マディーナ篭城戦 4
◆
とりあえず、何故か俺は今、ネフェルカーラを抱っこしている。
寒いから暖めて欲しいという要望は、理解出来た。しかし、だからと言って彼女がこのまましがみ付いていると、俺はいつまでたっても元の時代へ還れないのだが。
「ネフェルカーラ。危ないから、下がっていて」
俺は半ば強引に小さなネフェルカーラを引き離すと、凍った大地の上に彼女を下ろす。
蒼い月の力というのは、全部取り込めたと思う。
だが、心配なのは先ほど禁呪を使ってしまったことだ。あれで正直、かなりの魔力を持っていかれた気がする。
とはいっても、俺の身体は未だにピカピカ輝いているし、翼も六対十二枚を保っている。だから、心配するほどの事はないだろう。ないといいな。
パラディンは白い息を吐きながら、俺の前に歩み寄る。
「達者でな。こっちの事は、任せろィ」
パラディンは俺の肩を力強く叩くと、その後、親指で氷漬けになったアモンを指差した。
「アイツは封印でもしておくぜェ。ま、千年以上、目が醒めねェようにしとくから、安心しなァ」
千年以上ということは、俺が還る時代に復活しているという事ではあるまいか。もう少し長い封印を頼みたいのだが。
とはいえ、これ以上を望んでも意味がないだろう。もしも未来で見かけたら、また俺が倒せばいいだけの話だ。
ともかく俺は還るべき場所を念じ、魔力を高めてゆく。
あらゆる結界を解除し、時空を超える為に力を集中するのだ。
だがその刹那、ネフェルカーラがロケットのように飛んできた。見事な頭突きが腹に刺さった俺は、体をくの字に曲げる。
「げ、げふぅ!」
よりにもよって、結界を全部解除した時に……。
「ぷぷっ」
ネフェルカーラの攻撃を、イズラーイールが肩を震わせながら見ていた。
オイ、こん畜生。娘の教育をしっかりしやがれ。お前がこんなだから、未来のネフェルカーラはとんでもなく横暴になるんだぞ!
眼光に恨めしさを込めて、俺はイズラーイールを睨んだ。
もう、全然集中出来ない。
「ユウセイ――! また、会えるか?」
体を折り曲げている俺と、ネフェルカーラの視線がピタリと合った。
まさかネフェルカーラはこの為に、俺にダメージを?
いや、馬鹿な。五歳でそんな戦術を駆使されてたまるか。
「あ、ああ。ネフェルカーラが大人になったら――きっとまた会える」
「そうしたらわたしを、およめさんにしてくれるのか?」
俺はネフェルカーラの言葉に、答える事が出来ない。
確かにシャムシールはネフェルカーラを妻にする。だけど、今の俺は久織悠聖。真実を語るには、早過ぎるのだ。
「そうだな――ネフェルカーラが覚えていてくれたら」
「きっと、きっとおぼえている! わすれたりしない! ユウセイを忘れる訳がないだろう! だから――」
小さなネフェルカーラは横に回り俺の頬へ、そっと唇を押し当てた。
「てェめェィ! 俺っちの娘に何をしてやがるんでィ!」
”シャアアァァ”
この展開で、やはり怒り出すパラディンは、再び剣を鞘走らせる。まったく、俺からキスをした訳でもないのに、なんて理不尽なんだ。
俺は慌ててネフェルカーラを引き離すと、再び上昇した。パラディンが猛然と走ってくるので、逃げなければならない。
まったく、パラディンやイズラーイールとは今生の別れだというのに、落ち着いて、礼も言えない。ちょっと釈然としない気持ちだ。
俺は両手を広げ、マディーナを思い浮かべた。それと同時に、脳裏に大人になったネフェルカーラの声が響く。
「何をしておる、遅いではないか。おれを待ちくたびれさせるな」
その後、大きな光の柱が俺を包み込んだ。あとは移動するような、浮いているような、不思議な感覚だった。
