ヘラート周辺の戦い 2
◆
ドゥバーンとメフルダートによる戦いの第一日目は、ドゥバーンの勝利と云ってもよいだろう。
通常の会戦ならば、すくなくともそうなる。
戦死者の数でいえば、ほぼ同数だが、メフルダートはレオポルドという将を失った。
兵を率いるには必ず将がいるのだから、その損失は大きい。
しかしドゥバーンの中でこの戦は一連の流れ、その初手である。
つまり、まだ第一日目は終わっていないのだ。
夕刻、仮設の陣を構え、幕舎の中で食事を取りながら、ドゥバーンは考えていた。
(それにしても隕石召喚から、主力投入へと至る動きは見事でござった。しかも此方を深追いせず、目的を達したならばすぐにも引き上げるなど、中々出来ることではござらん。メフルダート――侮れないでござる。気を引き締めていかなけれ――)
「げふんっ!」
考えながら麦粥を啜ったドゥバーンは、残念ながら気管に麦の粒が入ってしまった。
結果、咽る。
盛大に咽たため、辺りにドゥバーンの口から飛び出した麦が散らばった。
「この場にシャムシールがいなくて良かった!」と胸を撫で下ろしたが、後に、婚礼の祝宴で同じ事をしてしまうドゥバーンなので、結果、残念である。
「ところで、アーラヴィーの二人――パールヴァティとヴァルダマーナはまだ到着しないのか? 間に合わないというのでは話にならんし、裏切られでもしたら、それこそ目も当てられぬが?」
「けほ、けほ……そ、それは大丈夫でござる。彼等も早速シャムシール陛下に忠誠を示せる機会だと、張り切っているでござるから……げふん。それに、シュラも付いてござれば、万が一の時には――」
ダスターンは目尻を下げて、面白いものを眺めるかのように、涙目のドゥバーンを見る。いつも口撃ばかりされているのだから、たまには視姦でもしてやろうと考えたのだ。
「ダスターン将軍! それより、目が気持ち悪いでござる! 拙者の体液を見て良いのは、シャムシール陛下だけにござる!」
ダスターンは、とても悲しい気持ちになった。別にドゥバーンの涙と鼻水を見ても、なんら感情に起伏などないのだ。にも関わらず何か変態的な事をしているように言われるのは、嘆かわしい。
そんなダスターンを横目にドゥバーンの背中を擦るジャービルは、若干シスコンだ。
どうしてこんなに可愛い妹をシャムシールが嫌がるのか、いまいち理由の分からないジャービルである。
そんな内心はともかくジャービルはドゥバーンが落ち着くのを見計らい、口を開いた。
「アーラヴィーの事など、気にしていても始まるまい。さっさと腹ごしらえを済ませ、夜襲をせねば、此方が間に合わなくなってしまうだろう。今日、アーラヴィーの奴等が来るも、来ないも、関係ない」
「兄者、それは違うでござる。神象が現われれば、ナセルがフローレンスと結んだと同様、此方はアーラヴィーと結んだのだと印象付けられるのでござる。さすればナセルは、ヘラート包囲を諦めざるを得ぬのです」
「そういうものか?」
「そういうものにござる! そこに至れば、我が軍を叩かぬ限り、ヘラート攻略は出来ぬとナセルも腹をくくりましょう!」
ドゥバーンは粥の椀を置くと、人差し指を立てて説明を始めようとする。
その時、周囲がにわかに騒がしくなった。
「神象だ! アーラヴィーの国王陛下が来られた!」
「王妃さまもおられるぞ! 出迎えを! 急げっ! 第三夫人にお知らせせよ!」
ドゥバーンはここのところ、部下や兵達に殊更”第三夫人”と呼ばせている。
よくよく考えれば第一夫人はネフェルカーラ。第二夫人はアエリノールとどちらも人外だ。その中で自分は第三夫人なのだから、人間として頑張っているのでは? などと悦に入っているドゥバーンだった。
「ふむ――ダスターン将軍。戦時ゆえもてなしは出来ぬが、相手は王。粗相の無いよう出迎えを頼むでござるよ」
「いや、ドゥバーンどの。お主が出迎えねば、話が進まなかろう」
「拙者、粥を食べかけにござるゆえ」
