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柊梓と言う美少女~いかがわしい医学博士~吸血鬼の秘密

 目覚め

 柊梓ひいらぎあずさは、誰かに顔を舐められる夢を見ていた。

 湿った舌で顔を舐められる感触。

 なめられることそのものには不快感はない。

 普段の生活でも犬になめられることがよくあったから。

 でも、今舐めているのは誰?

 そんな風に思っているうちに目が覚めた。

 目を開いたはずなのに真っ暗だった。

 梓は夢の中で目を覚ました夢を見ているのだと思った。

 やがて眼が慣れて来て、回りが徐々に見通せるようになった。

 それで、やっぱり眼が覚めていたのだと思い直した。

 正面に見えているのは暗闇ではなく星の少ない夜空だった。

 明るい三つの星が高く見える。

 オリオンが高く見えるから、これは冬の夜空だろう。

 でもなぜ寝たまま夜空を見上げているのだろう?

 オリオン座の上の方に綺麗なピンク色のエンゼルフィッシュ型の影が見えた。

 あの星座はあんな風に見えるんだっけ?

 星空や星々も妙に鮮やかに見える気がする。

 夜空を見上げていたのは、地面にあおむけに寝ているせいだった。

 ここはどこだろう?

 星空が見えるから家の外なのは間違いない。

 頭の後ろと背中にあたるごつごつした感触。

 自分が寝ている場所をそっと手の平で探ってみた。

 これは道路。舗装された車道。アスファルトの路面の感触。

 触れる物のイメージが、その名前とともに次々と頭をよぎっていく。

 自分はこんな風になんでも文章にして考えるような癖があったろうか?

 前はそんな事無かった気がする…


「ねえ、君、大丈夫?」

 足元の方から声がした。

 梓は声がしたほうに顔を向ける。

 眩しい街灯をバックに、梓を見下ろしている人影から声が聞こえた気がした。

「イタっ!」

 声がした方に顔を向けたら、首筋に鈍い痛みが走った。

 でもなんだか、痛い所に触れるのが怖い。

 だから痛いのを我慢して触らない。

 声は落ち着いた男の人の声のようだ。

 たぶん梓の知らないヒト。

 さっき舐めていたのはこのヒト?

 でもそれじゃ、キスされて目覚めた事になっちゃう。

 白雪姫?眠れる森の美女?

 王子様のキスで目覚めるヒロインの名前が頭に浮かんで消えた。

 でも梓はアスファルトの道路に直に寝ころんでいる。

 こんなところに寝ているお姫様なんていない。

 あるいは倒れていた?

 いずれにしても、こんなところに寝転がっていたらクルマに轢かれてしまう。

 そう思いついて、梓はゆっくりと肘をつき上半身を起こした。

 もしかして、自分は交通事故に遭ったのだろうか?

 クルマに轢かれたせいで、ここに転がっていた?

 半身を起してみると、鈍く黒く光る道が、緩やかにカーブしながら川沿いに続いていた。

 桜並木に見え隠れして白い街燈が連なって見える。

 普段見る事のない低い視点からの街の夜景が新鮮だった。

 街燈は、まるで真珠の首飾りの様に見えた。

 でも道路の灯りって、こんなに明るかったっけ?

 こんなに綺麗だっけ?

 そうだマイロが普段見ていた風景って、たぶんこんな感じ。

 マイロ、なかなか言うことを聞かない母の可愛いジャックラッセルテリア。

 彼は今、どこでどうしているだろう。

 マイロは母と一緒に行ってしまった。

 見慣れない夜景を眺めながら、さまざまな考えが心のなかに浮かんでは消えた。

 試験前に勉強しているうちに、他の事に気を取られて勉強が進まなくなってしまった時みたい。でもそれは真実ではない、本当は勉強するのが嫌だから、他の事に没頭して、目の前の大切な事から目を逸らそうとしているだけ。

 そんな風に心の内に冷たく指摘する声があった。

 確かにそうかも…


「無理しない方がいいですよ」

 さっきと同じ声で考えが中断された。

 なぜそんな事を言うの?

 身体はどこも痛くないのに。

 そう言えば、さっき感じた首筋の痛みも、今はもう感じない。

 梓は、ちょっと転んで頭を打っただけ、なのだろうか?

 記憶がはっきりしない、自分はなぜこんな所に寝ていたのだろう?

 やっぱり交通事故に遭ったのだろうか?

 知らないうちにクルマに轢かれた?

 この頃は音のしない電気自動車も走っている。

 そう言うのには気をつけなくちゃって思っていたのに。


 …困った、何も思い出せない。

 なぜ何も思い出せないのだろう?

 記憶が跳んでいる…

 学校から帰宅して、その後梓は何をしただろう?

 帰宅後のことが何も思い出せない!

 なぜ、こんなところに来たのだろう?

 誰かが自分のことを呼んだきがする。

 でも誰に呼ばれたのか思い出せない。

 記憶がはっきりしない事に気付いたとたん、暗い影の様にパニックが押し寄せて来た。

 梓は温かみの残るアスファルトの上で、思わず自分の身体を抱きしめるようにした。


「交通事故にでもあったのかな?」

 声の主は、梓に向かってではなく、隣の背の低い影に話しかけている。

 あの背の低い影はしゃがみ込んだ人間の影だろうか?

 影は問いかけには応えず、ハアハアハアと言うあえぎ声だけが聞こえる。

 ハアハアは興奮した男の人の声?

 興奮した男の人がいる?

 男の人は強姦魔?

 梓は強姦魔に襲われているところ?

 実は襲われて、なにもかも終わった後?

 嫌な想像が頭を掠めた。

 思わずスカートの裾に手を伸ばしてしまった。

 細かいプリーツが可愛いと思って買ったミニスカートだ。

 パンツは…穿いて、いた。

 でも、なんだか気持ち良かったような記憶もある。

 初めての時は痛いはずでは…

 少し濡れている気もするけど、アソコにも特に違和感はない。

 処女を失ったら、しばらくは痛みが続く、そう初体験した友達が言っていた。

 鈍い疼痛が続くという。

 アソコを無理やり押し広げられているような感じ、ずっと何かが挟まっているような違和感があるらしい。

 梓にはそう言う違和感も痛みもない。

 だから梓は、たぶんだけれど、まだなにもされていない?

