麻美の家~戦闘メイド~交通事故~初めての吸血とキス
麻美の家
「ただいま」
麻美がそういったのは、青灰色の巨大な邸宅の車寄せの奥の玄関だった。破風窓が目立つ、かなり古い造りの洋館だ。これはビクトリア朝様式。梓の頭の中で、また聞いたことのない知識が浮かんでは消える。これも吸血鬼に咬まれた後遺症なのだろうか?
わりと近所なので、梓もここにこの洋館があることだけは知っていた。子供のころから幽霊屋敷だとか、お化けが出るとか行って、絶対に近づかなかった場所だ。麻美が住んでいるということは、ここが麻美の家なのだろう。今までは、だれかが住んでいるとは思っていなかったので意外な感じがした。
でもおかしい麻美の両親や家族がこの家に住んでいるという実感が持てない。
まるで、麻美が、広いこの家に一人で住んでいるような感じさえする。
「おかしいな?誰もいないなんてことはないんだけど」
麻美はそう言って、重そうな黒い樫の扉をノックしたが何も応答がない。そのまま扉を押してみた。
「なんだ、開いてるや」
梓も続いて入ろうとするが、扉に近づくことができなかった。
「あれ?」
ためらっているうちに、麻美は梓を残して扉の向こうに消えてしまった。
樫の扉は自動的に閉じてしまった。
梓も扉に向かおうとするが、足が思うように動かない。
無理に一歩足を踏み出すと、今度は耳鳴りがしてきた。
重々しい、ブーンという、音とも振動ともつかないようなものまで聞こえてきた。
それに逆らって扉に近づくと、閾のところで、物理的な衝撃が来た。
バシッ!
見えない手に顔を平手打ちされたような気がした。
梓は思わず、扉から後じさる。
無意識のうちに歯を剥き出し、鼻に皺を寄せてしまう。
扉から離れると、耳鳴りが消え、身体が楽なった。
麻美が戻ってきた。
扉を引き、中から聞いてくる。
「どうしたの?そんなとこにいないで入っていいよ」
「それが、扉に近づくと、変な音がして、頭が痛くなるような気がして」
「うん?音?なんの音かな?ボクはわからないな。どうぞ入って、今メイドさんたち奥で仕事中みたいなんだ」
「う、うん」
梓は恐る恐る扉に歩み寄る。今度は何事もなく入れた。
さっきはなぜ入る事が出来なかったのだろう?なんとかバリアとかがあるのだろうか?
邸内に入ると、大きな玄関ホールになっていた。
ステンドグラスを嵌め込んだ高い天窓から、午後の光が斜めに差し込んでいる。
玄関ホールだけでちょっとしたパーティなら開けそうな広さだった。壁には梓のウエストの高さまで黒っぽい木の板がめぐらされ、その上は細かい花柄の綺麗な壁紙が貼られている。柱ごとに凝った大理石の彫刻が飾られ、見上げるほど高い格天井の升目には、一つずつ絵が嵌っている。
やはりビクトリア朝様式だ。素晴らしい。そんな声が聞こえた気がした。
麻美の部屋は、屋敷の玄関を入って、しばらく歩いて屋敷の裏に抜け、渡り廊下をわたった先の離れ屋にあった。暗く重々しい装飾過多な母屋と違い、その建物は明るいオレンジ色の壁を持つ、女性的な建築物だった。もっともその離れ屋だけで、ゆうに学校の体育館くらいの大きさがありそうだ。一階の扉の奥はダンスフロアみたいになっていた。そこが麻美の運動場だと言う。
梓自身は麻美の家の大きさや豪華さに威圧感を覚え始めていた。一体どんな悪い事をしたら、こんな大きな家に住めるのだろう?そんな風に勘ぐってしまう。梓自身の家は、それほど大きな金額とも思えない借金の肩代わりのせいで、事実上崩壊寸前だというのに。
だが、心の中の声にならない声は、単純に感心を繰り返していた。これはアールデコだ。今時珍しい。そんな感想が心に浮かんで消えた気がした。
入口ドアには、ガラス製の女神像の浮き彫りがあった。市松模様に敷き詰められた黒と白の大理石の床がある明るい玄関ホールを通り過ぎ、優雅にカーブした階段を上がった突き当たりに麻美の部屋があった。
麻美の部屋は母屋よりはモダンなイメージだったが、寝室と居間と勉強部屋の三室に専用のバストイレが供えられた続き部屋だった。夫婦に小さな子供の家族なら、そのまま住めてしまいそうだ。
