隻眼の将軍
◆
ジーン・バーレットがメンヒ村で武装蜂起した時、彼女の下にいたのは元聖光白玉騎士団の六百名に過ぎなかった。
実際にジーンが組織していた人数は数万を数えるが、その全てがメンヒ村に滞在出来る訳ではない。よって他は彼女が事を一つ成し遂げた後に、合流する手筈なのだ。
ジーン・バーレットは、まずメンヒ村を管轄するアルテナ伯の居城を攻めた。
とにかく挙兵した以上は、戦果を挙げなければ意味が無い。ただ座して鎮圧軍を迎えるなど、愚かな行為であった。
それにこれこそが、決起の証。六百といえども城の一つも落とせぬ敗軍の将に命を託すほど、甘い連中などいない。だからこれに成功してはじめて、ジーンは自らの軍を持つことが出来るのだ。
まして何よりジーンは、シャムシールとの密約により挙兵している。
だから彼女にとって国土回復であるとか、聖教国復興などという大義はなく、基本的にはこれも仕事と割り切ってのこと。対価を得る為に戦うのは、当然だったのである。
「アハド、リグーリアでの船の手配、間違いないか? それから、マディーナは無事か? アカバが攻められたら、我等は万事休すなのだぞ」
燃え盛る石造りの城を眺め、ジーン・バーレットは隣に立つ男に声を掛ける。シャムシールより全ての責を取る、との約束を貰っているとはいえ、不安はあるのだ。
リグーリアとは、帝都の南にある港町だ。大陸を荒らした後、プロンデルが引き返してきたならば、さっさとそこから船に乗り、ジーンの軍団はアカバへと避難することになっていた。その最終確認がしたいジーンである。
だが、逃走経路の確保は全てアハドが取り仕切っており、ジーンが関与することはない。だからこそ互いは”持ちつ、持たれつ”な関係でいられたのだ。
「滞りなく――大丈夫ですよ」
頷いたアハドは、白い息と共に微笑んだ。しかし彼の声は、城内からの悲鳴に半ばかき消されてしまった。
未だ季節は冬であり、乾燥した大気のお陰で火攻めが随分効果的だ。燃え盛る炎は天を衝き、城内を煉獄と化しているのであろう。女子供の泣き叫ぶ声が聞こえる。
ジーンはアルテナ伯を攻めるにあたり、一切の容赦をしていない。雷撃、爆炎、その他の殲滅魔法を惜しげもなく使い、城壁を穿ち、城内に業火を送り込んだのだ。
一国に冠絶する武力の持ち主が小さな伯爵領を全力で攻めたのだから、多少の兵力差など問題にもならない。城内の魔術師が必死の抵抗を試みて、ようやくジーンの魔法を解除してみた頃には、六百の騎士が城門を食い破らんとしていた。
「しかし――貴女がそこまで自らの命を惜しむとは、意外だな」
ほとんど一方的な虐殺だな―――そう思ったアハドは城から目を背けると、ジーン・バーレットの白皙の頬を見た。
「別に自らの命など惜しまぬ。ただ――」
ジーンは感情を湛えぬ瞳で城を見つめながら、ボソリと呟く。彼女の口元からでる白い息も、小さかった。
「ただ、なんだ……?」
「ふん。私ではプロンデルに勝てぬ。勝てぬ戦に、多くの同胞を巻き込む気にはなれんよ。――悔しくはあるが」
「……ま、なんでもいいさ。ここまでやってくれたんだ。俺達だって、精一杯の事をする」
おどけた調子で応じたアハドは、ジーン・バーレットの整った顔を再び見つめる。
自身が半妖精であるアハドは、ジーンのぴんと張った長い耳を見るにつけ、羨ましく思うのだ。
――誰が同胞で、誰が同胞ではないのか?