 でもハアハアハアと言う声は止まらない。これは梓のあえぎ声?

 違う!これは犬のあえぎ声だ。

 いろんな考えが交錯する中、左手で街灯の明かりを遮って、やっと相手の顔を見ることが出来た。

 耳元で熱いあえぎ声を出していたのは、欲情した男の人、ではなくて、舌を垂らした大きな犬だった。三角の大きな耳が二つ、何かを聞きとろうとするようにこちらに向いている。

 でもなんて綺麗な犬だろう。

 梓は犬が好きだった。

 手を伸ばして犬に触れようとした。

 でもスイっと身をかわされてしまう。

 ウルフグレイのふさふさした毛並みの犬だ。

 シェパード?違う。鼻面のまわりから目の上にかけて白っぽい。

 ドイツシェパードなら鼻面は黒いはず。それともハスキー?でもブルーアイじゃない。アラスカンマラミュート?それにしてはスマートに見える。

「ヒール」

 言われて犬は後ろに下がり、声の主の脚側に行儀良く座りこんだ。

 きちんとしつけられた犬に見える。

 でも影になった顔から、こちらを伺う犬の目は金色で時折綺麗なエメラルドグリーンに輝く。

 あの眼は見たことがある。

 どこかで見たことがある。

 でもどこで見たのだろう?


「この子が君をみつけたんだ」

「僕は、暗がりだったので何かが落ちているのだと、あ、失礼!」

「てっきり古着が捨ててあるんだと」

「ごめん!ああ、いや、それより、どう?立てそう?」

 男の人の声は謝ってばかりいる。

 要するに、この男の人は、自分の犬が路上で見つけた、正体不明の女の子に勇気を奮って声を掛けてくれたわけだ。

 その女の子は、こともあろうにミニスカート姿で車道に寝転がっていた。

 そんな怪しい女の子に声をかけるなんて、案外いいヒトなのかも。

 でもせめて、抱き起こすくらいしてくれればいいのに…

 まあ、しかたないか。

 梓だったら夜道で知らない人が倒れていたら、自殺だと思っていきなり一一○番通報してしまうだろう。ああ、そうか、こういう場合は一一九番なのかな?

 こちらに伸ばされたまま、手持ちぶさたにみえる男の人の手が少し可哀想に思えた。

 梓は右手をのばしその手に捉まった。

 思ったより力強い手が、梓を軽々と立たせてくれた。

 一瞬立ちくらみがして男の人の胸にすがりついてしまう。

 これは?貧血の症状?

「あぶない」

 男の人は背中に手を回し、倒れそうになった梓を抱き留めてくれた。

 梓は男の人の胸と腕にすがりつくようにして転ぶのを免れた。

 分厚い胸板、筋肉の束が感じられる太い二の腕、直に触れた逞しい男の人の肉体に鼓動が高まってしまう。

「ありがろう、うっ!」

 お礼を言おうとして噛んでしまった。文字通り糸切り歯で下くちびるを噛んじゃった。

 イタい。 

 でも塩辛い血がちょっとおいしい。

 舌を伸ばして血がにじむ唇を舐める。

 血は、甘く、塩辛かった。

 血は、海と鉄の味がした。

 自分でもそんな詩的な比喩を思いついたことを不思議に思った。

 あたしはなんでこんな格好付けた考え方をしているのだろう?


 いかがわしい医学博士

「本当に大丈夫?」

 本心から心配そうな男の人の声が頭上から聞こえた。

 深呼吸してやっと男の人の顔を見上げる余裕が出来た。

 男の人は梓より頭一つ背が高い。年齢は良く分からない。二十歳から三十歳の間くらい?

 梓は同年代の男子以外、男の人の年齢を言い当てるのが下手だ。

 洒落たフレームのメガネ越しに彫りの深い整った顔立ちなのが分かった。

 短く刈り込まれたあごひげ、ざっくりしたツイードのジャケットにチノパン、典型的な犬のお散歩ルックと言えば言える格好。

 優しげな顔立ち。小首を傾げて梓を見る目も優しい。

 でも単なる優男ではない。

 首が顔の輪郭より太く見える。

 さっき触れた胸や腕の筋肉も凄かった。

 スポーツ選手、それとも格闘技の選手だろうか?

 いずれにしても、間近でみたら鼓動が高まってしまうような美形だ。

 今もドキドキはしているけど、それは自分の記憶が跳んでしまったせいだろうか。

 いえ、やっぱり違う。梓は助けてくれた男の人にドキドキしている。

 梓の中に、その男の人の何かを求めるような感覚があった。

 あたしは、この人の何が欲しいのだろう?

 そう考えたら、なんだかエッチな気持ちになってしまった。


「そこにベンチがあるから座らせた方が良いわ」

 別の落ち着いた声がそう言った。

 え?今話したのはだれ?

 別の声、ハスキーな女の人の声が聞こえた気がして回りを見回した。

 でも頭を動かしたら、またふらついてしまった。

 これは立ちくらみ?やっぱり貧血になったみたいだ。

 事故の後遺症だろうか?

 男の人はふらつく梓の肩を抑え、軽々と支えてくれた。

「ルイ!」

 梓を支える男の人の声に叱責の調子が混じった。

 もう一人誰かいるのかな?

 その人の名前がルイなのかな?

 変な名前、外国人なのかな?

 梓は、半ば強制的にベンチに座らされた。

「なによ?」

 ハスキーな感じの良い女の人の声が応じる。

「ルイ、いきなり話しかけたりしたら驚くじゃないか」

「そんな事言っている場合じゃないと思うけど?」

 梓には大きな犬が小首を傾げてそう言ったように見えた!

「い、今しゃべったの、その犬?」

 今度は噛まなかった。

 犬がしゃべった事に驚いて声が出てしまった。

 こんな風に梓の話し方はいつもまぬけだ。

 なぜ、先に助けてもらったお礼を言わないの?