学習机と呼ぶには重々しい感じのマホガニー製の書き物机があり、天井まで届く高い本棚には難しい題名のハードカバーが並ぶ。見回すと机の上の本棚には学校の教科書とノートが立てかけてあった。そこだけは高校生らしい空間に見える。
麻美は学生かばんを仕舞うと、梓の方を振り返った。
「その辺に座っていいよ。ごめん、着替えてしまってもいいかな?この制服、少し窮屈なんだ」
それだけ背が伸びるのが早ければ、制服も窮屈になるでしょうね。すでに成長が止まったのか、高校入学以来身長の変わらない梓には少し羨ましい。
そんな当たり前の感情や麻美への友情や感謝とは裏腹に、梓は屋敷の威容に気押されていた。その葛藤を顔に出さないように、梓は無言で麻美に頷きかけ室内を見回し続けた。一つには心のなかの声がそうすることを欲していたからだ。
部屋には、猫足のテーブルと、それを取り巻いて更紗張りの椅子が二脚あった。
梓は床に鞄を置き、更紗張りの椅子に腰を下ろした。
麻美は洋箪笥を開けると、梓の目の前で着替えを始めてしまった。梓はそれをぼんやりと眺めていた。リボンをほどき、セーラー服を脱ぎ、スカートを落とす。彼女はスリップを着ていなかった。制服の下はいきなりブラジャーとショーツだけだった。
麻美は雪白の綺麗な肌をしていた。背中は滑らかでティーンエージャーにありがちなニキビひとつない。さらに彼女はアスリートらしい皮下脂肪に乏しい身体を持っていた。滑らかな皮膚越しに、鍛え上げた筋肉の動きがはっきり見える。梓はルネサンス期の彫刻みたいな麻美の身体から目が離せなくなってしまった。特に肩から背中にかけての美しいラインに視線が釘付けになるのを止められない。
麻美が、そこだけは控えめな乳房に垂れかかる長い三つ編みを背中に流し、半身をこちらに晒すと、今度はその美しい首筋から目を離せなくなった。
これが吸血鬼の性なのだろうか?
梓は必死になって視線をそらした。
せっかく友達として仲良くなったのに、あたしはその友達に食欲を感じている?
あたしは麻美の血を飲みたいと思っている?
梓は自分が情けなくなった。
「ねえ、梓、さっきも聞いたけど、君って、なんで急に変わってしまったの?」
着替えを続けながら、麻美が聞く。
梓はどう答えたらいいかわからない。
麻美は柔らかそうなセーターを取り出し、頭から被ろうしていた。こちらを向いたおなかに、可愛いおへそが見えた。
正面から見ても、麻美は高い運動能力に比例して、女性としてはかなり引き締まった身体付きをしていた。綺麗にくびれたウエストにも腹筋が幾重にも浮き上がって見えた。全部脱いだら、お尻まで筋肉の筋が分かるような、別の意味凄い身体なのだろう。
「うん?ボクのおなかになにかついてる?」
「ううん、綺麗なウエストだなって思っただけ」
梓はつい思っていた事を口に出してしまった。
「そう?やせて色気のない身体だけどね」
麻美は素肌にラムウールのセーターを被り、ウエストの低いジーンズを履くと、ファッションモデルみたいな優雅な歩き方で、入口の方に向かった。
「なにか軽いものでも食べる?」
麻美が三つ編みをほどきながら、館内通話用らしい受話器を取って聞いてきた。
三つ編みのせいで軽くカールがかかった長い髪が、ふわりと胸に垂れかかるのが見えた。
眼を凝らすと、髪の毛の一筋ひとすじも、セーターの毛糸の繊維さえも見分けられた。
梓は自分の異様な視力に気づき、思わず眼を瞬いた。
「ううん、少しおなかは空いているのだけど、何かを食べたい気分じゃないの」
「じゃあ、のみものは?」
「えっと、その、トマトジュースある?」
「うん、トマトジュースだね」
麻美は受話器に向かって小声で何か依頼する。声が小さくて、聞き取れないと思ったが、耳を澄ますと、何を言っているかちゃんと聞こえてしまった。
「イスト?うん、友達を連れてきたんだ。それでトマトジュースある?あ、じゃあ二つお願い。うん、僕はサンドイッチも食べたいな。付け合わせは適当に、うん、じゃあね」