中途半端な長さしかない耳で、人とも妖精とも言われぬアハドは、だからこそなるべく耳を隠していた。人から見れば妖精に見えるだろう。しかし、妖精達からは明らかに蔑視される、短くて尖った耳だからだ。
(俺は、同胞に入らないんだろうな。所詮、半妖精の扱いなぞ……)
ジーンが表立ってアハドを差別するような発言をした事は無い。しかしアハドはジーンに心惹かれればこそ、殊更彼女との差異が重くのしかかってくるような気分だった。
「ふっ……。私を、復讐に駆られた愚かな女だと思うか?」
アハドの思いを知ってか知らずか、ジーンは話を変える。
ジーンは、帝国から見れば反逆者だ。無論、クレアに陥れられたとはいえ、疑いを晴らす手段は、当時ならいくらでもあった。それでもシバールに付き戦っている事を、彼女は言っているのであろう。
”ドガァン”
その時、城門が破れる音と共に、味方が雪崩をうって城内へ突入して行く姿が見えた。
指揮を執るジーン・バーレットは銀髪を風に靡かせつつ、丘の上から戦況をつぶさに観察しているようだ。
その姿は冷静そのもので、アハドはとても彼女が復讐心に駆られて戦っているようには見えない。ましてや、「愚かではない」という否定の言葉を聞きたいようにも見えなかった。
空には一筋の雲が流れている。
「私は騎士だ。騎士は、誰かの為に剣を振るう。決して己の為ではないのだ……」
アハドは自慢の金髪をかきあげると、剣を抜いて馬腹を蹴る。
ジーンの問いに答えるには、アハドは経験が足りなかった。
ただ流されるまま闇隊へ入り、美貌と流暢な弁舌をもってジーンを篭絡した――少なくとも、カイユームやジャービルはそう評しているが、真実は違う。
(ジーンは何かを求めている。心に何か穴が開いているようだ。だが――それを俺では埋めてやれない)
アハドは自分がジーンに惹かれている事を感じつつも、彼女が絶対に手の届かない存在だと知っていた。
ジーンの質問に苛立ちを覚えたアハドは、馬を駆って城内へ突入する。そうすればジーンの問いに答えなくても済むからだ。
アハドは自ら城門を突破し、馬を下りると城内を闊歩する。
別に誰かの首を刎ねることなど躊躇わないアハドは、ここで蛮勇を奮う。
彼の役目は今後、ジーンとシャムシール、或いはネフェルカーラとの連絡を保つ事。死んでしまっては意味が無いのに、今は暴れたかった。
アハドはいつの間にか城内に突入を果たしたジーンの瞳に、愉快気な揺らめきを見る。
やはり酒場で鬱屈しているよりも、遥かに剣を握るジーン・バーレットは美しい。
城を落とすと、ジーン・バーレットは悠然とアルテナ伯の首を跳ね飛ばし、宣言をした。
「四頭竜の軍旗を掲げよ!」
しかしジーン・バーレットは、ここでシャムシール配下である事を明かすという。
「な、なぜ?」
驚きの声を上げたのは、アハド。かねてよりの計画とは違うのだ。というより、作戦は二つに分岐する予定だったのである。
第一に、ジーン・バーレットが勝利を収め続けたならば、シャムシールはジーン・バーレットの国家建設を支援する――そんな約束があった。だから本来ならば今掲げるべきは、聖騎士団旗と聖教国旗であろう。
あくまでもシャムシールが後ろ盾である事を明かすのは、ジーン・バーレットが敗色濃厚になった時点で十分なはずだ。
無論、フローレンスを相手に勝利を収め続けることは難しい。だからこそ撤退の準備を疎かにしてはいないのだが、現段階でこれは、逃げ腰に過ぎるのではないかとアハドは思う。
城内にある謁見の間、そこにある椅子に腰掛け足を組むジーンは、肘掛に乗せた手を軽く動かしてアハドの質問に答えた。
「私は、同胞を逃がす為に戦っている。元より失われた国家を再建する器量もなければ、力も無い。だが――シャムシール王にそのような事を言っては、頼りない女と思われよう? だから今まで黙っていたのだ。ふ、ふふっ――少なくとも、アエリノールなら本当に、国家を再建しようとするだろうからな」