――今、俺の周囲では二つの時代が繋がったのだ。そういう瞬間なのだと思う。
「ユウセイ――楽しかったぜィ!」
「ふはは。どうやら導く者もいるようで、何よりだ」
「うわああああん! ユウセイィィ!」
外界からは、パラディン達が俺に手を振ってくれていた。
ネフェルカーラだけはピョンピョンと弾んで、俺に向けて手を伸ばしている。
だが、俺が過去を視界に捉えていたのは、そこまでだった。
半瞬の後、ホワイトアウトした視界はすでに別の空間を捉えている。
もう、一面氷の世界となった我が家は、影も形も無い。当然、小さなネフェルカーラの姿も、イズラーイールも、パラディンの姿さえ見えなくなっていた。
「これで、いいのか?」
上昇しているとも思えるし、前進しているとも思える。そんな中で、俺はあらゆる記憶の断片に触れてゆく。
多分、時間を早送りしているような形で、俺は今を過ごしているのだろう。
「一応、成功かな? ――あ、ネフェルカーラ、元気だった? 声、聞こえていたよ……まったくさぁ、俺が今まで何処にいたか、分かる? 凄いよ、これさぁ――」
「げ、元気だぞ。そ、その――シャムシール、いや、ユ、ユウセイ」
途中、漸く自分でもネフェルカーラに声を掛けられる地点に到着すると、つい浮かれて話し掛けてしまう。
けれど返事をするネフェルカーラはどこか浮かない感じで、少し心配だ。というかアイツ――あれ? ユウセイと? アイツ、俺が悠聖だって知っていたのか!?
ともかく俺は、自分が感じることが出来た大きなネフェルカーラの声を道標として、刻の環を抜けたのであった。
◆◆
ネフェルカーラはウィルフレッドの猛攻を凌ぎながらも、口元に浮かぶ笑みを噛み殺す事が出来ない。といっても、いつも通り黒い薄布で口元を隠す彼女の笑みは、誰にも見えないが。
「ユウセイ――いや、シャムシール、ふふ、気配を感じるぞ。もうすぐか……」
卓越した槍技を誇るウィルフレッドの突きを、細身の剣でいなすネフェルカーラの剣も神技といえる。
「でいやぁぁぁぁ!」
ウィルフレッドの側面から迫るのは、裂帛の気合を放つジャムカだった。
澄んだ青空の様な瞳をジャムカに向けて、神槍を回転させたウィルフレッドは、姫将軍の二連突きを容易く迎撃する。
「筋はいい。だが、未熟」
最後に槍を跳ね上げたウィルフレッドは、ジャムカの冑を弾き飛ばす。
もしもナスリーンがジャムカの全身に結界を張っていなければ、きっと今、吹き飛んだのはジャムカの頭であっただろう。
零れた黒髪が汗ばんだ頬に張り付いて、ジャムカは妙な艶かしさを見せていた。
「ほう、クレイト人もシャムシール王は妾に?」
「妾などではないっ! 第四夫人だ!」
「ははっ、なるほど。しかし彼は何人妻がいたのやら。だが、王ならば当然か。プロンデルにも見習って欲しいものだ」
苦笑しつつジャムカを見据えるウィルフレッドは、複雑な呪文を詠唱しているジャンヌを警戒した。
「ジャンヌ・ド・ヴァンドーム。貴女も、今は亡きシャムシール王に心惹かれたのかな?」
ウィルフレッドは爽やかな微笑を浮かべ、ジャンヌの瞳を見つめる。
普通の女子ならこれだけで食事も可能だが、残念ながらジャンヌは腐った女子だ。むしろその様に敵意しか湧かなかった。
「紡ぐ――大地の精霊満ちたりし時――う、ん? いやぁ? 僕こそが第零夫人、ジャンヌ・ド・シャムシールだ! 僕がシャムシールに惹かれたんじゃない! 彼が僕にハァハァしたんだ! そして序列が下位の妻たちと色々したい僕は、仕方なく、仕方なくだねぇ、彼の妻になってあげるのさっ!
