梓の中の複数の人格~梓ルイの血をもらう
梓はルイの治療が功を奏したのか、わずか一時間ほどで目覚めた。だが脳の損傷に伴い梓自身の意識が完全に戻ったとはいえない状況と思われた。
「光、ここからは心理療法士の領分だわ」
ルイにそう言われ、光は梓のベッドの横に置いた椅子に座って梓の手を取った。
だが、目を覚ましたのは梓自身の人格とは思えなかった。梓は一応日本語で話してはいたが、その内容は梓自身の話す内容とはとても思えなかったのだ。
「ここはどこです?私はどうしたのですか?」
その声自体は、梓自身の声だったが光は違和感を覚えた。梓の甘えを含んだような優しい声音ではなく、なんだか冷たくて見下したような口調だったからだ。
「ここは僕の病院の治療室です。あなたは暴漢に襲われ、大けがをしたので、ここで治療を受けたのです」
「それはお世話になりました。ところで、一緒にいた友人はどこですか?」
「友人?」
「一緒にトキトウ麻美と言う娘がいたはずです」
「ちょっと待って、麻美ちゃんも一緒にいたの?」
ルイが慌てた様子で隣から口をはさんだ。
「ええ、私が気を失う直前、麻美はスタンガンで撃たれ、気を失って男の人に連れ去られるところでした」
「なんですって?大変!」
ルイが取り乱しように言う。
「麻美ちゃんの家に連絡してくる」
「分かった、頼む」
「やはり、麻美は攫われてしまったのですね?」
「どうもその様ですね」
「困りました。麻美は私に血をくれる得難い友人だったのですが」
「ちょっと待って下さい」
「はい、なんでしょう?」
「親友が攫われたのに、その言い方はなんかおかしくないですか?」
「仕方ありません。私は梓ではないのですから」
「なんですって?じゃあ、あなたは一体だれなんです?」
「私はルキフェルと言う者です」
「ルキフェル?」
「そう人々は私をルキフェルと呼びました」
「ルキフェルというのは?」
「私は明けの明星であり、進歩と知的探求の神であり、人々を導く光でした」
「それがなぜ梓の中にいるのです?」
「それは私の分御魂カーミラのせいです」
「カーミラ?わけみたま?」
「ミラーカともマーカラと呼ばれた事もあります」
「ちょっと待って下さい。カーミラとは吸血鬼カーミラの事ですか?」
「そうです、もっとも古い伝承に残る吸血鬼カーミラは私の分身でもあるのです」
「さっき、分け御魂とおっしゃいましたね」
「ええ」
「ルキフェルというのは、もしかして堕天使ルシファーの事ですか?」
「そうですね、そんな風に呼ばれた事もあります」
表面は冷静に会話を続けながら、光は大変な事になったと感じていた。
この柊梓の別人格とも言える存在は、自分を堕天使ルシファー、つまりキリスト教圏における魔王サタンだと言い出したのだ。
これが暴行事件で脳に損傷を受けたせいで、梓自身が造り出した妄想ならまだいい。だが、今までの付き合いで、光は梓の認識限界がなんとなく分かっていた。
梓が熱心なクリスチャンだったら、魔王サタンや堕天使ルシファーについては知っているだろう。だが梓は吸血鬼ドラキュラがフィクションである事さえ知らなかった。だから梓が吸血鬼カーミラと言う小説を読んでいた可能性は低く、しかもカーミラの名前がアナグラムでミラーカ、マーカラ等と次々と変化してきた事を知っていたとはとても思えなかったのだ。
つまり今、梓の表層に現れているこの人格は、真正の別人格、本人の言を信じるなら、魔王サタン、ルシファーの分霊である可能性が高いのだ。
「光、ちょっといい?」
ルイが診療室の扉を開けて光を呼んだ。
「ちょっと失礼しますね」
「あの、チョコレートをいただけませんか?」
「え?チョコレートですか」
「ええ、本当は血の方が良いのですが、なければチョコレートを飲めば渇きがおさまりますから」
「わかりました。すぐ用意させます」
光はぞっとした、小説の中でカーミラだかミラーカだかが、朝食にチョコレートだけを飲んでいた事を思い出したのだ。