イストって変わった名前。家政婦さんかしら?お母さんを名前で呼び捨てにはしないわよね?梓は聞こえてしまった会話の内容について、つい考えを巡らせてしまうが、まさか麻美に確認するわけにもいかない。
麻美の部屋は豪華な家具と綺麗な内装で飾られ、文字通りアールデコを具現化したものと言っていい落ちついた部屋だった。だが女子高生らしい飾りや小物は皆無に近い。
年齢相応に見えるのは、麻美が脱いで壁のフックにかけた制服と、机の横に置かれた学生かばんと本棚の教科書、それにリッドを閉じたままのノートパソコンくらいだ。そのノートパソコンも真っ黒なシンクパッドだ。それ以外はテレビもラジカセもない。ぬいぐるみやポスターの類も見当たらない。
唯一の装飾は、人物や風景を描いた壁の油絵くらい。それも時代がかっていて、なんだか美術館のような雰囲気を醸し出している。
戦闘メイド・イスト
麻美はもともとおしゃべりな方ではないし、梓も今日は、自分から何か話す気分ではない。なんとなく気まずいまま向かい合って座っていると、ドアにノックの音が響いた。
「麻美?開けてくれる?飲み物と食事を持ってきたわ」
麻美は気軽に立って扉をあける。入ってきたのは、黒服に白エプロンの綺麗なメイドさんだった。整った顔立ちだけど、肌は浅黒い。外国人のメイドでも雇っているのだろうか?でも麻美の事を呼び捨てにしていた。
メイドさんは梓を見ると、一瞬ぎょっとしたような顔つきになったが、黙ってお盆をテーブルに置いた。
驚いたのはメイドさんの次の行動だった。一挙動でナイフを取り上げて梓に突き付けてきた!
メイドさんの黒曜石のような瞳が梓を捉えて離さない。
「お前は一体誰?」
梓はナイフを向けられた瞬間、椅子を蹴って立ち上がっていた。その銀色に光るナイフがとてつもなく恐ろしいものに見えたのだ。
思わず鼻に皺が寄り、牙をむき出して唸ってしまった。
「シャー」
猫が威嚇するような声が室内に響く。
「イスト?いったいどうしたの」
麻美が驚いたように言う。
「麻美は後ろに下がって」
メイドさんは、麻美よりずっと小柄なのに、右手でナイフを構えたまま、左腕を伸ばし、麻美をかばうようにして前に出る。
「ねえ、どうしたの?イスト」
メイドさんは、それには答えず、梓にいきなりナイフを投げつけてきた。それは磨き上げた銀のナイフだった。どうりで恐ろしいと感じたはずだ。
梓は大きく宙を跳んでナイフを避ける。
「待ちなさい!」
メイドさんはもう一本のナイフを逆手に持ちかえて梓に詰め寄る。
梓は壁際に逃げていたが、そこからさらに上にジャンプした。
「降りてきなさい!」
メイドさんが梓を見上げて言った。梓は格天井に指先だけで摑まってぶら下がっていたが、そこから脚を振り上げ、壁に足をついて立ち上がった。
メイドさんは、さらに銀のナイフとフォークを投げつけようと構える。
だが、その前に麻美が両手を広げて立ちふさがった。
「待ってイスト!ボクの友達に何をするの?」
「友達?」
「そうだよ、梓はボクの友達、高校の同級生だ」
「お友達はあんな風に壁に垂直に立ったりしないものです」
メイドさんは梓から冷たい視線を外そうとしない。
「だから待ってってば」
麻美は梓を見上げて肩をすくめてみせた。垂直の壁に立っている梓を見ても、それほど驚いた様子もない。
「梓、とりあえず降りてきてくれる?」
「でも、そのヒトが」
「うん?イストが怖いのかい?」
「そのヒトは怖くないの。あたしはそのヒトが持っているナイフが怖い」
「イスト?聞いた?ナイフを振り回すのをやめて」
「でも、麻美、それは人間ではないわ」
「人間じゃないって?じゃあなんなのさ?」
「わからない。でも危険だわ」
「梓はボクの友達だ。ボクは危険だなんて思わない」
「本当に?」
「ああ、保障する」
「わかったわ」
「イスト、梓が怯えている。少し離れてくれる」
メイドさんは逆手に持って構えていたナイフをお盆の上に戻して、梓から離れた壁際に立った。礼儀正しく両手をエプロンの前で組む。だが視線は梓から放そうとしない。
「もう大丈夫だよ。梓、降りてきて」
梓は壁際に立ったメイドさんから眼を放さないようにして、壁をトコトコと降り始めた。