ああ、これで僕はついにネフェルカーラちゃんと結ばれる……ハァハァ……なんだか興奮してきちゃったよ。――ええと、とにかく、キミに何かを言われる筋合いなんかないっ!」
もっとも、ウィルフレッドの策は見事に功を奏する。
何しろウィルフレッドにしてみれば、ジャンヌの詠唱を止めたかったのだ。
ジャンヌはなんと、珍しくも禁呪を詠唱していた。これが決まればウィルフレッドの”反撃魔法”さえ破る威力であったろう。しかし、あっさり怒りと欲望に飲み込まれた彼女は、やはり”倒錯の魔術師”だった。
「おい、ジャンヌ。何の為におれが、あの男を引き付けておったと思うておる?」
「あ、第一夫人」
「あ、第一夫人ではない。そも、第零夫人とはなんだ? 零の概念を言うてみよ」
「ええ、と。無?」
「ふむ。理解しておればよい。では早速おれがお前を無に帰してやろう――」
ネフェルカーラがウィルフレッドに背中を向けると、流石に高速の槍が迫った。何故かそれでホッとしたジャンヌは、もう、ただの屑と言っても過言ではない。
(ハァハァ。ここでネフェルカーラちゃんを助ければ、僕にメロメロだねっ!)
咄嗟に考えたジャンヌの目算には、狸もびっくりだろう。余りにも都合が良すぎる。
もちろん黄金の槍がネフェルカーラの背中に刺さる事は無かった。何故ならハールーンが、同じく槍を高速で繰り出し、ウィルフレッドの槍先を弾いたからである。
「チッ」
舌打ちをするジャンヌの顔は、可愛さが余って憎さが漲る。しかし、これを蹴ってはジャンヌを喜ばせるだけでなので、ネフェルカーラは無視を決め込み、ハールーンへ顔を向けた。
「ハールーン、貴様、全軍の指揮をせぬか」
「ふふぅ。この戦い、勝利を得るには彼を倒すしかないですからぁ」
これがハールーンの出した結論だった。
つまり、敵軍の侵攻はどうあれ止められない。ならば、帝国宰相にして皇帝の従兄弟である敵将を討ち、これをもって敵を退ける、ということだ。
ハールーンは藍色の瞳に力を込めて、ウィルフレッドを真正面から見据える。
ランドマスターを駆るウィルフレッドに対し、マディーナにおける最高火力が四人で対せば、決して勝てないことはない。
「ふむ、ハールーン将軍は流石だね。そう、今の君達が勝利し得る方法は、確かに私を倒すことだけだ。……けれど、四人に増えたからと言って、それで私に勝てるかな? ハールーン将軍、キミは私の力を見誤っているよ」
純白の戦衣を纏ったハールーンと、濃紺色の戦衣を纏うウィルフレッドは、互いに牽制し合うかの様に竜を対峙させている。
その時、不意にウィルフレッドは衣服の胸元を開いた。
何故かナスリーンがその様に目を奪われるが、それはイケメン好きの性である。しかし次の瞬間頭を振って、ハールーンに視線を固定させていた。
「うん。やっぱりあたしは、色白よりも色黒が好きなのよぉ」
ナスリーンの呟きに顔を顰めたジャムカは、あとで説教をしようと心に決めた。
しかし何故か勝ち誇るアーザーデは、こんな事を嘯く。
「ナスリーン、所詮貴女の愛はその程度なのよ。うふふ。見ていなさい、私がハールーンさまの筆頭――」
だが、アーザーデが全てを言い終わる前に、ウィルフレッドは胸に掛けたペンダントを外し、空高く投げた。
「現われ出よ――上位魔族どもっ!」
ペンダントには、三つの宝石がはめ込まれていた。
一つは紅玉、一つは真珠、一つは黒曜石である。
それらはそれぞれに輝き、ついで瞬く間に人の形を成す。
「くそ……せっかく甦ったというのに、この私が人間ごとき使役されるなど」
燃えるような赤毛を持ち、ビロードの衣服を纏う上位魔族は溜息と共に顕現する。もちろん彼は、紅玉が姿を変えたものだ。
