マディーナ篭城戦 3
◆
ウィルフレッドがマディーナの包囲を始めて、二週間が経過した、聖暦一八五三年二月二十日。今は夕闇の中、両軍ともが示し合わせたかの様に、沈黙を保っている。
一際巨大な天幕の中、ウィルフレッドは多くの幕僚を従え、一つの報告に耳を傾けていた。
「メンヒ村においてジーン・バーレットが武装蜂起、周辺では妖精や奴隷どもが次々と呼応しております!」
「監視者は、どうしたのだ? なぜ、そのような状況になった?」
部下の報告に、ウィルフレッドは形の良い眉を吊り上げた。ジーン・バーレットがメンヒ村にいることなど、既に把握済みだったのだ。にも拘らず、蜂起に至らしめるだけの兵を集めさせた事に憤慨する。
「皆、闇隊に消されたとの事で……」
椅子に座るウィルフレッドの前で畏まる使者は、さらに深く頭を垂れる。
「クレア、どう思う?」
肘掛の上で指を”とんとん”と鳴らしながら、ウィルフレッドは背後のクレアに意見を求めた。
クレアも同様に渋い顔だが、同時に薄笑みを浮かべているようにも見える。
二重、三重にも策を巡らせるクレアのこと、例えジーン・バーレットが挙兵しても、逆用する手立てを考えているのではないかとウィルフレッドは思っていた。
「――ですからジーン・バーレットは、消しておくべきだったのです。シャムシールと彼女が結ぶことなど、アエリノールの行動からも、容易に推測出来たではありませんか」
「まあ、そう言わないでくれ。今はまだ、ジーン・バーレットとマディーナ軍の繋がりは分からぬし。何より、シャムシールはもういない。ともかく、それでもメンヒ村を挙兵の場所にしたということなら……」
「どうあれ目標は帝都――それから我が軍の補給路を寸断するに違いありますまい。それ以外の道など、あの女にはないのですから。故に、ジーン・バーレットは南下します」
不快気に眉を顰めるクレアは、しかしウィルフレッドと視線を合わせない。この件に関しては別にウィルフレッドが悪かった訳でもなく、であれば文句を言う筋合いではないからだ。それに何より、これ自体が演技であった。まして、皇帝たるプロンデルの思惑もわかる。どうせ、
「余に叛旗を翻したければ、そうすればよい。世界を一周した後、叩き潰してくれよう」
という程度のことを考えているに違いないのだ。
ならば全て予定調和に過ぎないのだから、クレアにとっては単なる茶番である。
「なるほど、クレアはこの事を予測済みだったようだね。では、当然、対策もあるのだろう?」
「もちろん、聖光緑玉騎士団の第四席――いや、今は第三席ですが――、ゴードンに対策は命じておきました。
……しかし現在、帝国本土は副宰相にして外務卿たるヴァロア侯――シャルル殿が全権を任されております。なれば、いかに内治を預かる私といえども、外征中、本国の軍を動かす訳には参りませんわ」
ヴァロア侯といえば、プロンデル躍進を支えた老臣である。
元々はプロンデルに政治や科学、或いは魔法学を教えていた家庭教師であったらしいが、その事から現在に至るまで重用されていた。
とはいえ、彼は元来が反戦派であり、常にプロンデルを諌め続けてきた男でもある。つまりクレアにとっては目の上の瘤の様な存在であり、国内でもっとも排斥したい男なのだ。
「なるほど、君は……」
ウィルフレッドはクレアの言葉を聞くと、瞼を閉じる。
ヴァロア侯シャルルは、ウィルフレッドにとっても同様に教師であった。
彼のお陰でウィルフレッドは自身が”英霊体質”である事に気付けたし、プロンデルがそれ以上の存在であることにも気付いた。言うなれば恩人なのだ。
――だが同時に、今のウィルフレッドにとってシャルルは政敵でもある。
「宰相閣下がご命令を下すのであれば、私は従うまでにございますが?」
「いや、君の思うとおりに事を運んでくれて構わない。ヴァロア侯――いや、シャルルは――ジーン・バーレットに勝てるかな?」
