祐天寺光の秘密~吸血鬼の血液
祐天寺光の秘密
「祐天寺さん、ちょっとお聞きしたい事があるんですが」
梓がルイと一緒に採血に行ってしまうと、麻美は急に光のそばにやってきた。どうやら光に聞きたい事があったようだが、梓の光に対する気持ちを慮って、それまでは距離を置いていたらしい。
「うん?なんだい」
「祐天寺さんの名字って、本当は富士原さんていうんですよね?」
「へえ、良く分かったね。というより、良く調べたね」
光は、顕微鏡を覗きこんだまま、関心したような、でも半分は上の空の口調で言う。
「だって、自分の事を診てもらうお医者さんですもの、どんな人か気になるじゃないですか」
「ふむ、それは正しい考えだと思うよ。でもなんでそんな事気にしたんだい?」
「ボクは義理とは言え、両親がいて、あなたの事だって、すぐに調べてくれた義理の姉もいるけど、今の梓にはそう言う人が誰もいないから」
「ふむ、じゃあ、僕から質問もいいかな?」
「ええ」
「君は、松濤の鴇島さんの家のお嬢さんだよね?」
「ええ、まあ養女ですけど」
「ふむ、じゃあ、鴇島さんの家の稼業は知っている?」
「ええ、まあ一通りは。もっともおじさんはいろんな事をやっている人ですけど」
「奥さんは?」
「祐天寺さん、あなた、何をどこまで知っているんですか?」
「どういう意味だい?」
「鴇島の家は、むやみに調べたり、逆らったりしないほうが良い家だと思いますけど」
「やくざの一家を潰したり、チャイニーズマフィアを壊滅させたりした家だから?」
「いい度胸ですね。そこまで知っているなら、ボクも質問があります」
「なんだい?」
「あなたは鴇島の、いや違うな、ボクや梓の味方ですか?敵ですか?」
「ふむ、家より友達や自分が優先と言う事かな?」
「そうです。もし梓の敵になるなら、ボクはあなたを許さない」
「どうして?」
「だって、梓はボクの大切な友達で恋人だから」
「なるほどね、いいだろう。正直に言うよ、僕は梓ちゃんや君の敵でも味方でもない」
「敵でも味方でもない?そんな言い方でごまかすつもりですか?」
「ごまかすつもりはないよ。僕は自分の研究課題、つまり僕の興味に従って行動するし、自分の感情には嘘をつかないだけだ」
「興味に従うって、どういう意味です?」
「う~ん、僕は梓ちゃんや、君みたいな子の事をもっと知りたいのさ」
「梓はともかく、ボクの事って?」
「まあ、心配しなくても良いよ、ボクは君にとって義理の叔父さんに当たる安堂馨さんの事を調べたり、治療したりした事があるんだ」
「馨叔父さんのこと?」
「そうさ、だから少なくともボクは鴇島の家や君に敵対するつもりはない」
「敵ではない?本当に?」
「うん、だけど、梓ちゃんに対しては、悪いけど当分中立の立場を保つつもりだ」
「どうして?」
「彼女が今まで通り、善良な吸血鬼であり続けるなら、僕は彼女の主治医だ」
「じゃあ、梓になにか悪い変化がおこったら?」
「悪い変化かどうかは僕自身が判断するさ」
「ああ、そう言う事ですか。やっぱり、梓はボクが守ってあげないといけないと言う訳ですね」
「吸血鬼で身体的にはほぼ無敵な梓ちゃんを君が守ると言うのか?なるほど、立派な考えだね。さすが鴇島さんが娘に選んだだけの事はある」
祐天寺さんは、やっと顕微鏡から目を放して、麻美を見てニッコリ笑った。
「それで、どうして祐天寺なんて偽名を名乗っているんです?」
麻美は固い口調をやめ、普通の口調に戻って聞いた。
「うん、まあ、祐天寺は芸名みたいなものだね」
「芸名?」
「そう、麻美ちゃんは、リーインカーネーションって知っている?」
「輪廻転生ですか?」
「ふむ、六道の輪廻と転生は微妙に違うんだけど、まあ、肉体が滅んでも、魂は別の肉体やものに宿って、この世に有り続けると言う事では似ているかな」
「はあ」
「輪廻っていうのはね、もともとバラモン教の概念なんだ。説明してもいいけど、君はセックスとかそういう話が平気な子?」
「ええ、あんまりリアルなのはちょっと無理ですけど、なんせまだ処女なもので」
麻美ははにかむように舌をだして見せた。
「ふむ、まあその点は考慮しよう。まず五火説と言うのが初めにできた」
「ごかせつ?」
「うん、五つの火と書いて五火説だね」
「それが輪廻の概念の始まりなんですか?」
「うん、五火説ではね、死んだ人はいっぺん月に行って、それから雨となって地に戻り、植物に吸収され穀類になり、穀類を食べた男の精子になって、それで女性との性的な交わりによって胎内に注ぎ込まれて胎児になって、再びこの世に誕生するという考え方なんだ」
「なんだかセックスの部分を除くと水の循環みたいですね」
「うん、そうだね、水というより、元素が生態系の中を循環して生命になったり、また生命のない物質に戻ったりするイメージだよね」
「リーインカーネーションと輪廻は違うんですか?」
「う~ん、リーインカーネーションは基本的に、ある人間の精神が、また別の人間の肉体に宿って生まれ替わりを繰り返す事を指すわけだけど、輪廻は複数の宗教を考慮すると、生まれ変わる肉体が必ずしも人ではない可能性まで含んでいるからね」
「ああ、生前の善行によって、また人として生まれるか、動物になるか?みたいな」