 だって。

 自戒を込めて自問自答しても後の祭りだ。

「あう、これには、話せば長いわけがあって」

 良かった、男の人の台詞もかなりまぬけだ。

 少し安心する。

「とりあえず君は黙っていて」

 男の人が犬にそう言った。

「大丈夫?事態を収拾する自信ある?」

 経験豊富な女性の様なアルトの声音で大きな犬は話す。

「なんとかなる、いや、なんとかする」

 男の人がこちらに向き直った。

「君、名前は?」

「ひ、ひいらぎ、柊あずさ、柊梓です」

 梓の姓は両親が離婚したせいで、ついこの間変わったばかりだ。

 だから、未だにスムーズに名乗れない時がある。

 梓はハンサムな青年に間近で見つめられ、戸惑いながら答えた。

 今は、姓が変わったことより、この美形のせいでテンパっている気がする。

「凄い名前!」

 犬が言う。

 なぜ凄い名前?

「君は黙っていてって言っただろう」

 男の人は振り返り、犬と無言でにらみ合う。犬が折れたように目をそらす。

 梓は犬が肩をすくめるのを初めて見た気がした。

「君の名前は梓というんだね。誰がつけたの?」

「梓と付けてくれたのは、御祖父さんだと聞いています」

「ふうん。その御祖父さんてどんな人?」

「良くは知りません。とても偉いお坊さんで、千日回峰行と言うのを達成した人だときかされました」

「千日回峰行?比叡山延暦寺の?それは凄いな。ああ、だから君を守るために梓と付けてくれたんだね」

「あたしを守るため?」

 梓はどう言う意味だか分からない。

「自己紹介がまだだったね。僕は祐天寺光ゆうてんじひかる

 男性が名乗ったのはへんな名前だった。

 あ、でも東横線にそんな駅があったかも。

 変わった駅名なので覚えていた。

 梓は男の人の自己紹介を無視して思わず聞いてしまった。

「学大のとなりの駅だっけ?ゆうてんじって…、ねえ、その犬は?」

「ああ、この子は狼だ、犬じゃない。名前はルイ」

 自分の名前についてはスルーされてしまった。もしかして変わった地名姓にコンプレックスがあるのかも。それより狼って、こんなところにいて大丈夫なのかしら?

「大丈夫、この子?」

 逆に狼に心配されてしまった。でも、やっぱり狼だった。

 あの目はやっぱり見たことがある。あの黄色い釣り上がった瞳は狼に間違いない。でもどこで見たのだろう?なぜあれが狼だと分かったのだろう?

 動物園で見た狼はみんな暑そうして寝転がっていた。

 暗闇にきらめく狼の瞳なんて見た経験はないはず?

「ルイはちょっと黙っていてくれ、たのむから」

「はいはい」

 狼は皮肉たっぷりに二度返事をして、ニヤニヤ笑いを浮かべてその場に伏せた。

「はいは、一度でいいって、いつも言っているだろ」

 狼のニヤニヤ笑いも初めて見た気がする。

「は~い、もう細かいわね」

 狼は顔を背けて舌を出して見せた。その人間くさい仕草に思わず吹き出しそうになる。

「柊さんは、なぜこんな場所に倒れていたの?」

 核心をついた質問。でも答えられない。ごまかすために微笑みを浮かべ、首を傾げる。

 梓は思った。今のあたし、きっと間抜けな顔をしている。

 そう思ったけど、他にどうしようもない。

 イタっ!首をかしげたとたん、また首筋に疼痛が走った。

「覚えてないと思うわよ、その子、あいつらの匂いがぷんぷんするもの」

「あいつらの匂いって?」

「匂いは匂いよ、なんていうのカビ臭いっていうか」

 梓は聞きながら、痛む首筋に手を当てた。そしてそのまま動けなくなった。

「なに、これ?」

 手に着いたぬるぬるする液体を街灯の灯りにかざしてみた。液体は赤かった。

 これは血だ。

 またフッと意識が遠のく。

 そのままベンチの端から転げ落ちそうになった。

 祐天寺さんは素早く梓の肩を抱いて支えてくれた。

「しっかりして!」

「あううう」

「これ使って」

 タオル地のハンカチを差し出してくれた。

 それを受け取り痛む首筋に当てる。でも、もう血は乾き始めていた。

 梓は首筋に小さな凹みが二つあるのに気がついた。

 これは咬まれた傷?

「何かに咬まれたの?あたし」

 そう言って祐天寺さんの向こうに伏せる狼を見た。

 狼が心外だと言うように首を振った。

「違うわよ、アタシじゃない」

 声だけ聞いていると、ハスキーな感じのいい声だけど、発音が舌足らずな気がする。

 いえ、舌が長すぎるのかも。

 まあ狼だから仕方ないか。パニックになりかけているのに、そんな風に冷静に考える自分もいるのが不思議だった。

「なにに咬まれたか覚えていないの?」

 祐天寺さんに聞かれたけど、何も思い出せない。

「ううん」

「ァンパイアだわ、きっと」

 狼が聞き取りにくい声でつぶやく。

「アンパイア?」

「違うって、野球の審判は、夜道で女子高生を襲ったりしないって」

 狼が嘯く。

「ヴ、ヴァンパイア、吸血鬼って奴らよ」

 狼は発音しにくそうにそう言った。

「きゅ、きゅ、きゅ、きゅうけつき?吸血鬼ですって?イタ!」

 また噛んでしまった。

 塩辛く、そして甘い血が、下唇から滲むのを思わず舐めてしまう。やっぱりちょっとおいしい。血ってこんなにおいしかったっけ?

 あ、もしかして吸血鬼に咬まれたせいで血が美味しいのだろうか?

「大丈夫?落ち着いて」

 祐天寺さんが、また優しく肩を抱いてくれた。

「ええと、その、あたしはどうやって落ち着いたらいいのでしょう?」

 梓はかっこいいイケメンに肩を抱かれ、むしろそっちのほうで舞い上がっていた。

「案外度胸の据わった子ね」

 狼がウインクしてくる。

「そういうの、嫌いじゃないわ」

 梓は狼を無視して、横に座る祐天寺さんに助けを求めた。

「あたしはどうなっちゃうの?」

 吸血鬼に咬まれた上に、かなりのイケメンな祐天寺さんに抱かれ、その上しゃべる狼との会話では神経が持たない。とりあえず、一番まともそうに見える祐天寺さんにすがるしかない。

 でも、しゃべる狼を連れている時点で、このヒトもまともとはいえないかも。

「君が吸血鬼に咬まれたと仮定して…」

「仮定じゃないわ、事実よ、アウフ」

 狼があくび混じりにそう言った。

「うん、吸血鬼に咬まれたのが事実として」

「事実なの?咬まれたの?吸血鬼に?本当に?」

 梓の声はかなり上ずっている。

 その割に冷静に状況を分析している自分もいる事に違和感を覚えた。

 そんなに慌てなくてもいいのに…

 なんだか、自分の考えが二つに別れてしまったみたい。

「その傷からするとたぶんね」

 でも梓の表層意識は会話についていけなくなっている。

 なんなの?このふたり?