不敵に笑う銀髪緑眼のジーン・バーレットに、かつての自棄は微塵も見られない。ただ冷然と現実に即した話をするのみだった。
「意外そうな顔をするな、私だって命は惜しい。より多くの同胞を救う為には、これが一番良いのだ。それだけのこと」
ジーン・バーレットは、アハドにも知られぬよう、シャムシールの人となりを調べていた。
確かに聖教徒であるジーンにとってシャムシールは受け入れがたい部分もあるが、それは今更のこと。
だから今となってはジーンとて、魔族を差別する気は毛頭ない。
「――もしも恨む相手がいるのなら、かつての狭量な自分自身であろうよ」
独り言のように呟いたジーン・バーレットは、こうして千五百の城兵が守る城を一日で陥落させた。
それはフローレンス首脳部へ激震のように伝わり、慌しく討伐軍が編成されたのである。
◆◆
アルテナ伯領を拠点としたジーン・バーレットは、聖光白玉騎士団の名で各地に檄を飛ばす。
ただし自らの肩書きに将軍と付け加え、シャムシール配下である事を明記した。
もとよりジーンは、この反乱によって帝国を倒せるなどと考えていない。ならばこれがシバール――シャムシールによる軍略の一環だと、最初から宣言してしまった方が話も早い、そう考えたのである。
真暦一七五三年エスファンド月二〇日。
奇しくもシャムシールが帰還を果たしたその日、ジーン・バーレットは周辺から集まった兵に向かい、城の広場に設置した壇上から叫んでいた。
広場では士気を高める為に酒が振舞われ、篝火が盛大に焚かれている。いよいよ明日から開始する軍事行動を前にした、景気付けだ。
「私はジーン・バーレット! 現在の帝国、その有りようを否定する者だ! されど、残念ながら私の力だけで全てが覆るはずも無い。――だが、案ずるな! それ故に私は、シバールのシャムシール陛下にお力添えを頂いておる! 無論、その事に賛同出来ぬものは、この場を去っても構わぬ!
――ただし、シャムシール陛下は、亜人を差別することなく、あらゆる者を受け入れる国家を目指しておられる。私は、それこそが理想の国家だと――理想の主君だと考えたのだ!」
この言葉に、もはや聖教国の大義は無い。
もしもジーン・バーレットが大義を掲げたならば、集まった人数は十万を越えたであろう。だが、彼女はあくまでも騎士で、決して嘘をつく事が出来ない人だった。
彼女が内々に語る、「逃げる為」という言葉にも偽りがない。ただし、その手土産として一定の戦果を上げ、シャムシールに差し出す必要があるのだ。
それでも、集まった兵は一万五千人に及ぶ。確かに元々ジーンが組織した総数と比べれば半数以下だが、騎兵が二千人も集まったのだから、軍勢としてはそれなりの規模となる。
また、ジーン・バーレットの出自から、妖精が全体の半数を占めたことも、戦力の底上げとなった。
特筆すべきは、魔族が妖精に次いで多かったことであろうか。むしろ純粋な人間は、ごく少人数しかいない。
ジーン・バーレットの銀髪は妖精にとって珍しく、いっそ上位魔族を彷彿させるものだったから、魔族も妙に納得していたものだった。
何よりシバール――シャムシールに従属する事を明言しているのだから、彼等が従うのも当然といえた。
無論これらの人々は、帝国に虐げられ、流浪の日々を送っていた。
ことに魔族など、帝国軍が遠征の過程で滅ぼした国の者達なのだから、その声は怨嗟に満ちている。だからジーン・バーレットに呼応して、シバールの為に戦うことはむしろ当然とさえ云えるのだ。
もちろん城を落とした時点で、ジーンは四頭竜の軍旗を掲げていた。これに反発した者は、各地で別の旗頭を担ぎ個別に叛旗を翻しているのだから、今更ジーンの言葉で離脱する者はいなかった。
