ヘラート周辺の戦い 3
◆
美花宮殿の一室で、シェヘラザードは住民の陳情に耳を傾けていた。
その部屋は執務室というには調度品が多く、シェヘラザードの私室というには殺風景に過ぎる。
つまるところ、シェヘラザードは父の残り香が漂う空間を避け、殊更馴染みの無い部屋を使っているに過ぎない。何しろ、宮殿には大小百五十もの部屋があるのだから、探せば馴染みの薄い部屋だってあるのだ。
「我等、このままでは餓死します! ここは何卒、ナセルどのと講和を!」
「そういうけれど、先日、ドゥバーンの部隊から食べ物を分けて貰ったばかりでしょう?」
金の刺繍が施された緑色の上張布と、黄金の足を持った椅子にシェヘラザードは座っている。
対するは、額に汗してナセルとの講和を説く中年の人物。彼はヘラート住民の代表――という事になっている男だ。今は絨毯に座り、胡坐をかいて仏頂面をしている。返答にやや窮しているのだろうか。
年の頃は四十代半ば。頭に巻いた布を留める宝石は、トパーズであろう。困窮を訴えるには、随分としっかりした身なりであった。
恐らくナセルの手のものであろうが、彼がこの男に期待する事はないだろう。
(ナセルのよく使う手ね。これで私が折れるとも思っていないでしょうに――随分と捨て駒の多いことだわ)
黒い巻き髪を人差し指でクルクルとしながら、シェヘラザードは溜息をつく。
「それとて、あと一月も持ちません! どうかっ!」
「あら? でも貴方の肉付き、悪くないわね。普段は一体、何を食べているのかしら?」
男の目が、”すっ”と細まり、尻が絨毯から僅かに浮く。
そして懐に手を移動させた男は、服の留め金を一つだけ外した。
(あら、意外。彼の目的は、私の暗殺だったのかしら? そういえば、身ごなしもそれ程悪くないわね)
”がちゃん”
その時、ドニアザードが不意に扉を開けて、慌てた様子でシェヘラザードに縋りつく。
「た、大変です! ダスターンの軍が、南へ転進していきます! 我等は、我等はシャムシール王に見捨てられたのでしょうか!?」
白金色の豪奢な鎧を着ていても、ドニアザードはまだ子供だ。
守護騎士の中で有数の剣を使うといっても、絶望的な戦いを経験した訳ではない。
しかし取り乱したドニアザードは、陳情に訪れていた市民と思しき男を見て、威儀を正す。
「……が、安心せよ。我等がここにおる以上、城壁の中へ敵は入れぬ」
”ギョッ”とした男はドニアザードに愛想笑いを見せると、懐から布きれを取り出し頬を拭う。
ドニアザードも驚いたが、男の方も驚いていた。まさか完全武装の騎士が現われるとは、予想外だったらしい。
一人呆れているのは、シェヘラザードだった。
「は、はは。守護騎士さま……それは頼もしいことで」
「と、いうことだ。我等は遠からず、勝利を収める。されば、ナセルと結ぶ必要などあるまい。どうか?」
「は、はい。大将軍閣下の仰るとおりにございます。皆にも、今しばらくの辛抱だ――と伝えて参りましょう。それでは」
男はひとしきり平身低頭してから、退室した。
(フン、運のいい女め。あの女騎士が現われねば、貴様の命など無かったものを!)
男は内心に毒づく。
それにしても、この男はシェヘラザードがドニアザードよりも弱いと思っているのだろうか?
