表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
砂漠の図書館  作者: 梗崎凛
3/9

02

 案内されるなり女性は早々にベッドへと入ってしまった。男性とてすぐに眠ってしまいたいのは山々だったのだが、残る気力を振り絞り室内を一通り見回す。

 恐らく十畳ほどの部屋の中にはベッドが二つと簡単な応接セットが置いてあり、今はもう夕方なのか、夕日と思われる赤い光が閉じられたカーテンの隙間から差し込んでいる。

 何の変哲もない室内。だがその空気のせいだろうか、ささくれ立った精神が慰撫されるような感覚に、男性の肩から力が抜ける。

 自分でも無意識だったが、よほど神経を張り詰めていたらしい。


「ふっ……」


 男の口から久方ぶりと言っても良い、笑い混じりの音が漏れる。

 男性は、傍らのベッドに倒れこむように沈み込むと、大きく息を吸い込んだ。清潔感のある香りと、身体に馴染むベッドの感触に、久方ぶりの安らぎに、靴を脱ぐ暇もなく男性の意識はあっという間に闇へと没していった。



『……』


 どこからともなく聞こえてきた音。揺り起こされるように瞼を開けば、辺りは闇に包まれていた。

 咄嗟に身を起こそうとするも身体はまったく動いてくれない。それどころか、眠りに落ちる寸前まで感じていた布の感触はなく、あるのは硬い床のそれだった。

 男性の背を冷たいものが流れる。

 まさか、自分はあの館長だという老人に騙されたのだろうか。あの人の良さそうな老人は、実は彼女の家と何かしらの繋がりを持っていて。優しくもてなしてくれていた間も、自分達が油断するのを虎視眈々と狙っていたのだろうか。今こうして動く事が出来ないのだって、あの紅茶に何か薬が仕込まれていたのかもしれない。


「…っ」


 一度そう思ってしまえば次々と浮かんでくる疑念に、男は悔しそうに唇を噛んだ。自分達を気遣ってくれた、あの優しい眼差しがすべて嘘だったのだと思うと、視界がぼやけてくる。あの館長を見た時、唯一自分達の味方をしてくれた彼女の曽祖父と重なり、安堵する気持ちがあったのに。

 裏切られた。と、そう思った。館長にしてみれば、そんなのは一方的に寄せられた好意であって、恨まれるなどこちらの与り知らぬところであろう。そんな事は重々承知であったが、そう思わずにはいられない程には、信用出来ると、したいと思った自分がいた。


 自分はこれからどうなってしまうのか。男は相変わらず闇しかない空間をぼんやりと見つめながら思う。想い合っていたとはいえ、財閥の一人娘を攫ったのだ。彼女の両親がどんなに彼女のことを大切にしていたか。それは男性自身、痛い程に分っていた。だから、例えば人知れず闇に葬られても、文句は言えないと考えている。だがせめて、せめて最後に一目だけでも会いたいと思ってしまう心に、苦笑が漏れた。

 ここは一体どこなのか。地面の感じから、どこかの建物の室内だろうと思うのだが、周りの様子がまったく見えないので、別の空間に放り出されてしまったかのような恐怖が頭を過ぎる。

 せめて自分が今置かれている状況を判断できるものはないかと、視界の利く限り見渡してみる。と、


「!」


 唐突に視界に入ってきたものに、男性は、はっと息を呑んだ。

 見渡す限りの闇の中、自分の傍に誰かが立っていた。それは―――



「旦那…様……」


 冷淡に自分を見下ろす相貌に、欠片の情も見出す事は叶わず。

 無意識に漏れ出た声に反応する様子もなく佇むその姿が、冷ややかな眼差しが、男の怒りを如実に表していた。


「申し訳、ありません……っですが!」

「お前には失望した」


 彼女を愛しているのだと、これだけは伝えなければと思った台詞は半ばで遮られ、男性に叩きつけられたのは、氷よりも冷たい一言。

 男性の頬を滑り落ちる雫。胸が潰れそうだった。

 この現状を引き起こした原因は自分だ。そんな事は百も承知で。あの時、彼女の手を取った事は後悔していない。自分にとって唯一人の愛しい女性。あの時その手を取っていなければ、今頃二度と会えなかったに違いない。いや、会う事だけは可能だったのかもしれない。だが、他の家に嫁いだ女性に、使用人風情が会いになど行けようか。