もっとも各地で蜂起した勢力も、元を正せばジーンが地下に組織したもの。彼女は彼等の行く末を思い、暫しの黙祷を捧げたのだった。
「「おおお! フローレンスを倒せええ! シャムシール陛下万歳! ジーン将軍万歳!」」
こうして星振る夜に、帝国辺境の城は有史以来初の熱気に包まれる。
だが残念な事に領主は既に亡く、帝国の公式記録には”賊”と称されるシバールの将、ジーン・バーレットの下に、ではあったが。
「では、帝都に行き、帝国に一矢酬いてやろうか、諸君」
揺らめく篝火の下、広場に溢れる一万人の兵を見下ろしてジーン・バーレットは宣言した。
ただし、行くというだけで、落とすとは言わない。何故ならジーンの目的は、帝都防衛の為に展開するであろうヴァロア公シャルルの軍勢だからである。
それから数日、ジーン・バーレットは南西へと軍を進めた。
時に参加を望む民が現われるが、それを丁重に断る。
少なくとも、軍事訓練を受けていない素人を参加させて、自軍の倍にはなるであろう敵軍を破るなど、不可能事であるからだ。
「バレンツ平原を目指しているのかな?」
行軍も六日目を迎えた早朝、アハドは僅かばかり前で馬を進めるジーン・バーレットに問うた。
「ああ。あの地で私はプロンデルに負けた。雪辱というのも馬鹿馬鹿しいが、やはり同じ地で、帝国の向こう脛でも蹴飛ばしてやらんと気が済まぬ」
気の強そうな緑眼は、遠く南の空を睨む。
本来ならばプロンデルと再戦したいであろうジーン・バーレットは、皇帝の重臣を屠ることで溜飲を下げようとしていたのだ。
「なるほど、ヴァロア侯は向こう脛か」
アハドの言葉を聞くと、ジーン・バーレットは僅かに馬の速度を落とす。そしてアハドと並び、小声で言った。
「ところでシャムシール王と、今、話を出来んか?」
「今? それはまた、なぜ?」
「私は勝手に四頭竜の軍旗を使った。無論、後悔などしておらんが、何の反応も無いというのも……」
ジーン・バーレットとしては、これが心外だったのだ。
勝手に軍旗を使い、シャムシールの手による反乱だと周知させたのは、彼にも後戻りを出来なくする為だった。それは即ち、彼女の同胞が海を渡ってシバールへ逃げたときの保険である。
つまり、部下を見捨てる主君など、いずれは滅びる事となる。そうなりたくなければ、責任を持って助けよ、というメッセージを込めていたのだ。
それにも拘らずシャムシールは無しの礫。
勝手に旗を使った事を咎められるならば、自分は使い捨てだと諦めもつくし、逆に認めてくれるのならば、忠義を尽くしても良い、そう考えていたジーン・バーレットなのである。
「はぁ、なるほど。では、カイユームに聞いてみよう」
アハドがサークレットを指で押さえ、カイユームの名を念じて意識を集中する。
『カイユーム、俺だ。アハドだ』
『ん、ああ、どうしました?』
アハドは、いきなりカイユームが女声になって以来、何故か連絡する事が苦手になっていた。
といっても毎日報告は欠かせないので、日々、一言二言は話していたのだが、なるべくならば必要以外での会話は避けたいのだ。
『今、陛下に取り次いでもらうことは可能か? ジーン・バーレットが話をしたいそうだ』
『ああ、ちょっと待ちなさい。……陛下、陛下、起きてくださいまし。アハドから連絡で、ジーン・バーレットが陛下とお話をしたいと。さ、これをお付けになって……』
妙に気だるそうな声を出すカイユームと、側で寝ているらしいシャムシール。
なにやら背筋に怖気を覚えたアハドは、少しお尻が引き締まる思いだ。
なにこれ、シャムシール陛下、超恐い。――そう思ったアハドは、何かを誤解したに違いない。
『……これ、で、いいのか? ん? って、ええええぇぇ!? なんでカイユームが俺の寝台にっ!? ジャンヌまで! 出て行けぇ!』
驚きに満ちた声を上げたシャムシールに、あっさりと誤解を解いたアハド。