「まあ、そんな感じだね」
「それで?祐天寺さんは、誰かの生まれ変わりだというんですか?」
「うん、これはまあ、信じてくれなくてもいいけど、どうも僕は祐天と言う仏教の僧侶の生まれ変わりらしいんだ」
「え?祐天て、じゃあ、あの祐天寺の由来はお坊さんの名前って事ですか?」
「そうだね。祐天寺は祐天の弟子の祐海が建てたお寺だね」
「へえ、それで、その祐天さんは、どんな人だったんです?」
「祐天は江戸時代の呪術師、今風にいえばエクソシストでゴーストバスターだった」
「へえ、江戸時代にもそんな密教僧がいたんだ」
「ああ、祐天は密教僧じゃないよ、浄土宗の僧侶だ。いろいろな奇端があるけど、有名なのは、羽生の累という女の怨霊を成仏させた累ヶ淵の説話だろうね」
「ちょっと待ってくださいよ。今カサネって言いましたよね?」
「うん」
「かさねは、累だから、ルイとも読みますよね?」
麻美は空中に累の字を描いてみせた。
「ふうん、麻美ちゃん、君って、ずいぶん勘の良い子なんだね」
「じゃあ、やっぱり?」
「そう、今看護師をやってくれているルイは、累の怨霊が成仏して転生した姿だ。つまり彼女も転生者な訳だ」
「だから、彼女は狼女なんですか?」
「ああ、多分、いや、それは良く分からないな」
「あのできれば光さんって呼んでいいですか?」
「ああ、構わないよ」
「ありがとうございます。そう言う話を聞いちゃうと、どうも芸名で呼ぶのは気がひけると言うか」
「芸名?ああ、まあそうだろうね」
光は思った。梓といい、麻美といい、この世代の娘たちは謙譲語とか謙遜と言う概念が理解できないのだろうか?それともこちらの謙遜を、そのまま事実として受け取ってしまうのは、彼女達がまだ子供で純真なだけ?いずれにしても光は、梓と麻美から見て、いかがわしい精神科の医者の端くれで、芸名を名乗る医学博士という位置付けになってしまったことになる。
まあいいか。
光は軽く溜め息を吐いて麻美との会話を続けることにした。麻美の物事の捉え方には年齢的なギャップを感じるが、この頭が良くて、恐ろしく勘の鋭い娘との会話がなんとなく楽しくなってきたからだ。
「それで、話を戻しますけど、光さんがボクの血液を見ると何か分かるんですか?」
「うん、例えば麻美ちゃんが、どのくらい吸血鬼の影響を受けているかが分かると思う」
「うへえ、どうやって?」
また顕微鏡で麻美の血液の観察を始めた光に、麻美が興味津津の様子で訊ねる。
「吸血鬼の血液には、僕が恢復子と呼んでいる小体が大量に含まれている」
「かいふくし、ですか?」
光は麻美の血液の観察を続けながら答える。
「うん、まだ恢復子の正体は分かっていないけど、細胞の中にいるミトコンドリアの様に、本人とは別のDNAを持った小体が血液やリンパ液の中にいるんだ」
「へえ、血の中に別の生き物がいるような感じですか?」
「うん、そんな感じだね。その恢復子の構造や振る舞いは真菌に似ている」
「真菌って、カビやキノコみたいな?」
「そうだね、恢復子は普段、単体で胞子のような形態のまま他の血球と一緒に血管の中を流れている。見た目は白血球と殆ど見分けがつかない」
「それがなにかの時に変化するとか?」
「良く分かったね。その通りだ。例えば梓ちゃんが大きな傷を負うと。空気に晒された恢復子は発芽して分裂を繰り返し、お互いにくっつきあって皮膜を構成し瞬く間に傷を塞いてしまう。その間に傷口では急激な細胞分裂が始まり、短時間で傷は直ってしまう」
「へえ、便利なものですね。まるで再生医療用のナノマシンみたいだ」
「こんなに出来のいいナノマシンはまだ存在しないけどね。恢復子がもたらす傷の治癒力は驚異的だ。例えば大けがをした人に吸血鬼の血を必要なだけ与えれば、たいていの怪我は直ってしまう」
「へえ、それは凄い」
「でも恢復子を一定以上含む血液は銀に弱い」
「あ、そういえば梓も銀のナイフを怖がっていました」
「うん、銀は細菌には猛毒として作用するからね」
「ふうん」
「それと恢復子の中には、ベクターと思われるウイルスも見つかっている。もっともそれはこんな光学顕微鏡では見えないけどね」
賢い受け答えをする麻美との会話が面白くなってきた光は、顕微鏡から目を離して麻美に向きあった。自分が多大な時間をかけて研究し、やっと掴んだ概念を、この麻美と言う少女はこともなげに受け入れ理解している。その知識量や理解力はもしかすると医科大学の院生を超えるレベルかも知れない。実はそれは、鴇島に養われている子供たちに共通する特徴でもあった。だがこの麻美はその能力が飛びぬけて高いようだ。
「ベクターって、遺伝子治療に使う奴みたいな?」
「そうだね。ただしこのベクターウイルスは人工的なものではないと思う」
「ふうん、それでベクターは何をするんですか?」
「ベクターは、吸血鬼の遺伝情報を、咬まれた相手に伝える働きをすると思われる」
「ああ、それで梓は咬んだ吸血鬼から遺伝情報を受け取って金髪になっちゃったんだ」
「多分そうだね。それでベクターがもたらした吸血鬼の遺伝子は、咬まれた相手の身体で徐々に増えて行き、身体を作り替えていく、さっきも言ったように怪我をしてもあっというまに直してしまうけど、その部位はベクターウイルスによって改変された遺伝子情報で修復される事になる」
