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結局、その数年後、ブルーノは再びルースに暴行を加えようとし、悲劇は起こった。
あるいは、ルースにとっては喜劇である。
数年も経過すると、ルースの身体は女性らしい丸みを帯びた。一方、従兄弟のブルーノは、肉体の成長に獣性が比例する形で力だけつけ、叔父を手本にますます自制心というものを失って行った。
その日、ルースは熱が出て、思考力も体力もなく、ブルーノが手を出してきたときに、思ったような抵抗ができなかった。
ルースは本当に腹を立てていたし、もうどうでもいいとすら思った。
つまり、こいつらが、どうなろうと知ったことではない。
そう思い、怪物を野放しにしてしまったのだ。
どこかで、止めなければ、と思うのに、ルースはもう物理的に限界だった。
熱夢に浮かされたルースは、不定形の怪物が、ブルーノを襲うのを見た。ブルーノは悲鳴を上げる。駆け付けた叔母が従兄弟をかばう。逃げ出そうとしたブルーノを追って、怪物は部屋を這い出した。口角泡を飛ばす叔父も壁にたたきつけられ、それから……
屋敷は夜の天蓋を焦がす勢いで燃え、相続人ルースと、ブルーノだったものだけが残された。
ルースは、叔母が嫌いだったけれども、彼女が夫からあのようにひどく扱われ、最期は息子をかばって無残な死を迎えていいような人間だったとは思わない。
強く、思わない。
そして、その怪物は、彼女の息子、ブルーノの中に入り込んだ後、一切合切の記憶を失った。
まるで、真人間のようにふるまったとしても、ルースは決して、彼が怪物であることを忘れない。
この話は、ルースと、ブルーノの話だ。ブルーノであろうものの、話だ。
十七歳。ルースは十七歳になっていた。
国の王立学院に進学し、現在は二年生である。
卒業後、ブルーノと結婚することになっていたが、ルースにはそんな気はなかった。ひとまず、成人するまでの体裁だ。なにしろ、この国は、いまだ、女性は男性の付属物という扱いである。未成年では、叔父が勝手に生前とりつけた婚約解消もままない上に、いろいろ不都合があったのだ。
あの事件の後、ブルーノは記憶をすべて失い、心を入れ替えたように善人となった。記憶喪失というのは、ブルーノとしてのみならず、怪物としてでもある。
一体、どちらなのか。ルースにもそれはわからない。彼らは、溶け合って、一人の人間になったのかもしれないし、怪物はただ潜伏しているのかもしれなかった。
ルースに言わせれば、最初に怪物が弱っていたのも、何かの襲撃を受けたゆえだろう。しかし、あれはもしかしたら、その危険性に鑑みて、まっとうに駆除されていたものかもしれない。
助けなければよかったのだ。
少なくとも、あのような無残な事件は防げただろう。
(叔母さん……)
やはり、ルースは叔母のことがいまだに好きではない。でも、決して、彼女はあんな目にあっていい人間だったとは思わない。いや、本当は、誰一人、あんな扱いをされていい人間などいないのだ。そうだろう、とルースは思う。
成人したら、財産をすべて処分して、国を出ていこう。
叔母は、ずっと我慢していた。でも、我慢の果てに何があっただろうか。
他人の機嫌に振り回されて、罵倒されたり、殴られたりしても、それは我慢しないといけないことなのだろうか。
そんな人生は嫌だ。
ルースは、自分のことを自分で決めたい。
この国は嫌いだ。だから、出ていく。自由になる財産をもって、この手足があるのだから、好きなところに行けばいい。
そのために、ルースはポピュラーな西大陸公共語のみならず、マイナーな東大陸公共語も勉強している。他人ができることは、アドバンテージにならないからだ。自衛のための魔法だって、適正は微妙だが、授業単位は全部取ろうとしている。
それに、怪物の正体も、国外に出れば、何か手掛かりがつかめるかもしれない。
ルースは、怪物を助けたことで、叔母の死を招いたことに、責任を感じていた。ブルーノはどうでもいいが、彼女が息子をかばって死んだのも事実だ。それに対するなんらかの責任もあるだろう。
少なくとも、あれが、ブルーノなのか、怪物なのか。融合したものなのか。自分は、できうる限りの努力で、つきとめなければならないように思う。叔母のためではなく、ルース自身がそう思うのだ。