扉を閉めて光はルイに向き直った。
「やっぱり麻美ちゃん誘拐されたみたいよ」
「誘拐?」
「ええ、麻美ちゃんの家に身代金要求の電話があったみたい」
「厄介な事になったな」
「どうする?」
「営利誘拐を行ったのが、プロなら、人質は無事な可能性が高いんだが」
「やっぱり、梓に対する暴行が気になっているのね」
「そう、梓が負った傷を見る限り、犯人は極端にサディスティックな奴に思えるんだ」
「うん、だから」
「普通、こうした凶悪事件は男が引き起こす事が多いんだけど、梓ちゃんのような綺麗で可愛い子に、あそこまで執拗な暴行を加える事は滅多にない。だから麻美ちゃんも同じような目にあっている可能性が高いと思う」
「うん、じゃあ、どうする」
「鴇島家に協力を申し入れよう。君も手伝ってくれるよね」
「ええ、もちろん。でも梓ちゃんはどうするの」
「あう、忘れていた。そっちもちょっと厄介な事になっている」
「厄介って?」
「どうしてそうなったのか分かんないけど、梓ちゃんの中には、どうも吸血鬼から移ってきた別の人格が居て、そいつは堕天使ルシファーの分霊でカーミラを名乗っているんだ」
「ヒュー、ルシファーって大魔王サタン?とんでもない大物じゃない」
「ルイ、悪いんだけど、鴇島家との打ち合わせの方は頼めるかな?」
「分かった、光はどうするの?」
「梓ちゃん自身の人格に主導権を戻せないかやって見る。あっと、その前にチョコレートの飲み物を作ってくれる」
「チョコレート?」
「うん、カーミラが欲しがっているんだ」
「分かった、ホット・ココアでいいわよね」
「うん、カーミラの時代にはアイス・ココアは無かったと思うからホットでいいと思う」
光が治療室に戻ると、梓はさっき光が中座する前と全く同じ姿勢で、ベッドの上にあおむけに横たわっていた。しかし光が部屋の中に入ると異様な圧迫感が部屋の中を支配していた。
空気は嵐の前のように帯電し、時折金属製の什器の表面で火花が散っている。
梓自身を見ると、彼女は眼を開いているのだが、その目は完全に光を失っていた。
さらに梓の身体を覆うシーツの表面が、波立つように動いていた。
波立つというより、まるで水が沸騰して、シーツの下でボコボコ水蒸気が泡を吹きあげているように見える。いったい何が起こっているのだろう?
また梓を中心に激しい放電がおこり、空気中にオゾンが満ちて行くのが分かった。
光が思い切って梓に近づくと、そのボコボコや火花は徐々に収まっていった。
「梓?いやルキフェル?君大丈夫なの?」
梓の水色の瞳に徐々に光が戻ってきた。
「失礼した。今この娘の身体を修復していたのだ」
今度は男性のような口調で梓が話し出した。
それは梓の表層意識に現れているキャラクターが入れ替わった瞬間だった。
「君は誰だ?」
「私はルシファー、この分け御魂の主だ」
「ルシファー?なぜあなたの様な方がここにいるのです」
「分け御魂が力の行使を欲していたからだ」
「力の行使?」
「この身体の元々の持ち主の娘が、怪我を直して欲しいと望んだのだ」
「梓ちゃんがあなたを呼び出したというのですか?」
「そうだ。この娘は自分の友人を救いたいのだ」
「麻美ちゃんを救いたいのは僕らも一緒です。なにか方法があるのですか?」
「私の能力なら、麻美とやらの居場所くらいはすぐ分かる。だが急がないとその娘の生命も危ないぞ」
「どうすればいいのです?」
「私は私の力と知識をこの娘に与えてここを去る。あとは娘の言うとおりにすれば良かろう」
「分かりました。あ、でも一つだけ教えてください」
「なんだ?」
「なぜ、梓ちゃんの中にあなたのような方がいるのです?」
「それには答えられない」
「どうしてです?」
「私はルキフェルを通じて外を見ているだけだからな」
「では、なぜルキフェルやカーミラが梓ちゃんの中に?」
「その質問の本当の答えを知っているのは、梓の祖父だけだろう」