「と言うことは、最終的には身体を作り替えて乗っ取ってしまうってこと?え、じゃあボクも梓みたいに金髪になるって事?」
「う~ん、吸血鬼による吸血や血を与える行為によってどんな変化がおこるかは決まっていないんだ。例えば、精神力が強ければ、意識は人間のままで吸血鬼の体質だけ獲得する人間も存在する」
「たとえば、梓みたいに?」
「そう、梓ちゃんは強い、強いという言い方が合っていないなら、鈍いかな?彼女のように、一夜であんな超人性を手にいれたら、普通はそれを使う事に夢中になってしまうはずだけど、彼女はそうなっていない」
「ああ、確かに梓の場合は、そう言う欲望と言うか欲求は少ないのかも。他にもなにか変化する事ってありますか?」
「変化は、そうだね、その人の身体が、今まで向かっていた方向みたいなものには沿うみたいだけど」
「たとえば、どんな変化ですか?」
「梓ちゃんみたいな大きな変化は殆どの場合見られない。一番大きな変化は体力の著しい向上かな。君みたいにジャンプ力がついたり、足が速くなったり」
「ボクが少しだけど女っぽくなったのもそう?」
「多分そうだね。君たちみたいに思春期の第二次性徴期の女の子たちは、一律綺麗でスタイルが良くなるみたいだ」
「へえ、それはいい変化だな、でもどうして?」
「ううん、これは僕の口からは言いにくいんだけど、多分異性を誘惑しやすくするためじゃないかな?」
「異性を誘惑しやすくするため?なぜです」
「うん、この際だから言っておこうか。吸血鬼はその存在を突きつめてしまえば捕食者なんだ。獲物は主に人間、それも人間の血液だ。古い吸血鬼の中には、血を吸うだけではなく、相手を喰ってしまう奴もいるけど、基本は相手を誘惑し、虜にして血だけを吸う。その方が相手をすぐに殺してしまう可能性が低いから、長い間食物を得られる事になるからね」
「ああ、相手が死んだり行方不明になってしまうと吸血鬼も犯罪の加害者になるけど、血を吸うだけなら、相手がそれを受け入れていれば犯罪にはならないから?」
「そうだね。麻美ちゃん、君は賢いね。君が考えたとおりだと思うよ。それで相手を虜にするには、相手が好む容貌や肢体を持っていた方が都合が良いだろう?」
「それって綺麗な女、魅力的な女の方が、男を誘惑しやすいからですか?」
「まあ、男の吸血鬼も同じようなものなんだけどね」
「男の人もハンサムになる?」
「まあ、そうだね」
「ねえ、一つ、変な事聞いて良いですか?」
「うん?なんだい」
「もしかして、光さんは吸血鬼?」
「うん?なんでそんな風に思ったんだい」
「えっと、光さんって結構イケメンだし、梓はすっかり光さんに惚れこんでいるし、そう言うのって、吸血鬼属性なんじゃないかと思って」
「なるほどね」
「否定しないんですか?」
「ああ、ごめん、そう言う質問だったね。うん、僕は幸か不幸か吸血鬼ではないね」
「本当に?」
「うん」
「ルイさんと言う狼女を連れているのに?ウェアウルフって吸血鬼の手下なんでしょう?」
「ううん、ちょっと違うな。ルイは単なる狼女じゃない。さっき君が指摘したように、リーインカーネーションした過去の女性の生霊であり、彼女の本性は多分日本狼を神性化した大口の真神だよ」
「大口のまがみってなんです?」
「うん、日本では、西洋と違って、狼の事を鹿や猿みたいな農業の害獣を食べてくれる口の大きな神様として捉えていたんだ」
「狼が神様ですか・」
「そう、キリスト教社会では、狼は牧畜の害獣だった。日本では稲作が主体だったから、畑や田んぼを荒らす生き物の方が悪役だった。それを食べてくれるから狼が信仰対象にさえなったんだ」
「ルイさんは、その神格化された狼の子孫ですか?」
「うん、単純に言ってしまえばそうかな?」
「でも輪廻転生した過去の女性って点では、ボクの考えは当たっていたということ?」
「うん、ルイが累だと言う発想は的を射ていたわけだね」
「ふうん、まあ、その事はまた改めて聞くとして。じゃあ、光さんはなんでこんなに吸血鬼に詳しいの?」
「うん、このところ吸血鬼の被害が増えているから、勢いで勉強したからかな?」
「吸血鬼の被害が増えてる?」
「うん、他の妖怪とか怪異とかは今まで通りの顕現率なんだけど、どうも吸血鬼に襲われる例だけは増えているみたいんだ」
「それはどうして?」
「ううん、残念ながら分からない。吸血鬼は貴族と言われる古い連中になると、滅多に眷族を作ったり、新しい手下を増やしたりしないものなんだけど、もっと根本的な事を言っちゃうと、吸血鬼は悪魔の一つの形態として増えているような気もするんだ」
「吸血鬼が悪魔と一緒ってこと?」
「うん、まあそう言う考え方だね。麻美ちゃんは本地垂迹説って知ってる?」
「ああ、歴史で習ったと思います。日本史だったかな?仏教がはやった時期に唱えられた説で、八百万の神様は、実は仏様が日本に合わせて、神様として顕現したものだって説でしょう?」
「うん、おおむねその通りだね。実はその反対で、仏が神の権化という説もある」
「ふうん、それが吸血鬼とも関係あるんですか?」
