メタモルフォーゼ~通学~麻美
メタモルフォーゼ
梓はと言うと、全然眠くならなかった。夕食を摂っていないのにおなかも空かない。喉もかわかない。これは祐天寺さんに言わせると、あまり良い兆候ではないらしい。
眼が冴えてしまった梓は、東側の窓を開けに行った。外がどんな天気か見ようと思ったのだ。サッシのロックをはずし、スライドさせる。軽いカラカラカラと言う音がして、サッシが開く。掛け金をはずし、鎧戸を押し開ける。まぶしい曙光が差し込んできた。今日も良い天気だ。低い位置にある太陽の光がまぶしい。
深呼吸しようとしたら、いきなり横から突き飛ばされた!
梓は壁に激突しそうになり、空中で一回転して立った。
気がつくと天井近くの壁に足をついて、床に対して横向きに立っていた!
なにこれ?
眼の前の床には、うつぶせに倒れて、こちらを見上げる祐天寺さんの姿があった。
「梓ちゃん?無事?大丈夫?」
立ち上がり、梓を見上げて聞いてくる。
それが、ヒトを突き飛ばしておいて言うセリフ?
梓はむっとしたが、それより祐天寺さんの怪訝そうな表情の方が気になった。
「無事?ええ、今あなたに突き飛ばされて、転びそうになったけど、まあ怪我はしてないわ」
梓はちょっときつい口調で答えた。彼に突き飛ばされた理由がわからないのだ。
「違う、ちがう、今、朝日を浴びてしまっただろう?火傷は?どこか燃えなかった?」
「火傷、燃える?いいえ、どこも、なぜそんな心配を?」
「君、髪の毛が、髪の色が真っ白になっているじゃないか?それは燃えてしまったのか?」
梓は壁に横向きになって立っていたが、髪の毛は重力に従って、目の前に垂れ下がっていた。
その毛先をとって眺める。きれいな金髪だった。こういうのに萌えるヒトはいるのかも知れないけど、とりあえず燃えてはいない。でもこれが梓の髪なの?
「これは何?」
「君の髪の毛だ。驚いたな、ちょっと見ないうちに白髪?じゃないな、銀髪になっている。しかも君、横向きで壁に立っているじゃないか」
そこまで言われて思い出した。そうだ、梓は吸血鬼に咬まれた…ことになっていて朝日を浴びるときは慎重にって言われていたんだった。
うっかりしていて、さっき思い切り浴びちゃった。そのせいで髪の色が変わってしまったの?
「とりあえず無事なようで良かった。でも、その、悪いけど降りて来てくれないか?」
「あ、はい」
梓は、壁を床に向かってトコトコ歩いて行き、少し手前で、床に向かってジャンプした。九十度向きを変えて、トンっと床に降り立つ。我ながら、ずいぶん身軽になっていて驚く。壁に立てるのも吸血鬼の能力なのだろうか?でもそれってまずいかも。あたしってば、やっぱり吸血鬼化しちゃってる?
「そこで待っていて」
祐天寺さんは、開いた窓を横切り、梓の目の前にくると、梓の肩をそっと抱いた。
え?いきなりなに?あたしにキスするつもり?
まあ、いろいろお世話なったし祐天寺さんならいいか?