この家は天井が高い。四メートルくらいありそうだ。
床から一メートルくらいのところでジャンプして向きを変え、軽く床に降り立つ。
「ヒュー」
麻美がそれを見て口笛を吹く。
「それってどういうマジック?」
「マジックじゃないわ」
「じゃあ、どうして壁を歩けるの?」
「わかんない、今朝、急に歩けるようになったの」
「ねえ、ボクなら梓に触ってもいい?」
「ええ」
麻美は梓の肩に手をかけると、肩から腕を軽く叩きながら調べ、それから太ももとふくらはぎも調べた。
「前から思っていたけど、梓って柔らかくて女の子らしい触り心地のいい身体だよね」
「それは太っているっていう意味?」
梓は溜息を吐くように聞く。麻美のようなスタイルの良い子から、そんな風に言われると嫌みにしか聞こえない。
「違うよ、ボクみたいにガリガリじゃなくて羨ましいっていう話さ。ねえ、靴の裏も見せて」
「うん」
梓が膝を折って靴の裏を見せる。
「なんにも仕掛けはないね。ボクのと同じリーガルだ」
「仕掛けなんてないわ。あれはあたしの能力だもの」
「能力?どうやって、あんな事が出来るようになったの?」
「ううん、わからない、事故の後、急に出来るようになっただけ」
「もしかして、イストがいると話しにくい?」
「ううん、うん」
「イスト、ごめん、二人だけにしてくれる」
「いいの?麻美」
メイドさんはきらきら光る黒い目を梓から離さずに訊く。
「うん、ボクは大丈夫だよ。梓はボクの友達だもの」
「そう?じゃあ、何かあったらすぐに呼んで。下にいるわ」
「そんなに心配しなくても大丈夫だって」
麻美はメイドさんの背を押して、部屋から追い出すようにして扉を閉めた。
「まあ、座って。食事をしながら話そうよ。ボクはおなかすいちゃった」
麻美はそう言うと、テーブルにつき、サンドイッチを食べ始める。
梓はコップに注がれたトマトジュースを飲んでみた。
塩味がおいしい、すこし喉の渇きがおさまったような気がする。
「ねえ、もしかしてお肉なら食べられる?」
麻美がサンドイッチの付け合わせのローストビーフとスモークチキンを皿に盛ってくれた。
たしかに肉は美味しそうだった。でも銀のフォークが怖くて、とても触れそうにない。
「だめ、フォークに触れないわ」
梓は正直に言う。
「ふうん、先端恐怖症かな?じゃあ、手掴みでもいいよ」
麻美は自ら、綺麗な長い指で付け合わせのローストビーフを摘まんで口に運ぶ。
梓も真似をして、手掴みで食べてみた。
おいしい!いつの間にか自分がずいぶん空腹になっていた事に気づく。
「よかった。梓、朝から何も食べてなかったでしょ?心配していたんだ」
梓ははしたないと思いながら、残りのローストビーフとスモークチキンを手掴みでみんな食べてしまった。
麻美はだまってニコニコしているだけだったが、梓は麻美に自分の秘密を打ち明けたくなった。なにより麻美には、壁を歩く異形の姿を見られてしまったし、もう隠していても仕方ない気がする。
「麻美、あたしがこんな風になってしまった理由、あなたに話してもいい?」
「うん、いいよ。さっきのマジックの種明かしもできたら頼む」
麻美はどこまでが冗談なのか、はっきりしないような軽い口調で言う。
「あのね、自分では記憶がないんだけど、あたし吸血鬼に咬まれてしまったみたいなの」
我ながらまぬけな話だと思いながら梓はたどたどしく説明を始める。
「吸血鬼って?あのドラキュラみたいなの?」
「ううん、ドラキュラはフィクションだけど、吸血鬼っていうのは実在するんだって」
「へえ、それって誰に聞いたの?」
「あたしを助けてくれたお医者さん」
「お医者さん?」
「うん、祐天寺さんて言う精神科のドクター」
「祐天寺?地名姓なのかな?祐天寺ってたしか東横線にあるよね」
「名字は変なんだけど、それが結構イケメンでね、それで狼を飼っているの」
「狼?狼って吸血鬼の使い魔じゃなかった?」
「え?そうなの。それで、その狼はね、喋る狼なの」
「うんうん、なんだかわくわくするようなお話だね」
「麻美、これって、お話じゃなくて、実際にあった事なのよ」