「うん、神や仏とは逆の立場として、吸血鬼が悪魔の化身、あるいは悪魔の一種とする考え方さ」
「吸血鬼も悪魔の一種?」
「うん、その論理で行くと、吸血鬼の大本の祖先は堕天使の一派と言う事にもなるんだよね」
「へえ、天界での戦争に負けて、地獄に落とされたのを堕天使って言うのでしょう?」
「そう、吸血鬼が悪魔の化身、あるいは悪魔の一つの形態だとすると、未だに起源がはっきりしない吸血鬼のルーツが見えてくる」
「それはつまり?」
「うん、吸血鬼もかつては神とか天使みたいな存在だったんじゃないかってことさ」
「へえ、じゃあ、梓を咬んだのも、そう言う、大昔は神様だった高位の吸血鬼、あるいは悪魔の偉い奴かも知れないってこと?」
「その可能性は高いと思う」
「ちょっと待って、じゃあ、神様って、ひとりじゃなくて、たくさんいるって事?」
「うん、そうだね。もしかして君はキリスト教徒?」
「ああ、昔お世話になった養護院がキリスト教系だったので」
「なるほどね。じゃあ世界中の宗教で考えてみようか?」
「世界の宗教?」
「うん、世界的にみると、キリスト教やイスラム教の様な一神教の方が少数派なのはわかる?」
「ああ、例えば日本は八百万の神様だし、ギリシア神話にもいろんな神様がでてくるし」
「そう、そう言う意味では、神様と言う存在は独りきりではなくて、神様って言う個人が複数いる別の世界があるって考える宗教の方が多いんだよね」
「ちょっと待ってくださいよ。じゃあ、神様っていうのは、この世界を支配する存在じゃなくて、他の世界にたくさん住んでいるって事ですか?」
「うん、まあ、そう言うような考え方をする宗教の方が多いってことだね」
「じゃあ、神様ってどこに住んでいるんです?」
「ここからは概念的な話になってしまうけど、例えば、人間とは次元が異なる世界に住んでいるとか」
「人間が住んでる三次元の上の四次元とか?」
「あるいは、人間が住んでるのが物理的な世界だとすると、神様は精神的な世界に住んでるとか、エネルギーと思考だけの世界にいるって、そんな言う考え方も出来る」
「つまり、三次元の住人で物理法則に縛られてるボクたちには把握できない世界?」
「そうかも知れないね。今の科学的な見方と両立させて神様の存在を信じるなら、そう言う見方が妥当かも知れないね」
「じゃあ、神様と一緒にいた天使の一部が堕天使になって、それが悪魔になったと言う事?」
「それはユダヤ教の影響を受けたキリスト教的な捉え方だね」
「他にも、違う悪魔がいるんですか?」
「悪魔というか、宗教文化に根ざした悪しき超自然的存在や、悪を象徴する超越的存在を悪魔と定義すると、宗教によってその存在感は違うんだ」
「例えばどんな悪魔がいるんです?」
「仏教では仏道を邪魔する悪神を悪魔と見なしている。まあ煩悩そのものが悪と言う事だね」
「他には?」
「旧約聖書では悪霊的存在がダイモーンとされ、教父アウグスティヌスは、異教の神と悪魔を同一のものと書いている」
「つまりキリスト教の神様以外の神様が悪魔?それは酷いな」
「イスラム教では悪魔はシャイターンと言っていた。マホメッドはユダヤ教やキリスト教の影響を受けたのか、これをヘブライ語のサタンと同じだと呼ぶようになった」
「はあ、それって後付けでシャイターンとサタンをくっつけたみたいな話ですか?」
「そうかも知れないね。イスラム教にも堕天使の存在が語られていて、イブリースがキリスト教のルシファーに相当する」
「じゃあ、イスラム教とキリスト教の悪魔は同じ存在なんだ?」
「いや、そうでもない。イブリース以外は単に人を惑わすジンという精霊に過ぎないからね」
「なんだか、混乱してきた」
「もっと凄いのは、グノーシス派の悪魔だね。旧約聖書の創造神ヤハウェがこの世の悪しき支配者だとされ、悪魔化されている」
「ちょっと待ってくださいよ。ヤハウェってキリスト様のお父さんでしょう?」
「ごめんごめん、ちょっと飛躍しすぎたね」
「ううん、ちょっとどころじゃないですよ」
「だからさ、神様と悪魔って、意外と紙一重な存在なのかも知れないって、僕は思うんだ」
「それってどういう意味です?」
「ある社会に取っての神様が、敵対する社会から見ると悪魔って言う見方をされる。さらに天界という別の次元の世界に神様が複数住んでいて、そこから出て行った存在を悪魔と見なす事が多いって事だね」
「じゃあ、乱暴な見方をすれば、神様と悪魔は立場が違うだけって事?」
「うん、僕もそう言う概念で見た方が理解しやすいかなって思う」
「じゃあ、ですよ。神様の中の誰かが、この社会では悪魔と見なされ、吸血鬼っていうのもその悪魔の一種だとすると、吸血鬼の大本は神様って事?」
「まあ、乱暴にまとめてしまえばそう言う事かも知れないね」
「当然、吸血鬼の中にも神様みたいに偉い奴がいる?」
「ううん、ま、まあそうも言えるかな?」
「梓はその偉い吸血鬼の眷族候補のひとりだと言う訳?」
「うん、それも否定できない。なぜなら彼女は吸血鬼化が進んでもディウォーカーのままだ。これは高位の吸血鬼とその眷族にしかできない事だしね。むしろ能力的には神祖級、つまり第一世代並みの能力を持っている可能性が高いんだ。あるいは吸血鬼のなりかかりだからかも知れないけどね」