梓は目を瞑って、軽くアゴを持ち上げ、祐天寺さんの唇を待つ。
「なにをしているの?」
祐天寺さんが聞く。
「へ?」
梓は目を開ける。
「アハハハ、アンタってば、本当に最高!」
いつの間にか起きだしてきた狼が、なぜか床を転げまわって哄笑している。
「いい?ゆっくりとだよ」
祐天寺さんは、梓の左側、つまり窓側に立って、梓の右肩をつかみ、ゆっくり前に歩き出そうとしていた。左手には、梓の髪の一房を持って、前に突き出している。
「あ、ああ、そうか」
やっと状況が理解できた。祐天寺さんは、梓にキスを求めていたのではなかった。梓の吸血鬼体質を確認しようとしているのだ。梓は素直に従うことにした。さっきは太陽の光とは言え、登ったばかりの太陽のまだ青みがかった光だった。今はもう普通の太陽の黄色い光が窓辺に降り注いでいる。その光の中に梓の髪を差し出そうとしているのだ。
梓も歩調を合わせ、ゆっくりと前に踏み出す。緊張からか、祐天寺さんは梓の髪を限度いっぱいに引っ張っている。それで頭の皮が引っ張られてちょっと痛い。
髪の先端が、朝日に触れた。一瞬、金髪が燃え上がったように見えた。
祐天寺さんは、慌てて髪を持った手を影に引き戻す。
違った。髪は燃えていなかった。朝日を浴びて金色に輝いただけだ。
もう一度、恐る恐ると言う感じで、髪が突き出される。もし髪が燃え上がったらどうするのだろう。そのまま日光の中に放り出されて焼き殺されてしまう?そんな恐ろしい想像が頭をよぎる。幸いな事に髪は無事だった。
「左手を出して。ゆっくりとだよ」
梓は言われるままに、ゆっくり左手の人差指を差し出す。白い綺麗な指先にピンク色の艶やかな爪が映える。まるで手のモデルのような美しい指先だ。
あたしの手って、こんなに綺麗だっけ?
指先も無事だった。次に手の平全体を日の光に曝す。大丈夫だ。太陽の光が白い肌に暖かい。
梓は、もう一度、太陽光の下に立ってみた。日の光がいつもよりまぶしい気がしたが、身体はどこも無事だった。それより、この肌と髪はどうしたのだろう。気になって姿見を覗き込む。
ぞっとした。何も映っていない。いえ、違う。うっすらと梓らしき影は映っているのだけど、うしろが透けてしまっている。それを見て祐天寺さんが言った。
「鏡に映れと意識を集中するんだ」
「意識を集中?」
「うん、自分は鏡に映ると念じるんだ」
やってみた。
「あたしは鏡に映る。映るはず」
声に出して言ってみる。
鏡像がだんだんはっきりしてくる。
鏡の中には、見たこともない少女が映っていた。
銀髪に近いプラチナブロンドの髪を持つ色白の少女だった。
薄い青色の瞳、眉や睫も金色だ。肌の色や髪の色は、玉手箱を開けてしまった浦島太郎みたいだけど、姿形は美少女と言っていいだろう。高く細い鼻梁、ピンクの薄い唇。形のよい頤。こころなしか、耳の先がとがっている気がする。
「これがあたし?」
自分の鼻に指先を当ててみる。
頬をなでてみる。
髪に触れてみる。
横を向いてみる。
自分がしたとおりの動きを、鏡の中の美少女がなぞる。
左の下まぶたを指で押し下げ、あかんべえをやってみた。まぶたの内側も綺麗なピンク色だ。
思いついて、今度は両方の人差し指を唇の両端に突っ込んでイイ~っとやってみる。
糸切り歯は心配したほど長くは無いようだ。ちょっと大きい八重歯くらいに見える。
「メタモルフォーゼだね」
祐天寺さんが感心したように言う。
「メタモルフォーゼって?新陳代謝のこと?」
「違うわよ、変態っていう意味よ」