「アモン、自分の弱さを棚に上げて……。強ければ生き、弱ければ死す――それが我等の定め。ならば生きていられる現状に、せめて感謝をすべきだわ」
黒曜石が姿を変えた上位魔族は、黒絹のように艶やかな髪と黄金の瞳を持つ、幽玄の美女だ。ただし、背に三対六枚ある漆黒の翼を広げていることから、明らかに異形である。
しかし黒を基調として金の刺繍が多く使われたレースのアバヤドレスは、彼女が見事なプロポーションを持っていることを強調していた。
そんな異形の美女が、赤毛の男に薄笑みを浮かべている。
「ザビーネッ! 俺はまだ甦って数年――かつての力を取り戻しておらんのだ!」
「かつての力、ね? ……それも、どの程度だったことやら。ククッ」
女の名は、ザビーネと言った。
その瞳はイズラーイールと同色だが、湛える光は明らかに違う。嗜虐性に満ちたザビーネの瞳は、ある種の優しさに満ちたイズラーイールと比べれば、獰猛な獣のようだった。
「二人とも、喧嘩はよさぬか。ウィルフレッドさまの御前である」
真珠から姿を現した男は、ゼルギウス。彼は長身のアモンよりも、さらに二回りほど大きい。髪は灰色だが、別に白髪というわけでもない。
ゼルギウスは冑こそ無いが、全身を覆う銀色の鎧と、巨大な盾を持っていた。
彼は深い彫の奥にある蒼い瞳を輝かせて、一人、ウィルフレッドに頭を垂れる。無論、中空における所作だが、地上での行動と変わらないほどに洗練されているゼルギウス。彼はかつて神々に叛旗を翻した魔帝――ルシフェルの騎士と呼ばれた男だった。
「いやいや、ゼルギウス。お前がそもそも味方をしていなければ、私があの金髪の小僧に負ける事などなかったのだ」
アモンが眉間に皺を寄せて、ゼルギウスを批難した。
「アモン、今更、よ。どうせ私達はこの男に魂を喰われているのだから、文句を言っても始まらないわ」
「ザビーネの言う通りである」
「と言っても、我等が眷属を打ち倒す側に与するのは……。大体、ゼルギウスだけは喰われてないだろう?」
「我には、目的がある故に」
上位魔族達のやり取りをみて、苦笑していたウィルフレッドは漸く言葉を発する。
「諸君、悪いが状況を見て欲しい。私は現在、強敵に囲まれていてね。一人で倒してもよいが、そうすると敵を殺してしまうことになる。故に、君達には彼等を殺さぬよう、生け捕りにしてもらいたいのだ」
「そして魂を喰らい、我等の主はますます強くなる――か。せっかく氷河の封印から放たれてみれば、次は宝玉の中とは、やれやれだ」
目の端で、彼曰くの”金髪の小僧”を捉えたアモンは、木霊から作り上げた杖を翳す。
余り肉弾戦が得意で無い彼は、しかし炎を操る事にかけて、上位魔族の中でも屈指の存在なのだ。
そしてそんな彼が目を付けたのは、やはり炎の精霊に守護されている赤竜と、もう一人、朱色髪の男だった。
「ほう、あの男、”英霊体質”か? 面白い、丁度、鬱憤も溜まっているからな――いけっ!」
結局アモンはハールーンへ向け、特大の火球を放ったのである。
◆◆◆
戦局は動き、ネフェルカーラは唯一人でウィルフレッドの相手をするハメになってしまった。
周囲を見回せばジャンヌはゼルギウスと戦い、ハールーンがアモンと、ジャムカがザビーネと戦っている。
ジャンヌは豪快に大剣を振り回すゼルギウスに近づく事が出来ず、苦戦している。とはいえ、空中戦における機動力はジャンヌが勝り、火力でもジャンヌが優勢だ。
ジャンヌの攻撃に晒されて、徐々にゼルギウスの大盾と全身鎧が、傷だらけになってゆく。
ネフェルカーラはその様を目の端に捉えて、小さく頷いた。
(それにしても、あれほどの鎧を身に着けて、ジャンヌの機動飛翔に匹敵する速度で飛ぶなど、やはり上位魔族は侮れんな)
シャムシールが帰還するとして、それでこの戦力差を埋める事が出来るだろうか?