「へえ、梓を咬んだ吸血鬼は凄く偉い奴だったってこと?」
「うん、そうだね」
「じゃあ、梓って、凄く偉い吸血鬼になっちゃうかも知れないって事?」
「うん、その可能性はある。逆に聞きたいんだけど、君はなぜ梓ちゃんに血を吸わせてあげようなんて思ったんだい?」
「梓はボクの友達、大切な親友だから、ボクが交通事故に遭いそうになった時に助けてくれた友達だから、う~ん、ちょっと違うかな」
「今言ったことでも、十分理由になると思うけど?何がどう違うんだい」
「ボクは梓が好きなんだと思います。ライクの好きじゃなくて、ラブの好きだと思う」
「なるほど、愛する友達の望みなら、血を上げるくらいなんでもない?」
「う~ん、ちょっとニュアンスが違うと思う。ボクは梓がボクをもっと好きになって欲しくて血を吸わせたのかも知れない。つまり好きだから血をあげたんじゃなくて、もっと好きになってももらうために血を飲ませた、みたいな?」
「なるほど、じゃあ、先に少し厳しい事を言っておこうか」
「厳しいこと」
「うん、現実と言ってもいい」
「どういうことですか?」
「吸血鬼は魅了と言う能力を持っている」
「魅了?」
「英語だとチャームだね。相手を惹きつける、自分に興味や好奇心を持たせる、極端な場合は自分なしでは生きていけないとさえ思わせる、そんな能力を持っているんだ」
「それも、相手の血を吸うため?」
「そうだね、それと吸血鬼を助ける仲間にするため」
「仲間?相手も吸血鬼の仲間にしてしまうということ?」
「必ずしもそうではない。レンフィールドと言うのを聞いた事があるかい?」
「レンフィールド?ドラキュラの小説に出て来た弁護士ですよね?」
「ああ、君はドラキュラを読んだことがあるんだね。じゃあ話が早い。吸血鬼に魅了され下僕になった人間も、一律レンフィールドと呼ばれる事があるのさ」
「え?じゃあ、ボクは梓に血を吸われた事で、梓のレンフィールドになったと言うことですか?」
「う~ん、それはどうか分からない。そもそも梓ちゃんがチャームを使えるかどうかもまだ分からない。けど、そう言うこともあるって覚えて置いた方がいいね」
麻美はそれを聞かされたとたん、黙って考え込んでしまった。
吸血鬼の血液
そこにルイがもう一枚のプレパラートを持って帰って来た。
屈みこんで光に耳打ちする。
「光?ちょっといい?これが梓の血液標本よ」
「ありがとうルイ、梓ちゃんはどうしてる?」
光はプレパラートを一瞥しただけでルイに尋ねた。
「ちょっとショックだったみたい。今は診療室に寝かしてあるわ」
「わかった。あとで様子を見にいく、しばらくついていてくれ」
「うん」
ルイが行ってしまうと、麻美は光を見つめて首を大きく振った。
「ボクは違うと思う」
「うん?何がどう違うんだい?」
「ボクが梓を好きになったのは、梓に血を吸われるずっと前だから」
「なるほど、君がそう言うなら、そうなんだろう」
「光さん、信じてないって口ぶりですね」
「いや、別にそう言うつもりはないよ」
「あのですね、ボク実は孤児だったんです」
「孤児?」
「ええ、それで、鴇島の義父と義母のところに養子に来たんですけど、最初のうちはどうしても今の境遇に馴染めなくて、クラブの友達とかはいたけど、学校にはそんなに深い付き合いの子はいなくて、でも梓だけは、今年隣の席になってから、ずっと親しく優しくしてくれて、だから、梓が今みたいに変わる前から、ずっと好きだったんです」
「なるほどね。じゃあ、君が言うとおりなんだろう」
「それで、ボクの血液、どうですか?ボクも吸血鬼になっちゃいそうですか?」
「いや、今のところ、その兆候はない。目視できる範囲では、恢復子と思われる小体もわずかしかいないから、体組織の改変が起こったとしても限定されたものだろうと思う。もっとも、それが君にとって良い事か悪い事かどうかまでは分からないけどね」
「良い事か悪い事か分からない?それはどうして?」
「うん、君が梓ちゃんと同一化したがっているのなら、今の状態は望ましくないだろうし、君が人間の世界に留まりたいと考えるなら、今の状態は望ましい、そう言う意味さ」
「梓と同一化って、どういう意味です?」
「うん?そうだね、梓ちゃんの様に、本格的な吸血鬼に向かう道を選ぶかどうか、と言うことだね」
「梓と同じ道?」
「たとえば、吸血鬼はリーインカーネーションとも、輪廻転生とも切り離された存在だ」
「輪廻から切り離された存在?」
「そう、吸血鬼は殆ど歳をとらない。数百年、時にはもっと長く、吸血鬼になった当時の姿のままで、この世が続く限りあり続けるんだ」
「それと、ボクとどういう関係があるんです?」
「君が結婚して子供を産んで、年老いて死んでも、梓ちゃんは今のままと言う事さ」
「そんな?本当にそうなっちゃうの?」
「うん、このプレパラートを見てご覧」
光は梓の血液を封じ込めたホールプレパラートを見せた。麻美のプレパラートは赤黒い血の色のままだったが、梓のそれはカバーガラスの下にピンクの肉片が挟まっているような状態だった。
「梓ちゃんの血液標本だよ。もっともこれはもう血液と呼べる状態じゃない」
「見せてくれますか?」