「それはドゥバーンどのが鼻から噴出すから……」
「お、乙女に向かってなんて事をいうでござるか! シャムシール陛下は、そんな拙者を愛しているのでござる! たぶん!」
(いや、シャムシールは、なし崩し的にドゥバーンどのを妻とする事になったのだ。別に愛しているわけでは……)
思わず真実を口走りそうになったダスターンは、物凄い目力で「言ってはならん!」と訴えかけるマフディに気圧されて、沈黙した。
「おいおい――ここが栄えあるシャムシール陛下の幕僚が集う天幕か? 随分と辛気臭いモノを食っておるな?」
「ヴァルダマーナ。兵と同じモノを食す将を馬鹿にするでない。これこそ、士気を保つ為に不可欠なことじゃ」
不意に天幕の入り口が開くと、二人の仲睦まじい男女が現われる。
一人は桜色のベリードレスに胸甲を当てた女――一人は全身を鎖帷子で覆った、精悍な男だ。
彼等は言うまでもなくヴァルダマーナとパールヴァティである。
彼等に続いて音もなく天幕に入り、ドゥバーンの横で膝を折ったのは、シュラだった。
「ヴァルダマーナ陛下、ならびに皇后陛下。このような場所までお運びいただき、まことに恐悦至極にござる」
流石のドゥバーンも、相手に出向かれてしまっては威儀を正さざるを得ない。
片膝をついて頭を垂れると、後ろで束ねた黒髪が肩口に落ちる。
残念な事に鼻水も少し垂れたが、それを気にしたら負けだろう。
アエリノールとは別の意味で残念美人なドゥバーンは、今日も平常運転なのである。
「いや、よい。シャムシール大王陛下の御為とあらば、何処へでも馳せ参ずる――。何より、余に勝った男が他で敗れるなど、矜持が許さぬよ」
ヴァルダマーナが頭を垂れる諸将を前に、腕を組んで胸を張る。
かつての敵が自らの前に跪くのは良いものだと、ヴァルダマーナは思っていた。
もっとも、ヴァルダマーナは敗者である。
敗者として勝者に阿る為にこそ来たヴァルダマーナなのに、この一件で随分と気をよくした。
「はっ。ありがたき仰せにござる」
ドゥバーンも、ヴァルダマーナの心理をよく読んでいる。
決して奢ることなく、礼節を守って会話を進めているのだから。
「して、そなたが軍師のドゥバーンか」
「はっ。憚りながら、軍師の真似事を」
「ふっ、はははっ、畏まるな。余は、そなたを買っておる。結局、そなたに手玉に取られ、最後は為す術もなく敗れたのだからな。だが、此度はいっそ愉快だぞ。そなたの策に我等の力が加わって、敵がどのような目にあうのかが、な」
ヴァルダマーナは上げられたドゥバーンの瞳を見つめ、美しいと素直に思った。
頭脳明晰で強か、それでいて礼節を弁えた軍師の顔だ。なにやら頬に麦が付いているが、どうしたのであろう。
だが――僅かばかり子供っぽくて、そこがまたイイ――。
そして、服の間から少しだけ零れる胸の谷間もスバラシイ。
ちょっぴりシャムシールが羨ましくなった、ヴァルダマーナである。
「うむ、わらわも楽しみにしておる。なんでも、これより夜襲を行うのじゃろう? 腕がなるぞ――む? どこを見ているのじゃ、ヴァルダマーナ」
そんなヴァルダマーナを我に返したのは、戦を前に不穏な気配を漂わせるパールヴァティの目線だ。
ともかくドゥバーンは立ち上がると、二人に上座を譲った。
なにやら不穏な二人に配慮してドゥバーンは自らの位置を空けると、下座へと移動する。
「ささ、お二人とも、あちらへ」
座には二人分の麦粥が追加で運ばれ、それと同時に”茶”も運ばれてくる。
夜襲は深夜、敵が十分に寝静まった頃に行う予定であった。
それらの詳細をドゥバーンは全員に説明しつつ、静かに”茶”を啜る。
今度は咽ない。
その代わりパールヴァティの鋭い追及に、ドゥバーンは冷や汗を浮かべていた。
パールヴァティが鋭いのはヴァルダマーナの視線がドゥバーンに釘付けだからだ。
それはドゥバーンの衣服が左右から合わせるタイプの着物で、多少胸チラをするからである。
