アエリノールの東方征伐
◆
真暦一七五三年エスファンド月ニ〇日。
シャムシールがマディーナへ帰還を果たしたその日、アエリノールは東征軍三万を率い、ギール城砦を訪れていた。
城砦は湖の畔にあり、石造りで堅牢なものであった――。
城砦について過去形で語らねばならないのは、それが既に堅牢さを失っているからだ。
何しろ内側から外側に向けて大きく穿たれた穴から、未だに白煙が噴出している。
加えて周囲には、アーラヴィー軍のものと思しき死体の山が築かれているのだから、アエリノールにとっては、まことに摩訶不思議なことであった。
「あれー? 砦が勝手に落ちてるよー? あははー」
白煙を上げる砦を見つめ、惚けた事をいう女は、もちろん金髪碧眼の上位妖精。
当たり前だが砦が勝手に落ちるなど、犬が自殺するよりも確率が低い。
「閣下、未だ周辺にサラスヴァティがおります。ご注意を」
アエリノールの側で報告するのは、額から血を流し、左腕をだらりと下げたシュラである。
彼女は一昨日、ドゥバーンの命令を忠実に遂行した。
命令とは、アーラヴィー軍の後をつければ、必ずサラスヴァティの下へ辿り着く。辿り着いたらサラスヴァティーを解放せよ、というものだった。
つまり詭計により撤収させたアーラヴィー軍をさらに貶める為、嘘を真に変えろ、という話だったのである。
辛辣極まるドゥバーンの策は見事功を奏し、牢から抜け出したサラスヴァティは周囲にある生きとし生ける者を手当たり次第に葬り去ったのだ。
一昨日の夜――ギール城砦を軍勢で囲みつつ、パールヴァティとヴァルダマーナは手の付けられない妹が寝台に寝そべり、寝息を立てていることを確認すると、煮えくり返る腸を抱えて彼等は陣へ戻る。
「あのドゥバーンとかいう女狐めっ! すぐにとって返し、セムナーンを奪ってくれるっ!」
特にヴァルダマーナは手玉に取られたと怒気を発し、軍を反転させるよう、即座に命じた。
その様を見て微笑を浮かべたのは、シュラである。
シュラにとって、城砦へ潜入することなど造作もない。サラスヴァティの居場所が特定出来たなら、ここからの任務は容易いと、彼女は胸を撫で下ろしていた。
「なに、敵の敵は味方にござるよ」
ドゥバーンはシュラに、そう笑いかけて容易い任務であることを告げた。
微笑を浮かべ、曲刀を片手に音もなく城砦へ侵入したシュラは、悠々と城砦の階段を登る。時にすれ違う衛兵は全てシュラの存在にすら気づかないのだから、本当に容易かった。
しかし、結果はどうか。潜入は容易くともサラスヴァティの解放には、命を掛けるハメになったシュラである。
シュラはサラスヴァティが捕えられている最上階の部屋を開けると、途端、爆風に見舞われたのだ。
「何者か? わらわは今、寝ておったのだぞ」
確かに、誰もが寝静まった深夜、こっそりと牢を開けたのはシュラだ。
だが、囚われの者が牢を開けられて怒るなど、そうある事ではないだろう。シュラは眉を顰めてサラスヴァティを見据えた。
純白の寝衣を纏った蒼髪の美女が、寝台に座り、入り口を見据えている。
闇の中でもわかるほどに肌の色は白く、まるでアーラヴィーの者ではないかのようだ。
何より不可思議だったのは、やはり闇の中で輝く金色の瞳だっただろう。シュラは思わず片膝を付き、威儀を正して言葉を発した。
「サラスヴァティさま。セムナーン王が臣、シュラにございます。本日は、貴女様を解放にまいりました」
「頼んだ覚えはないのう」
怒気に細眉を吊り上げたサラスヴァティは、しかし不意に腕を組んで、首をかしげた。
「セムナーン王というのは、姉上よりも強いか?」
シュラは質問の意味を図りかねた。
だが、こういった質問をするのは、脳が筋肉で出来ている者に多いという厳然たる事実も知っている。だからシュラは、彼女が強者を求めているのだろうと直感した。
――それに、敬愛するシャムシール王が、パールヴァティより弱いものか!