現状の見立てでは、自身とウィルフレッドの力は五分。だが、そうではなかった場合を考えれば、ネフェルカーラは背筋の凍る思いだった。
「みてー! クレアみてー! ほら、ウィルフレッドは黒いよっ! 上位魔族まで使って、真っ黒だよー! だから僕のところへ帰っておいでー!」
ジャンヌの叫びは、虚しく木霊する。
何しろクレアはパヤーニーと死闘を繰り広げているのだから、ジャンヌの声が届くはずも無い。
しかもあろう事か、パヤーニーはあえて接近戦を挑み、関節技を主体として闘っている。これはもはやセクハラの領域だが、クレアとしては、対処せざるをえないのだ。
ましてカイユームと違い異常性癖など無いクレアは、ミイラに絡みつかれる度、寒気を覚えるのだから、たまらなかった。
ハールーンはアモンの召喚した隕石を、何と槍で切り裂いていた。
これには流石のネフェルカーラも目を丸くしたが、その理由を図らずもウィルフレッドが口にする。
「ただの英霊体質ではない、”絶対切断”か。――アモン! 君だけは、相手を殺してもいい!」
”英霊体質”には、相性や位階と云うものが存在した。
ことに”絶対”を冠する能力ならば、それは最上位を意味する。だとすれば、ウィルフレッドの”魂喰らい”でも手に負えないのだ。
また、それは即ち”人類最強”を意味する。だとすれば、ハールーンが手の付けられない化け物に進化を遂げる前に、その命を立つべきであろう。
何より”絶対”の名を冠する力を持つのはプロンデルだけでいい――そうウィルフレッドは考えていた。
「ほう? ハールーンが随分と厄介のようだな」
「本来ならば、論理を持って説得したい人材だ。しかし――彼は私達の味方にならないだろう」
「我等は誰一人とて、シャムシールを裏切る者などおらぬ。それより、随分と余裕を見せておるが――おれの力を見縊っておるな?」
ウィルフレッドが笑みを浮かべながら槍を繰り出している様を、ネフェルカーラは憮然として眺める。だが次の瞬間、猛然とランドマスターへ肉薄したネフェルカーラは竜の頭を凍らせた。
「氷結ッ!」
竜の上で軽やかなステップを踏んだネフェルカーラは、ウィルフレッド目掛けて剣を振り下ろす。神速と云えるその剣は、銀の弧を描きウィルフレッドの肩口を切り裂いた。
「くっ!」
寸でのところで身体を捻り致命の一撃を回避したウィルフレッドは、竜を回復させると背面飛行でネフェルカーラを振り落とす。
自らの肩も回復魔法によって瞬時に癒すが、それでもネフェルカーラの実力に驚きを禁じえないウィルフレッドだった。
「本気ではなかった、ということか」
「ふはは。あまり舐めないでもらおう」
「ふむ、それは失礼をした。では、私も本気でやらせてもらおうか……」
実は前回ウィルフレッドと戦った折、剣技で後れをとったネフェルカーラは、こっそりと訓練をした。
なので、前回も今回も思いっきり本気だったのだが、ここは何とか誤魔化したいネフェルカーラである。
(むう、まずいぞ。今の一撃がおれの精一杯だ。下手に魔法を打ち込んでは、”反撃魔法”とやらがあるし。ヤツの実力は、一体どれ程だというのだ?)
こうなれば、勝算が消えたネフェルカーラは頭を抱え込みたい。想定していた最悪の事態だった。
「何をしておる、遅いではないか。おれを待ちくたびれさせるな――シャムシール!」
ネフェルカーラはこの時、心の底からシャムシールを呼んだ。
実際、既にネフェルカーラはシャムシールが放つ波動を感知している。しかし、彼の到着がいつになるのか、分からないのがもどかしい。
いや、逆に考えて、「この場に来なければシャムシールだけは助かるのではないか」とさえ思い、ネフェルカーラは悲愴な覚悟さえする。
そんな中、シャムシールの能天気な声が、ついにネフェルカーラへ伝わった。
『あ、ネフェルカーラ、元気だった? 声、聞こえていたよ……まったくさぁ、俺が今まで何処にいたか、分かる? 凄いよ、これさぁ――』
ウィルフレッドの速度が先ほどよりも上がり、褐色の竜が、大気を切り裂くような咆哮を放つ。
「グオォォォォ!」