「ああ、ごめん、それで吸血鬼に咬まれたって、どうして分かったの?」
「この首筋の傷を見て」
梓は長い金髪をかきあげて、首筋に残る丸い二対の傷跡を麻美に見せた。
「本当だ、何かに咬まれた様な跡がある」
「祐天寺さんによると、これが吸血鬼に咬まれたあとで、あたしも吸血鬼になってしまうかも知れないと言われたの」
「う~ん、でもさ、梓って今のところ、金髪になっちゃったくらいで、吸血鬼になった様子はないよね」
「そう、本物の吸血鬼なら、太陽光線を浴びただけで死んでしまうんだけど、あたしはとりあえず問題ないみたい。でもさっきみたいに銀のナイフは怖かったし、冷たい水に触るのも怖いし」
「ちょっと待って」
麻美は本棚から、黄色い表紙に赤い文字でDRACULAと題名が印刷された洋書と、赤い表紙に十字架と白い文字で吸血鬼ドラキュラと印刷された文庫本を持ち出してきた。
「こっちが、ブラム・ストーカーのドラキュラなんだけど」
「麻美、これ読めるの?」
「辞書で分かんない単語を調べながらだけどね」
「ふうん」
「それでこっちが創元推理文庫版の吸血鬼ドラキュラ」
梓は麻美から受け取った洋書と文庫本を交互に開いて眺めてみる。奇妙な事に洋書の原文も普通に読み解くことができそうだった。
「うんとね、ここ読んでみて」
麻美が指差すところを拾い読みする。
「どこ?」
「この辺」
「そうそう、原書の方では、ドラキュラの城ってオーストリアにある事になってる」
「あ、本当だ」
「でもね、こっちの翻訳本だとトランシルバニアのお城に住んでる事になってるでしょう?」
「うん、なんで違うんだろ?」
「それで、ドラキュラを退治する大学教授がでてくるんだけど、あ、これだ」
「ヴァン・ヘルシング教授?」
「そうそう、こういう仕事をする人って、ええとなんていうんだっけ?」
「ヴァンパイア・ハンター?」
「そうそう、そういう人に頼めば、梓の症状を調べたり、直したりできるんじゃないのかな?」
「う~ん、でもこのドラキュラって、まるっきりフィクションみたいよ」
「え?そうなの」
それから、梓は祐天寺さんに教わったドラキュラのモデル、ヴラド三世の事を麻美に話して聞かせた。
「じゃあ、ドラキュラって名前じゃなくて、竜の息子と言う意味でドラキュラなの?」
「そうなんだって」
「う~ん、ねえ、その祐天寺さんって、妙に吸血鬼に詳しくない?」
「え?そういえばそうかな」
「その祐天寺さんに相談してみたら?」
「う~ん」
「なにか問題ある?」
「問題というか」
「うん」
「さっきも言ったけど、祐天寺さんって、すごくイケメンなの」
「うん、だから?」
「独りで会いにいくの、なんだか恥ずかしいと言うか、緊張するというか」
「わかった、じゃあさ、今度の週末にでもアポとって置いてよ。ボクもついていくから、それで相談してみようよ」
「う~ん、わかった」
翌週の始めから、梓は毎日学校帰りに麻美の家に寄るようになった。家に帰っても誰もいなかったし、麻美は梓を気遣って、毎日下校時に声をかけてくれたからだ。
麻美は週二回バスケの練習があったが、その時は梓が図書館で時間をつぶして麻美を待つ事にした。
毎日一緒に帰宅する長身容姿端麗でボーイッシュな麻美と、小柄で女っぽい梓の組み合わせは女子高の中でもかなり目立ったようだ。なにせ梓は金髪になっていたし。
しばらくすると、梓と麻美はできているという噂が立つようになった。梓は友達から噂を聞くたびに必死になって否定したが、麻美は歯牙にもかけない様子だった。
交通事故
毎日一緒に帰宅しているうちに、麻美は梓の驚異的な身体能力に興味を持ち、格闘技を教えてあげると言い出した。麻美自身が義姉だというイストにさまざまな格闘技を教わっていたからだ。イストが義理の姉だと言うのはなんとなく分かったが、なぜ彼女がメイド服を着て、メイドの仕事をしているのかはよく分からなかった。
梓は吸血鬼から受け継いだらしい馬鹿力の制御に苦慮していたので、麻美が教えてくれる格闘技、とくに身体のバランスのとり方や力の制御の仕方はとても役にたった。
