プロローグ~吸血鬼の復活
このお話は麻美と新九郎・危機一髪!(RATBIZ6)の前日談に当たるお話です。今回は吸血鬼・狼女・ゴーストバスターなどを題材にしてみました。
プロローグ
彼女は飢えていた。
目覚めたのは一体何十年ぶりのことだろう?
もしかしたら何百年ぶりかも知れない。
そこは真っ白な病室のような部屋だった。
少し前まで、大陸中央近くの辺鄙な地方の自治区の遺跡で彼女は眠っていた。
ところがつい先ごろ、考古学者を自称する中医の老人によって掘り出されてしまったのだ。
新鮮な大気に触れると、彼女の身体は目覚め始めた。
しなびていた皮膚は新たに触れた大気から酸素と窒素と水分を取り込み、若い頃のような艶やかな肌を持つ乙女の姿に戻っていった。
だが身体が活性化するにつれ、彼女の飢えも深刻なものになっていった。
自分は今どこにいるのだろう?
あの中医の老人は自分を誰に売り渡したのだろう?
今度は誰が、彼女の相手をするのだろう?
そこは彼女が若い頃に蓬莱島と呼ばれていた場所のようだった。
今、彼女の前に立っているのは妙に落ち着きのない若い男で、まだ覚めやらぬ夢の中にいる彼女の肩を掴み、いきなり自分を眷属にしてくれと言ってきたのだった。
だが彼女は断った。
男の体臭から、彼が眷属にはなれないことがわかったからだ。
男の血は濁っていた。
間近に嗅いだ息は腐敗臭がした。
この男は男性機能に障害を負っている。
何よりこの男は強姦魔で人殺しと思われた。
おそらくは、さまざまな犯罪に手を染めてきたのだろう。
彼の血には犠牲となった、たくさんの女が流した血が混じっている。
そんな人間では彼女の眷属になどなれはしない。
だが男は彼女が自分を眷属にできない理由を知りたがった。
彼女の細い肩を掴み、乱暴に揺すりながら、しつこく問い詰めてきた。
目覚めたばかりで、ぼやけたままの脳の中をまさぐりながら、彼女はなんとか説明をこころみようとした。
「なぜ俺を眷属に加えてもらえないんスか?」
「あなたが童貞ではないから」
「ど、童貞でないから?それだと、どうして眷族になれないんスか?」
「あなたの血はすでに混ざっているから」
「血が混ざる?どう言うことなんスか?」
「あなたはたくさんの女を犯した。そうでしょう?」
「男が女をヤルのは当たり前じゃないスか」
彼女は男の必死な様子に、思わず口の端に薄い嗤いを浮かべた。
「男女の交わりは本来子孫をなすための神聖な行為です」
「だから?僕だって女を孕ませるためにやったスよ」
「うそ…」
「うそ?」
「あなたは欲望のままに女を犯し続けただけだわ」
「だって、男がそうしなければ、子供なんてできないッスよ」
「でも暴力で女を犯したあなたの血は汚れています」
「血が汚れる?どうして」
「女が流した血があなたの身体にも流れ込むから」
彼女はだんだん面倒になってきた。
それで内なる声に耳を傾けた。
ようするに、この男は不死の身体が欲しいだけなのだ。
だったら、望みを叶えてやればいいではないか。
こんな下衆な男を貴族に向かえ入れる必要なんてない。
まして、こんな男の先行きを心配してやるなんて。
「そんなに不死の身体が欲しいの?」
「もちろん欲しいに決まってるッス」
「でも、あなたが私の血を享けても、私と同じ様になれるとは限らないのよ」
「別にあんたと同じになる必要なんてないッス」
「そう、なら好きにするがいいわ」
「え?じゃあ」
「金西安、いいえ、邨田淳、あなたの望みを叶えてあげる」
彼女はそれまでうっすらと瞑っていた目を見開いた。
赤と黒しかない彼女の視野の中で男の表情がゆがむのが見えた。
彼女の赤い瞳孔しかない眼を男は直視してしまったのだ。
肩を揺さぶっていた手が力を失った。
男は彼女の唇が微笑みを浮かべたところまでしか見えなかった。
彼女は男が認識できる瞬間より遥かに早く、牙をむき出し男の首筋に噛み付いた。
そのくらい彼女の飢えは深刻なものだったのだ。
頚動脈に深く穿たれた穴から大量の血液が流れ出した。
血液は彼女の口からあふれだし止らなかった。
男はすぐに意識を失い、彼女の上に覆いかぶさるように倒れた。