(なんだ、カイユームの性別を変えてまでコトに及んだと思ったが、望んだのはカイユームか……)
こうなれば逆にシャムシール王が気の毒だが、アハドはとりあえずジーンの願いを聞き届けた事に安堵した。ここで彼女にヘソを曲げられては厄介なのだ。
アハドはシャムシールに心の中で合掌しつつ事情を説明すると、自らのサークレットをジーンに渡す。
『初めて御意を得ます、陛下。私はジーン・バーレットと申します』
ジーンは馬上にありながら、緊張した面持であった。元来物怖じをしない性格のはずだが、かつてオロンテスの邸で見た少年が、世界を左右するような王へと駆け上がったと思えば、なぜか頬も上気する。
『はじめまして、ではないよね、前に……。まあ、その話はいいか。今は西で……苦労を掛けているね』
(え? 労い? 労いなの? それに、彼は、やはりあの日の事を覚えている……)
ジーンは、高度な政治的取引さえ内心に用意していた。なのに、申し訳無さそうな口調でジーンに語り掛ける男は、柔らかいテノールボイス。基本的に喪女であるジーンは、胸元を左手で押さえ、アエリノールの気持ちが分かるようだった。
『い、いえ、そのような。ただ、独断で陛下の軍旗を翻したことに関して、お詫びを申し上げようと』
『そんなことは構わない。ジーン、貴女が俺――余の味方をしてくれること、心強く思っている。ああ、そうだ。将軍を名乗る事も、貴女さえ良ければ全然構わない。むしろ将軍の列に列してくれるならば、とても嬉しい』
(ま、まさか、私の性格を知った上で、自由にさせてくれていたと? なんという器量! なんという優しさ! やっぱりあの日、彼が私を見ていたのは……)
ジーン・バーレットの肩が震えている。
今までの苦労が全て報われる思いだった。
もう、自分が忠節を尽くす人は、この人しかいないと思えた瞬間だった。
一度失った魂を、まるで再び得たかのような充足感にジーン・バーレットは包まれる。
そう――彼女は騎士である。騎士は主君が居てこそ、初めて輝けるのだ。
『ありがたきお言葉。陛下の御為、必ずやフローレンスの心胆を寒からしめるでしょう』
『頼む。ただ、適度なところで、ジーン、貴女も船でマディーナへ向かってほしい。貴女がフローレンスの王を望まないなら、せめて正式な将軍位を授けたいからね。決して死なないでくれ』
(ああ、ああ、そのように思っていて下さったなんて……! 私、私っ! 陛下に全てを捧げますっ! ……だから陛下の全ても私に……)
満ちたりたジーンは、もう、心の中が既にシャムシール陛下で一杯だ。一杯になりすぎて、妙なモノがちょっとだけ溢れそうになる。
出来ればもっと長く話していたいけれど、これ以上は臣下の分を越える。最後に一言だけ……。
『……やはり陛下は覚えておいでだったのですね、私達が始めて出逢った時の事を』
もはや八割り増しで美化されてしまった思い出を抱える、ジーン・バーレット。
かつて彼女はネフェルカーラと戦い、アエリノールを殴り飛ばし、羅刹の如くシャムシール達を追い詰めただけなのだが、内容が見事に変換されていた。
ジーン・バーレットの中にある、シャムシールとの出会いはこうだった。
泣く泣くアエリノールを誅殺に来たジーンは、そこで黒髪の美少年と出会う。彼は親友のアエリノールを連れて逃げてくれた――恩人だった。
そして黒髪の美少年――シャムシールは幾度も自分――ジーン・バーレットの顔を見て、見惚れていたのだ。
そう、二人が一目惚れをした瞬間である。
(あの時から、私はシャムシール陛下と結ばれる運命だったのだ)
――もう、ここまで来るとネフェルカーラもびっくりな妄想力だが、これがジーン・バーレットである。なので、二百三十年ほど生きて、彼氏が出来た事はたったの一度。四日で別れた”どあほ”な彼女なのだった。