 祐天寺さんは淡々と続ける。

「吸血鬼が人間を咬むのは食事のためと、繁殖のためと、二つ目的がある」

「食事は分かるけど、繁殖ってどういう事?」

 梓はなんとか状況を把握したくて聞いて見た。

「繁殖と言う概念は正しくないかな?自分の眷属を増やすために処女や童貞に咬み着き、自分の血を与えるんだ」

「吸血鬼って血を吸うだけじゃないの?自分の血を与えるって輸血もするの?それより、しょ処女って!」

「血を吸うのは食事のためだね。少しずつ何回かに分けて血を吸う事もあるけど。血を大量に吸われたら、処女や童貞でない限り、その人間はやがて食人鬼グールや生ける屍ゾンビになってしまう。君はグールにもゾンビにも変異していないから、たぶん処女なんだろうって、ああ、ごめん!」

 祐天寺さんは、耳まで赤くなりまた謝った。

 勝手に人の事を処女呼ばわりしておいて、いまさら謝られても困るけど。

 まあ処女なのは確かだけど…ええっ!でも?

 梓は気になっていた事を訊ねる。

「ちょっと待って。吸血鬼に血を吸われた人間も吸血鬼になってしまうって聞いた事があるわ」

 だからさっき血が美味しいなんて思ったんだ!

 大変じゃない!それって。

「うん、そういう事もある。血を与えられた者が眷属になるってことだね」

「うそ、それじゃ、あたしも吸血鬼になっちゃうの?」

「それは明日の朝にならないと分からない」

「なぜ?明日の朝?」

 梓は無意識のうちにベンチから立ち上がった。

 もう痛みも何も感じない。自分はどうなってしまうのだろう?

 緊張と直面している問題の大きさが梓を活性化させている気がする。

 身体の奥から、何か大きな力が湧き上がってくる。

 その高揚感と同時にまたパニックが押し寄せてきた。

「吸血鬼になっていれば、明日の朝、太陽の光を浴びると燃え上がって死んでしまうし、単に食事として少し血を吸われただけなら、次に血を吸われるまでは無事なはずだ」

 祐天寺さんはベンチに腰掛けたまま、少し前かがみの姿勢で、落ち着きはらってそんな風に説明した。

「待ってよ、太陽の光を浴びると死んじゃうって、そんなの嫌!助けてよ」

「うん」

 軽く返事を返されて、尻餅をつく様にまたベンチに座ってしまった。

 どうも、この祐天寺さんは、落ち着き過ぎな気がする。

 あたしが吸血鬼に襲われたというのに。

 ちょっと待って、そもそも吸血鬼なんて、本当にいるの?

 何か騙されている気がする。

 もしかして手の込んだいたずら?ドッキリ?

 梓は思わず周囲を見回す。でも祐天寺さんと狼以外他には誰もいない。

 少なくともいない様に見える。

 どっかで隠しカメラが撮っているのかしら?

 それより、祐天寺さん自身は大丈夫なの?

 思わず、となりに座った美形を見つめてしまった。

 うう、やっぱりイケメンだわ。でも…

 彼も吸血鬼の仲間なんじゃないの?

 こんな口を聞く狼を連れて歩いている怪しい人を信じていいの?


「帰る」

「え?」

 梓は急に怖くなってしまった。一刻も早くこの場から立ち去りたいと思った。

 だから衝動的に立ち上がり、そのまま走って逃げだそうとした。

 だが勢いよく一歩踏み出しただけで道路脇のベンチからジャンプした様になった。

 そのまま道路の反対側のコンクリート塀に激突してしまった。

「あ、い、イタタタタ!」

 梓の頭突きを受けたコンクリート塀はあっけなく崩れ去り、家の中でテレビを見ていた夫婦者と目が合ってしまった。

 なんなのこれ?ありえない!やっぱりドッキリ?

 梓は驚きのあまり口もきけない夫婦者に愛想笑いをしてごまかし、振り向きざまに道路を走って逃げ出した。

 飛ぶように走れた!まるで幅跳びを繰り返しながら進んでいるようだった。

 凄い。でもいったいなぜこんな事が出来るのだろう?

 あ、でも待って、やっぱり困る。

 梓はあわてて止まろうとした。でも急には止まれない、ズルリと滑る感触、靴の裏が溶けて滑っている!摩擦が足りない!

 梓はスリップした車みたいに、左右に振れながら、それでもバランスを取って、やっと止まることができた。

 振り返ると、靴底が溶けた跡が道路に白く残っていた。まるで急ブレーキに失敗した車だ。

 靴底のゴムが溶けて嫌な匂いを漂わせている。

「待って、何もしないから、まって」

 祐天寺さんが、こちらに駆けてくる。その横を狼が軽々と追い越し、そのまま梓の後に回る。

 挟み撃ちにされる!

 一瞬また恐怖からパニックになりかけた。

 だけど、祐天寺さんの言葉で走り出すのを我慢できた。

「大丈夫、何もしないから、落ち着いて」

 祐天寺さんは、ひざに手をついて、息を切らして、顔を上げて梓を見た。

 こんな時だけど、息を切らしフォーマルカットの前髪が額に垂れかかった彼の姿は、ゾクっとするほど色っぽかった。

 いいえ違った。

 色っぽく見えたのではない。

 美味しそう?に見えた気がしたのだ。

 確かに彼の走る速度では梓に何かするのは無理だ。

 でも狼の方はわからない。さっきの軽々としたあの走り。

 今脅威になるとしたら狼のほうだろう。

 自分はどうすればいいのだろう?