「――なんと? ではそなた、シャムシール陛下に策の詳細をお話しておらんのか? あまりにも危険ではないのか?」
なぜか怒気を含んだパールヴァティの声に、若干の狼狽をするドゥバーン。
「い、いや――陛下は大丈夫にござる」
「大丈夫などと! 主君を囮にするようなものじゃぞ?」
ドゥバーンの説明に呆れた声を上げたのは、パールヴァティだった。
いっそ第三の目も開きそうだったが、今は必要なかったらしい。
「と、ともかく念話とはいえ、敵に知られる可能性がござった。何よりフローレンス軍を完膚なきまでに叩くには、この策が最良でござる」
「――そのような事をして、シャムシール陛下が支えきれなんだ場合は、なんとするのじゃ?」
「此度の戦でシャムシール陛下が死ぬことは、ござらん。陛下の星は、安定を保ってござれば」
自信満々で言い切ったドゥバーンは、予想外の反論に再びたじろぐ。
「ドゥバーン。お前は我が君さえ生きておれば、配下がどうなろうと構わんというのか?」
鋭い眼光が、ドゥバーンの横顔に刺さる。
それは兄の視線だが、温かみに欠けた冷たいものだった。
「乾坤一擲でござる。勝てばシバールの全てが、シャムシール陛下の御手に入るのでござるぞ! 兄者は、その様な時に命を惜しむのでござるか!? 第一、陛下の親衛は不死隊! 犠牲も厭わぬ部隊ではござらぬか! それに、万が一の事があれば、陛下が皆を守ってくれるでござる!」
「――お前の策には、致命的な欠点があるぞ、ドゥバーン」
「な、なんでござるかっ?」
「我が君の力を、過大に見積もり過ぎる。確かに我が君は偉大なお方だが、限度というものがあろう――万が一にもお前の策であのお方を死なせたら、なんとするつもりだ」
「まあまあ、ジャービルどの。此度のこと、大王も自らが囮となる事はわかっていよう。仮に分かっていなくとも、またか――と仰せになって終わりであろう。まして策は今、上手くいっているのだ。軍師どのを責めることはあるまい?」
睨み合う兄妹に割って入ったのは、ダスターンだった。
ここの所ダスターンは、シャムシールの事を大王と呼ぶことがある。
それは複数国を束ねる王の呼称だからシャムシールに相応しいのだが、今はことにアーラヴィー国王がいた。となれば、王と大王を区別しようという配慮でもあろう。
「ダスターンどの、さればこそだ。我が君に万が一など、あってはならん。もしもあるならば、我等臣下は命を捨ててもお守りせねばならぬ――それはよい。当然のことだ。だが、ドゥバーン――我が妹は、その事をどうにも軽く考えている様に思えてな――。
つまり、我等臣下を、捨て駒か何かと勘違いしているのではないか、と」
「な……捨て駒にする者など、おりませぬ! ただ――いや、確かに拙者は、机上で策を練り、陛下以外を駒と見ておったやも知れませぬ。
なるほど――言い訳は致しますまい。拙者、ヘラートを解放し、フローレンス軍の撃滅がかなわなければ、潔く自害致しまする。これで、皆様方と拙者も同じでござろうよ……」
下唇を噛み締めるドゥバーンの目は、真剣だった。
一片の誤差もなく全ての軍略を巡らせるはずも無い。
いくら数多の可能性を鑑み、複数の計略を用意しようとも、シャムシール軍の陣容はギリギリなのだ。
予備兵力のまるで無い状態で、よくもここまで戦い抜けたといえよう。
ドゥバーンにとって敵兵が死ぬ事も、味方が死ぬ事も、ある意味では予定調和だった。
だから今もそうだ。
不死隊が壊滅しても、良いと考えていた。
ファルナーズ一人なら、死んでも良いと――。
だがそれと同時に、シャムシールなら何とかしてくれると、無責任に人命を投げ捨てていた。
そんな事を机上で考えていたことを、ドゥバーンはジャービルに責められたのである。
「ふっ――分かればいい。俺達が戦場で倒れたとき軍師どのが、さも『当然』という顔をしていなければ、それで十分だ。第一お前は男も知らぬまま死んで、本望なのか?」