頼みもしないのに、狼が意地悪な口を挟む。
「変態???」
「変身のほうがより近いだろう。君は、君を咬んだ吸血鬼から、何らかの遺伝子情報を受け取って、それで血親に近い姿に変身してしまったんだ」
祐天寺さんが優しく説明してくれたけど、梓はまたパニックになりかけていた。
この姿が自分だとは、とても思えない。
「そんな、じゃあこれって、元に戻らないの?」
「元にって?」
「元の黒い髪の毛と茶色の瞳に…」
「無理だね」
祐天寺さんの声は今までと違って、どこか冷たく聞こえた。
「髪は染めればなんとかなるだろう。瞳はカラーコンタクトかな?睫はマスカラでごまかせるかも知れないけど、その肌の色は全身そうなんだからファンデーションでも隠しようがないだろう。そもそも、その髪と肌や瞳の色は、もう君の自前のものなんだ。変化を受け入れるしかない」
「そんな、じゃあ、この格好で学校にいくの?いやだ、こんなヤンキーな髪の毛」
「まあ、もう土曜日だし、とりあえず今日は休んだほうがいいんじゃない?」
「え、だって、今日は英語の小テストがあるのに」
「小テスト?」
「そう、テストを受けて、合格点を取らないと、補習に出なきゃいけないの!」
「やれやれ、メタモルフォーゼまで経験していながら、英語の試験の心配?」
また狼が冷たいことを言う。
「だって」
「分かった、じゃあ、僕がついていってあげよう」
「祐天寺さんが?」
「うん、これでも僕は医者の端くれだ」
「はしくれなの?」
「うん、そこは、あんまり気にしなくていい」
祐天寺さんは、梓がなにか突っ込むと、そのたびにちょっと不機嫌になる。
梓はそれを覚えていた。昨晩は「いかがわしい?」と聞いてむっとされた。
今日は「はしくれ」だ。
彼の機嫌を損ねるのは良くない。ちゃんと覚えておかなくては。
いかがわしいとはしくれは言わないようにしなくちゃ。
「でも、どうやって?説明するの」
「そうだな、一緒に学校に行って、君が陥った事件と病状について、担任の先生に説明してあげるよ」
「吸血鬼に咬まれましたっていうの?」
「その事は伏せておくしかないだろうな。事故にあったと説明するのが良いと思う」
「そう、ならいいけど」
「着替えて出かける準備をしよう。おなかは空いてないよね」
「え、ええ、そうね?」
そういえば、昨日の夜から何も食べていないのに、全然おなかが空かない。
お風呂にも入っていないし、歯も磨いてないし、顔を洗ってもいないけど、不快な感じはしない。
「顔洗って歯も磨きたいけどいい?」
梓はつい習慣でそう言ってみる。
「ああ、まあ無理だと思うけど」
なぜそんな事をいうのか不思議に思いながら洗面所に向かう。
言われたとおりだった。洗面所には行けたけど、なかなか水道の蛇口をひねる事が出来なかった。水が怖いのだと気がついた。蛇口から流れ落ちる冷たい水を想像しただけで、怖気づいてしまう。梓はやっとのことでお湯の方の蛇口をひねることができた。不思議な事に暖かいお湯ならあまり怖くなかった。手早く洗顔と歯磨きを済ませたが、別に爽快感が増す訳ではなかった。これも吸血鬼化したことの影響なのだろうか?梓の肌は、暖かいお湯を綺麗に弾いてしまったのだ。これでは顔を洗う以前に汚れる事もなさそうだ。
通学
祐天寺さんは、制服に着替えた梓を連れて彼が借りている駐車場に行き、それからクルマで梓を学校まで送ってくれた。クルマは濃紺のボルボのステーションワゴンだった。これが霊柩車なのだろうか?