むしろ命拾いをしたのは自分の方だと、どうして気付かないのだろう。
もちろん、その程度の男だから、ナセルに使い捨てられる訳なのだが。
一方室内では、先ほどまで男が居た場所に、”ドカリ”とドニアザードが座っていた。
「ね、姉さま、申し訳ありません! 迂闊な事を申しました! でも、でもっ……姉さまはシャムシール王の妻になるのでしょう!? だったら、この仕打ちは余りにもあんまりです!」
今にも「キーーーッ!」と言い出しそうなドニアザードの剣幕に、シェヘラザードはいっそ微笑んだ。
立ち上がったシェヘラザードは妹の側に行くと、しゃがみ込んで優しく髪を撫でる。
黄金色の柔らかなドニアザードの髪は、まるでひよこのようだ。
「いい、ドニアザード。今夜、ドゥバーンは敵に夜襲を仕掛けるの。その時、私達も敵を襲うわ。でもね、ここで勝つ必要はないのよ」
「どういう、ことですか?」
「さあ? 私にも分からないわ。ただ、それがドゥバーンの策なの」
「姉さまは、ドゥバーンという女を随分と御信頼なさるのですね?」
「ええ、それはね。だって、シャムシールの第三夫人なのよ」
ドニアザードはシェヘラザードの言いように、「クスリ」と笑った。
シェヘラザードはドゥバーンを信じるのではない――あくまでもシャムシールの妻を信じる――というのだから可笑しかった。
いや、本来は笑うべき個所ではない。
何しろヘラートの命運が担われている。
だがそれでもドニアザードは――あの日に見た、禍々しい冑を被る黒髪の美しい王の事を思うと、シェヘラザードの言い分も解る気がした。
シェヘラザードも妹の笑顔を見て、つられて笑う。
戦禍の聖都、その宮殿の一室が、それだけで大輪の華が咲いたかのように華やかになる。
これが、絶世の美女と呼ばれる名高き大将軍、シェヘラザードであった。
二人が笑いあっていると、守護騎士アフラが現れた。
アフラは入室すると、何故か胸一杯に空気を吸う。
(役得、役得)
などと考えていた彼は、多少ムッツリである。
だが、彼は仕事も忘れない。キチンと報告も齎した。
「ナセル軍とダスターン軍が激突しております! 我等も援軍を出しますか?」
珍しく眉を顰めるシェヘラザードは、再び椅子に座り、小首をかしげる。
「これも、ドゥバーンの策でしょうか、姉さま?」
ドニアザードの無邪気な視線が心なしか痛いシェヘラザードは、内心でドゥバーンを罵った。
(何処が神算鬼謀よ。敵に攻撃を仕掛けられるのが、少し早いわっ! ドゥバーン、貴女、ナセルに先手を取られてるじゃない!)
「さあ? でもドゥバーンなら、適当に凌ぐわ。私達は当初の計画通り、夜を待つの。ドゥバーンを信じましょう」
アフラは苦笑した。
しかしすぐに厳しい顔を作り、拳を胸元に当てて武人の礼をする。
「はっ!」
そしてアフラは、すぐに退出した。
その様を見て、目を白黒させるドニアザードは合点がいったらしい。
(なによ! アフラだってドゥバーンの策を知っていたのね! 私だけのけ者にしてっ!)
ドニアザードは自分が蚊帳の外にいた事に腹を立てたのか、策が何かをシェヘラザードに聞きたがっている。
「姉さま、ずるいです! ドゥバーンの策を、どうして私には教えていただけなかったのですか!? 私はこれでも守護騎士! 知る権利があるかとっ!」
「守護騎士といっても、貴女は今年でやっと十三歳。色々抱え込むには、まだまだ早いわね」
「で、ですが! シャジャル将軍も私と同い年ではないですか! 彼女は東方遠征で幾つもの城を軍略で落とし、今だって十万にもなる兵を率いて凱旋する最中だというではないですか! 私だって、だから十分働けます! 抱え込めます!