彼女は、そんな男をいとおしそうに抱きしめた。
それは、いったん始まってしまったら、逃れようのない死の抱擁だった。
男の血と生命力を全て吸い尽くすと、彼女は男の身体を指先で押しのけて立ち上がった。
彼女が寝かされていたのは、朽ちかけた棺の中だった。
おそらく、この棺のまま、さっきの男が自分をここまで運んできたのだろう。
今自分がいる場所は、まだどこだかよくわからない。
でも、これだけ血を飲めば、もうどんな能力でも使えるだろう。
ひどく濁っていて不味い血だったけど、久しぶりの吸血で身体が活性化している。
私を起こすなんて馬鹿な男。
彼女はぼろ雑巾のようになった男を見下ろした。
運がよければ彼は復活するだろう。
だが、あんなに濁った血の持ち主では、吸血鬼になるのは無理だ。
彼女は血を吸うのと同時に少量の唾液を相手の血管に流し込んだ。
吸血鬼の唾液や体液は血を吸われた者の遺伝子を変化させる。
だが、変化は相手の身体の状態によって異なる。
処女や童貞なら、問題なく吸血鬼として羽化することができるだろう。
だが強姦で女を傷つける行為を繰り返した愚か者の血は汚れている。
怨念がキメリズムによってマイクロサテライトとともに加害者の身体に侵入するからだ。
だから強姦魔や殺人者の身体は本人が自覚しないだけで被害者とのキメラになっている。
そのキメリズムによって、やがては精神を蝕まれ、肉体は癌化する。
そしてキメラになった血と身体を持つ者たちは、吸血鬼に血を吸われ、唾液や血液を与えられても吸血鬼にはなれない。
彼らがなれるのはキメラが怪物化した存在、食人鬼だけだ。そしてグールとして短い生を生きたあとは、生ける屍へと変質していくのだ。
やがてこの男は望みどおり不死の身体を得ることになるだろう。だがそれは怪異の王吸血鬼の高貴な不死の肉体ではない。
地球上で最低最悪の怪異、生ける屍の朽ち落ちていく身体なのだ。一度ゾンビ化が始まれば、腐り落ちる身体を留め置くことはできなくなる。生ける屍の身体の腐敗をわずかでも遅らせることができるのは、生きた人間の血肉や脳髄を口にする行為だけだ。そうして生ける屍たちは人喰いになっていく。
だが吸血鬼の眷属となり、その美味な血の味から食餌のために生かされ続ける人間の血は、生ける屍の延命にも高い効果がある。いずれこの男、邨田淳も、他人を襲い脳髄を食らい、自らを助ける深き血の持ち主、吸血鬼の恋人の血を求める化け物になっていくだろう。
だがそんなことは彼女の知ったことではなかった。
人は望んで、怪物になるものだからだ。
過去増えすぎた人間は、そうして、数を調整してきた。
さて、久しぶりの人間界だ。
まずは寄り代となる処女を見つけださねばなるまい。
できるだけ美しい少女がよい。できれば生殖年齢に達している娘がいいだろう。
この機会に、彼女の眷属をたくさんつくり、あわよくば、自分の娘も産み育てたかった。そうして徐々に仲間を増やして行き、この世界の覇権を狙うのも面白いだろう。
彼女、もっとも古い世代の吸血鬼の貴族であるカーミラは、棺の中でひざ立ちになり、古びたドレスを纏った両腕を高く差し上げた。そのまま身体の力を抜き、大気の成分が自分の体細胞に浸透してくるのに任せた。
やがてカーミラの身体はボロボロと砂の様に崩れ始め、赤い霧となって窓の隙間から夜の闇に流れ出していった。
どこに行こう?夜の世界は広大だった。
霧となって、夜空に広がっていたカーミラの嗅覚に何かが訴えかけた。
これは甘き血!吸血鬼がもっとも好む美味な血の持ち主の匂いだ。
カーミラは霧から元の姿に戻り地上に降り立つと、そのまま手近な影に隠れた。
薄い樹脂の袋を下げた美しい娘が暗い道をこちらに歩いてくるのが見えた。
あの娘が良い。体臭からして処女に間違いないし、何より男なら誰でも魅了されてしまいそうな容貌と肉体を持っている。
カーミラは影からゆっくりと浮き上がると、その美しい娘の前に立った。
彼女の瞳はもう瞳孔だけの真っ赤な瞳ではない。
濃い緑の瞳で娘を見つめ、こちらに来るように促した。
カーミラの瞳につかまった娘は、袋を取り落とし、首筋を差し出すようにしてカーミラの前に立った。