そう思ってしまったシュラは、シャムシールに抱かれた日を思い出し、力強く頷いていた。
「無論にございます」
「……ほう」
一瞬だが、サラスヴァティの瞳が怪しく輝いた。
シュラはゴクリと唾を飲み込むと、いつでも下がれるよう、重心をやや前に出して不測の事態に備える。
興味を抱かせるには十分な答えだったが、同時に何か地雷を踏んだ気持ちのシュラだった。
「ですが、状況は――」
シュラが言葉を紡ぎ、可能ならばサラスヴァティを味方に引き入れようと画策したその時――寝室で複雑な紋様の魔法陣が煌いた。
――そこから先の記憶は、半日程途切れるシュラだ。
気が付けば、瓦礫に埋もれた身体を起こし、折れた骨の痛みに耐えるしかなかった。
それでも周囲でアーラヴィー軍を相手に暴れ回るサラスヴァティを見たのだから、シュラは任務の成功に胸を撫で下ろす。
なるほどドゥバーンがサラスヴァティを味方へ引き入れろ、などと言わない訳だった。
解放するや勝手に暴れまわるサラスヴァティに、ギール城砦が丸ごと壊滅させられたのだから。
当然、それを囲むヴァルダマーナの軍も、手痛い損害を受けている。
大規模殲滅魔法を使うサラスヴァティに対し、味方を多く抱えるパールヴァティは手加減をしていたのだろう。シュラの目から見ても、パールヴァティが不快気に表情を歪めている様子がわかった。
だが、辛くもサラスヴァティを抑えたパールヴァティ。国王たるヴァルダマーナは、いよいよ国都イラーハーバートへ撤退したのである。
「くっ! やはりサラスヴァティはセムナーン軍に寝返っておったか……! 退け! イラーハーバートで軍を立て直す!」
本陣の天幕で荒れるヴァルダマーナは、両目を吊り上げて西の空を睨む。自身がシャムシール――童貞王に踊らされていると気づいていても、なんら打開策の無い悔しさが込み上げて仕方がなかった。
一昨日から昨日にかけて、この地を阿鼻叫喚の地獄へと叩き落したサラスヴァティを思い出して、身震いをしたシュラに思わぬ声がかかる。
アエリノール軍がイラーハーバートへ向け、行軍を開始した時の出来事であった。
「シュラ、わらわの他にも蒼髪の女がおるのう? この者は、だれじゃ?」
シュラは自らの背後に、一切の気配を感じなかった。
しかし、冷気の様に纏わり付く殺気が、見る間にシュラの顔を蒼白へ変える。
何故か旧知の間柄の如く親しげに話しかけてきた女は、誰あろう、サラスヴァティだった。
サラスヴァティはシャジャルを見つけると、嬉しそうに手を差し出している。だが、内側から湧き上がる殺気は、尋常なものではない。
「これは、サラスヴァティさま……」
シュラは馬首をサラスヴァティに向けると、懐に隠してある短剣を掴む。いざとなれば、アエリノールやシャジャルの盾になるつもりだった。
「機動飛翔ッ!」
アエリノールの隣で馬を進めていたシャジャルが、無視し得ない殺気を前に、宙へ舞い、素早く印を結ぶ。
「んー? 彼女はシャジャルだよー。わたしの軍師なんだー、よろしくねっ!」
だが、アエリノールの方は尋常ではない殺気も何処吹く風と、振り向きサラスヴァティに微笑みかける。
「ほう? 軍師とはあれか。色々と計画を練ったりするのじゃな? ということは、お利口じゃなっ!」
サラスヴァティの機嫌は、何故かよい。薄汚れた寝衣を手で払いながら、アエリノールに答えている。
シュラは何となく彼女達二人に共通のものを感じ、ゆっくりと後ずさってゆく。
(馬鹿には付き合いきれないわ)
音もなく身を翻したシュラは、シャジャルに目配せをした。
どうせこのまま何もなく、馬鹿二人が過ごせるはずが無いのだ。
シャジャルも状況を察し、全軍を三百歩程後退させる。
「えー? そうなの? 軍の師匠だと思っていたよっ! キミ、頭いいねっ! わたしアエリノール! シャムシールのお嫁さんだよっ!」
こんな事をアエリノールが考えていたとは、またも驚きの事実が発覚したシュラである。
こんなヤツをシャムシールさまのお嫁さんにしてはいけない、そうシュラが思ったとしても仕方がない事であろう。
「ふむ、わらわも頭の良さに自信があるからの。ところでそなた、シャムシールといえば、セムナムナムの王じゃろう?」
――セムナーンだ、セムナーン。どの口が頭に自信があるなどというのか! もう、二人に対してツッコミしか入れられないシュラは、この場からさらに距離をとる。
(これ以上ここにいたら、私も馬鹿になってしまう)、そんな思いからだった。
「セムナムナム? シャムシールにそんな領土、あったっけ? あるかも?」
――ない! ある訳が無い!