――それとも、それともこの国では、シャムシール陛下の寵を得ねば、軍を指揮することも、機密に触れる事も出来ぬと申されますか? ならば、私も――」
途中まで憤慨していたドニアザードだが、言葉の最後で胸が高鳴った。
黒髪でエキゾチックな肌の色。高いが大きくない鼻。目は優しげなアーモンド形で、やや小さな唇と、不釣合いな長身――。
言ってしまえば、ドニアザードにとってシャムシールはストライクであった。
何回空振りしても、絶対に当てたい絶好球である。
なんなら、バントしてでも出塁したくなったドニアザードは、少しだけ涎が出た。
妹の暴言に小さな溜息を漏らしたシェヘラザードは、指を”パチン”とならして、一つの提案をする。
シェヘラザードにとって妹の印象は、単なる武辺者。
だからまさかここで、横恋慕されているなどとは夢にも思わないのだ。
「そう、わかったわ。じゃあ、今夜、私と共に戦いましょう。武勲を立てる事が出来たなら、貴女に将軍位を上げてもいいわ。
ただし――無茶な戦いをしたり、危ない真似をしたら降格よ、いい?」
”ごくり”という音が、ドニアザードの喉から響く。
僅かに震えるドニアザードは、軽く首を振ると、決意を込めた瞳をシェヘラザードへ向ける。
もう、シャムシールに身体を差し出す覚悟を決めていただけに、いっそ提案が残念ですらあったドニアザードだった。
(まあいいや。身体は、別の機会に差し出そう!)
「わかりました! 私、がんばります! 沙漠民の女なんかに負けたくないっ!」
ちなみに守護騎士の中では、一つの噂がある。
シャジャルといえば、シャムシールが奴隷であった頃より付き従った、古株だ。
しかし、それ以上にシャムシールのシャジャルに対する特別扱いは、酷すぎる。
何しろ、妻より妹が優先なのだ――。
すなわち、
「シャムシール陛下の本当の妻は、シャジャル姫だ。そしてシャムシール陛下は、ロリコンである」
という噂だった。
ドニアザードはこの時、
「勝機は我にあり!」
と思った。根拠は守護騎士達の噂話である。
しかし一体何の勝機なのか、本人にも判然としていない。
ドニアザードは若干、ダメの子なのである。
しかしドニアザードには、分からないことがある。
そもそも勝たなくてもいい戦で、どのような功績を立てればよいのだろうか?
考えても分からないドニアザードは、ともかく戦おうと決意したのだった。
ドニアザードの夢は広がる。
(ふふ。将軍になって、シャムシールさまのお眼鏡にかなって――第一夫人も羨むほど、抱きしめられたりしちゃうんだ、私――)
そんなドニアザードは、未だ第一夫人の恐ろしさを知らなかった。
所詮ネフェルカーラなどシェヘラザードの飲み友達で、たまに来る酔っ払いだ、という程度の認識しかないドニアザードである。
「よし、勝機は我にあり!」
ドニアザードは大切なことなので、二度、思った。
まさか妹が妄想を逞しくしているとは思わないシェヘラザードは、ドニアザードを退出させると、自室に戻って軍装を整える。
夜を待つとは言ったものの、万が一ドゥバーンが敗れそうになれば駆けつけるつもりだった。
(まあ、ドゥバーンの軍略にダスターンの用兵が加わっているのだから、そう容易くは負ける訳もない、わね?)
◆◆
「戦はお味方の勝利。ただし、敵を壊滅させる事、能わず」
――そんな報告をシェヘラザードが受けたのは、豪奢な食堂において、数人の幕下と食事を楽しんでいる時であった。
もっとも食事自体は貧相なものである。
ドゥバーン達の戦闘糧食ほど悲惨なものではないが、シャムシールなら発狂するレベルの貧相さだ。
まず、食卓に肉が無い。
レンズ豆を煮込んだスープに、色鮮やかな香草が添えられている。
銀の皿に盛り付けられた”それ”は、見た目だけならば豪華だ。しかし、味が薄い。何しろヘラートに海はない。よって塩の欠乏が、いよいよ深刻なものになっていた。
とはいえ、パンは豊富にある。