それから祐天寺さんは担任と保健の先生を呼び出し、例の医学博士の名刺を渡し、梓の病状を説明してくれた。それは梓が交通事故にあって当て逃げされ、その時の恐怖で髪が白くなってしまった、と言うような作り話だった。
あきれたことに、そんないい加減な話を先生たちは信じてしまった。
あんな話でも、祐天寺さんがまじめな顔で説明すると通ってしまうのだ。やっぱりイケメンは得だ。
それより、いかがわしい医学博士の端くれ、と言う肩書が効いたのかも。
梓は教師たちの甘さにあきれながら、そんな風に事態を収拾した祐天寺さんを見ていた。
ホームルームの時間に、担任の京子先生が梓の事故の話と、それで白髪になってしまった件を説明してくれた。彼女は最後に付け加えるのを忘れなかった。
「柊さんの髪が金髪のようになったのは、あくまで事故のせいです。くれぐれも皆さんは真似したりしないように」
まあ、狙って吸血鬼に咬まれて金髪になっちゃう、なんていうお馬鹿な女の子が他にいるとは思えないけど。
困ったのは休み時間のたびに、今までは話もしたことのない子たちがやってきて、かわるがわる梓の髪を触り、うらやましいといったり、自分もこんな風になりたいといったりしたことだ。
友人を含め、ひっきりなしに訪問者が来るので、梓は午前中トイレにもいけなかった。
けれど、不思議な事にそれでつらいとも感じなかった。
梓は事故のことも聞かれたけど、ひき逃げだったみたいで、何も覚えていないと繰り返すことしか出来なかった。まあ、何も覚えていないと言うのは本当の事だ。
呼び出し
本当は吸血鬼に咬まれ逃げされたらしのだけれど…
英語の小テストはなんだか変な結果に終わった。四時限目、梓は小テストが配り終わられると、急に眠気がさしてしまい、コックリコックリしながらテストの時間を過ごしてしまった。せっかく無理して出てきたのになんてことだろう。
でもテストの回答欄は、全て埋まっていた。
回答は流麗な左斜体の筆記体で書かれていた。それは梓の筆跡には見えなかった。
これも血親となった吸血鬼の影響なのだろうか?
放課後になった。今日は午前中で授業が終わりだ。やっとで、入れ替わり立ち代り梓の席にやって来ていた生徒たちも帰って行った。
梓もそろそろ帰ろうと学用品をかばんに詰めていると、今まで無視を決め込んでいた隣の席のトキトウ麻美が話しかけてきた。
麻美は身長百八十センチ近い長身を持つバスケ部のエースだ。噂では深層の令嬢だとかで、長い黒髪に切れ長な瞳をもつ美少女だ。
席が隣同士になってからは、割とよく話すようになったけど、今までは梓からの一方的な会話が多かった。
麻美は、後輩や中等部の子達が普通にあこがれてしまうタイプの女の子だった。ただし本人は背が高いのを気にしていて、牛乳を飲むのを止めたり、食事を残したりしている。そうしたら今度は胸が育たなくなったと嘆いている。贅沢な悩みだ。麻美はスタイル抜群の美人さんなのに。
麻美は自分から友達に話しかけたりはしない子なのに、今日に限っていったいどうしたのだろう?
「梓、いったいどうしちゃったの?その髪」
麻美の質問はいつも直球だ。いつも前置きも前触れもなく、いきなり本題に触れてくる。
「うん、これね、あたしもよくわかんないのよ。先生がいうには、事故によるストレスのせいらしいんだけど」
「でも、その髪って、ストレスで白くなったようには見えないよ。きれいなプラチナブロンドじゃないか」
麻美はこっちを見て、と言って、梓のあごに手を添えて瞳の奥を覗き込む様にする。
普段なら、そんな風にされたらうっとりしてしまうような美人顔が真剣な表情で梓の顔を見つめてくる。だめだ、やっぱりドキドキする。
「瞳の色も薄くなっている。不思議な色だね。水色の瞳の下に赤い別の瞳が隠れているみたいだ」
「そうかな?」
梓はドキドキしながら応えた。
「それより、さっきはびっくりしたよ」
「え?」
「英語の小テスト!梓ったら、テスト受けながらグウグウ寝ちゃったのに、手だけはちゃんと動いて答えを書いているんだもの」
「ええ??」
「あれ?覚えてないの?」
「うん、何も覚えてない」
梓はテストについては何も記憶がない。確かに回答欄はすべて埋まっていた。なぜそんな事が起こったのだろう?
やっぱり吸血鬼に咬まれたせい?