ウィルフレッドの凄まじい槍捌きが、ネフェルカーラの四肢に無数の傷をつけてゆく。辛うじて直撃を避ける彼女は、防御魔法を展開するので精一杯だった。
「げ、元気だぞ。そ、その――シャムシール、いや、ユ、ユウセイ」
しかし攻撃魔法を詠唱する余裕はないのに、シャムシールにキチンと返事をしてしまうネフェルカーラは、まさに恋する乙女である。恋は盲目とは、よく言ったものだ。
一方、ザビーネに対するジャムカはナスリーンのサポートが適切なお陰で、上位魔族を相手に善戦している。
「ヤァァァァ!」
ジャムカが裂帛の気合と共に、ドゥラをザビーネの下へ躍り込ませる。
というより何故かジャムカが裂帛の気合を放つと、ザビーネの魔法が無効化されるのだ。
「ちっ! 遠吠えかっ!」
苦虫を噛み潰したような顔をしたのは、ザビーネだった。
ジャムカは闇雲に気合を発していた訳ではない。彼女はクレイト皇家に伝わる戦闘方法を、実直に実践しているだけだった。
遠吠えとは、蒼き狼の末裔と言われるクレイト皇家の者だけが持つ、声による魔法相殺法なのだ。
かつて大陸東方を席巻したクレイト皇帝は、この声によってあらゆる魔法を封じたという。これも大帝国を築きえたクレイト、その力の一端なのだった。
こうなればアモンと同様に魔法戦闘が主体のザビーネは、ひたすらジャムカの槍に翻弄されることになるかといえば、決してそうはならない。
ジャムカの力で消せる魔法は、それ程多くない。その上ザビーネは魔法の同時詠唱、同時展開さえ可能なのだ。
正面へ火球を放ちつつ、上空から雷を落とすなど造作もないザビーネは、ジャムカに極度の接近を許さなかった。
つまり、ジャムカがザビーネに勝つ術は無いのだ。
という訳でナスリーンは撤退の時機を計りつつ、ジャムカが致命の一撃を負わないよう、細心の注意を払っていた。
ナスリーンと共にいるアーザーデは、ハールーンの戦いを見守っている。
だが、未だ”絶対切断”を使いこなせていないハールーンも、アモンに勝つ術がなかった。
アーザーデもまた、勝利の覚束ないこの戦場から、離脱すべき時を見計らっている。
出来ればネフェルカーラにも撤退を進言したいが、彼等の戦場に入れるほど自らを過信出来ないアーザーデは、周辺の敵兵と刃を交えながら、きつく奥歯を噛み締めていた。
そんな最中、シャムシールの声に舞い上がるネフェルカーラは、ついにウィルフレッドに追い詰められた。
急に動きの鈍くなったネフェルカーラを不信に思ったウィルフレッドだが、敵に情けを掛ける必要などない。
地竜ランドマスターを地中に潜らせてから上方へ向けて炎を吐き出させ、回避したネフェルカーラを神速の槍で攻撃する。
――当然これを回避される事は、ウィルフレッドにとっては予測の範囲内だ。
「爆ぜろッ!」
ウィルフレッドはこの時、漸く魔法を見せた。
ネフェルカーラは咄嗟に結界を強化して、燃え盛る爆炎をなんとか凌ぐ。
「堕ちろっ! 闇炎ッ!」
最後に現われたのは、中空に漂う闇だった。
ネフェルカーラが張り巡らせた結界の内部へ生み出した闇、そして炎だ。それは小さく始まり、徐々に広がって、瞬く間に竜と同程度の大きさとなった。
ウィルフレッドは、最初に取り込んだ上位魔族の力をその身に宿し、魔法を行使したのである。
「――シャムシール、すまぬ。お前を待ちたかったが――おれにも勝てぬ相手がおったようだ」
黒い炎の中、人影が燃える様を見るのは、やはり気分の良いものではない。そう、ウィルフレッドは思っている。
だが、だからこそ自身の力が神聖なものだと勘違いせずに済む――そう信じるウィルフレッドは目を細めた。
ウィルフレッドが”魂喰らい”の力に気付いたきっかけは、七歳の時のこと。槍術の師匠が死んだとき、その幽体を見た事が発端だった。
ウィルフレッドはただ、師匠に教わりたい事がたくさんあっただけ。それで師匠の幽体に手を伸ばすと、ウィルフレッドの右手は師匠を吸い込んだのである。
ウィルフレッドは慄いた。
死んだ師匠が、自らのせいで消滅したのだ。
しかし同時にウィルフレッドは、その時に気付いたことがある。