シャムシールが東方を平定したお陰で、なんとか麦類の輸送が可能になっていた。
しかし百万都市の胃袋を満たすには、パンと豆では心もとない。
故に、シェヘラザードは軍需物資を頻繁に庶民へ分け与えていたのである。
物資の中には干し肉や魚の燻製などがあるから、動物性蛋白に飢えた庶民は、シェヘラザードからの配給を、日々心待ちにしているのであった。
だが生鮮食品は、殆どない。
だから昼間の様に食糧事情に耐えかねた住民が宮殿を訪れることも、それなりにあるのだった。
しかし半妖精のシェヘラザードにとって、そんな食事など苦でもない。
アエリノールではないが、いっそ、どんぐりだけでも生きていける程だ。
しかし、食事を共にするドニアザードとアフラは、味気の無い夕食に辟易していた。
「さて、アフラ。出陣するわ」
「はっ。いよいよ、反撃ですな」
「も、もう!?」
シェヘラザードはパンを一切れも食べずに食事を終えると、アフラに命じた。
アフラは暫く前に食事を終え、じっと座っていたのだ。
これから夜戦となる事は、十分承知のアフラだ。存分に食事を楽しもうと思ったのだが――やはり味気なさに辟易して、結局シェヘラザードよりもパンを数きれ、多く食べただけに留まった。
ドニアザードは若さゆえか、未だにパンをもっきゅもっきゅと食べている。
出来ればもっと食べてから、出陣したかった。
金髪で褐色の肌。そして藍色の瞳で元気な彼女――現代日本であれば、カラコンを入れたビッチなギャルに見紛うようなドニアザードだが、純真である。
数時間前の悶々とした性欲は食欲へと昇華され、そのうち消化されるであろう。
それから数時間後――。
ヘラートの城門付近へ音もなく現われたシェヘラザード麾下の兵は三万だ。
既に夜の砂漠で開始された戦闘に呼応して、ヘラート南門の落とし扉を開く。
「者共、進めっ!」
シェヘラザードは”飛竜”を駆り、上空から叫ぶ。
「進めっ! 今、皆に防御魔法を施した! 些細な事なら怪我もせん! 臆せず戦え! ただし、無理もするなよっ!」
騎馬を疾駆させるアフラが、”盾騎士”の名に相応しく味方に防御結界を張った。
カイユームには劣るアフラだが、一般的な人間としては限界を超えた魔法を使い、しかも戦士としての力量も高い。
ネフェルカーラにうっかり粉々にされて自信も粉々になったアフラだが、今この時、「やっぱり俺は凄い」と、思いなおしていた。
「う、うおおお!」
ドニアザードは、よく分からず部隊の先頭に立ち、雄叫びを上げていた。
「姫、姫っ! お下がり下さい、危のうございます!」
何しろ野戦は初めてのドニアザード。頭の中は真っ白である。
考えてみれば、初陣は城壁の上から矢を射るだけの簡単なお仕事。
その次は、「止めよ!」と言っただけ。
確かにドニアザードは騎士として、強い。
けれど千騎を率いて戦うなど、経験した事がないのだ。
そうなれば、ただ敵を探し、突撃するより他、彼女に武勲を立てる道は無かった。
ドニアザードは馬を駆けさせ、配下達は彼女を守る為に、ただ走る。
こうしてドニアザードは、真っ先にナセル軍と激突した。
◆◆◆
「随分と元気が良い娘がおるな」
先頭をひた走る白金の鎧に目を留め、笑うナセル。
彼は既に陣形を整え、万全の体制でシェヘラザードを迎えていた。
ナセル軍一万に対し、シェヘラザード軍が三万。
陣形をいくら整えたといっても、背後に城壁を控えるシェヘラザード軍の優位は動かない。ましてやナセルは、ザールをメフルダートに貸し、レオポルドを昼間の戦いで失っていた。
「シーリーン。一隊を率い、あの突出した娘を叩け。まあ、殺す事もあるまい――適度に可愛がってやれ」
「……御意」
側に控えていたシーリーンには、ナセルの意図が分からなかった。
しかし命令は絶対である。
シーリーンはすぐさま馬を駆ると、五百の騎兵を率い、ドニアザード隊の側面へ回る。
槍を振り回し、黄金色の髪を振り乱す少女は、にわかにナセル軍の右翼を押していた。