「くふ、くふふ。ご心配なく。ヴァロア侯が危機とあらば、無論、ゴードンが救援に向かいますとも……ええ……くふふ」
ウィルフレッドは使者を下がらせると、マディーナへ総攻撃を命じる。
彼は今日、主力である白狼騎士団を前面に出して、マディーナ北門を突破することを決意した。
背後にジーン・バーレットを抱えたとなれば、プロンデルやクレアの思惑はともかく、帝国は混乱する。この状況で長期に渡り戦線を維持する事は困難だろう。まして補給が途絶えるとなれば、現地で略奪行為に及ばねばならない。
いや――略奪出来る土地があれば、まだマシだ。最悪の場合は、その行為によりナセルまでも敵に回す可能性があるということ。そうなれば、後背にジーン、両翼をマディーナ軍とナセル軍に挟まれ、飢餓にも苛まれる。そうならない為にも、現段階でいち早く拠点を確保しておくべきなのだ。
ともかくウィルフレッドはマディーナの東と西に一万ずつ兵を配置し、正面である北へ全ての火力を集中、その上で南側だけは開けておくことにした。何故なら、マディーナを奪えば良いのであって、敵兵や住民を皆殺しにする必要はないのだから。
「ところで宰相閣下、アカバの街はどうなさいますか?」
笑いを抑えたクレアが、ウィルフレッドの耳に口元を寄せて囁く。
幕僚達の中には強行にアカバ攻略を叫ぶ者が多い為に、声を大にして言いたくないクレアだった。
「あの港町か。つまりはあれが、マディーナとジーン・バーレットを繋ぐ希望、ということなのだろう? もちろん繋がっている前提ならば、ね」
「十中八九、繋がっておりましょう」
「ならば、後でいい。先に潰して、早々とジーン・バーレットが死兵にでもなっては、たまらないからね。
――だが、もしも我等を背後から寡兵で攻め立てるような愚将がアカバの指揮をしているのであれば、その時点で逆撃、撃滅すればいい。ただ、それだけだ。クレアだって、そう考えていたのだろう?」
「御意。閣下はまこと、聡明であられます」
こうして方針が固まると、ウィルフレッドは立ち上がった。
当然、自身が白狼騎士団を指揮すべく天幕を出ると、ランドマスターを呼ぶ。
ウィルフレッドは、ただ皇帝に付き従っているだけの男ではない。或いは、彼こそが皇帝に相応しいとさえ言われる程の傑物である。
加えて彼は、あらゆる局面で陣頭に立つ。それも、プロンデルのように無謀と思える突撃を繰り返すわけでもなく。
ウィルフレッドの幕僚たちは、そんな上官に敬意を込めた眼差しを向け、各々が引かれた馬に飛び乗った。
これから始まる夜襲は、夜襲にして総攻撃である。恐らくこれは、有史以来初の試みであろう。
ウィルフレッドに率いられる騎士達はその事実に高揚し、いやが上にも士気は高まるのだった。
◆◆
シャムシールの消失から二週間。マディーナの戦況は厳しいものだった。
周辺住民の避難は滞りなく終わったが、だからといって単独でウィルフレッド軍を撃滅できる算段は付かない。
ヘラートから齎された情報では、いよいよプロンデルがナセルと合流し、攻撃が激しさを増してる、とのことだった。
無論、ヘラートへ救援に向かっているドゥバーンが、ただ手を拱くはずもない。一足早くジャービルをヘラートへ差し向け、赤獅子槍騎兵による痛撃も与えている。
とはいえ、赤獅子槍騎兵は僅か五千。ヘラートを包囲するナセルとプロンデルの全軍三十万と比べれば、象の前の蟻にも等しい存在だった。
ネフェルカーラは状況の推移を見越して、いよいよカイユームに一つの命令を下す。
「アハドへ通達。ジーン・バーレットを蜂起させよ」
これが、今より一週間前の出来事であった。
アハドはジーン・バーレットに接触、その後、彼女と共にフローレンス帝国内で武装組織を作り上げる為に奔走した、元盗賊の半妖精である。
元来、彼女を蜂起させるべき時機は、まさにシャムシールとフローレンスが決戦を迎えるその時であるはずだった。しかし、それを早めた理由は、もはや時の到来を待たず、敗北が必至となるからだ。