実は麻美が梓に格闘技を教えようとしたきっかけは、二人で下校時に交通事故に会いそうになったせいもあった。
ある日の下校時、梓と麻美が渋谷の裏道を並んで歩いていると、原付に二人乗りした少年たちが後ろからいきなり突っ込んできた。
後で聞いた話では、中学生が盗難バイクに二人乗りしているところを警邏中のパトカーに見つかり、必死になって逃げているところだったらしい。
バイクを運転していた少年は後ろからサイレンを鳴らして迫るパトカーを振り返りながら走っていたので、前方にいる梓と麻美に気がつかなかったと言う。
叫び声に振り返った時には、真後ろに原付バイクが迫っていた。
「あぶねえ、そこどけえ!」
少年の野卑な叫びを聞き、後ろに迫る原付を見た瞬間、梓は麻美の脇の下に手を回して抱き上げ、そのまま垂直にジャンプしていた。
二人乗りのバイクはそのまま直進した。少年は高々とジャンプした二人の女子高生に眼を奪われ、前方を見ていなかった。それで、そのままカーブの先にあった飲食街のゴミ集積場に突っ込んでしまった。
梓と麻美は、交通事故は回避できた。でもその代わりに、着地点でバイクがまき散らした生ごみの山に突っ込む事になってしまった。
麻美は梓に助けてもらった事について、しばらく何もコメントしなかった。被害者兼目撃者として、警官の事情聴取を受けるのに忙しかったせいもある。何より、いきなり抱きあげられて十数メートルも瞬間的に移動したことで、あっけに取られていたみたいだった。
事情聴取の後、麻美と梓は渋谷警察署からパトカーで送ってもらうことになった。二人は生ごみの山に突っ込んだ事で、異様な臭気を放っていたからタクシーには乗せてもらえそうになかった。それに年頃の女子高生が異臭を放ったまま歩いて帰宅するのは可愛そうだと警官が気をきかせてくれたのだ。麻美は自分たちのせいでパトカーの中が臭くなるのではないかと、しきりに恐縮していた。
「本当にすいませんねえ。ボクたち、こんなに臭いのに」
「ああ、大丈夫ですよ。パトカーは泥酔者を保護して運ぶ事も多いので、シートとかもビニールレザーですから」
若い警官は、女子高生をパトカーに乗せて送ると言う仕事を楽しんでいるように見えた。ただしバックミラー越しに向けてくる視線は、銀髪に近い梓に向けられる事が多いようだった。
パトカーはサイレンは鳴らさなかったが、赤色灯を点灯してゆっくり渋谷の町を通り過ぎ、そのまま鴇島家の車寄せに乗り付けた。警官は未成年の被害者を自宅に送り届ける以上、保護者に引き渡すまでが仕事だと思っているようだった。だが鴇島家の屋敷を目前にすると、警官の態度が変わった。間抜けな顔で口をあんぐりと開き、巨大としか言いようのない屋敷に見蕩れている。
「あの、お嬢さんって、ここにお住まいだったんですか?」
警官はパトカーを止めて振り返り、急に丁寧語で麻美に話しかけてきた。
「ええ、ここは義父の家ですが」
「そうなんですか」
「そうなんです」
麻美とのなんだか間抜けなやり取りのあと、警官は本来の職務を思い出した様だった。
「は、そうだ、一応保護者の方にご挨拶させていただけませんか?」
「わかりました。義姉でも良いですか?」
「はい、身内の方で成人でしたら、どなたでも構いません」
麻美がノッカーを鳴らすと、犬の吠え声が応え、すぐにイストがドアを開けてくれた。
「おかえりなさい、麻美、うわっ、どうしたの?その匂い!」
イストも麻美たちの悪臭にびっくりしたようだ。
「失礼します。渋谷署の小野寺と申します。お嬢さんの保護者の方にお会いしたのですが?」
銀縁眼鏡をかけた人の良さそうな警官は礼儀正しく敬礼して警察手帳から名刺を出してイストに挨拶した。
「えっと、この人がボクのお義姉さんです」
麻美がイストを紹介する。
「はあ?あの、この方はメイドさんでは?」
「ああ、メイドの格好をしていますが、義理の姉なんです」
「はあ、義理の御姉さまですか?それであのご両親は?」
「ただいま外出しております。私ではいけませんか?」
イストは背こそ低いが、妙に威厳のある口調でそう言った。