ちなみに別れた理由はジーンが恋人を愛する余り、四日間監禁して不眠不休で見つめ続けた為。アエリノールはその話を聞いてケラケラ笑ったが、他の人はドン引きしたという。
『あ、ああ、もちろん。聖騎士の団長は随分綺麗な人だなぁって、思ったからね』
ジーンに答えるシャムシールも、実は隠したいことがある。
あの日、ネフェルカーラとの戦いでジーンの服は破れていた。それによって露出した彼女の下着を、幾度もチラ見していたことがバレたのかと、気が気ではないシャムシールだ。
――まさかあの時、下着を見た事を怒って俺の味方をやめるとか、ないよね? などと思っている。
だが、このオドオドした物言いが、ついにジーンの導火線に火を付ける結果に繋がった。
(ああああ! もう! やっぱりシャムシール陛下も私の事をっ! もう、陛下っ! ……放さないわぁ……)
満面に笑みを湛えたジーン・バーレットは、白銀の鎧を陽光に煌かせ、剣を掲げて言い放つ。
「天上の神も照覧あれ! 我、ジーン・バーレットは、必ずやフローレンスの地に巨大な楔を打ち込むであろう! 愛ゆえにっ!」
後の世に”神殺しの剣聖”と呼ばれるジーン・バーレットは、己の劣情を愛という名のオブラートへ包み、後日、無双する相手へ照覧を希望した。未来を知らないと、このような事も起こり得るのだ。
アハドはこれで仄かな恋に破れた事を悟り、この日、従軍している女性騎士を自身の天幕へ招くことにした。彼の容姿は天使に例えられる程整っている、その気になれば同衾する女性に事欠く事は無いのだから。
ただ――この事が原因でアハドは一男二女をもうけることとなり、”女殺しのアハド”という異名が封印されてしまうのは、また別のお話である。
だがアハドは、結局気付くことはなかった。むしろシャムシールという哀れな犠牲者のお陰で、ジーン・バーレットの魔の手から逃れられたという事を。
◆◆◆
真暦一七五三年エスファンド月三〇日。
聖都から帝都へと呼称の変更を余儀なくされた街の北西に広がる平野は、バレンツという名だ。
ここはかつてジーン・バーレットがプロンデルに破れた地でもある。
だが、ここに再び陣を敷いたジーン・バーレットは、感慨を込めて大きく息を吐き出した。
「かつては防御側。今は攻める側、か」
一昨年、倍する兵を持ちながら、味方の裏切りによって敗北したジーン・バーレットは、軽く瞼を閉じると頭を振った。
自身がプロンデルに及ばないとは考えたくなかった。
しかし、及ばないのだ――。
現在対峙する相手は、ヴァロア侯シャルルの率いる軍勢三万。対する味方は一万五千。
この数は、単純にかつての敵味方をひっくり返し、十分の一にした数だ。
それでも、帝都の周辺でこれだけの部隊を展開し、野戦に持ち込もうとするならば、戦場はここに限定されてしまう。それ程に、帝都周辺で大軍を展開出来る場所は限られるのだった。
「退きますか?」
馬上、ジーンの側にいたアハドが戦況に不安を覚えたのか、進言する。
倍の敵が三方に分かれ、此方を包囲せんとしている状況だ。誰しもが息を呑むし、出来るならば退きたいだろう。
「何を愚かな。この状況で退くなど、あり得ぬ」
しかしジーン・バーレットは会心の笑みを浮かべて、強気だった。
「我等を囲む敵兵を見よ。一万ずつ三隊に別れているだろう? ならば、時間差をつけて各個に撃破してゆけば、一万五千対一万、我等が勝つ道理ではないか。なぜ私が奴等の思惑通り戦場の中央に軍を展開させ、正面の敵に当たらねばならん?」
「ですが……」
アハドはさらに上空の暗雲を眺め、不安を募らせる。雨が、今にも降り出しそうだ。それに時間差をつけても、全て此方の思惑通り敵を撃滅出来るものだろうか、そう思うのだ。
「雨が降れば、より重装備の敵が不利になる。ふっ、黙って私について来い。圧倒的な勝利というものを、お前に見せてやる」