ネフェルカーラは逼迫した状況に、思わずサーリフの霊廟へ向かった。
そこでシャムシールがかつて持っていた”スマホ”を見つけ、部屋へ持ち帰ったのが昨日の事である。
「シャムシール。既に幾夜、過ぎたと思うておる。おれとて、寂しさを感じるのだぞ。早く還ってこぬか……」
敵に包囲されている状況で、昼夜を問わず指揮を執り続けるネフェルカーラ。彼女は今、黒甲将軍府におけるシャムシールの部屋で、彼の鎧を前に溜息を吐く。
ネフェルカーラは懐からシャムシールの”スマホ”を取り出しすと、軽く振った。
部屋と鎧とスマホ。これが今のネフェルカーラにとって、シャムシールと繋がる為の証なのだ。だから彼女は出来るだけシャムシールの部屋で過ごし、鎧の前に座る。そして”スマホ”を手に入れてからは、なるべくその手に持っていた。
「そもそも、これは一体何なのだ? ――シャムシールは、おれの作った冑の様なものだ、と言っておったが」
ネフェルカーラは”スマホ”を横にしたり、裏返したりと、色々触ってみた。すると、”カチッ”っと音がして、外面を覆うケースが外れる。
「おおっ?」
思わずケースを足元に落としたネフェルカーラは、驚きに声を上げる。そして”スマホ”を裏返すと、齧られたかの様な跡がある林檎の紋様を見つけた。
「ふむ、知識の果実? それを食べた跡、ということか? だが、それを紋様に? 面妖だな」
シャムシールのスマホに描かれているマークは、所謂”林檎社”製を示すあの印だ。しかし、妙な所でネフェルカーラの知識とリンクして、加速度的な勘違いを伴った推論は、ある意味で正鵠を射る。
「すると、これは”全ての知識”が作り上げた”大陸の記録”の一つ、という事か」
もちろん、違う。
しかし、ネフェルカーラの勘違いは更に加速して、どんどん真実へ近づいて行くのだ。
「ふむ。ならば、シャムシールの強さも頷ける。何より、そうであればこそ、これを取り戻したかったのだな。
しかし、これが”大陸の記録”というなら、希望が持てるぞ。ここからシャムシールの足取りを追うことさえ、可能なのではないか?」
ネフェルカーラは口元に笑みを浮かべて、シャムシールの寝台に座る。
まだかすかに残るシャムシールの残り香を吸って、少しだけ身悶えするネフェルカーラは、また妙な妄想をした。
「俺の事をそこまで思ってくれて……俺、もうネフェルカーラなしでは生きて行けないよ」
「なっ、シャムシール。皆が見ておる。このような場所で口付けなど、や、や、やめよ。ああ、う、ん」
強引に唇を塞がれたネフェルカーラは、だらりと両腕を垂らし、その身をシャムシールに預ける――という妄想だった。
さて――
現実へ戻ったネフェルカーラは、スマホを起動させるべく思案する。
普通に考えれば、魔力を込めれば良いだけだろう。しかし、いかに魔力を込めても動かないこの”大陸の記録”は、何か特殊なモノのようだ。
暫し首を傾げつつ、正面の黒い画面を見つめるネフェルカーラ。それは鏡とまでは言えずとも、随分と平たく、そして自身の顔さえ映すほどに磨かれている。さらに周囲を触れば、下部に丸いボタンと、上部に小さな楕円のボタンを確認できた。
「なんなのだ、これは?」
だんだんと苛立ちが募るネフェルカーラは、所詮、短気である。
「雷撃」
今も昔も、気に入らない事があれば、すぐに雷を落とすのがネフェルカーラの悪い癖。しかし、この時ばかりは、それが功を奏した。
軽い雷撃は、室内で作った小さな雲から放たれた。それはシャムシールのスマホに直撃すると、そのまま電池に流入したのである。
さらに運が良いことに、ネフェルカーラは起動ボタンを押したままだった。
「おお、おおっ?」
突如画面に現れた林檎の紋様に、驚愕の声を上げるネフェルカーラは、少し嬉しかった。
そこからネフェルカーラが、様々な画像や動画が保存されている場所へ辿り着くのは造作もなく、彼女はそこにあった、無数のちょっとエッチな動画達を削除してゆく。