不意に口元を緩めたジャービルは、立ち上がると妹の頭を撫でた。
それから一人、天幕を後にする。
「今夜は忙しくなるのだろう? 少し休ませてくれ――」そう、言い残して。
「余は机上で策を弄するお主を、小憎らしい小娘という程度に思っておった。だが、そうして、血が滲むほど唇を噛むお主は――誰より多く戦っておったのだな。
余が敗れたのも、道理であろう。以後、気にせず余に軍命を下す事を許そうぞ。なに、無駄死にはせぬ」
いつの間にか粥を食べ終わったヴァルダマーナも、ドゥバーンの肩を”ぽん”と叩いて外へ出る。
「気負う事は無い。が、自惚れるには早いのじゃぞ。そなた、シャジャルとそう歳も離れておらんのじゃろう? わらわから見れば、子供のようなものじゃ。
ああ、そうそう。シャジャルも随分と我等と共に行きたがっておったぞ。じゃが――一軍を指揮するシャジャルは、日々、成長しておるの。おぬしもシャジャルも、成長が楽しみじゃの」
軽やかな笑みを浮かべてヴァルダマーナの後を追うパールヴァティも、ドゥバーンの双肩に乗った重みを理解していた。
そしてジャービルがあえて重石を乗せた理由も、である。
ドゥバーンは、泣き崩れそうになる自分を必死にささえ、シュラの手を握る。
それを握り返すシュラは小さく頷いて、言う。
「私はドゥバーンさまの剣であり盾。どのような場合でも、必ずお守りしますから……」
ぽかんと口を開けてその様を見ていたダスターンは、マフディに耳を引っ張られて天幕を後にした。
なんと空気の読めない上司なのだろうか? そう思うと、マフディはいい加減、嫌になる思いだった。
本当はダスターンも、気の利いた事を言いたかったのだ。
それで必死に考えた。
「任せろ、俺がいる!」
第一案はこれであったが、考えてみればキャラじゃない。
「全軍突撃」
第二案はまるで違う。
「絶対勝とうぜ!」
第三案は、意気込みだけで勝てるなら、軍師はいらんな、うん。などと考えた。
ああでもない、こうでもないと考えるうち、皆がドゥバーンの重荷を再び軽くしつつ、天幕を去ってゆくのだ。
「我等が大王に勝利の栄光をっ!」
結局、去り際に言えたダスターンの一言は、これであった。
「我等が大王に勝利の栄光を!」
結局、ドゥバーンは笑顔でダスターンに返事をした。
結果として、ダスターンもドゥバーンの重荷を多少背負う事に、成功したのである。
シュラの手を握るドゥバーンの手は、震えていた。
今までは、ただ策を練り、実行していただけだった。
ある種、遊戯の様な感覚だったのかもしれない。
だが、彼女の考えが一つ間違うだけで、シャムシール軍は瓦解する。
そしてそれは、様々な人生の未来を奪うということなのだ。
理解してしまえば、どうして自分はそんな大切な事に対して、目を瞑っていたのだろう――そうとしか思えない。
「拙者は、愚か者にござる」
「いいえ、ドゥバーンさまは、単なる変態です」
ドゥバーンの震えが、止まった。
シュラが暴言を吐きつつニッコリと微笑んでいる。
ぶち殺してやる! と思ったドゥバーンは、何をやってもシュラに勝つ方法を思いつけなかったので、とりあえず抱きついて鼻水を擦り付ける事にした。
シュラは嫌がらず、ドゥバーンの頭を暫く撫でる。
「落ち着いたら私の服、買って下さいね」
全部ばれてる――そう思ったドゥバーンは、もはや開き直った。
(そうだ、拙者は人を駒とする、人殺しでござる。それはもはや、業ともいえよう。なれば、同時に駒として活かす事も出来る筈にござる)
シュラから離れ、机に向かうとドゥバーンは徐に幾つかの箇条書きを始めた。
これが後に、シャムシール・ドゥバーン法と呼ばれる、遍く大陸を統治した法律の原点となるのだが。
第一条――第一夫人から第三夫人までを正妻とし、第四夫人から第六夫人までを副妻となす。以下は全て妾と定める。
とりあえず今日生まれた法律は、このようなものだった。
所詮ドゥバーンの頭の中は、未だ主にピンク色なのである。