歩きつつ、”キッ”とアエリノールを睨んだシュラは、眩暈がした。
「ほう、領土を把握できぬ程か」
「うん、だって大陸全部がシャムシールの領土だもの!」
アエリノールもたまには良いことを言うな――そう思ったシュラは、一人頷いている。
所詮シュラも脳筋軍団の一員であり、もっというならその幹部だった。
「な、なんと。わらわの知らぬ間に、覇王が誕生しておったか。アーラヴィー如きに抗っておった自分が恥ずかしい……」
ワナワナと両手を震わせて、サラスヴァティが顔を覆う。
そんな彼女に、意味の分からないフォローをするアエリノールはとても良い笑顔だ。
「そんな事無いよ! 今、わたしが討伐しようとしているのがアーラヴィーだからっ!」
「む? わらわの祖国を滅ぼす、と?」
「滅ぼす気はないけど……ないよね、シャジャル?」
最後の最後でシャジャルにぶん投げたアエリノールは、政策のことなど一切考えていない。
ただ、何となく戦に勝って、支配下に収めるんだよね? 程度の認識なので、この処置も仕方が無いのだ。
「そ、そうです。不可侵条約と軍事協定が結べれば、それで十分なのです」
中空に漂うシャジャルはサラスヴァティの表情をみて、奥歯をガチガチと鳴らしながらも必死にいう。
サラスヴァティにシャジャルが恐怖を覚えたとしても、それは致し方ないことだろう。
純粋に魔力を感じる力のあるシャジャルだ。サラスヴァティが明らかにパールヴァティを上回る魔力を保有していることを、本能で感じてしまったのだから。
「ふん」
サラスヴァティは寝衣にくくりつけていた曲刀を抜くと、下から上へ、アエリノールを斬りつけた。
凄まじい金属音が響き火花を散らしたのは、アエリノールもやはり剣を抜き、応戦したからである。
「ならばその力、試させてもらおうっ!」
「なんで?」
「なんとなくじゃ!」
「もう、どうにでもなれ」――シュラはこの時、そう思った。それと同時に、「早く誰か、治癒をかけてくれないかしら、腕と頭、痛いんだけど」――とも思っていたのである。
◆◆
サラスヴァティの額に第三の瞳が浮かび上がると、彼女の全身から青白いオーラが立ち上る。
「おおおおおっ!」
アエリノールも対抗して気合を入れるが、決して第三の目は開かない。
頑張れば開くかもと思ったアエリノールの顔は、真っ赤になっただけである。息を止めて力を入れすぎた結果だ。
ゆでだこアエリノール……そう思ったのは、シュラだった。
アエリノールは紺の戦衣に褐色の胸当てをつけて、純白のマントを帯びている。
防御力なら何処までも低い装備だが、暑さ対策ならバッチリのコーディネートだ。基本的に自分が怪我をすることなど想定しないアエリノールならではだが、今回ばかりは分が悪い。
サラスヴァティの斬撃は凄まじく、アエリノールの剣技と云えども、その全てを捌ききる事が出来なかった。
軽く切れたアエリノールの左腕から、小さく血が滲んでいた。
だが、このような事になったのも、しいて言うなら、問題は無駄に気合を入れたアエリノールにある。
長く息を止めたため、ちょっとだけ酸欠になっていた。その為、少し動きが鈍かったのだ。
「はあはあっ……やるわねっ!」
そんなアエリノールを見て、シュラは真面目にやれ! と怒鳴りつけたかった。
ガイヤールも上空から一騎打ちを眺めて、「どうして我を呼ばないのだろう?」と、酷く傷付いている。だが、アエリノールは馬から下りるのを忘れていただけなので、決して悪気はないのだ。
そもそも残念な事に、アエリノールは真面目にやっていた。
ただ、出来れば額に目を作りたい! という、そこに神経が集中していただけなのである。
「ふむ、剣技では互角かの? ならば、これでどうじゃ。――おお、公妃よ――極寒の中で眩き輝きを放つ貴女こそ、厳冬の華なり。我は望む――貴女の愛を、心を――さあ、その吐息で万物を凍らせ給え――極寒の吐息」