「むう、シャムシールめ。おれと云うものがありながらっ! なんだ、これは! なんなのだ、これは!」
シャムシールが苦心して集めたお宝も、ネフェルカーラの前では所詮ガラクタに過ぎない。もしかしたらオットーならばシャムシールに共感したかもしれないが、今となってはもう遅い。
しばらくネフェルカーラがあらゆるデータを削除していると、ついに久織悠聖の動画を見つけた。
「俺は久織悠聖だ。――今からお前――まあ、俺の半身だが――をカフカス大陸へ送る。俺はお前の肉体であり、お前は俺の幽体。だからきっと、これを見ても俺の言っている事が理解出来ないだろう。なぜなら、お前は俺と別れることで、記憶を失うからだ。
記憶を失って、これを見ているお前は、きっと混乱しているだろう。それは仕方がない。
だが――これだけは覚えておいて欲しい。お前はこの先、どのような名前を得ようとも”久織悠聖”だったということを。そして俺の――いや、俺達の力は、上位種族をも凌ぐということを。だから、自信を持ってそちらの世界で、俺達がかつていた世界との繋がりを探して欲しい。
大丈夫だ、心配するな。そっちの世界でお前を倒せる者なんて……ええと、そんなにいないから。
それから、肉体である俺がここ――幻界から出られない理由は、神々の監視が厳しいからだ。まったく、ここで俺が何をしようが咎められることはないが、肉体を持ったまま出るとなれば、討伐対象になるらしい。よく分からないことだがな――。
まあいい、あまり長々と話すこともない。いずれまた、一つになろう」
ネフェルカーラはこの動画を、五回ほど見返した。
確かに、画面の中にいる人物はシャムシールだ。しかし、彼は自らを久織悠聖と名乗っている。
「――ユウ、セイ? シャムシールがユウセイ?」
幼い日の記憶が甦り、ネフェルカーラは茫然とする。
あの日、父が作ってくれたお弁当を、全て食べてしまった事を。
あの日、頭を思いきり掴まれて、失神しそうになった事を。
あの日、ユウセイが消える間際、その頬にキスをした事を。
「母は、知っていたのだ。だからおれに、あのような事を」
ネフェルカーラは肩を震わせて、スマホを懐にしまう。
あの日のユウセイは、即ちシャムシールでもあったのだ。ならば、消えたシャムシールの行き着いた先は――。
ネフェルカーラの中で、全てが繋がった。
ユウセイは去る間際、確かにこう言ったのだ。
「ネフェルカーラが大人になったら、きっとまた会える」
――おれは、お前と会う為に、千と八百年の時を過ごしたのだ。はやく還ってこい、馬鹿め。あの日、お前が消えたのは、ここへ還る為なのだろう。
ネフェルカーラが追憶と共に、一粒の涙を零す。
その時、今まででもっとも大きな鬨の声が聞こえ、同時に大地を揺るがすような轟音が鳴った。
ネフェルカーラが急ぎ部屋を出ると、既にカイユームが迎えに来ており、報告を齎す。
「上将軍ネフェルカーラ。敵の総攻撃が始まりました」
「ふむ。短期で決着をつけ、本国へ戻ろうという算段か」
「なればこそ、篭城の意味もあります。ここで凌げば、ジーン・バーレットが大陸を荒らしますから」
二人は黒甲将軍府を出ると、かねてよりの作戦通り最前線に出る。
敵の総攻撃に際しては、軍の指揮をハールーンに委ね、二人は最高火力として独立した戦力になると決めていたのであった。
◆◆◆
マディーナに対する総攻撃は、ウィルフレッド側からのメタトロン三連射により始まった。
第一射、第二射までをカイユームが張っていた結界で防ぐも、第三射により破損。これで、北側の城壁が一部損壊したマディーナである。
同時に東西からも遠距離魔法が飛来して、カイユームの結界上に爆炎が幾つも上がっていた。しかしジャムカは、南側で何も起こらないことを訝しんでいた。
「夜襲など。しかしこれは……陽動かもしれぬ」
アズラク城の望楼から戦況を眺めるジャムカは、そう一人ごちる。