未だジーンの言葉を信じきれないアハドは、それでも口を噤む。
(確かにこのまま突撃すれば、前方の一隊には勝てるだろう。いや、敵も最初にぶつかるであろう事を見越して、最も重装備な部隊を正面に展開しているのだが……)
声にならないアハドの不安を察したのか、ジーンの号令は敵の正面へ向けた突撃命令ではなかった。
なるほど側面から攻撃する予定の歩兵に、まず当たるのか――アハドは一人納得する。
「全軍、右翼の敵へ突撃! 私に続けっ!」
戦闘が始まるや、撃ち合う魔法の合間を縫って、敵軍の側面にジーン・バーレットが斬り込んだ。
正面を歩兵に任せ、騎兵をいつの間にか両翼へ展開させていたジーンの用兵は、見事としか言いようがない。騎兵の一隊を率いたジーンが動くだけで、敵の中に亀裂が生まれてゆく。
敵は容易く分断されて、戦闘力を失った。
もちろん一万の敵に一万五千が勝つなど当然だが、こうもあっさり見事に勝ってしまうと、アハドは夢でも見ているのかと思いたくなってしまう。
あとは残敵を掃討するだけとなった所で、全体に回復魔法を巡らせると、再び突撃を命じたジーンだった。
「残敵の掃討は?」
「そんなものはいい! それより気を抜くな! 敵は未だ我等よりも多い! 正念場だぞ!」
部下の言葉に返事をすると、返り血を白銀の鎧にびっしりと浴びたジーンは馬腹を蹴る。
次の標的は、重装備の歩兵だった。
これはジーンが自ら正面を突破し、中央から分断してゆく。側面を歩兵が覆って行くと、あっさりと包囲殲滅の隊形が出来上がっていた。
部隊を動かす事も見事なジーン・バーレットだが、重歩兵を紙の様に切り裂く剣技は筆舌に尽くしがたい。一刀振るえば十人からの敵を両断するのだから、アハドは改めてジーンの力に舌を巻く。
「これが聖騎士団長の力か……。剣だけなら、ネフェルカーラさまより凄まじいな」
とはいえ、それでも敵の主将は見当たらなかった。となれば、最後の一隊に居るはずだ。
「ヴァロア侯を探せ!」
主将を討てなければ、勝利を決定付ける証拠にならない。
叫びつつ最後の突撃に、ジーン・バーレットは移ってゆく。
流石に二隊、二万の軍勢を一万五千で蹴散らすと、疲労の色が濃くなったジーン隊。敵が一万と言えども、先ほどまでと異なり、力で押し切る事が厳しくなってきた。
とはいえ、両翼を広げ、騎馬隊を背後へと回すと、いよいよ勝利の時が近づいてくる。
「おおおおっ!」
アハドも気力を振り絞り、敵を縦横に切り伏せていた。
一隊を率いたアハドも、今日はかなりの活躍を見せている。
将軍級はいなくとも、部将級ならば五人は討ち取ったであろう大戦果だ。
アハドの側にはここ数日同衾している女騎士がいるが、彼女も中々の強者で、やはり部将を幾人か討ち取っている。
「ジーンさま、好きな人でも出来たのかしら?」
「なんでそう思う?」
「輝いていらっしゃる……というか、狂気を感じるわ」
「……まあ、シャムシール陛下の妻になるんだ、と、本人は言っているな。この勝利も、陛下に捧げるんだとか」
「え……あ、あぁ、あの方、一途だから……シャムシール陛下なら、きっと大丈夫、よね……」
アハドが未来に妻とするこの女性はクリームイエローの髪を持った妖精で、ジーン・バーレットと十しか歳の変わらない聖光白玉騎士団の古株だった。
しかし女騎士の言う言葉の意味が分からないアハドは、軽く首を傾げて馬腹を蹴る。未だ戦の最中なのだから。
ジーン・バーレットは、ついに敵将の前に馬を進ませた。
「貴方がヴァロア侯シャルルどのか?」
「いかにも」
ジーンの前に立つ男は、長い白髪と白くなった口髭を蓄えた理知的な人物だった。
シャルルは剣を手にしているが、凡そ似つかわしくないその風貌で、まるで老練な魔術師を思わせる。しかし彼は銀色の甲冑を纏う、紛れも無い騎士だった。