サラスヴァティの呪文と共に、辺りに厚く垂れ込めた灰色の雲から雪が降り始める。
それと同時に大地は凍り、見る間に体感温度が下がってゆく。このままではあらゆるモノが凍ってゆくだろう。それも、僅かの時間で。
「すずしー」
しかしアエリノールは、稀に見る恒温動物だった。
ではなく、彼女は例え禁呪といえども、最上位でさえなければモノともしない頑健さを備えているのだ。
周囲ではシャジャルが全軍に結界を張っている。
予め三百歩程後退させたことが功を奏して、今のところ死傷者は一人も出ていない。
アエリノールはサラスヴァティの隙をついて、一気に間合いを詰めるとその首筋にピタリと剣先を当てる。
一応”高速化”を使ったようだが、それにしても圧倒的なアエリノールの力だった。
「お、お前……姉上よりも強い、な」
「うん、そうだねっ! ずずっ」
アエリノールは鼻水を啜りながら、サラスヴァティに答える。
凍ったりしないアエリノールだが、基本的に季節の変化にはとても弱い。
昨日暑かったから、今日も暑いはず! そんな事を思って薄着のまま過ごし、結果、風邪を引くのがアエリノールの常なのだ。
だからこの時も、地味にダメージを負っていた。この後、キッチリと風邪をひいたアエリノールなのである。
ちなみにアエリにールは確かに強いが、ことサラスヴァティに対してのみ、圧倒的に条件が有利だった。
何しろ純粋な地力は出鱈目に強いアエリノールだが、彼女が負ける場合、地力を知力で封じ込まれて負けるのだ。馬鹿ゆえに地団太を踏むことも多いアエリノールだが、なんとサラスヴァティも馬鹿だった。
故に、単純な力と力でぶつかった為、容易くアエリノールが勝利したのである。その意味では、パールヴァティの方が厄介な相手であるのは間違いないだろう。
とりあえず任務を達成し、どうやらサラスヴァティを味方にも出来た事を確認したシュラは、闇隊を介してドゥバーンに吉報を伝える。
「そのまま遠征を見届けるでござる。アエリノールのことだから、きっと何かをやらかすでござる」
そんな命令を受け取ったシュラは、少し寂しかった。というか、武力がほぼ皆無なドゥバーンを一人にして大丈夫かと、心配の方が勝ったのだが。
ちなみに傷を自らの回復した魔力で癒し、少しだけ切ない思いをしたシュラは、もっと強くなろうと、この時、決心をした。
◆◆◆
真暦一七五三年エスファンド月三十日
「らんらんるー」
「らんらんるー」
互いに笑顔で馬を進めるアエリノールとサラスヴァティは、もう親友といっていいだろう。
シャジャルは溜息をつき、シュラは「馬鹿が増えた」と悪態を吐いた。セシリアは見なかった事にして、アエリノールの頭に石を投げる。
もう間もなく敵の本拠地、国都イラーハーバートへ到着しようという頃のことだった。
イラーハーバートはホラズム河の下流域、もはや海とも近い地にあった。川の中州に王宮が聳え、その周囲にある平野部に十五万の民が住んでいるという、アーラヴィー最大の都市である。
とはいえ、街を囲むような城壁は存在せず、故にヴァルダマーナは最後の決戦を挑むかのように、全軍を街を守るように配置していた。
全軍といっても、既に敗北に次ぐ敗北によって、総勢は五万を切っているだろう。アエリノールが幾度となくヴァルダマーナを捕え、そのたびに解放する、という事を繰り返していた結果だ。
ギール城砦を突破し、サラスヴァティを味方に引き入れてからというもの、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのアエリノール軍だった。
実際、ここに至るまで二つの城市を落とし、突破を果たしている。