「あ、はい、では結構です。実はお宅のお嬢さんとそこのお友達は学校からの帰宅途中で交通事故にあわれまして…」
「交通事故?麻美、大丈夫なの?」
イストが麻美に駆け寄り、酷い匂いも構わず、麻美の身体をあちこち触りながら尋ねた。
「ああ、こちらの御友達の御蔭で暴走バイクに轢かれるのはよける事ができたのですが、よけた時に事故で飛び散ったごみの山に突っ込んでしまわれたようでして」
「そうですか?では、麻美に怪我はないのですね?」
「はい、それは大丈夫です。でも一応交通事故の被害者なので、ご自宅までお送りした訳です。また事故のことで何かお聞きするかも知れませんが、その時はよろしくお願いします」
警官はまた敬礼すると、パトカーで車寄せを回って帰っていった。
「梓さん、麻美の事を助けていただいたのですね」
「いえ、とっさに避けただけです」
「違うよ、梓ったらすごいんだよ。後ろからバイクが突っ込んで来たとき、ボクを抱き上げて、十メートルくらいジャンプしたんだよ」
「ジャンプした先でごみの山に突っ込んだけどね」
「あれはバイクが事故でまき散らしたゴミだもの、避けようがなかったよ」
「なにはともあれ、お二人とも怪我がなくてなによりでした。すぐお風呂にお入りなさい。制服はこちらで洗濯しておきます」
「はあい」
「ありがとうございます」
イストの梓に対する態度は、この時から少し変わったようだった。といっても、もともと感情をあらわにするタイプではないので、その差は相対している本人にしか分からない程度だった。ともかくイストはそれ以降、梓を麻美の命の恩人として遇するようになっていった。
初めてのキスと吸血と
梓は麻美に連れられて、屋敷の浴場に向かった。鴇島家のバスルームは中庭に面していて、どこかの温泉旅館の大浴場を思わせるような石造りの大きなお風呂だった。
「梓、水はだめだけど、お湯なら大丈夫なんだよね」
「ええ、どっちにしても、この匂いじゃ、我慢して洗わなくちゃ」
麻美がわざわざ確認してくれた。ただし梓は、すでに風呂につかるという習慣を失くしていた。シャワーを浴びてもすべて弾いてしまうし、吸血鬼の肌は全く汚れないので、普段は入浴しなくても気にならなくなっていたのだ。しかし髪についたこの悪臭はなんとかしなくてはならない。シャワーを浴びれば匂いは取れるだろうか。
二人が脱衣所で制服を脱ぐと、すぐにイストがやって来て脱いだ衣服を引き上げ、着替え用にと下着とシフトドレスを置いていってくれた。
並んでシャワーを浴びた。梓の身体はシャワーの流れをほとんど弾いてしまうようで、皮膚が濡れる感じが全くしない。
「すごいね、梓の身体」
麻美が関心したように言う。
「そうなの。せっかくシャワー浴びても、シャンプーしても、全部弾いてしまうみたいで」
「ちがうよ、女子の身体として凄いねっていったんだよ」
「え?」
「シャンプー流し終わった?」
「ええ」
「ねえ、お願いがあるんだけど」
麻美がなぜかモジモジした様子で顔を赤くして言う。
「なあに?」
「梓の事、ハグしてもいい?」
「え?」
「うんと、梓は女の子同士でそう事するの嫌な子?」
「ううん、麻美ならいいよ」
麻美の長身がそっと寄り添ってきて梓を柔らかく抱きしめるようにした。麻美の身体は女の子としては、胸も小さく筋肉が発達しいてたくましい感じがしたけど、その抱擁には男のような荒々しさはなかった。
梓は麻美に抱かれ、その胸に頬を寄せているうちに母親に抱かれているような安心感を覚え始めていた。
だが、それだけではすまなかった。麻美の抱擁はどうしようのもない飢餓感を梓の体内に灯してしまったのだ。
「梓って、前から女っぽい体つきだと思っていたけど、金髪になってからますます磨きがかかってない?」
麻美は長い腕を梓の身体に回して、背中からお尻をさりげなく撫でまわすようにしている。
「そう、なのかな?あ、それ、ちょっと、くすぐったいかも」
梓は麻美の愛撫に快感を覚えながらも、同時に麻美の首筋に咬みついて血を吸いたいと言う衝動を抑えるのに苦労していた。
「うん、ほら、こうやってハグした時の抱き心地のよさったらないね」