 梓にはそれが分からない。


「あたしは…」

 言葉が続かない。

 ちょっと考えて聞いてみた。

「どうなるの?どうすればいいの?」

 言葉に出して言って見る。

「とりあえず、僕の連絡先を教えておく」

 彼はゆっくりと近づいてきた。梓は無意識のうちに後退りする。

「僕は君の敵じゃない、君を助けたいと思っている」

 手が届く距離まで近づいて、なにか白い四角いものを差し出してきた。

 こわごわと手を伸ばして受け取った。

 それは名刺だった。声に出して読んでみた。

「M.D.Hikaru Yutenji Psychiatrist?ごめん、これってどういう意味?」

「僕は医者だ、一応、精神科医として開業している」

「お医者さんだったの?」

「そう、ちょっといかがわしいかも知れないけど、超常現象も扱っている」

「い、いかがわしい事をするの?」

 梓はちょっと引いてしまった。自分の事を、いかがわしいなんて言う医者は初めてだ。

「あたしに、何かいかがわしいことをしようと言うの?」

「いや、そっちは気にしなくてもいいから」

 祐天寺さんが慌てて言う。

「いかがわしい事はしないの?」

「しない、しない、そう言う事はしないから」

 祐天寺さんは滑稽なくらい慌ててそれを否定した。

 梓は、自分がベッドに縛り付けられ、その横で白衣を着た祐天寺さんが高笑いしているシーンを思い浮かべかけていた。そう言う意味では無かったらしい。

「じゃあ超常現象って?」

「SFに出てくるようなこと、怪奇小説にでてくるみたいな不思議なこと」

「SFって少し不思議なこと?」

「あう、ちょっと違う。SFはサイエンス・フィクションの頭文字だ。だけど、そう、そうだ、君みたいなのが僕の研究対象だ」

 祐天寺さんは噛んで含めるように説明を続けた。

 研究対象と言われ、また白衣の祐天寺さんが脳裏をかすめた。

「あたしは、どうすればいいの?」

「とりあえず明日の朝が問題だ」

「あすの朝?」

「そう朝、もし吸血鬼になっていれば、君の体は太陽光の紫外線に耐えられない」

「耐えられないと、どうなるの?」

「さっきも言ったけど、太陽光に触れたとたん、触れたところから燃え上がる」

「ひええ!そんなあ」

「実際には急激な日焼けというか酸化が起こって崩れ始めるのだけど、もし君が吸血鬼化していたら、絶対に日光の下に全身を曝してはならない」

「え、全身でなければ大丈夫なの」

「うん、一応ね」

「一応て…」

「身体の一部なら火傷するだけで済むと思う」

「やけど…でも嫌だな」

「大丈夫、吸血鬼の回復力は高いから、火傷程度ならすぐに回復するはずだ」


 それから祐天寺さんは、梓が吸血鬼になっていた場合、何をどうしたら良いかを懇切丁寧に教えてくれた。

「朝になっても、いきなり雨戸を開けないこと」

「大丈夫暗闇でも、慣れれば見えるはずだ」

「いきなり太陽光の下に出ないこと」

「指先でも火傷がいやなら、髪を一筋日光に晒して見ればいい。髪がいきなり燃え上がったら、すぐに火を消して、絶対に外にでてはいけない」

「僕に連絡して、棺と霊柩車で迎えに行く」

「れ、霊柩車?棺って棺桶のこと?」

「そう霊柩車なら棺を載せて走ってもだれも疑わないだろう?」

 だろうって言われても、霊柩車で運ばれるのはやっぱり嫌だ。

「分かったわ。でもねえ、今晩、祐天寺さんのお家に泊めてもらうのはだめ?」

「ダメ」

 狼がすかさず口を挟む。

「どうしてよ」

「アンタが友好的な奴かどうか、まだ分からないから」

「どういう意味」

「祐天寺はエクソシストで、ゴーストバスターで、ヴァンパイア・ハンターだからよ」

「え?」

「悪魔払いと、除霊と吸血鬼狩りもやっているという事」

「吸血鬼狩りって…あたしが吸血鬼だったらやっつけるってこと?」

「そう」

 狼の目が金色から緑色に光った。

「ちょっと待って、誤解しないでくれ」

 祐天寺さんが口を挟む。

「君が吸血鬼化したとしても、僕はいきなり君を殺すようなことはしない」

「殺す?今ころすって言った!」

「うんうん、ごめん、言い方が悪かったね」

「言い方って」

「いいかい?人間が吸血鬼に咬まれた後どうなるかは、精神力が問題になるんだ」

「精神力?」

「そう精神力」

 祐天寺さんは、また噛んで含めるように説明を再開した。

「咬まれた人間側の意思が弱いと、簡単に吸血鬼の眷属になってしまう」

「あたし精神力なんて強くない」

 真っ黒な波のように、またパニックが押し寄せてくる。吸血鬼に咬まれた自分は、これからいったいどうなってしまうのだろう?それを考えたら、いてもたってもいられない気持ちになる。

「そんなことはない。現に君は、吸血鬼に咬まれたと言う事実を知っても、こうして冷静に考え、会話を続けているだろう?」

「そうなの?」

「そう、もし本当に精神力の弱い人間なら、目が覚めた時は血親を求めてさまよい始めるはずだ」

「ちおや?」

「君に吸血鬼の血を与えた主人となる吸血鬼の事だ」

「そんな、誰に咬まれたかも覚えてないのに」

「でも君は、自分の意思を保ち続けているし、パニックにも陥っていない」

「嘘、今もパニックになりそう」

 梓は思わず自分で自分の身体を抱き締めた。

 出来るなら、祐天寺さんに抱きついてしまいたい。

 そして彼の首筋に牙を突き立てて…

 ああ、さっき彼を美味しそうって思ったのはそれか?

 そんな風に考えるなんて、梓はもう吸血鬼になってしまっている?