シャムシールからも直々に褒めてもらい、天にも昇る気持ちのアエリノールは、そろそろ頭を撫でてもらいたかった。しかしぶつかったのは、何故か石である。
「ん? ん?」
突如痛んだ後頭部を擦るアエリノールに、サラスヴァティが声を掛ける。
「シャムシール王は、お主より強いのじゃろう? わらわも一度戦ってみたいのじゃが」
どうやら戦闘狂なサラスヴァティは、黄金色の瞳を輝かせてアエリノールに問う。
「うん、じゃあアーラヴィーを降したら、わたしと一緒に来る? シャムシールと戦わせてあげるよ!」
勝手に決めたアエリノールは、後でシャムシールに当然怒られる。
王と戦わせてあげるなどと約束をする上将軍は、歴史上アエリノールだけだった。
「よ、良いのか?」
「いいよー!」
「ら、らんらんるー!」
アエリノールとサラスヴァティが暢気に会話を交わしていると、土煙を上げて別働隊が現われた。
ギール城砦を抜けて以来、一万を率いて三つの城市を落としたオットーが合流したのである。
本隊よりも多くの城市を落とすあたり、オットーが名将としての片鱗を垣間見せていた。
それにしても、一つの城門など、彼の拳骨で爆砕したというのだから、とうとうオットーも人外の領域に足を踏み入れたのだろうか。
しかも一万を率いていたはずが、一万五千に膨れ上がって現われたのだから、シャジャルは軽く手を叩いて喜んだ。
今ではアエリノール軍本体も四万に増えている。となれば、彼我の戦力比は既に逆転しているのだった。
◆◆◆◆
一方で対峙するアーラヴィー陣営には、起死回生の策も無い。
神象こそ健在だが、自慢の戦象部隊を使った戦術が通用しない以上、兵力でも劣る自軍が負ける可能性が高かった。
とはいえヴァルダマーナは絶望している訳でもない。
かといって、もはや夢の様な希望を抱いている訳でもなかった。
「せめて、王国の独立だけは保たねば」
「そも、別に併合などを持ちかけられた訳でもあるまいに……」
一頭の神象に二人で乗っているヴァルダマーナとパールヴァティは、相変わらず仲睦まじい。
数日前、ヴァルダマーナがアエリノールに捕えられたとき、パールヴァティの怒りは凄まじいものがあった。それはヴァルダマーナがアエリノールに惚れてしまい、あえて負けて囚われている、という情報をシャジャルが流した為である。
情報を聞いたパールヴァティは即座に槍を掴むと、アエリノールの本陣へ単身乗り込んだ。そこで彼女はサラスヴァティを容易く破り、シャジャルを弾き飛ばすと、アエリノールと五百合にも及ぶ打ち合いを演じたのだ。
本来シャジャルは、これをもってパールヴァティを捕縛しようと考えていた。
サラスヴァティとアエリノールの力を持ってすれば、例えパールヴァティと言えども無力化出来ると考えたのだ。
無論、本来は自らの力でパールヴァティに打ち勝ちたかったシャジャルだが、軍師としての任を優先したのである。
だが、そんな予測よりも遥かにパールヴァティの怒りは凄まじく、力は計り知れないもので、そのままヴァルダマーナを奪還されてしまったのだ。
とはいえ、それでパールヴァティは気づいてしまった。
アエリノール――というよりシャムシール王は、アーラヴィーの征服を望んでいない。それどころか服従するならば、今まで以上の繁栄さえ約束しようとしているのだ、と。
だからここに至って戦うのは、もはやヴァルダマーナの尊厳でしかない。もちろんそれはパールヴァティにも大切だが、それで多くの家臣を失っては元も子もないであろう。
「パールヴァティ。余に、敗れて尚、生きろというのか?」
「わらわの夫より、シャムシールという男の方が大きな器を持っていただけの話じゃ。仕方なかろう」
「な……なんと」
「じゃが、わらわが愛しておるのは、そなただけじゃぞヴァルダマーナ。ここで戦えば、もはや後戻りは出来まい。
