールーンを無謀と見たのは、シーリーンだけではない。
敵将シャムシールならばいざしらず、何故、我が弟がそのような無茶をするのか?
理解が出来ないシーリーンは、後方から迎撃の為、魔法を放つ。
「炎槍ッ!」
シーリーンの放った炎の槍は、三本だった。
音速で飛来するハールーンより、速い。さながら迎撃ミサイルのようだ。
しかしハールーンに一切の迷いはない。
曲刀を抜き放つと、ただ水平に一閃しただけである。
「絶対切断――」
僅かばかり目を細めたハールーンの剣は、三本の槍を同時に切り裂いた。
六つに裂けた炎の槍は火球となり、ついで消えた。
「なっ……」
シーリーンは驚き、口元を押さえて瞼を瞬かせる。
数ヶ月前のハールーンは、あの魔法になす術も無く退いたはず。
しかし今のハールーンは、魔法に動じる事も無く、既に騎兵の蹂躙を始めていた。
ハールーンは姉の放ったであろう炎槍を防げた事に、ホッと胸を撫で下ろす。
ハールーンの力は、”絶対切断”だ。
これは”絶対破壊”や”絶対防御”と並ぶ、人類最高の力である。
その事を頭では理解していたハールーンだが、実戦で使うのは今日が初めてだった。
だからさっきも迷いが無い様に見えて、
(ホントに斬れるかなぁ?)
なんて思っていたりもした。
だが、ここまでくればもう、ハールーン無双である。
曲刀が敵に触れさえすれば、絶対に斬れるのだ。
防御不可能な攻撃である。
敵騎兵の足は、ハールーンの出鱈目な強さに押され、酷く鈍ってゆく。
ハールーンが戦っていると、アーザーデの指揮により歩兵が最前線に到着した。
いつの間にかシーリーン軍は三方をハールーン軍に囲まれ、防戦一方となってしまう。
(くっ、ハールーンを舐めていた訳ではないけれど、少ない兵力で勝とうなんて、私の思い上がりだったわ)
「陣形を再編するっ! 再編しつつ後退! 重装兵を前に! 弓隊、弩隊は敵将だけを狙えっ! 私は極大魔法を使うっ!」
シーリーンは兵を下げ、体勢を立て直そうと、馬上から叫ぶ。
馬が動くたび、シーリーンの豊かな胸は革の胸甲と共に揺れるが、部下達がそれに見惚れる余裕はなかった。
鼓が打ち鳴らされ、怒号と共に部隊の再編命令が駆け巡る。
同時に、魔法兵に強力な結界を張るよう、シーリーンは命令を下した。
自身は集中力を高め、ハールーン軍の本陣を目掛けて、殲滅魔法を準備するシーリーンだ。
瞼を閉じて、心を静かにするシーリーン。
シーリーンはまだ若い。
それは、見た目だけの事ではない。
彼女は妖精や魔族達と違い、正真正銘の二十五歳だ。
にもかかわらず、”隕石召喚”を始めとして、条件さえ整えれば、転移魔法さえ扱える。
――シーリーンは天才なのだ。その才能は、ジャンヌ・ド・ヴァンドームに匹敵し得るだろう。
シーリーンは天才ゆえに、自ら魔法を生み出す事が出来る。
そして彼女は考え、気付いたのだ。
隕石を召喚出来るのならば、火山も召喚出来るはずではないか、と。
だが、隕石と違って火山は大地と炎が密接に関係している――ならば――そうか、炎の精霊王。
こうしてシーリーンは本人も気付かぬままに、精霊魔法の最高峰に至っていたのである。
アーザーデの巧みな包囲戦術を抜け出したシーリーン軍は、騎馬を下げ、重装歩兵が前に出る。
前に出た歩兵達は結界に守られつつも、更に盾を前に翳して亀のような隊形を作った。
後退しつつも陣形の再編成を、シーリーンはやってのけたのだ。
その上、極大魔法の準備をしているのだから、シーリーンの力は末恐ろしい。
もしも彼女があと二千年生きたなら、ジャンヌと互角の魔力を持ち、ネフェルカーラの如き破壊魔法を使い、アエリノールに比肩する剣を操ることだろう。
ハールーンは、ふと背筋に寒気を覚える。
(姉さんが、何かを狙っている)
竜首を返し、本陣にいるアーザーデの下へ急ぐハールーン。
”ゴゴゴゴゴゴゴ”
大地が揺れて、轟音が響く。
沙漠が徐々に盛り上がってゆき、ハールーン軍の本陣がせり上がる様が見えた。
”ドドォーン”
「怒れる炎の精霊王。――大地に眠る力と共に、我が前に顕現せよ。噴火」
シーリーンの詠唱は終わった。
シーリーンの跨る馬さえ、怯えて嘶き、前足を高く持ち上げている。
それ程に、辺りの様子は一変していた。
沙漠の中央に隆起した岩山は、その中ほどから赤黒い砲弾のような溶岩を撒き散らす。
同時に噴煙が辺りに充満し、ハールーン軍は視界を失った。それらはしかも、ただ視界を塞ぐだけではない。熱いのだ。魔力によって自らの身を守れない者は、次々と倒れる程に。
さらに火口から溢れ出る赤々としたマグマが、次々とハールーン軍本陣の兵を飲み込んでゆく。
だがハールーンはアーザーデを既の所で抱きかかえ、救う事に成功していた。
流石にこの状況では、アーザーデも顔を青くしている。
しかしすぐさまハールーンの背にしがみ付くと、状況を確認しつつ、対応可能な魔法を脳裏に浮かべた。