 そこまで考えて怖くなってやめた。

 そんな梓をじっと意地悪な狼が見つめていた。

 もし梓が祐天寺さんに咬みついたりしたら、あの狼は迷わず梓を咬み殺すだろう。

 そんな本気を感じさせるような狼の冷ややかな視線だった。


「でも本当にパニックにはなってはいない」

「そ、そうなの?」

「そう、君は十分理性的に振る舞っている」

「そうかしら?」

「さっき駆けだした時だって、自分から立ち止まったじゃないか」

「ううん」

 梓は頭を抱えこんでしまう。だが祐天寺さんの話は一応だけど説得力があった。

「普通の人間は、吸血鬼の超人性を経験すると、そういう風に理性的にふるまえなくなる」

「そういうものなの?」

「そう言う例が多い」

「じゃあ、祐天寺さんが吸血鬼狩りをやるのはどういう時」

「簡単に言ってしまえば、悪い吸血鬼を狩る」

「悪い吸血鬼?」

「そう、君と違い、理性を保てなくなり、血を求めて、むやみに人間を襲うようになった吸血鬼が悪い吸血鬼だ」

「あたしもそうなると思う?」

「たぶん、そうはならない」

「どうしてそう言えるの?」

「僕の経験と勘からかな?」

「あたしみたいなのは、大丈夫っていうこと?」

「そうなる可能性が高い。つまり、君みたいなタイプは、吸血鬼の体質だけ採り込んで、精神面は人間のまま留まれることが多いんだ。きっと大丈夫だよ」

「大丈夫、なのかな…」

「とりあえず君を家まで送っていくよ」

「やっぱり不安だわ。家には今誰もいないし」

「うん?そのほうが、都合がいいと思うけど」

「やっぱり祐天寺さんの家に泊めてくれない?」

「だめよ」

 狼がまた冷たく言う。

「なんで?」

 あたしは吸血鬼に咬まれた被害者なのに、なんて薄情な狼だろう。

「アタシはどんな化物に変わるか分からないアンタを一晩でも家に泊めるのは嫌」

「そんな、おとなしくするし」

「ダメよ、何かあった時、掃除が大変だもの」

「お掃除もするし」

「違うのよ、アンタが夜中に吸血鬼どころじゃないグール、食人鬼とかになったらどうするの?アタシがアンタを咬み殺して、そこら中に血やら、内蔵やら飛び散ったら?」

「確かに咬み殺されたら掃除どころじゃないわね」

「違うって、掃除するには人間の姿にならないとダメなの」

「ああ」

「アタシは四つ脚の方が楽なの。ダイエットに気をつけなくていいし」

「それはそうでしょうね、それだけ毛むくじゃらなら、少しくらい太っていてもわかんないでしょうし」

 梓は狼に少し意地悪なことを言いたいと思った。嫌味を言われたお返しだ。

 そもそも、狼と会話を続けているという異常事態なのに、すでに違和感を覚えていない。これも梓が吸血鬼化しているからだろうか?

「それに人間になった時のアタシは絶世の美女だから、光が交尾を迫ってうっとうしいし」

「ちょっと待て、僕がいつ君に迫ったりした?」

「覚えてないの?」

 狼があきれたという口振りで言った。

「そんな記憶はない」

「この間憑き物落としに失敗してサキュバスに取り憑かれた時」

「あ、あの時は違うよ、あのときの僕は僕じゃなかったし、何があったか良く覚えてないし…」

「覚えてないなんて嘘」

 狼がそっぽを向く。

「いや、覚えてはいるんだけど、ええ?僕本当にそんなことした?」

「した、した、あんなに激しくしようよって、何度もアタシに迫った癖に、それに、今も後遺症が残っているでしょ?」

「後遺症?」

「そう、後遺症。そうでもなければ、吸血鬼に咬まれて、道に転がっている怪しげな女を拾ったりする?」


 吸血鬼の秘密

 そんな風に狼と掛け合い漫才のようなやりとりを続けながら、それでも祐天寺さんは、梓を家まで送ってくれた。幸いな事に夜遅かったので、誰にも会わずに済んだ。もし誰か知り合いにでも会っていたら、一体どんな風に思われたことだろう?

 祐天寺さんはそのまま梓の家にあがり込んだ。一階の居間の窓に鎧戸があるのを見つけて閉め始めた。それから天井の灯りをつけて、家の外を一周して戻ってきた。

「この部屋にいるといい。外から見ても灯りが漏れていないから、君が吸血鬼化しても、明日の朝は無事に迎える事が出来るはずだ」

「わかった…」

 梓はそれで安心していいのかどうかわからないまま一応頷いた。

「家の人は?」

「いないわ」

「ご両親は?」

「父は…たぶん海外にいる。母は分からない…」

「この家には君一人?」

「通いの家政婦さんが時々くるだけ」

「その人は信用出来るひと?」

「ええ、ナニーだった人だから」

「差し支えなければ、教えてくれる?」

「うん?」

「なぜお父様は海外に?」

「詳しくは知らないけど、事業に失敗した友達の責任をとらされたみたい」

「そうか、じゃ今日僕がここに泊まっても問題ないかな?」

「え、本当?」

「まあ、君が構わなければだけど」

「ありがとう、そうしてくれると助かるわ」

「ふむ、とすると、とりあえずの隠れ家はこの家だね」

「隠れ家?どういう意味?」

「もし君が吸血鬼化したとしたら、ナイトウォーカーになる」

「ナイトウォーカー?」

「そう、夜しか出歩くことが出来ない」

「だから?」

「だから、吸血鬼にとって昼間隠れている家は重要だ。さっきも言ったけど、吸血鬼の皮膚や髪は太陽光に含まれる紫外線に耐えられない。さっき、君が見せたように、驚異的な運動能力や不死性を身につけるかわりに、通常の新陳代謝は落ち込み、普通は紫より短い光線、つまり紫外線と言う四百ナノメートルより短い波長に耐えることが出来なくなる。その代わり可視光より長い赤外線、七マイクロメートルを越える光を見たり感じたりできるようになる」