――敵にはサラスヴァティもおる。戦えば、皆死ぬであろうな。むろん、わらわは死など恐れぬが……」
下唇を血が滲むまで噛み締めた褐色肌の王は、妃の肩を抱きながら言った。
自らの野心と妃の命、そして国の民を天秤に掛けたとき、どちらが重いのかなど、自明の事だったのだ。
「白旗を掲げよ! 戦うまでも無い! この戦、我等の負けだ!」
そして――シャムシールという王が、その天秤を見誤ったとき、どのように変貌するかということを、ボアデブルとの戦いを見て知っているヴァルダマーナである。
ヴァルダマーナはシャムシールに敗れ、アエリノールにも敗れた。その上で、命を助けられた事には意味があるのだ。
こうして急遽、両軍を挟んで一際大きな天幕が立てられた。
当初、降伏の調印をするにあたり、王宮へアエリノール達を招こうと考え使者を出したヴァルダマーナに、予想外の返事が届く。
「我等は貴国の尊厳を尊重する者であり、滅亡を望む者にあらず。国都に進駐することなく同盟の締結をなさば、上下の関係はともかく、貴国が独立国である体裁は保たれましょう。ゆえに、両軍の中央に天幕を立て、その場で会談をなすべきかと存じます。――将軍シャジャル」
それゆえヴァルダマーナは、国民に対して完全敗北の印象だけは免れる事となる。
王の目の報告では、僅か十日の内に合計五つの城市を落としたのは、僅か十三歳の王妹シャジャルの策だったと言う。
ヴァルダマーナは白旗を掲げた後、天幕に引き篭もりパールヴァティだけを側に、一人悔しさに塗れていた。
「軍師のドゥバーンといい、王妹殿下といい、シャムシール王の下には、どれほどの人材が揃っているというのか」
「それに列することなら、そなたにも可能じゃ、ヴァルダマーナ。シャムシールというあの王、ただの王ではないぞ。あれこそ、王の中の王――皇帝たる器の者じゃ。なれば下風に立ったとて、誇らしきものよ」
「ふっ、ふふっ。そうだとしても、一朝一夕に考えを改められるかよ」
「その程度のことが出来ぬでは、シャムシール王の目にはかなうまいな」
こうしてシャジャルからの返書をパールヴァティと共に読んだヴァルダマーナは、寝所で相談をすると、決意を固めて翌朝、両軍中央の天幕へ向かったのだった。
アエリノールとヴァルダマーナの会談は、午前の、まだ日が高くなる前に始まった。
両軍の参加者は、シャムシール陣営がアエリノールとシャジャル、それからオットーである。対してアーラヴィー側は、ヴァルダマーナとパールヴァティ、そして最も身分の高い将軍だ。
彼等はそれぞれに向かい合い、胡坐をかいて座る。
もちろん椅子暮らしが長いアエリノールは、常に後ろに転がりそうだ。身体が固いとかそういう事ではなく、胡坐のバランスがよく分からないらしい。
最初に口を開いたのは、シャジャルだった。
「まず、会談に応じて頂き、感謝します」
決して降伏という言葉を使おうとしないシャジャルは、”すい”と青い瞳をパールヴァティへ向けて、少しだけ悔しそうな顔をした。
結局、パールヴァティにはなす術もなくやられっぱなしだったのだ。
兄に――シャムシールに啖呵まで切ったのに、なんと情けない妹だろう――そう思えば、悔しくて身震いしそうなシャジャルであった。
それでも今は軍師として、アーラヴィーを味方につけなければならないのだからと、シャジャルは微笑を浮かべてヴァルダマーナに目を向ける。
「ふっ。我等は所詮敗者。然様な気遣い、無用であろう」
微笑を向けられたヴァルダマーナは、自嘲気味に笑う。頭上に載せた白布を軽く叩くと、手をひらひらとさせ「負けた、負けた」とのたまっている。
「御自覚があるのは結構。なれば、この場にいらしたのは命乞いの為かな?」
オットーの言葉に、ヴァルダマーナの目が細くなった。
これは、事実であった。