「ああ、中央のカバーガラスのあたりには触れないようにね」
麻美はプレパラートを灯りにかざしてまじまじと見た。
「これって、さっき言っていた恢復子のせいですか?」
梓の血液標本だったはずのものは、カバーガラスの下でピンク色の肉片に変化していた。その肉片がうごめき、まるで生きているかのように脈動し、カバーガラスを持ち上げかけている。気の小さい者なら、プレパラートを投げ出してしまっただろう。
麻美はちょっと眉をしかめただけで、祐天寺にそれを返した。それなりに肝の据わった娘らしい。
「梓ちゃんは明らかに吸血鬼化が進んでいる。彼女の血液には、瞬く間に傷を直してしまうほどの恢復子がいるようだ。ベクターによって体組織もかなり改変されている。彼女はすでに人間であることを止め、別の遺伝子をもった何か、つまり真正の吸血鬼に生まれ変わろうとしている。こうなってしまえば、もう後戻りはできない。不思議なのはここまで症状が進んでいるのに、彼女がディウォーカーに留まり続けている事だ」
「さっきも言っていましたよね、ディウォーカーって?」
「昼間でも活動できる吸血鬼と言う意味だ。普通血液がここまで変質した個体は、紫外線の光に耐えられなくなり、ナイトウォーカーになるものなんだ」
「つまり梓は本当の吸血鬼になる手前で足踏みしていると言うことですか?」
「うん、彼女はもう吸血衝動を抑えておけない状態だ。だけど、君の話を聞く限り、吸血のためにチャームを発動している様子もない。精神的にはほぼ完全に人間の、それも高校生の女の子のままに留まっている。超人的な体力を持っていても、それでどうしようと言う訳でもない。彼女はととても不思議な存在だよ」
「不思議な存在?」
「ああ、黄昏の手前、夕日の中に留まっている吸血鬼もどきみたいな存在と言うことだね。あるいはさっき言った様に、凄く高位の吸血鬼が梓ちゃんの血親だからかも知れない。でも彼女が不老不死の身体に変わりつつあるのは間違いないんだ」
「だから?」
「そう、今のままの麻美ちゃんでは、もう彼女と同じ速度で歩む事は出来ないと言うことさ」
「そんな…」
「でもね彼女を現世に継なぎとめているのは麻美ちゃん、実は君自身かもしれない」
「どういう事ですか?」
「吸血鬼の孤独と言うのはすさまじいものだからね」
「吸血鬼の孤独?」
「そう、孤独だ。吸血鬼は物凄く長生きだから、仮に知り合いになった人間がいても、あっと言う間に死んでいなくなってしまう。だから親しい人間、下僕ではなく、自分と対等の付き合いができる友達は作れないんだ。でも人間は他の人間との関わり無しには生きていけない。これは元人間だった吸血鬼もそうなんだ」
「梓はボクと友達でいるために、人間であろうとしていると言う事ですか?」
「うん、その可能性は高い。君たちはエゴグラムってやったことあるかい」
「はい、高校生になった時に学校でやりました」
「交流分析の中にストロークってあっただろう?」
「ええ、他人を認識して、それを相手に伝える事、でしたっけ」
「そう、人間はそのストロークなしには生きていけないと言う人もいる」
「他人との感情の交流がないと生きていけない?」
「実は、吸血鬼も同じなんだ。だから、なんども親しい人間の友人を作り、その友人の最期を看取り続けた結果、極端に長生きな吸血鬼ほど精神的に病んでる事が多い」
「それって、浦島太郎みたいな感じですか」
「うん、まあそう言う感じかな?吸血鬼の多くが犯罪に走り、反社会的な存在になって行くのは、見方を変えると、そう言う形でしか人間社会と関われないからなのかも知れないね」
「だからさっき光さんは梓の今後変化によっては、って言ったんですか?」
「そうだね。逆に吸血鬼は、そう言う精神異常みたいな状態にならないと、不死という自分の状態には耐えられないのかも知れない」
「光、ちょっと来て」
またルイが呼びに来た。
「今行く。麻美ちゃんも一緒においで」
光は麻美を伴い、診療室に入った。梓が横たわっているベッドの横の椅子に腰かけて優しく語りかけた。
「大丈夫?少しは落ちついた?」
「ええ、もう大丈夫だと思います。さっきは、まさか自分の血があんな風になるとは思わなかったから」
「うん、そうだろうね」
「祐天寺さんはあたしの血を見たの?」
「うん、ルイが持ってきた時には、もう血ではなかったけどね。ほら、これがそうだ」
祐天寺はプレパラートを梓に差し出した。
梓はベッドの上でそれを受け取ると、震える指先でそっとカバーガラスを外した。プレパラートの下でうごめいていた肉片の様なものは、ガラスの上を滑りおり、尺取り虫の様に梓の腕を這い上がり、採血した針の跡に落ち着くと動かなくなり、すぐに梓の皮膚に同化を始めた。梓はそれをそっとなでるようにして呟いた。
「お帰り、もう怖くないよ」
「梓ちゃんの血液は、すでに群体として振る舞うように変化している感じだね。ここまで徹底している姿は、僕も初めてみるけど…」
光は独り言のようにそう言った。
麻美は無言でその様子を見て、光の言葉を聞いていた。
これが吸血鬼に変わりつつある自分の親友の姿なのか。
ボクはこんな風になってしまった梓の恋人で居続けることができるのか?