「そんな、それじゃ学校に行けなくなっちゃうじゃない」

「そうだね」

「そうだねって、軽く言われても、う~ん、困ったな」

「まあ、学校に行けるかどうかは、明日の朝になればはっきりするから」

「ねえ、それより聞きたい事があるんだけど」

「うん?」

「吸血鬼ってなに?いったいどういう生き物なの?」

「う~ん、医学的概念だと、血液や粘液を介して感染する症状、あるいは体質の一種かな?」

「症状って病気ってこと?じゃあ、治療手段はあるの?」

「無いわけじゃないけど」

「けど?」

「うん、その事はもう少し君の症状がはっきりしてから話そう」

「ふうん、ねえ、吸血鬼って吸血病にかかった人間ということ?」

「まあ、そんな感じかな」

「病気なのね。だったら治療できる?」

「う~ん、病気と言うのは人間の側から見た悪い変化と言う概念だよね」

 なんだか梓が病気とか治療と言うと、祐天寺さんは歯切れが悪くなる。梓は気になったが流す事にした。今はもっとたくさん吸血鬼についての情報が欲しい。

 何しろ自分が吸血鬼になってしまうかも知れないのだ。

「そうなの?」

「そう、仮に吸血鬼が、眷属を増やすために相手の血を吸い、自分の血を与えたとすると」

 祐天寺さんは少し言いよどむ。

「血を与えたとすると?」

「うん、さっきも言った様に吸血鬼にとってその行為は繁殖に近いわけだよね」

「繁殖?」

「そう繁殖、それと生物には共進化っていうのがあってね」

「きょうしんか?」

「共に進化すると言う概念、そう言えば分かる?」

「うん、なんとなくわかる」

「例えば、ある種の蘭の花は、特別な蛾しか受粉できない仕組みになっている」

「ああ、それなら生物の授業で習ったかも」

「これは、蘭とその蛾がお互いの利益を守るために一緒に進化してきたからだと言われている」

「人間と吸血鬼もそうだというの?」

「うん、失敗した共進化の例かも知れないし」

「しれないし?」

「単に吸血鬼が人間に一方的に寄生する生命体なのかも知れない」

「ふうん」

「まあ僕はまだ生きたままの吸血鬼の第一世代の血親と話した事がないから、本当の事は分からないんだけど…」

「それ、さっきも言っていたわね。ちおやって、なに?」

「自分で眷属を増やせる吸血鬼の事」

「ああ、血を通じて仲間を増やすから血の親なのね」

「まあ、そんな感じだね」

「それで第一世代ってなに?」

「第一世代というのは、生まれながらに吸血鬼だった存在の事だ。ただ話に聞くだけで実際に会った人間はいないと思う」

「それ以外は話した事があるの?」

「うん、血親である第二世代の吸血鬼の血液は調べた事がある」

「第二世代?」

「第一世代が最初に眷族にした吸血鬼の貴族とされる血統のこと」

「吸血鬼にも貴族がいるの?」

「そうだね、古くから生き続けている吸血鬼は貴族階級や金持ちが多い」

「へえ」

「それで問題になるのは、最初の吸血鬼はどうやって生まれたかってことだ」

「生まれた?」

「そう、吸血鬼がある種の寄生生物に寄生された人間なら、当然最初に寄生された人間がいたはずなんだ」

「最初の吸血鬼?」

「そう、僕も初期の吸血鬼の貴族に何人も会ったことがあるけど、彼らも最初の吸血鬼がだれなのかは知らなかった」

「ふうん、そういえばドラキュラって伯爵だっけ」

「ああ、あれは創作だけどね」

「え?ドラキュラは作り話なの?」

「そう、ブラム・ストーカーというアイルランド人作家の小説だね」

「ふうん、ドラキュラって実在したんだと思ってた」

「モデルになった人物はいるよ」

「モデルはいるの?」

「うん、十五世紀ワラキアの領主ヴラド三世がドラキュラのモデルだといわれる」

「ワラキアってどこの国?」

「ルーマニアの一地方だね」

「ルーマニアって体操で有名な国よね?」

「うん、そうだったかな、僕は詳しくないけど」

「なぜそのヴラドがドラキュラになったの?」

「ヴラドの父親がローマ帝国の竜騎士団の騎士だった。それで竜を意味するドラクルと呼ばれていて、ヴラドはその息子だから、竜の息子と言う意味で、ドラクレアと呼ばれたらしい」

「竜の息子と言う意味でドラキュラなの?」

「ドラキュラはドラクレアの英語読みだね。ところがキリスト教では、竜は悪魔サタンと同義とされるから、竜の息子がいつの間にか魔王サタンの息子と言うイメージになってしまったらしい」

「でもなぜ悪魔の子と勘違いされたヴラドが吸血鬼みたいになったの?」

「ヴラドは正教徒だったけど、オスマン帝国との戦いで勝利するたびにローマ教会から賞賛されていた。つまりヨーロッパと言うキリスト教圏をイスラムの侵攻から守った英雄だった訳だ」

「その英雄がなぜ吸血鬼のモデルになんかなったのかしら」

「ヴラドが少ない兵力で、強大なオスマン帝国と戦うために、敵の戦意を喪失させようと採った残虐な戦術のせいだと思う。たとえばオスマン帝国兵を大量に串刺しにして城内に晒したりした。その蛮行が西洋社会にも伝わったことが影響しているのかも知れない」

「串刺しって人間を?それじゃあ悪魔だ、吸血鬼だ、と言われても仕方ないわね。でもそのヴラドっていうヒトは、直接は吸血鬼と関係ない訳ね」

「そうだね、そもそも吸血鬼と言う存在自体、もっと古くからあるものだし」

「吸血鬼って、ドラキュラが始まりじゃないの?」

「さっきも言ったけど、ドラキュラはフィクションだし、吸血鬼の起源は、もしかすると人間より古いかも知れない」

「え、だって、吸血鬼って人間の病気みたいなものなんでしょう?」

「それは二次的なもので、吸血鬼の方が人間の進化に関与した可能性もある」

「う~ん、よく分からない」

「まあ、これは僕自身の仮説だけどね。吸血鬼の正体が人間に寄生する生物なら、人間がまだこの世に現れていなかった時、何に寄生していたのかって疑問が生じるだろう?」 

「ああ、そうなるわね」

「それと吸血鬼の血にはよく分からない成分が含まれている」

「良く分からない成分って?血に秘密があるのね」

「そう、成分と言うよりは、微細な構造物かな?例えば吸血鬼の血が処女や童貞に注ぎ込まれると、その遺伝子は急激に変化する」

「なぜ?」

「これは僕自身の発見なんだけど、吸血鬼の血にはベクターを含む恢復子がいるんだ」

「ベクター?かいふくし?」

「ベクターは感染によってDNAをある生体から他の生体に移すことができるウイルスのこと。そのベクターを含んでいる恢復子はまだ正体が分からないけど吸血鬼の血の中にいる微細な小体で、単独では真菌に似た性質がある」