その時、教室の入り口から別のクラスメートが呼ぶ声がした。クラス委員の上条擒子だ。
「あーずさあ、まだいる?あ、いたいた。吉崎先が生呼んでいたよ~」
「吉崎先生が?」
「うん、梓を呼んできてくれって」
「わかった、すぐ行く。麻美じゃあね」
梓は麻美に別れの挨拶をして、ドキドキしながら職員室に向かった。こんなヤンキーみたいな髪で、しかも英語のテスト時間中に居眠りなんて。呼び出されて当然だと思った。
廊下ですれ違う他のクラスの子たちの視線が痛い。きっとみんな梓が不良になっちゃったと思っているに違いない。
「ねえ?みた、今の子、チビ猫みたいだったね」
「本当、可愛かったねえ」
上級生、確か漫研の人たちがそんな風に小声で言っているのが聞こえた。
チビ猫?いったいなんのことだろう?
「柊まいりました」
「おう、入れ」
教員室の入り口で自己申告したら、また注目されてしまった。
「柊か?」
「いきなりどうした?」
「ちょっと見ない間に…」
すっかりヤンキーになったって言いたいんでしょう?でもこれは地毛なんです。
脱色したわけでも、染めた訳でもないんです。
口の中に何か言われた時の言い訳を用意しながら、事務机に居並ぶ教師の間を足早に進む。普段から職員室に入るだけでもプレッシャーなのに、この金髪のせいで、もうどうしたらよいかわからない。梓はそのくらい緊張しまくっている。
「吉崎先生、柊、まいりました」
学校の決まりどおり、軽く膝を折って先生に挨拶する。吉崎先生は担任の京子先生から説明を受けているらしく、金髪についてはとやかく言わなかった。でも梓はこの先生が苦手だった。
「ああ、柊か?ちょっと一緒に来てくれ」
やっぱりお説教か?吉崎先生厳しいからなあ。
先生は梓を生徒指導室に連れていくと、レポート用紙を差し出した。
「そこに自分の名前を英語で書いて見てくれ」
「はい?」
「ああ、筆記用具持ってこなかったのか?」
吉崎先生は、胸のポケットから金色のボールペンを出して貸してくれた。
梓は怪訝に思いながら、自分の名前を英語で書いた。
さっき、寝ながら梓が書いたのと同じ、流麗な左斜体の筆致で自分の名前がつづられる。
あたしって、こんな変な英語の書き方するんだっけ?
違う、きっとこれも血親になったという吸血鬼の影響にちがいない。
これは困った。どうしてこんな書き方をするんだ?と言われても自分では答えられない。
事故で頭を打ったせいです、とでも答えるしかないか。
吉崎先生は、署名の事は気にしなかった。
「これから私が読み上げる英文を書き取ってみてくれ」
「はい」
「アルフレッド・テニスンの詩だ」
「テニスンですか?」
「うむ」
先生は英語の詩らしきものの朗読を始めた。
生徒指導室に吉崎先生の声が朗々と響く。結構いい声だ。
それはイノック・アーデンと言う船乗りの話だった。イノックが妻子のために一山当てようと航海に出たものの、遭難して孤島に流され、十数年の歳月を経てようやく故郷に帰ってきたら、妻はイノックの親友で幼なじみのフィリップと再婚して幸せそうに暮らしていましたとさ。と言うような、悲劇だか喜劇だか迷うような内容の詩だった。
意味は分かるし、筆記もできるけど、梓は今まで一度も聞いたことの無い詩だった。
なのに、詩を書き取っているうちに、イノックがあわれで、涙ぐんでしまった。
妻子を想って、孤島で独り、十数年も過ごすなんて、まるで浦島太郎みたいだ。
「できたか?」
「はい、自信はありませんが」
「どうした?泣いているのか」
「いえ、なんでもありません」
梓はレポート用紙を先生に渡し、ハンカチを出して目尻の涙をぬぐう。
先生は怪訝な表情で、梓の涙を見ていたが、すぐにレポート用紙に視線を移した。