「光さん、これって、もう元には戻らないの?」
「君も梓ちゃんと同じ事を言うんだね。う~ん、残念ながら、こうした変化は非可逆的なんだ、だから、梓ちゃんは、その綺麗な金髪も、魅力的な青い瞳も、今みたいな事も、全部自分の今の姿なんだと受け入れてしまった方が良いと思う。
「今の姿を受け入れる?」
「そう、それが一番良いと思うよ」
「そんな」
「さっきも言ったけど、吸血鬼の身体を離れた血液が、ここまで完璧に群体として振る舞う例は僕も初めて見るんだ」
「そうなんですか」
「そう、たとえば僕の研究に協力してくれた吸血鬼が以前もいたんだ」
「研究に協力?」
「そう、彼女も吸血鬼化する身体を元に戻す手段がないか僕に相談しに来た」
「それでどうなったんです」
「うん、僕は彼女の血液を定期的に採取して観察を続けた。血液中から恢復子とベクターだけを取り除けないか、色々実験した」
「でも、うまくいかなかった?」
「ああ、そうなんだ。こうした一連の変化は、基本的に元に戻せないんだ。最後には唯一吸血鬼化を止めることができるのは、彼女自身の血親を殺すしかないと言う結論に達した」
「血親を殺す?」
「そう、昔ながらの方法で、昼間眠っている吸血鬼を退治する方法でしか眷族を解放する方法は無かった」
「そうすれば吸血鬼化も止まる?」
「うん、その人の吸血鬼化がまだ始まりの頃ならね」
「どうしてそんな事が、できるんです?」
「吸血鬼の血液中の恢復子は、すべて血親の支配下にあるからさ」
「じゃあ、梓の胎内の恢復子も血親に支配されていて、血親が死ねばいなくなる?」
「うん、理論的にはそうなんだけど」
「前はそれを、やったんですか?」
「うん、まあね」
「じゃあ、梓の場合も、血親を探し出して殺せば、梓は元に戻るんですか?」
「ううん、正直に言うと、それはもう難しいと思う」
「どうしてです?だって血親を殺せば眷族じゃなくなるんでしょう?」
麻美は食い下がった。
「梓ちゃんの症状の進行が通常より早い事から、彼女を咬んだ吸血鬼は、もしかすると第一世代かも知れないからさ」
「第一世代って、光さんも会った事がない、最初の吸血鬼ってことですか?」
「そうだね。それにもうひとつ理由がある」
「もうひとつの理由?」
「うん、ここまで吸血鬼化が進んだ後で血親を殺すと、梓ちゃんにも悪影響が出る可能性が高い」
「悪影響?」
「そう、梓ちゃんの身体は、もう半ば吸血鬼化している。その半分をいきなり取り去ったりしたらどうなると思う?」
「梓が死んじゃう?」
「そうだね、死なないまでも、半身不随になったり、急激な老化が起きるかもしれない」
「もしかして、前に血親を殺した時もそうなった」
「正直に言うとそうだ。彼女は結局血親と運命を共にする事になった」
「じゃあ、光さんは、梓はこのままでいるしかないって言うんですか?」
麻美にしては珍しく、語気を荒くして祐天寺を問い詰めた。
光は、眼鏡の奥で優しく、でも少し寂しそうに微笑んだ。
麻美から視線を動かし、梓をじっと見つめる。
梓は光の背後にお坊さんの姿を見ていた。光に良く似た美形の僧侶で、優しげな顔で繰り返し頷いていた。その表情は梓に「大丈夫だ」と伝えているように思えた。
「そのお坊さんは誰?」
梓は小さな声で呟いた。
「お坊さん?」
光は少し驚いたようだった。
「梓ちゃん、君はまた誰かが見えているの?」
「祐天寺さんの後ろに優しそうなお坊さんが見えるの」
「それってもしかして」
麻美が息を飲んだ。梓はまだ光の転生の話を聞いていない。つまり梓が今見ているのは、光の守護霊である、江戸時代の高僧祐天上人の姿と言う事なのだろう。
「梓ちゃん、少し話をしようか?」
光は優しい口調で話し始めた。
「はい」
「梓ちゃんが持っている能力の中で、見鬼と言う能力は、実は貴重なものなんだ」
「妖怪やお化けを見る能力がですか?」
麻美が不思議そうに聞く。
「うん、他人には見えない異形のもものが見えると言う事は、その異形の者の感情を理解しやすいと言うことだ」
「どうして、それが貴重なんです」
「まあ、僕の仕事で言えば、例えば悪霊に取りつかれて苦しんでいる人がいるとする」
「ええ」
「その悪霊本体がどう言うつもりでとりついているのか分かれば、対策は容易に立てられるだろう」
「ああ、そうか。梓はそう言うモノとの通訳になれるんですね」
「そう言う事。それに、例えば勿怪の幸い(もっけのさいわい)という言葉があるよね?」
祐天寺さんはどちらにともなく聞く。
「ええ、期待していなかったけど、良い事が起こった、みたいな事ですよね」
また麻美がすぐに答えた。梓自身は麻美の頭の回転の速さにはついてゆけないが、心の中の声は答えていた。
図らずして齎された幸福のことだ。
「そう、図らずしてもたらされた幸福のことだよね」
祐天寺さんがまったく同じ事を言う。
「それと妖怪が関係あるんですか?」
「もともと、勿怪の幸いというのは、物の怪の幸いと言ったんだ。物の怪つまり妖怪がもたらす幸福と言う意味だね。山姥や鬼や座敷童子が禍や福のどちらかをもたらすという、同じ妖怪なのにパターンの違う物語が伝わっていて、つまり、その諺を作った人にとって、妖怪は祟りや害をなすだけの存在ではなかったわけだ」
「それって、妖怪が神様みたいな事をするということですか?」
「そう、妖怪は場合によっては神として崇められる。あと昔は、祟り神を祀って、神様にしてしまう例も多かった」
「祟り神を祀る?」
「君たち学生に縁の深いところでは、学問の神様、菅原の道真がそうだよね」
「ああ、湯島天神ですね?」