「ウイルスって、インフルエンザとかの?」

「そう」

「じゃあ、吸血鬼ってウイルスで感染する病気なの?」

「う~ん、単なる病気とも言えないんだよね」

「どうして?」

「体力、特に運動能力が大きく改善される。これは病気とは呼べない体質の改善だ」

「ああ、さっきのあたしみたいに」

「そう、ベクターを含む恢復子と言う一種の微生物みたいなのが吸血鬼の血の中にはいて、怪我をしても直る速度が桁違いに速いし、血を与えることで、恢復子も与え、他の個体の怪我を治すこともできる。さらに闇夜でも普通に見えるような幅広い帯域で機能する視力も持つように体質を変化させたりするんだ」

「でも太陽の光には弱いわ」

「そうだね。それに銀にも弱い」

「銀に弱いんだ」

「銀はたいていの細菌にとって毒なんだ。抗菌グッズなんて良く銀を使っているだろう?」

「あれは銀を使っていたのね。そうそうニンニクもだめでしょ?」

「大蒜にはアリインが含まれ、酵素によってアリシンに変化する。アリシンは大蒜の臭み成分だけど、強力な抗菌物質がある。アリシンは真菌であるカビにも効果がある。さらに個体差があるけど赤血球を破壊する事もある」

「だから吸血鬼が嫌うのね」

「ああ、ボクも大蒜苦手なんで、実際に試したことないけど、そうも言われているね」

「あたしもニンニクは苦手だから食べられなくなってもいいや」

「まあ、大蒜くらいは瑣末な事だしね」

「じゃあ、力が強くて怪我の治りが早いのが吸血鬼の優れた点?」

「まあ他にも寿命が長いと言うのもあるけど、フィジカルはそんなところかな」

「寿命が長い、そういえば、永遠に美しいとか、なんかの映画で見た気がする」

「そう、でもね、僕は吸血鬼って、実は絶滅危惧種なのかもしれないって思うんだ」

「人間より強いのに?」

「うん、繁殖形態に問題があるからさ」

「相手の血を飲んで、自分の血を与えて増えるから?」

「そう、それも相手が処女や童貞でないと、拒否反応を起こして吸血鬼ではなく、食人鬼グールや生ける屍ゾンビになってしまう」

「どうしてそんな事がおこるの?」

「うん、まだ仕組みは良く分かっていないのだけど、吸血鬼が遺伝子を改変出来る相手は、遺伝子撹乱を受けていない人間だけみたいなんだ」

「遺伝子撹乱?」

「そう、うまく説明できないのだけど、一度でもセックスの経験がある人間は相手の遺伝子をほんのわずかだけど、水平伝播されているんだ」

「どう言う意味?」

「うん、つまり極親しくした恋人同士だと、お互いの遺伝子を交換し合ってるみたいなんだ」

「本当?」

「うん、マイクロキメラリズムっていうのがあってね。母と子では良く知られている事なんだけど、どうもそれが男女間でもほんのわずかずつ起こってるらしい」

「ふうん、キスした時に相手の遺伝子が移ったりするのかな?」

「ううん、まあ、セックスってもっと親密な接触をするわけだし」

 祐天寺さんはそこまで話しかけて、途中でやめてしまった。梓もそれ以上生々しい話は聞きたくないので、話を変える事にした。

「それがどうして絶滅に繋がるの?」

「うん、吸血鬼もセックスで自分たちの子供を作る事が出来るんだけど、それには生殖可能な年齢に育った人間の女性や男が必要だろう?でも吸血鬼って処女や童貞でないと眷属にできないから」

「よく分からないわ」

「だからさ、童貞はともかく、生殖可能な年齢に達しているけど処女のままって、この頃少ないんじゃない?僕がこの頃出会った若い吸血鬼って、みんな男ばかりだったし」

「あ、あたしは、たまたまよ」

「たとえば梓ちゃんの同級生、処女って何人いた?」

「そういえば、あたしだけだったかも…」

「でしょう?しかも血親になる吸血鬼って超面食いだから」

「吸血鬼が面食い?」

「そう、なんせ貴族だからね、自分の眷族が見苦しい外観なのは許せないんだと思う。だから梓ちゃんの様な美人で、子供が産める年齢でまだ処女って貴重なわけ。吸血鬼になると、成長も老化も止まるから。だけどまさか処女だからって小さい女の子じゃ吸血鬼になれても子供は産めないし」

「そんな、あたし美人なんかじゃないし」

「いいや、君は十分綺麗だと思うよ。少なくとも血親である貴族の吸血鬼の眼鏡に叶った訳だし」

 ハンサムな祐天寺さんにそう言われ、梓は顔が赤らむのを感じた。でもよく考えたら、吸血鬼に受けるようなタイプだった事が、この迷惑な事態を引き起こしたともいえるわけだ。だいたい吸血鬼に受ける美人っていったいどんなタイプなのよ?

 それから祐天寺さんと、ずいぶんいろんな話をした。彼の話は面白かったけど、梓の理解を超えているものも多かった。

 彼は言う。

「生命を定義するのは困難だ。僕が今まで見ただけでも、心臓の代わりになって寄生する生き物、奇主の遺伝子を改竄して、奇主の影のように一生一緒に暮らすもの。自分の遺伝子を寄生の遺伝子に紛れ混ませるもの。精神構造だけを寄生させるものにも会ったことがある。彼らは人間に寄生したり入れ替わったりして、人間に擬装して生きている。君の場合がどれに当たるかはまだ分からない。擬態して、擬装して暮らすものは人間を好む。個体差が大きいし、元々たくさんいるから紛れ混みやすいしね」

 そうやって、梓は祐天寺さんと夜通し話を続けた。一緒についてきた狼のルイは、呆れたことに途中で寝てしまった。狼って夜行性じゃなかったっけ?

 変な狼。いえ、彼女は狼女だろうか?まだ人間の女に化けるところは見ていないけれど、祐天寺さんみたいなイケメンが狼の姿をしたルイに交尾を迫るのは考えにくい。ルイの自己申告だけど、祐天寺さんが襲いかかりたくなるような美女に変身するのかも知れない。

 もう明け方の時刻だった。とうとう祐天寺さんは、話しつかれたのか、居間の長いすに寄りかかるようにして寝てしまった。いつの間にか狼は彼の足元で寝ていた。

 本当は寝た振りをしていただけかも知れない。彼女の耳は寝ている間も、くるくると良く動いたから。

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