麻美はだんだん大胆になり、梓の美しい乳房に手を伸ばす。梓の方は、自分の親友だと思っている麻美に対して、自分が食欲を感じてしまっている事に気が気ではなかった。
それで麻美に抱かれ、あちこち撫でまわされながら、身体が震えるのを止めることができなくなっていた。
「梓どうしたの?あ震えているね。ねえ寒いの?ごめん、じゃあいっしょに温まろうか」
麻美は梓の手をとって、一緒に湯船につかった。麻美は洗った髪をアップしてタオルでとめているので、首筋が剥き出しになっていた。梓は麻美のその綺麗な首筋から目を離すことができない。必死で自分の吸血衝動を抑え込んでいるために、身体が安定しないのだと思っていた。
梓は深呼吸して気持ちを落ちつかせようとした。でも背筋を伸ばしたとたんにお尻が滑り、そのまま湯の中に沈んでしまった。その時になって初めて、梓は浮力が全く生じていない事に気付いた。慌てて両手で湯をかいて頭を出そうとするが、浮力がないせいか顔を湯の表面に出す事すら出来ない。
「あずさ!」
麻美が梓の両腕を素早く掴んで湯の中から引き上げてくれた。そのまま湯船の縁に腰をおろし、麻美を自分の太ももの上に乗せて背中をさすってくれた。
「大丈夫?滑っちゃったのかな」
「ううん、ケホ、違うみたい、コホ、あたしの身体、全然浮かないみたいなの」
梓は少し飲んでしまった湯を吐きだしながら言った。
「ああ、それも吸血鬼に咬まれた後遺症なのかな?」
「たぶん…」
「また震えている。ねえ、梓どうしたの?やっぱり寒いの?」
「違うの!ごめんなさい、あたし、実を言うとね、麻美に、その食欲を感じているみたいなの!」
「しょ、食欲?ええ?性欲じゃなくて?」
麻美がビックリしたように聞いた。
「え?どういうこと?性欲って」
梓も驚いて聞き返してしまう。
「ボクもごめん、こうやって梓を抱いていると、なんていうか、梓を自分のものにしたいっていう衝動が湧き上がってくるというか…」
「そんな、じゃあ、あたしたちって」
「フフフ、まったく変なカップルだよね。ボクはレズっぽい欲望を梓に感じているし、梓はボクの血を吸いたいって食欲を覚えているし」
ふたりして、その妙なすれ違いに笑ってしまった。梓は久しぶりに笑った気がした。麻美は笑う梓を膝の上に抱いて、またそのスベスベする身体の感触を楽しんでいるようだった。
「ねえ、いいよ」
麻美が軽い口調で言った。
「何がいいよ、なの?」
「うん、血を吸っても」
「え?」
「ボクの血を吸っていいよ」
「本当に?」
「うん、だって親友が飢えているのに、それを見過ごすなんて、ボクにはできないもの」
「麻美…」
結局、梓は空腹と誘惑に負けてしまった。麻美は命を助けてもらったお礼だから、自分の血を飲ませるくらい当たり前だよ、とまで言ってくれたのだ。
梓は麻美の膝の上に抱かれたまま、麻美の白く滑らかな首筋に牙を突き立てた。
鋭い犬歯の先が、麻美の張りつめた若い皮膚に穴を穿ち埋没していく。
傷口から暖かい泉のように麻美の血が湧きだしてくる。
塩辛く、そして甘い、むせかえるような麻美の血液。
美味しかった。まさに麻美の生命を分け与えられてもらったような気持ちがした。
梓はむさぼるように麻美の血を飲んでしまった。
気が着くと、麻美が恍惚の表情を浮かべて梓を抱きしめていた。
「あ、ごめん、こんなにたくさん飲むつもりじゃなかったのに」
「え?いいよ、もっと飲んで、血を飲まれるのって、すごく気持ちいい」
「ううん、もうやめておく。これ以上飲んだら麻美に悪いもの」
梓が首筋から牙を抜き、犬歯がつけた丸い傷跡を舌の先で舐めると、傷跡は瞬く間に縮まり小さな穴になり、ほとんど分からなくなった。梓の首筋の傷跡とはずいぶん違う。
麻美が梓の頤を右手で捉える。そのまま梓の唇に自分の唇を重ねてきた。甘いキスだった。麻美の舌が梓の口の中に入ってきて長く伸びた犬歯を舐めてくる。梓も自分の舌と出してそれに応えた。キスって、こんなに気持ちいいんだ。梓は麻美の血を飲み、お返しに麻美に唇を奪われ、恍惚とした気分になってしまった。