いよいよ雨が降り出して、ジーンの血に塗れた鎧は元の色を取り戻していたが、マントについた汚れは落ちず、禍々しく揺れている。
ジーンが上段から斬り込むと、馬腹を蹴って剣を跳ね上げたシャルルは、その容貌と違い、剣もよく使うようだ。
激しい刃鳴りの後、互いに馬を回転させて、睨み合う。
それから五合、十合と剣戟を重ねれば、流石に地力の差が明らかになったのか、徐々にジーン・バーレットが追い詰めてゆく。
「シャルルどの、貴方は良識派と聞く。降伏なされよ」
「ふっ、それは降伏する理由にならんの……それに、勝った気になって油断するのは、ジーン・バーレット、お前さんの悪い癖じゃろうて……」
不意に心の奥底から怒気が沸き起こったジーンは、珍しく剣を大きく振り上げた。
無礼な老人を両断して、この世から消してやろうと思ったのだ。
――その時、風と雨を切り裂いて、勢いよく飛来する矢があった。
その速度は、通常の矢の比ではない。膨大な魔力で補強された矢は、ジーンの眼前で無数に分裂する。
ジーンは咄嗟に頭をずらした。しかし、全てをかわすことは出来ない――。
「ぐっ……!」
ジーン・バーレットの左目から、おびただしい血が流れる。
僅かに逸れた矢の一つが、彼女の左目を貫いたのだ。
「なるほど、一騎討ちでありながらも、狙撃する機会を狙っていたのか」
矢を顔に付きたてたまま、ジーンは冷静に言い放つ。
「如何にも。矢は、まだまだある。降伏するのはそちらじゃな」
それから二度、三度と同じく矢が放たれたが、それらを全て剣で叩き落すと、ジーンはシャルルに向き直る。
「くだらんよ。貴方は軍を三分した時点で負けていた。まあ、私の左目を奪えたのだから、それを土産に冥土へ行くがいい」
言うや、ジーンは剣を水平に走らせた。
数秒遅れて、老将の首が地面に落ちる。
同時にジーンを狙っていた狙撃兵が、アハドに首を刎ねられた。
「勝った――」
ジーン・バーレットがそう思ったとき、帝都の方角から鬨の声が聞こえた。
数はまた三万――いや、五万。
苦笑を浮かべたジーン・バーレットは、左目に刺さった矢を引き抜くと、全軍に撤退の合図を送る。
「勝利も束の間、か。まあよい、雨音が逃げる足音を隠してくれるさ」
馬腹を蹴って撤退に移ると、矢に刺さったまま自身の頭蓋から抜き取られた眼球を見るジーン・バーレット。
血は雨で洗い流されて、見事な緑眼がそこにはある。
「あ、キレイ。なんだか捨てるの、勿体無いな……」
そう思って、戦場を離脱しながら目玉を食べてしまったジーン・バーレット。
この事を知ったシャムシールは、こういったと云う。
「ねえ、この人、夏侯惇でしょ? 転生した夏侯惇でしょ!?」と。
それから、シャムシールの下には毎日ジーン・バーレットからの手紙が届くようになっていた。
左目を失ったその日も、ジーン・バーレットはシャムシールへ手紙を書くことをやめていない。
「この人、どこかおかしいでしょ!」と、シャムシールは薄々何かに感づいたという。
ジーン・バーレットからシャムシールへの手紙
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陛下にはますますご壮健のこと、真にお喜び申し上げます。
さて、陛下。私が陛下を愛していることは既にご存知かと思いますが陛下も当然私の事を愛してくださっているのでしょうだから私は陛下のことをおもいいつもわすれられずこのみをこがしているのですすきですあいしてますあいたいですあいたいですはやくあいたいわたしのおもいをうけとってください……
ジーン・バーレット
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シャムシール:「絶対この人、ヤバイ……」
アエリノール:「あ、ジーンからの手紙? 読みにくいよねっ、あははっ!」