無茶と無謀が組み合わさったかのようなドニアザードだが、確かに強靭な肉体を持ち、類稀な槍術も備えていたらしい。
「うおおお!」
ドニアザードが雄叫びを上げるたび、ナセル軍の兵が一人、また一人と血飛沫を上げて倒れてゆく。
だが――シーリーンがドニアザード隊に五百の騎兵を突入させた角度は、まさに絶妙だった。側面を衝き、一気に駆け抜けたのだ。
それによってドニアザードは後方の部隊と分断され、孤立してしまう。
「水妖精」
再び馬首を返してドニアザードの前に現われたシーリーンは、口笛でも吹くかのような軽やかさで、呪文を囁いた。
沙漠民の火が族であるシーリーンが、水系統の魔法を使う。
これだけでも、いかにシーリーンが優れた魔術師か、わかろうというものだった。
水で出来た蛙は中空を滑空して、ドニアザードに体当たりをする。
中型犬と同じ程度に大きい水の蛙は、ドニアザードの表情を引き攣らせるのに十分だった。
「き、気持ち悪いっ!」
近づく五体の水の異形に悲鳴を上げつつ、槍を振ったドニアザード。しかし相手は水である。斬っても突いても意味がない。
”バシャン”
ついに最も大きな水の蛙がぶつかったとき、ドニアザードは落馬してしまった。
シーリーンはドニアザードの側へ馬を寄せると、左手を翳して彼女の周囲に風の結界を張る。
渦巻く風の中で、濡れた体が乾いたドニアザードは、足を一歩前へと踏み出してみる。
(こんな結界なんて、気にしないっ!)
そのまま強引に突き抜けようとしたドニアザードへ、冷水の様な声が掛けられた。
「全身がバラバラになってもいいなら、そこから出てごらんなさい」
馬上から見下ろすシーリーンの瞳に、慈悲はない。
まるで家畜でも眺めるかのような彼女は、むしろドニアザードがバラバラになることを望んでいる。
逃げ出す事も出来なくなったドニアザードは、ただひたすらに後悔した。
(姉さま……ぐすんっ)
「風よっ!」
その時、上空から舞い降りた飛竜から、ドニアザードの慣れ親しんだ声が聞こえた。
「姉さまっ!」
同時に、シーリーンの魔法がシェヘラザードによって解除される。
「ああ、貴女の妹だったの。それで……」
シーリーンは、眉間に小さな皺を寄せる。
シェヘラザードの妹だと知っていたから、ナセルはドニアザードを殺さないよう、言ったのだ。
それがたまらなく癪に障ったシーリーンは、シェヘラザードを睨み付ける。
「貴女はいつぞやの――きちんと、お礼をしないとね」
一度だけ背後を振り返ったシェヘラザードは、アフラが見事にナセル軍を包囲しつつある事を認めた。
所詮このまま勝たせてくれるナセルではないが、今の状況があればドニアザードを救うには十分な時間が稼げるであろう。
まだ、自分が直接指揮を執る必要はない――そう判断したシェヘラザードだ。
「炎槍っ!」
「炎槍っ!」
シーリーンが容赦なく打ち出した炎の槍を、シェヘラザードは容易く打ち消した。
「魔法戦闘がお好みかしら――?」
シェヘラザードが飛竜を旋回させると、既にシーリーンは部隊を率いて本隊の中へ紛れている。
(なるほど。ドニアザードの部隊を止める為に来ただけ……ってことなのね。冷静だわ、あの子)
とはいえ、この場が安全とは言いがたい。
ドニアザードの部隊は分断され、半数が討ち死にを遂げている。
残りの半数はナセル軍の右翼に押し返されているから、要するにこの場は敵だらけだった。
「おおおお!」
眼下で無双を始めたドニアザードに、苦笑したシェヘラザード。
確かにシェヘラザードとドニアザードがこの場を切り抜けるには、戦わねばならない。
というよりも、地上に足をつけているドニアザードは、戦わなければそれこそ死んでしまうのだ。
「あらあら?」
忘れていた、とばかりに妹の手を取り飛竜へ乗せる姉。
飛竜に乗せてもらったものの、ばつの悪そうなドニアザードは、シェヘラザードの後ろで溜息を吐く。
「……降格ですね、私。はぁ、百人長かぁ……。武勲、もう少しだったのになぁ」