篭城戦である以上、四方に兵を配置しなければならない。そして何より、必ず後手に回るのが篭城というものの厄介さであった。
ジャムカは野戦を得意とするクレイト人なのだから、篭城のイロハなど知らない。しかしそれでも、敵が見当たらないからといって、南方の防御を手薄にするような愚行は犯せなかった。
「いいえ、陽動の意図はないでしょう。敵は、あたし達を押し出そうとしているに過ぎませんわ」
背後に控えるナスリーンが、夜風に緑色の髪を靡かせながら、ジャムカの独り言に答える。
「だが、それでも、もし――」
「ならば、闇隊の一隊でも南門に配置するようハールーン将軍へ進言してみては? 敵襲あらば、それでカイユーム殿に報告があります。どちらにしてもこの状況、我等は全力で北門を守らねばなりません」
「全力で? どういうことだ、ナスリーン?」
「見れば、敵の指揮官旗が前進しております。されば――これは単なる夜襲にあらず。総攻撃と見るべきかと。ふふ、我等が上将軍閣下も、既にお気づきのようで。当然、ハールーン将軍もお気づきでしょう?」
ナスリーンは微笑を浮かべて、宙を舞うネフェルカーラに人差し指を向ける。それから望楼に上がったハールーンを一瞥して、微笑を浮かべた。
ナスリーンにとって直球ド真ん中に好みなハールーンは、ナスリーンの視線に若干たじろいでいる。
共に階段を上り、背後に控えるアーザーデの視線も痛く、ハールーンは早くも戦場へ逃げ出したい。
「そういうことだねぇ、東西は現有戦力で死守。ジャムカ将軍は悪いけど、急いで北門へ向かってくれるかなぁ? 現地の指揮を執って欲しいんだぁ。あ、ナスリーン千人長、キミも頼むよぉ」
とはいえ、総指揮を執る身で軽々しく戦場へ向かう訳にも行かないハールーン。ならばとジャムカ、ナスリーンへ出撃命令を下す。
これにより自身の貞操とマディーナを防御出来るのだから、一石二鳥だ。そう考えて気を良くしたハールーンは、自分を褒めたかった。
「わかった、ハールーン将軍。来いっ、ドゥラッ!」
言うや、ジャムカは望楼から身を乗り出して、宙を舞う。
重力に身を任せて落下するかに見えたジャムカは、空で身体を一回転させると、見事、真紅の竜に跨った。
「まったく、無茶をなさる姫将軍だこと。さて、あたしも行きますわね、ハールーン将軍。では、また――うふっ。――飛翔」
ナスリーンは優美な動作でハールーンに挨拶をすると、自らも宙を舞う。ハールーンは苦笑を浮かべて、その姿を見送った。
「さ、さて、そろそろパヤーニーにも動いてもらわないと、まずいよねぇ」
「そーですね。ていうか、ハールーン将軍! あのナスリーンとかいう年増女! 絶対、ハールーン将軍を狙ってますから!」
ナスリーンが去ると、ハールーンにぴったりと寄り添ったアーザーデ。ハールーンとしては、それどころではないので、困り顔を浮かべる。
「どうしました? 難しいお顔をされて……」
「いやぁ。アーザーデは、南門の防御を頼むよぉ。万が一の場合、退路になるからねぇ」
ハールーンは、この戦いの勝機を見出しえない。
敵の攻勢を見れば、或いはここが死に場所になるかもしれないと、覚悟を決めたハールーンだった。けれど、アーザーデには死んで欲しくない。これは彼の、そんな想いがちらつく命令である。
アーザーデはハールーンの気持ちを察した。けれど、首を縦には振らない。かつて、夫であったサーリフをただ待っていて失った女は、同じ思いを味わうならば、死んだ方がマシだった。
「それは、出来ませんわ。もしも死ぬなら、私も貴方と一緒に。――だって、ナスリーン――あの女も戦場にいますのに」
アーザーデの決意が込められた瞳に見入られ、ハールーンは別の意味で諦めた。
「ふふぅ。じゃあ、勝つしかないねぇ――っと」
ハールーンは、何とか現状を凌ぐ手を考える。
確かに、この攻勢を凌げれば希望が持てるのだ。だが、それでも一月以上は同じ事が続く。食料の備蓄は十分だが、外壁の補修や人員の補充は出来ない。