◆◆
深夜。
沙漠の天空が濃紺色に染まり、金色の星々が輝きを増す時刻――。
メフルダートの耳に、慣れない獣の咆哮が響く。
「パオーン!」
「パオーン!」
しかも聞こえる方向は、南、そして上空。
「何事か!?」
などと慌てふためき、寝衣に足を取られて転ぶようなメフルダートではない。
シャムシールとは、出来が違うのだ。
すでに武装を整え、佩刀したメフルダートは天幕を出ると騎乗した。
シャムシールなら、冑だけ被って外に出るところだ。
「夜襲か。竜はいないと思ったのだが、な。アーラヴィーの神象とは」
轟々と燃え盛る自陣を眺め、苦笑を浮かべる精悍な男は、矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「二頭の象は囮だ! 弩弓兵を配して当たらせろ! 恐らく別働隊が仕掛けてくるぞ! 騎兵隊、応戦せよっ! 魔法兵、消火を急げっ!」
もとより夜襲の可能性を考慮していたメフルダートに、焦りは無い。
(なるほど、このような罠だったか――だが、真実アーラヴィーと盟を結んだとなれば……もはやヘラートに固執している場合ではないぞ、兄上)
そう納得したメフルダートは、ゆっくりと口髭を扱く。
――つまりドゥバーンは撤退すると見せかけて、逆撃。ここで我等を壊滅させようとしているのだろう。
その後、悠々と主の救援に向かうつもりか。
ならばここは凌ぎ、我等は再びフローレンス軍と合流するのみ。いや、そもそもここで私が勝てば、それでシャムシール軍は終わりだ、逆撃すべきか――
メフルダートは会心の笑みを浮かべ、周囲を見回す。
やはり沙漠でも、馬蹄の音が聞こえる。
どうやら戦場の設定ではドゥバーンに後れをとったが、それもここまでだ。
「ナセル陛下へ伝――」
伝令――そう言いかけたところで、ナセルの陣からも火の手が上がる。
一手遅かった、そう考えるメフルダートは、軽く舌打ちをした。
「ちっ、シェヘラザードめ。このような所で死力を尽くさずともよかろうに」
だが、それにしても敵の手際の良さはどういうことか?
メフルダートの陣は、十四万人の兵の中心にある。だというのに、眼前に迫るのは漆黒の騎兵集団だった。
百人程度の先頭に、一際大柄な武将が槍を構え、此方に迫ってくる。
確かに奇襲を許したとはいえ、こうも容易く本陣の中に入られるなど、矜持が甚く傷ついたメフルダートだ。
「ふん、望みは一騎討ちか」
メフルダートも槍を構え、敵将を迎え撃つ準備をした。
敵は恐らく赤獅子槍騎兵のジャービルだろう、メフルダートにとっても不足はない。
「メフルダートどのは指揮に専念して下され。蛮勇を奮うのは、俺の仕事でしょうから」
しかし、メフルダートは背後から”のそり”と現われた巨漢に、前方を遮られてしまう。
「ザールどの――」
メフルダートが礼を言おうと思った瞬間、ザールと敵将の槍が激突し、火花が飛んだ。
そのまま二人は騎馬ごとぶつかり、地上に縺れ落ちる。
敵将も長身だが、ザールの身体はそれさえ遥かに凌駕していた。
「名乗れ! 賊っ! 俺はザールだ!」
「ほう、ナセルの腰巾着か? 俺はジャービル」
「なんだとっ!」
ザールは槍を捨てると曲刀を抜き、縦横に振っていた。
それを槍で受け、払うジャービルは、相手を挑発しているものの劣勢と云える。
ジャービルとしては間合いの長い槍を捨てたいが、どうにもザールの攻撃が激しくタイミングがつかめない。
加えて悪い事に、膂力においてもザールに分があるようだ。
「ジャービル将軍! 助太刀をっ!」
「無用だ、下がれ!」
部下を拒絶するジャービルには、添えたい一言があった。
(お前達では、束になってもこの男に勝てぬ)
だが、ジャービルは麾下の精鋭を誇りに思っている。
故に、その言葉をぐっと飲み込んだ。
五十合も曲刀と槍を交わす内、幾人かの部下が飛び込んで、ジャービルの制止を聞く間もなく両断もされている。