 彼女を守りたい、傍にいたい、いて欲しいと願うその気持ち。一方的な想いだと思っていた。が、彼女も自分を想っていてくれたのだと知った時、もう己の中に長年抱き続けていたその想いを、抑える事など出来なかった。

 ただひとつだけ。身寄りのない自分を引き取り、我が子同然のように育ててくれた奥様と旦那様。そんな二人を裏切る結果となってしまった事に対する悲しみが、いつまでも心の中に燻っていた。返しても返しきれない恩がある相手に対し、恩を仇で返してしまったのだ。せめてもの償いに、彼女を精一杯幸せにしたいと思っていたが、この体たらくではその望みさえ叶える事は出来ないかもしれない。

 もしかしたら、これはチャンスなのかもしれない。そんな考えが首を擡げる。

 恐る恐る見上げればぶつかる冷ややかな眼差し。自分に対し、一片の情も見られない。旦那様が怒っているのは自分に対してだけならば、彼女に矛先が向くことはないだろう。

 このまま自分といて、彼女を幸せに出来る保証はない。自分の我侭でこれ以上彼女を縛ってどうするのだと。彼女を誰よりも大切にしていた両親から引き離し、何不自由ない生活を送っていたあの箱庭から連れ出しておいて、何が彼女の幸せなのかと。

 もし自分が余計な事をしていなかったら、彼女は今でも華やかな世界で笑っていられたのかもしれない。苦労をかけ、あんなに窶れてしまった愛しい人。それでも心配をかけまいと笑ってくれるその健気さに、救われると同時に痛ましいと思ってしまう。

 彼女にとっての幸せが、自分の傍に在る事なのではと考えてしまった自分が、情けなくなった。

 だから、


(もういい、もう十分だ)


 短い間ではあったが、彼女の傍にいられた。それだけで。


「旦那様」


 どうしようもなく震える声。今から言わなければならない言葉に、知れず滲む涙。


「大切な一粒種であるお嬢様を、使用人という身分も弁えず攫ってしまいました事、本当に申し訳ありませんでした」

「……」


 男からの返答はない。ただ黙ってそこに立っているだけだ。

 男性は、動かせない身がもどかしくて仕様がなかった。本来ならきちんと土下座をし、許しを請わなければならない立場であるというのに。だが、


(許されるわけがないじゃないか)


 己の考えがおこがましいと、男性の口元が自嘲気味に歪む。許しを請う資格がないのだから、この状態は仕方がないのだ。むしろこれが、今の自分に最も相応しいのかもしれない。そんな風にまで思い至ってしまう。


「旦那様や奥様に、多大なるご心痛をおかけしてしまった事は、十二分に承知しております。どう処断されようと、私は構いません。旦那様方の気が済むようになさって下さい」


 男性は、僅かにも視線をそらすことなく、じっと待った。男からどんな罵倒を浴びせられようと、それは自業自得なのだから。


「…お前は……」


 最初の一言を行って以来、じっと口を噤んで男性を見下ろしていた男が、不意に口を開いた。と、同時に周囲の闇がいっそ苦しい程に男性を飲み込もうと蠢きだしたように感じられる。男性は、そんな異常な事態に、だがどこまでも心は静かだった。己が犯してしまった罪に自分自身呑み込まれそうになりながら、それでも最後の宣告をするのが家族と慕った存在であることが嬉しいかのように。口元に僅かに笑みすら浮かべながら、言葉の続きを待った。その時、


ニャ―――ン……


 どこからともなく響いたのは猫の声。その声が何かを促しているように感じ、周囲を見回してみるも、猫の姿はどこにもない。

 不思議に思い首を傾げた男性は、そこで自分の今の状況に思い至り、再び男へと視線を戻す。が、


「だ、旦那様?」


 一瞬前まで在ったはずの姿が、そこにはない。まるで煙のごとく掻き消えたかのように。夢でも見ているかと思うような感覚。男性が思わず身を起こそうとすれば、最初に試した時の苦労は何だったのかと思うように、何の抵抗もなく叶えられた動き。

 勢いがつきすぎて再び地面と接触しそうになるも、何とか踏ん張り辺りを見回す。が、どんなに目を凝らしても闇は闇でしかなく、見失ってしまった人影を捕らえる事は出来なかった。

 だがその代わりというように、唐突に周囲の闇が薄れ揺らぐ。と思ったら、見る間に周囲が明るくなっていく。まるで黒い絵の具に白を垂らしたかのように、唐突に生まれる白い光。その光はうねりとなって、未だ状況が掴めず呆然としている男性を飲み込んだ。



続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