「梓ちゃんの御爺さん?」
「梓の祖父は、妻を失くして後、高野山に上り千日回峰行をも成し遂げ、宿曜道を修めた七高山阿闍梨ぞ。その祖父が見鬼の体質を持つ孫を守らんと、梓と言う名を与え死後も孫娘を守らんと呪詛行を施したのだ」
「梓ちゃんを守るために何をしたと言うのです?」
「祖父が施したのは、タ・エクソーの秘儀だ」
「タ・エクソー?外なるものを意味する秘密宗教の儀式ですか?」
「ふむ、お前も転生者だけに、そんな事まで知っているか。しかし梓の両親が離婚した事で、梓は柊姓となり、呪詛はタ・エソーとして変質し、内向きに災厄を捉える罠となってしまったのだ」
「罠?」
「本来はコンコルダンスに過ぎなかったものが、魔を捕える力になってしまった」
「元々は、和協の実践に過ぎなかったものが変質したと?」
「そうだ。転生者よ、今はそんな事を詮索する時ではないだろう。はやく梓の友人を助けに行ってやれ」
梓の瞳から強い光が消え、姿勢も柔らかくなった。梓の表層意識のキャラクターがまた入れ替わったのが感じられた。
「私も麻美を助けたいのです」
「あなたはカーミラですね?」
「はい」
「なぜ麻美を助けたいと?彼女が血を与えてくれるからですか?」
「そんな些末な理由ではありません。麻美は甘き血の持ち主なのです」
「メルティブラッド?」
「健康な肉体に健全な心を保ち、しかも吸血鬼を心から愛した処女だけが持ちうる貴重な血を麻美は持っています」
「やっぱり麻美の血が重要なのですね?」
「はい、麻美を攫った者もそれを知っていたかも知れません」
「もしかしてあなたは麻美を誘拐した犯人に心あたりがあるのですか?」
「はい、残念ながらあります」
「それは誰ですか?」
「よく知りません。でも私を起こした男の一人です」
「名前をご存じではないのですか?」
「金成安、またの名を 邨田順と名乗っていました。
「ムラタジュンですか?」
「はい」
「その男も吸血鬼なのですか」
「いいえ」
「ではなぜ麻美を攫ったのでしょう?」
「たぶんあの男も麻美の血が欲しかったのでしょう」
「なぜ麻美の血が?吸血鬼ではないのでしょう?」
「その男は、私のせいで食人鬼になり、今は生ける屍になりかかっているはずです」
「そんな男がなんで麻美を?」
「生ける屍の肉体は、やがて腐り落ちていきます。でも吸血鬼の親友が持つ甘き血はそれを一時的にせよ留めることができるのです」
「ああ、わかりました」
梓がいきなりベッドの上に起き直った。その顔からは、さっきまでの仮面のような硬さが消え、いつもの梓の気弱げな顔立ちに戻っていた。
「祐天寺さん、お願いがあります」
だが梓はいつもの気弱げな態度をかなぐり捨てて祐天寺に訴えた。
「ああ、梓ちゃん、意識が戻ったんだね」
「お願いです」
「なんだい?」
「あなたの血を飲ませて下さい」
「え?」
「力が足りないんです。あたしは麻美を助けるために、あたしの中にいるみんなに力を貸してもらう約束を取りつけました。でもそのための対価がもう私の中にはありません」
「対価?」
「私自身の活動エネルギーです。そのために血がいるんです」
結局、梓に血を与えるのは、ルイの役目になった。光自身は自分の血を与えても良いと言ったのだが、ルイが承知しなかったのだ。
ルイは梓が寝ていたベッドに腰掛け、ナース服の襟元を寛げると梓を膝に抱きあげた。
「ごめんなさい」
梓は小さくそう言うと、ルイの筋肉質の首筋にゾブリと牙を立てて咬み付いた。
「ウ、ウルルッルアアアアアアアアア」
ルイの口から、異様なうめき声が漏れ出した。それはまるで狼の遠吠えの様だった。
「ルイ?大丈夫か?」
光が心配そうな声で聞いたときルイの瞳は緑色に輝いていた。
「だ、大丈夫、別に痛みはないの、でも、アアア」
「ルイ?」
「心配しないで、気持ちいの、血を吸われるのがこんなに気持ちいいなんて」
ルイが恍惚の表情を浮かべながら言った。