――いや。今は今夜を凌ぐ事を考えよう。
ハールーンは決意すると、アーザーデにも北門へ向かうよう指示を出す。
北を突破されれば、今夜で終わりなのだ。
下唇を噛み締めたハールーンは、ウィンドストームを呼ぶと、高空へ舞い上がる。
「シャムシール。一体キミは、どこで何をしているんだい? ボクには今夜、誰も死なない作戦なんて立てられないよぉ」
ジャムカが北の城壁に到達すると、いよいよ敵の魔術師団から放たれる魔法が苛烈さを増していた。
弾ける光球はその度に奴隷騎士達を飲み込み、彼等の身体を四散させてゆく。それと同時に城壁に取り付いた敵兵が、次々と城壁上へ姿を現していた。
敵兵は全員が白い鎧をその身に纏い、凄まじい剣技と絶対的な魔法防御を持っている。
「何なのだ、こやつ等は?」
敵にドゥラの炎を浴びせたジャムカは、そのまま口元を引き攣らせてしまう。
容易く炎を切り裂いた騎士は、剣風を刃に変えてジャムカを襲ったのだ。
むろんジャムカはドゥラを旋回させて回避するが、その敵はあくまでも雑兵だった。
「不死王パヤーニー参上! じゃじゃじゃじゃーん。あれは、聖戦によって強化されておるな。もっとも、もとの素養も高いのであろうが」
ジャムカの側に現れて説明をしたのは、薄い髪をかきあげた半熟ミイラのパヤーニー。彼はハールーンの部下に呼ばれて飛び出た次第である。
早速、投擲をされたパヤーニー。それを華麗に食らうと、絶妙の悲鳴を上げた彼は今日も絶好調だ。
「ぴぃぃぎゃぁぁああ! 痛いではないか! 遺体なだけにっ!」
「し、師匠。それは、どうなのだ?」
ジャムカは次第に不利になる奴隷騎士を援護すべく、敵兵の中に身を躍らせる。それと同時に、パヤーニーへは冷たい視線を注いでおいた。
しかしジャムカの奮戦もむなしく、城壁上へ穿たれた穴は次第に拡大してゆく。一つの拠点を失ったマディーナ軍は、後退を余儀なくされた。
だが、同時に不死隊が漸く城壁上へ辿り着き、何とか状況を盛り返してゆく。即ち、一進一退の攻防が展開されるようになったのだ。
そんな中、サクルの斧が数人の白狼騎士を吹き飛ばす。
「いっけー」
気乗りしていないのか、サクルは気だるそうだ。
本人は寝入り端に起こされ、戦闘に駆り出されたのだから、たいそう不本意で不機嫌なのだ。しかし誰も骸骨が眠るなどとは思っていないので、仕方がない事だった。
「それなる骨騎士! 俺が相手だ!」
「むー? わたし、きげん、わるい。おまえ、ころす」
サクルが気だる気に敵を撃滅していると、白い鎧に青いマントを靡かせた、指揮官と思しき男が現れた。
なんとサクルはその後、意外にもその敵に掛かりきりとなってしまう。それほどまでに、この敵は手馴だったのだ。
ジャムカはその間に、最前線から一歩引いた場所へ移動する。
彼女がこの場の指揮を執っている以上、無闇に敵中に入り続けていてはいけない。それをナスリーンに諭されると、大人しくドゥラを翻したジャムカだった。
「最前線は、余にまかせよ! 死体が増えれば、それはそれで余の力になるのだ!」
なにやらパヤーニーが不吉な事を言っていたが、この際、それも戦術の一つだと諦めたジャムカである。確かに不死隊の活躍によって、北門は何とか支えられていた。
マディーナには現在八万の軍を駐留させている。それを正面に四万、各方面を一万ずつで、遊軍に一万という割り振りで全城市を防衛しようというのだ。となれば、もしもウィルフレッドが十万以上の圧力を正面に向けているのなら、当然、戦いは厳しいものとなる。
まして敵には、聖戦によって身体能力を著しく強化された兵も多い。数でも質でも劣るとなれば、防御はまったく至難なことだった。
ジャムカは東西にも目を走らせるが、此方は魔法攻撃以上のことは起こらない。となれば、敵はまさしく力攻めなのであろうか。
(いや、全体のことはハールーン将軍が考える。オレはこの場を死守するのみだ!)