ドニアザードの呟きを聞いたシェヘラザードは、厳しい口調で叱りつける。
「ドニアザード、自惚れないで。
いい――? 武勲を立てる人というのは、必ず何か守りたいものを持っているの。でも、貴女はそうじゃなかった。だから失敗をしたのよ。それに貴女が突出したお陰で、いったい何人の守護騎士が命を失ったと思っているの? 尊い犠牲よ。それも彼らは、ただ貴女を守る為に命を落としたの。
なぜ彼らが貴女を守る為に戦ったか、わかる? それは貴女が私の妹――いいえ、前聖帝の一族だから。貴女は千人長ではなく、この戦で、ただ帝室の一員だと思われていたということなのよ――それでは、武人とは呼べないわ。
だからドニアザード――貴女にはまだ、百人長だって早い。一から出直しなさい」
「でも、でもっ、姉さま! それはあまりにもっ!」
「黙りなさい。本来ならば味方を危地に陥れた罪は、死をもって償うもの……それとも、その方がいいかしら?」
シェヘラザードの背後で、顔を蒼くしたのはドニアザードだった。
自分の考えが甘かった事は、認めざるを得ない。
悔しさに下唇を噛んでみるも、ドニアザードは死にたくなかった。
「いいえ、一から出直します」
応えるドニアザードの声は、震えていた。
そもそもシェヘラザードは、妹に武勲など立てられるはずがないと思っていたのだ。いうなれば、お灸をすえたようなもの。
しかし、それによって味方がこれ程までに命を失うとは、考えなかったシェヘラザードである。
実にドニアザード配下の守護騎士、その半数が戦場に屍を晒したのだから。
シェヘラザードは今、自分自身の甘さも悔いていた。
月下の戦線は、徐々にナセルが盛り返している。
やはりナセルが指揮し、前線に出てくれば圧倒的な力を発揮するようだ。
アフラの防御魔法があるお陰で崩壊には至らないシェヘラザード軍ではあるが、シーリーンの大規模殲滅魔法も恐い。
攻防が一進一退のうちに、退いたほうがいいだろう。
シェヘラザードは上空から、味方に撤退の合図を送る。
「――退けっ!」
見ればドゥバーンとメフルダートの戦いも、収束の兆しを見せていた。
両軍共に、ある程度の損害を出したようだ。
これでドゥバーンの出した条件は、全て満たした。
(さて、ドゥバーン。ここからが貴女の本領発揮ね)
シェヘラザードは祈るように、天空を見上げた。
(それと――ドニアザード。与えた兵の半数も失ったのだから、降格だけという訳にもいかないわね)
「ねえ、ドニアザード。貴女、飛竜には乗れるわね?」
なるべく抑揚の無い声で、シェヘラザードは背中越しに妹へ声を掛ける。冷たさの演出だ。
「は、はい」
「では、この後、シャムシールの下へ行きなさい。彼は今、五万人で三十万人と対峙しているの。兵は、一人でも多い方がいいわ。だからドニアザード。貴女は行って、不死隊に入れてもらいなさい」
「え、ええっ!? 姉上! 不死隊とは、皆、不死骸骨ではありませぬかっ!」
「大丈夫よ。そこにはファルナーズっていう貴女と歳の近い子もいるし――じゃなく――此度の失敗、貴女は本来、死を持って償うべき所。故に、死んだ気になって不死隊で働きなさい!」
「な、なっ、お言葉ですが、それはあまりにも! 私だって帝室の一員ではありませぬか!? 一般とは異なる法で裁いていただかねば――」
「黙りなさい! だから死の代わりに、不死隊へ入りなさいといっているの!」
「でも、でもっ! それは死と同義ではっ……? (ん? お?)」
シェヘラザードの無茶振りに必死の抵抗を試みるドニアザードだったが、この日、夜が明ける前には旅立つ事を約束した。
(あれ? でもこれ、シャムシール陛下へ近づくのに、良い機会では?)
こんな事を考えてしまったドニアザードは、多分きっと、反省など微塵もしていないのであろう。
ドニアザードがシャムシールの宮殿で将軍の列に加わるのは、まだまだ先の事になりそうであった。