しかし、命乞いという言葉は気に入らない。最悪の場合、民の命と引き換えに、自らの命を差し出す覚悟ならばあるヴァルダマーナだ。
「そうじゃ。そなたらは会談というが、われらに降伏以外の選択がないことなど自明、白旗も掲げたことじゃしの。なれば国体を護持し、命を救って頂く為にこそ、我等はここへやって参ったのじゃ」
「なっ、パールヴァティ!」
「今更、見栄を張る必要もあるまい。ヴァルダマーナ、申すが良い」
例によってアエリノールはポケットからどんぐりを取り出し、各人の前に並べている。
基本的に戦い以外で役に立たないアエリノールは、こんな時、愛玩動物に等しいのだ。
シャジャルはアエリノールの右隣で、彼女の正面に座るヴァルダマーナを注視していた。
「……余、アーラヴィー国王ヴァルダマーナは、シャムシール王を宗主と仰ぎ、以後、忠誠を誓う。その証として、ヘラートの戦いをシャムシール王の幕下として戦いたい。……可能ならば、先陣を給わりたいが……如何だろうか」
「よろしいでしょう。願ってもないこと、我が王も喜ばれます。ただ、先陣には間に合いませんね。既にジャービル殿が……はは」
「なっ、シャジャル! いきなりそんな話、信じて良いのかっ?」
「もしも裏切ったならば、兄者が二度と許しませんよ」
大きく頷いたシャジャルに、オットーが立ち上がって抗議する。
オットーはアエリノールの左隣に座っている為、彼女の頭越しに唾を飛ばしていた。
流石に唾を飛ばされたアエリノールは怒り、どんぐりを放り出す。
オットーに答えたシャジャルの冷たい言葉は、この時、誰も聞いていないかのようだった。
「唾を飛ばさないでよ! 汚いわねっ! どんぐりが濡れちゃったじゃないっ!」
そっちかよ、と、全員がアエリノールを白い目で見たが、これにパールヴァティが笑声を上げた為、天幕の中が一挙に和やかなものとなる。
「ははは! アエリノールどの。どんぐり、確かに頂戴した。わらわからも何か贈れる物があればよいのじゃが」
「くっくく、ははははっ! まったく、天王さまは強いやら惚けているやら。以後、よろしく頼みますぞ!」
尚、この遠征中アエリノールが幾度も爆轟雷を使った為、アーラヴィー人は彼女の事を天王と呼ぶようになった。
天王とはアーラヴィーの言葉で”雷帝”や”雷神”を意味する、アーラヴィー神話における神の一柱の名だ。
その異名をヴァルダマーナが口にすると、アエリノールはきょとんとした目を左右へ向ける。
天王アエリノール、誕生の瞬間だった。
「王妹殿下。先ほどの言葉、このヴァルダマーナ、肝に銘じておこう。なに、童貞王の恐さは、余が一番知っておるからな」
片目を瞑ったヴァルダマーナは、シャジャルの言葉を聞いていたようだ。
しかしシャジャルは、何かが違う、と首を傾げるだけであった。
こうして同盟は成り、ヴァルダマーナは結局、シャムシールの下へ軍を派遣する事となる。
アエリノールは図らずも出征時に倍する軍勢を引きつれ、ヘラートへと向かうのであった。
……もっとも、この二日後、勝利を自ら報告したくなったアエリノールは、ガイヤールを駆ってマディーナへ向かう。
もちろん本当はシャムシールに頭を撫でてもらう為なのだが、一緒にサラスヴァティまで連れて行ってしまったのだから、多分また、大変な事になる。
可哀想なのは、若干十三歳にして代将となり、七万もの大軍を率いるシャジャルと、なにやら騒動に巻き込まれそうなシャムシールであった。
そしてドゥバーンの見立て通り、最後の最後でやらかしたアエリノールを西の空に見つめ、シュラはシャジャルに言った。
「ドゥバーンさまはこれあるを見越して、私をこの場に残されたようですね……」
「ゴメンね、シュラ。セシリアと一緒に部隊を率いてくれると、助かるかな」
シャジャルも遠く西の空を眺め、乾いた笑いをシュラに向けるのだった。