「状況は芳しくないですね。あれをご覧になって下さい、ジャムカ将軍」
ナスリーンが指差した方向を見れば、ネフェルカーラとジャンヌがウィルフレッド一人に手一杯の様子だった。
加えてザーラも敵将の一人と一騎打ちを演じ、パヤーニーはクレアに、カイユームはアリスにと、それぞれ味方である一騎当千の将達が封じ込められているのだ。
先ほどまで元気に敵を屠っていたマーキュリーさえ、今は巨漢の騎士と対峙している始末である。
「むう、きんにく、しょうぶ、だ!」
「骨! 叩き割ってくれようぞ!」
こうなればジャムカが出来る事は、抜かれそうな場所へ兵をただひたすらに差し向けるだけ。そんなことで自分が生かせるのか、と疑念を持つや、彼女はドゥラを駆り再び戦場へ突入する。
その槍は閃くたびに敵を屠り、一筋の血路を開いてゆく。だが同時に、ジャムカは壁を越えて、ある一点を目指しているようにも見えた。
「南門への街路を確保。それからアズラク城と黒甲将軍府を燃やす準備もなさい。負けるにしても、敵が得をしすぎる事はないものね」
しかしナスリーンは城壁上の拠点へ行き、ジャムカ直属――即ち、自身の配下へ耳打ちする。部下はナスリーンと閨を共にした事もある、彼女の信頼する百人長だった。
ナスリーンの冷厳な頭脳は、すでに敗戦を予測している。
或いは勝利するならば、ネフェルカーラがウィルフレッドを打ち破ることだろう。
だが、なぜこの状況でウィルフレッドがネフェルカーラとジャンヌを引き付けているのか?
答えは明白だった。
彼女達さえ引き付けておけば、通常戦力に勝るフローレンス軍がマディーナを蹂躙するのは時間の問題だからである。
ナスリーンにとってはネフェルカーラも、ましてやジャンヌも関係ない。ただ、ジャムカが生きてさえいればよいのだ。だから敗北した後、ジャムカがシャムシールを迎えられる体制さえ作れるならば、問題ない。
――しかし思案の後、ナスリーンが見たものは、ウィルフレッドに挑みかかるジャムカの姿だった。
「え? えぇ? えええええぇ? ジャムカ! 貴女、ネフェルカーラとジャンヌ・ド・ヴァンドームが二人掛かりで勝てないのに、足手まといでしょう!?」
驚きに目を丸くするナスリーンをよそに、ジャムカは勇ましく叫ぶ。
「第一夫人さま、助太刀に参った! おおおおおぉ! 高まれオレの闘志っ!」
闘志を高めて挑めば勝てるなら、誰だって負けたりはしない。そう思うナスリーンは額を押さえつつ、無謀な上官に最大限の結界を張れる場所まで移動したのだった。
「あら、貴女。こんな最前線まで出てくるなんて、意外とやるじゃない」
そんなナスリーンを見つけたアーザーデは、周囲の敵に殲滅魔法を放ちつつ、飛翔で宙を舞っている。
僅かばかりアーザーデに見直されたナスリーンは、乾いた笑いを辺りに響かせていた。
「あーっはっはっ! やってやろうじゃないのぉ! あたしだって、本気で戦えば、結構やれるんだからねぇっ!」
所謂ヤケクソになったナスリーンは、ジャムカに結界を張りつつ、周囲の魔法兵達をその曲刀で次々と屠る。
背中合わせのアーザーデとは、何故か妙に息が合うのが不思議であった。