滑空する竜に乗っていれば、安全という訳でもない。
大地からの熱は上空にも伝わってくるし、火口から噴出す溶岩が猛烈な勢いで迫ってくるのだ。
「こ、これは――一体? 精霊王の気配を感じます。一体、何を媒体ににすれば、これ程強力な炎の精霊王を使役できるというの……」
アーザーデの言葉に対し、曖昧に頷くハールーンは、状況に眉を顰める。
「でも、だからといってやらせはしないっ! ――豪雨よ! 大地に恵みをっ!」
アーザーデは、流石だった。
敵が使った魔法が火ならば、水で静めればいい。当然の帰結だが、アーザーデは火が族の出身だ。
しかし火が族の出身でありながら、水系統の精霊魔法もよく使う。滅多にいる人材ではなかった。
とはいえ、シーリーンとアーザーデの地力に差があることは仕方が無い。
ある程度の炎を抑えるとアーザーデは肩で大きく息をして、倒れ込む様にハールーンの背に身を寄せた。
戦場の変化は目まぐるしい。
溶岩に雨が当たり水蒸気が立ち込めると、戦場はさらに見通しの利かない場当たり的な空間となっていた。
ハールーンも全魔力を解放して、古代語魔法による結界を出来るだけ多くの兵へ掛けてゆく。
そんな事をせずにシーリーンを倒しにいけばよさそうなものだが、この期に及んで、未だハールーンの中には迷いがあった。
それに、後ろで弱弱しく自身の腰を掴むアーザーデに、ウィンドストームの最大戦速は耐えられないだろう。
そう思ったハールーンだ。
しかしハールーンが望まずとも、姉は弟を退けたかった。
退けねば、ナセルに与えられた任務が達成出来ないのだから。
「炎槍ッ!」
濛々と立ち込める水蒸気の中、背後から炎の槍が迫った。
ハールーンの反応が一瞬遅れたことで、アーザーデの背中に”それ”は直撃してしまう。
「ぐうっ!」
短い悲鳴が上がり、アーザーデの口から血が零れ落ちる。
ハールーンの白い戦衣に、真紅の染みが出来た。
「アーザーデ姉さんっ!」
「アーザーデ?」
白い煙幕の様な水蒸気が晴れてゆくと、宙に浮かぶ影がハールーンの前に現われた。
やはりそれは、シーリーンだ。
「なんていうことを……してくれたんだ、姉さんっ!」
「ま、待って、ハールーン。その子が、アーザーデだとでも言うの?」
「それ以外の、誰に見えるっていうんだっ!」
ぐったりとして落下しそうになるアーザーデを左手で抱きとめると、憤怒の形相を浮かべたハールーンはウィンドストームを駆った。
ハールーンの怒りを代弁するかのようにウィンドストームが、火炎を吐き出した。
しかしそれは当然の如く、片手でシーリーンにかき消される。
竜として多少のショックを受けたウィンドストームだが、持ち前の優速でシーリーンに迫った。
ハールーンは曲刀を構え、真っ直ぐに突く。
曲刀は突く武器ではない。
しかしハールーンにとって、そんな事は問題にならなかった。
”絶対切断”という力の前には、攻撃の特性など意味が無い。
ハールーンの曲刀は、シーリーンの右肩を切り裂き、貫く。
だが、怒りに任せても尚、ハールーンの刃は鈍かった。
そこで下へと斬り下げれば、シーリーンの身体は分断されるのだ。
「ハールーン……まって……シーリーンさまを、殺しては、だ、め」
ハールーンの腕の中、苦しげに息をするアーザーデは、うっすらと目を開ける。
瞬間、ハールーンはシーリーンの肩から曲刀を退く。
「ヨ、治癒」
血の滲む肩口を押さえつつ、シーリーンが治癒を施したのはアーザーデだった。
「わ、私とてアーザーデと認識していれば、攻撃など……いや……今は敵、なのか」
不意に慈愛の表情を浮かべたシーリーンに、ハールーンは何もいえなかった。
ただ、呼吸の整ったアーザーデが微笑を浮かべ、ハールーンに頷いている。
ハールーンは眼下を見て、混戦を知った。
シーリーンは、自らに治癒をかけることなく、落下してゆく。
魔力が尽きたのか、それとも逃げたのか判然としない。
結局、濛々とたゆたう霧状の靄が、シーリーンの姿を隠した。
空が漆黒に染まり、無数の隕石が浮かぶ。
やはりシーリーンは、魔術師らしくハールーンから距離を取っただけのようだ。
視認されない位置から、”隕石召喚”を使ってきた。
隕石は次々と落下し、ハールーン軍に襲い掛かる。
ハールーンは隕石を斬った。斬りまくった。
ウィンドストームは速く、ハールーンの斬撃は正確だ。
隕石の多くは、ハールーンに食い止められた。
無限かと思われた隕石群が、あと数個になった。
シーリーンによる殲滅魔法は、打ち止めになったようだ。
ハールーンは隕石を斬り尽くすと、奥歯を噛み締め、下降し、敵に向かう。
自分の甘さから、味方に多くの被害を齎した事が許せないハールーンだった。
ここから先のハールーンは、ただただ敵を蹂躙した。
シーリーンの存在を無視して、ひたすらに。
結果として一万を失ったハールーン軍は、シーリーン軍を壊滅させた。
そして――シーリーンは行方知れずとなった。