師匠の力と技が、自身の体に引き継がれていたのだ。これにより当時七歳であったウィルフレッドは、大人たちよりも遥かに円熟した槍術を身に付け、天才と呼ばれたのである。
そしてその異常性に気付いたのが、当時、政治や学問の師匠であったシャルルだった。
「ふっ……英霊体質は、決して神聖なものではない――そう教えてくれたのも、シャルルだったな」
ウィルフレッドが僅かの追憶へ浸る間に、闇は更なる巨大化をする。
渦巻く風が、ウィルフレッドの長い金髪を靡かせる。
もはや闇の中心温度は三千度にも達し、いかなネフェルカーラといえども無傷ではすまない。
おそらくこのままでは、現界で活動出来る量の魔力を維持することも、ネフェルカーラには不可能となるだろう。
そしてネフェルカーラは、原形を留めぬ幽体となる。その時こそ、ウィルフレッドが彼女を取り込む条件が揃うのだ。
「決して……殺しはしない。私の血肉となるがいい……」
しかしその時、ぐったりとしたネフェルカーラを抱きかかえながら、六対十二枚の翼を持った黒髪の男が闇の中から現われる。
闇の炎を突き破るかのように輝くその姿は、現界のあらゆる生命を圧して神々しい。しかし言っている事がどうにも情けないので、プラスとマイナスが相殺されてしまうようだ。
「熱っつ! 熱いって! ちょっと、これ、髪が焦げちゃったよ! ネフェルカーラ、なんで火の中にいるんだよ!? 修行? そういうの、やめてくれよっ! だから元気がなかったのか? って、ええ? 気絶してるのっ?」
粗雑な衣服に付いた火の粉を払いながら、黒髪の男はウィルフレッドを睨む。
そのさまを見たウィルフレッドは、瞬間、絶句した。
「なぜ、シャムシール王が――?」
しかし当のシャムシールは、状況がさっぱり分からない。
睨んだ理由は、ウィルフレッドが男か女か分からなかったからである。だが、ウィルフレッドのはだかれた胸元を見て男と確信したシャムシールは、「ちっ」と舌打ちを鳴らす。
この辺りの行動は、恐らく”久織悠聖”の名残だろう。良い子なシャムシールは状況を素早く確認して、この場が戦場であり、ネフェルカーラが戦闘中だったことを理解した。
「闇の中、一点の光として――ここから再び現われる、か。……まったく――シャムシール王、貴方は一体、何者なのだ?」
「俺か? 俺は地球生まれのスーパーヤサ……サイヤ――あ、いや、もういい、なんでもない」
黄金の槍を構えて警戒感を露にするウィルフレッドの前で、妙な素振りを見せるシャムシール。自身が金色色に輝いているところから、何かを思いついたらしい。
だが言い淀むと、照れくさそうに下を向く。どうやら言葉を間違えたようだ。
久しぶりに懐かしい顔を見たからといって闇雲にテンションを上げたシャムシールは、所詮こんなものだった。
そもそも戦場でふざけようとする方が、ふざけている。この恥ずかしさも、彼には良い薬だろう。
だがその時、空を駆けつつもアモンと戦っているハールーンが叫んだ。
アモンの目がシャムシールを捉えると、みるみる涙目になったが、それには誰も気づかない。
「シャムシールッ! 戦ってぇ! そいつがネフェルカーラさまをっ!」
「――なに? お前がネフェルカーラを? ……お前、何で殺されたい? 剣か、炎、か、それとも氷か……」
シャムシールの瞼がスッ――と細まり、眼光に狂気が宿る。狂気の源は、怒りだった。
その怒りは真っ先に、現在に至るまでマディーナへ戻れなかった自身へと向けられたが、だからこそ眼前の男は、絶対に倒すと決意をするシャムシールであった。
ウィルフレッドはシャムシールの姿を見て、剣を選んでみようかと考える。
何故ならシャムシールはこの時、帯剣していなかったからだ。
少しだけうっかりなシャムシールに親近感を持ったウィルフレッドは、口元に微笑を湛える。
「貴方はやはり、プロンデルに似ている。だが、それでもまだ、及ばない。だからこそ今ここで、私が倒す」
神槍を構えたウィルフレッドは、シャムシールと正面から対峙する。
戦いに高揚感を覚えるなど久しぶりのウィルフレッドは、むしろ現状を楽しんですらいるのであった。