「そう、天神様だ。道真は大宰府に事実上左遷され、そこで客死する。道真の死後、京都の朝廷では異変が続いた。道真を左遷に追い込んだ藤原時平は三十九歳の若さで病死した。皇子の東宮も死ぬ、孫も死ぬという悲劇が続き、さらに清涼殿に雷まで落ちた。この事故で大納言藤原清貫が死に、醍醐天皇自身もすぐに死んでしまった」
「それって、偶然ではなく、本当に道真のやったことなんですか?」
「さあ、今となっては分からないけど、当時は朝廷の多くの人々が道真のせいだと思ったみたいだね」
「それで、道真を天神さまにしたんですか?」
「そう、なんせ天皇が政治を行う清涼殿に雷が落ちるなんて前代未聞だったからね。最初道真は雷を落としたので、天で雷神になったと考えられ、火雷天神を祀っていた北野に天満宮を立てて道真の祟りを鎮めようとした。その後も百年間くらいは、なにか天変地異や大災害が起こるたびに、道真の祟りだと言って恐れられ、あちこちに天神さまの社を立てて祀られるようになった」
「そんなに怖がられていたのに神様になっちゃたんですか?」
「うん、まあ時間が立つと、雷神としての畏怖より、道真が優れた学者であり歌人だった事がクローズアップされてきたんだろうね。なにより中央の圧政に、祟りと言う非常識な手段で一矢報いた事も地方では受けただろう」
「それで今では、学問の神様、それと縁結びの神様ですよね」
なぜか麻美が少し嬉しそうに言う。
「そうだね、道真は彼を左遷して、失意のままに死に追いやった平安貴族からみたら恐ろしい祟り神だったけど、君たちにとっては、受験の祈願や、恋人との縁結びを助けてくれる優しい神様な訳だ」
「なるほど」
「梓ちゃんは、さっき家にいついた座敷ワラシを見つけて、食事を与え、いわゆるお祭りをしてくれた。座敷ワラシは正しく祀られると、その家に幸福をもたらす。そんな風に妖怪や怪異は時として幸福を授けてくれる存在であり、同様に禍をもたらす存在であるわけだ」
「梓も気の持ちようで、神にも妖怪にもなれると言うことですか?」
「うん、梓ちゃんが今持ちつつある力は、ある意味超自然のものだ。自然の一部である天気や気候だって、適度な晴れや雨は実りをもたらすけど、強過ぎれば日照りや水害になるだろう。神か荒れ神か、つまりはその力を用いる者がすべてを決めるわけだね」
「ふ~ん、梓は神様になっちゃうかも知れないんだ」
麻美はもう梓を元に戻すのを諦めたような口調でそう言った。でもその表情は少し寂しそうだった。本当は光をこれ以上問い詰めても、梓が辛いだけだと気付いたのだろう。
「そんなあ、あたし神様なんてなりたくない」
梓もルイがかけてくれた毛布で顔の下半分を隠して、あえて軽く言ってみせた。
梓もこれ以上、麻美に心配をかけるのは嫌だと思ったのだろう。
「まあ、すぐにそうなると言うものでもないと思うから」
「でも、梓のこの体質って、悪い事ばかりじゃないですよね?」
麻美は場を盛り立てるつもりなのか、敢えて光に話を振ってみる。
「そうだね。一つ興味深い話をしておこう。梓ちゃんくらい恢復子が多くなると、殆ど不老不死に近いと考えて良いと思う」
「不老不死?」
「そう、例えばさっきの生きた血液を見たよね?もしあの状態で梓ちゃんの元に帰れないように閉じ込めておいたらどうなると思う?」
「さあ」「わかりません」
「血液は、独りで、ずっと生きているんだ。すくなくとも数十年間は平気で生き延びると思う」
「梓の身体を離れてもですか?いったいどうやって」
「恢復子は真菌に近い性質を持っていると言ったよね。彼らと言っていいかどうか分からないけど、恢復子は細胞として自己増殖する性質があるんだ」
「増殖?でも栄養は?」
「栄養は、たとえば死んだ血液細胞を自分たちの餌にしたり、空気中から二酸化炭素と水を取り込んで炭水化物を合成したり、窒素をとりこんでたんぱく質まで合成してしまう」
「それって凄いな。殆ど無敵じゃないですか」
「そう、正直吸血鬼の血液も細胞も、それに吸血鬼自身も、紫外線や銀に弱いと言う欠点をのぞけば、ほぼ無敵なんだ」
「なんでそんな生き物が増えているのに、人間を滅ぼして入れ替わらないんですか?」
「さあ、それは分からない。もしかすると人間に寄生して生きるために、一定以上に数を増やさないように進化しているのかも知れないね」
「ふうん」
「そもそも吸血鬼はその存在そのものが人類に仇なすものではないと僕は思うんだ」
「ああ、それはなんとなく分かります。梓はボクの友達のままだし、ボクが危ない時も助けてくれたし」
「そう、彼らはその身の内に取り込んだ遺伝子の命ずるまま生きようとしているだけだと思う。吸血鬼はたまたま捕食者として、優れた体質を持っているだけなのかも知れないしね」
「じゃあ、普通の人が吸血鬼を嫌うのはなぜですか?」
「吸血鬼が悪となるのは、オリジナルの人間の欲望が悪い方に拡大したときだね。元の人間が邪悪な人間なら、吸血鬼化によって、それはより強大な悪になってしまうだろう?」
「なるほど」
「それにさ、今はまだしないと思うけど、君たち女性はそのうちお化粧する様になるよね。女性が幸福になる事を目指して、より美しくなるための装いだ。その化粧だって、妖怪やお化けをあらわす「化生」が語源だと言う説もあるんだよ」
「お化粧も妖怪変幻の化生から来てるんですか?」
「そう言うこと」
梓は祐天寺の所に来て良かったと思っていた。自分の変化はもうどうしようもない。
でも、自分の意思を保つように努力すれば、たとえ自分がどんな風に変わってしまっても、麻美と友人でいられると思えてきたからだ。