逆にジャービルもザールの部下を幾人か屠ったが、その度に鎧の傷が増していくのだから、やはり地力はザールが勝るようであった。
ジャービルは一か八かの賭けに出る。
ザールの豪腕が、ついにジャービルの脇腹を捉えた瞬間だった。
槍を捨て、曲刀を抜いたジャービルは、豪腕にモノを言わせてザールを逆袈裟に斬り上げる。
だが、ジャービルの右脇腹も鎧が砕け、血が滲んでいた。
相討ち――といえば聞こえはいいが、どうにも傷はジャービルの方が深いようだ。
「パオーン!」
片膝を付いたジャービルの上空に、褐色の肌をした男が、純白の象に乗り佇んでいる。
「ジャービル将軍、助太刀しよう」
「いらん」
「しかし、その傷では」
「死ぬほどではない」
「だが、戦えるのか?」
「戦士が戦わなくて、いったい何とするのだ?」
聞き分けの無い――そう思ったヴァルダマーナだが、ジャービルとドゥバーンのやり取りには好感を持った。
ここでこの男を死なせることは、惜しい。見過ごせない思いのヴァルダマーナは、僅かに思案する。
その時、ザールの手が動き、曲刀を振り上げジャービルの首を刎ねようとした。
「ふんっ!」
手にした槍を、力任せに地上へ投げたヴァルダマーナ。それは、ザールの額を狙って放ったものである。
豪槍を、容易く曲刀で弾いたかに見えたザールは、しかしすぐによろけてしまう。
そして辺りをみれば、十数人の奴隷騎士が彼を囲むように守っていた。
ザール自身が思うより、彼の傷は重傷に見えるらしい。
確かに鎧を身に着けていなかったザールの正面は、随分と血に塗れていたのだ。
しかし状況はジャービルにとって、ますます芳しくなかった。
敵に囲まれつつあるのだ。
騎兵に囲まれたジャービルは不快気に舌打ちしつつ、曲刀を振って一人の騎兵を斬り殺す。
死んだ兵を落とすと、そのまま馬を奪って部隊に合流したジャービルだった。
例え負傷していても、ザール以外にジャービルの剣を捌ける者などいないのだ。逃げると決めたジャービルを止め得る者は、メフルダート軍中にいなかった。
それにしても――と、ジャービルは思う。
(ヴァルダマーナが気まぐれに槍を投げなければ、俺は死んでいた)と。
赤獅子槍騎兵の役割は、奇襲だ。
敵はそれなりに混乱しただろう。しかし、立ち直るのもまた、早かった。
ドゥバーンはこれでいい――という。
見ればシェヘラザードの攻撃も失敗に終わり、ヘラートへ撤収しているようだった。
(敵にそれなりの打撃を与えた。しかし、それだけだ。それで本当に、敵が素直についてくるというのだろうか?)
ジャービルは脇腹を押さえ、馬を駆る。
陣に辿り着く頃には意識も朦朧として、視界さえ定まらない。
ジャービルが次に気が付いた時には、既にカルス平原の側であった。
「兄者っ! 本当に死んでしまうかと思ったでござる! パールヴァティどのがいなければ、治癒さえ困難だったのでござるぞ!」
ジャービルは小さな天幕の中、周囲を見渡した。
ニヤニヤと笑うヴァルダマーナを見ると、小さく礼を言う。
「助けられた。すまん」
「余より、パールヴァティに礼をいえ。彼女の治癒魔法がなければ、お主は目を覚まさなかったであろうからな」
ジャービルがパールヴァティに目をやると、彼女は困ったように目を背ける。
「逞しい男は、嫌いではないのじゃ」
「おいいいい! パールヴァティィィ!」
ジャービルが状況を理解した。
小さな天幕は、療養のもので夕刻に立てられたものだろう。
外は既に、日が沈んでいる。
こうなればジャービルの気になる点は、一つであった。
「陛下は? 我が君はご無事か?」
「兄者、当然でござろう。それより、これからフローレンス軍を殲滅するでござるよ」
口元を歪めた妹に、ジャービルは苦笑で答えた。
なるほど、結局のところ全てはドゥバーンの掌の中にあったということである。
「俺も、無用な心配をしたものだ……」
「なんでござる?」
「いや、なんでもない」