レポート用紙には、自動書記のように英文の詩がちゃんと韻を踏んで書かれていた。
例によって流麗な左斜体の筆記体だ。
「これでよろしいでしょうか?」
「ううむ、実は君の英語の小テスト満点だったんだ。申し訳ないが、今まで英語の成績があまり振るわなかったので、カンニングではないかと疑ってしまったのだ。すまなかった。これは、テニスンのイノック・アーデンと言う詩だ。これから副読本に使う予定だったのだが、この詩を、韻を踏んで聞き書きできるなら、君の英語の実力は証明されたわけだ」
「あの、もう、よろしいですか?」
「ああ、行ってよろしい」
「失礼します」
梓は立ち上がり、また軽く膝を折ってあいさつした。
複雑な思いで生徒指導室を出た。
すこし顔が引きつっている気がする。
テニスンの詩を聞いて涙を流したのは梓ではない気がした。
英文筆記もそうだ。たぶん英文詩に感動したのも、梓を咬んだ吸血鬼の影響なのだろう。
麻美
教室に戻ると、麻美が待っていてくれた。
「もう用は済んだのかい?」
意外に思った。彼女はクラスでも一目置かれている存在で、こんな風に自分から誰かを待っていたり、親切に話しかけたりするタイプではないと思っていたからだ。
麻美は宝塚の男役でも務まりそうな長身容姿端麗な美形で、普段はクールビューティと揶揄されるほど冷淡に見える女の子なのだ。
「わざわざ待っていてくれたの?」
「うん、なんか柊が辛そうだったから」
「ありがとう」
また涙ぐんでしまった。この子は、ふだんは素っ気ない素振りだけど本当は優しい子だったのだ。思わず何もかも話してしまいたくなる。でも思いとどまった。まだ梓のメタモルフォーゼは止まっていないのかも知れない。もし梓が本当の吸血鬼になってしまったら、梓は優しくしてくれたこの麻美だって襲うのかも知れない。
「じゃあ、帰ろうか?梓の家ってボクと同じ松涛だろう?送っていくよ。そう言えば梓って今一人暮らしだよね?何なら家に遊びにおいで。ゲームとかはないけど、お茶と食事くらいは出せるから」
「麻美、ありがとう、うれしい」
梓は麻美の好意に涙が止まらない。今までたいして話したこともないのに。そういえば、麻美が自分のことをボクと呼ぶのさえ初めて聞いた気がする。
「なんだよ、泣くなよ。これじゃボクが梓を虐めているみたいじゃないか」
そう言って麻美はハンカチを差し出してくれた。
学生かばんを提げ、二人並んで校門を出る。そう言えば麻美の家も松涛にあるというのは初めて聞いた気がする。
梓と麻美が通う女子高は六本木通りから、道一本中に入ったところにある。そこから麻美の家まで一キロくらい歩くのだという。梓の家も同じくらいの距離だ。
「バスだと駅前を通るからかえって不便なんだ、クルマで迎えに来てもらおうか?」
「ううん、一キロくらいなら歩いていかない?あたしもいつも自宅から歩いて通っているし」
二人は大通りを避け、裏道から明治通りにでて、歩道橋を超え、東急ホテルの敷地からまた歩道橋で青山通りを越えた。
麻美の家は井の頭線の神泉駅の少し先にあった。あきれるほど広い敷地と大きな建物は、家というより、お屋敷と呼んだほうがぴったりする感じだ。それは学校から歩いて行ける渋谷の街中にあること自体、違和感を覚えるような大きな家だった。平たい石を幾重にも積み重ねた高い塀が延々と続き、その一角に鉄製の複雑な文様のある門があった。麻美は重そうな門扉を軽々と押し開け、玉砂利の敷かれた邸内の道を軽い足取りで歩いていく。
梓は麻美を追って小走りに進みながら、なんだか毎年お正月にお参りに行っていた明治神宮の境内を歩いているみたいだと思った。道の両側には鬱蒼たる木々が茂り、あちこちから小鳥の囀りが聞こえてくる。