校舎から少し離れた裏庭の木陰で、ルースは、魔術書の写しを片手に、サンドウィッチを噛みちぎった。行儀が悪いと言われるが、知ったことではない。時間は有限である。学院併設図書館の召喚魔術蔵書を、片端から司書の写本魔術で写してもらっては、目を通しているのだ。
この間は、ブルーノがやってきて、君は頑張りすぎている、ひとりで背負い込む必要はない、自分が守るなど、あれこれうるさかった。勉強は体面を保てる程度にほどほどでよい、ルースは家に入るのだから、心配しなくてもいいということだった。結婚後は、もちろん、希望する範囲で、学問でもなんでも、好きなことをしていい。オブラートに包んでいるが、要は、学をつけるのは不要と言われている。生きる力ではなく、趣味や教養の範囲に留まる程度で問題ない。それを活かす場所もないのだから、必死になる必要はない。お前にできるのは、ここまでだから、と親切心で勝手に限界を決められる。首輪がついたら、自由にしてもよいと。それで、守っているつもりらしい。あまりに邪魔をするので、そんなに役に立ちたいなら、と片方の靴を脱いで投げた。お前が言っているのは、こういうことだ。人間ではなく、愛玩犬になれってこと?拾って来いと言ったら、彼の友人たちが怒髪天を衝き、あんな女は相手にするな! と無理やり彼を引きずって行ってくれた。
ルースは、ブルーノがどんなに真人間になろうと、彼と仲良くする気などみじんもなかった。中身がブルーノなら、あいつは強姦を何度も仕掛けようとしてきた最低のクソ野郎だし、怪物だというなら、大量殺人者だ。
そして、ルースも無関係ではない。放ってはおけなかった。無害なままならよいが、はたして本当にこの後も彼は普通の人間であり続けるだろうか。何の保証もない。そう、あれだけの事件を起こしておいて、彼は何も覚えていないのだから。
当時、ルースがどれだけ証言しても、ショック状態であるとされ、まともに受け取ってもらえなかった。
怪物は、野放しにされたままなのだ。もはや、何年も。
眉間にしわを寄せたルースに、影がさした。
顔を上げると、小柄な女生徒が、かたい表情で、一騎討でも申し込みそうな雰囲気にルースを見下ろしていた。
かわいらしい少女である。ストロベリーがかった金髪で、大きなたれ目の庇護欲をそそるような愛らしさだ。なんとなく、叔母を思い出した。というより、ルースは、ほとんどこの国の女性を見ると、全員、叔母を思い出すトリガーになる。気質はいろいろに見えるけれど、ベースが同じに見えるのだ。もし叔母みたいに扱われても、騒ぎ立てず、ひっそりと泣いて、ひとり涙するのだろうか。その方が、健気で正しい態度であり、賢い生き方だ。この国では、そうとされている。
「何か用?」
相手のかたい顔つきに頓着せず、ぞんざいに声をかけたルースに、少女は顔面をひきつらせた。
「ルース・コールマン。あなたに話があるの。ブルーノのことで」
面倒が面倒を背負ってやってきたな、とルースは思った。
よく考えたら、この間、ブルーノの目の前で、靴を投げ、拾って来いといった時に、激怒していた彼の学友のひとりに、彼女がいたのを思い出した。
「あなた……酷いんじゃない? ブルーノはあなたのことをあんなに思っているのに、この間の態度は、あまりにも、ない、と思う……私だって、本当はこんなこと言いたくないけれど……」
「じゃあ、言わなければいいんじゃない?」
ルースの言葉に、少女は顔色を失った。喧嘩を売りに来るときくらい、発言の責任は引き受けた上でやってくれないかな、とルースは思った。本当は言いたくないけれど、あなたが私に言わせているのよ、という建前で覆わなければ、他人に文句もつけられないのか。そうなるくらい、自分の意見を自分の口で言うことは、はしたないことだと、調教されてしまっているのだろうか。
「悪いけれど、私は、ブルーノのことは嫌いだし、付きまとわれてすごく迷惑してるの。あれって、私にとってはストーキング。何言ってもやめないから、ご学友に引き取ってもらっただけ。友達っていうなら、ストーキングやめさせてくれない?」
これを言ったら怒るだろうな、とルースは思ったが、黙ろうという気にもなれなかった。大体、相手の望みはなんだ? ブルーノにやさしくしてやれというのなら、お門違いだ。ルースの態度はルースが決める。
「ああ、一応、あなたたちを利用したことを怒っているなら、謝るわ。そこは悪かった――」
わね、とも続けることはできなかった。
目の前で、ぽろぽろと、少女が泣き出したからである。
言いたいことが飽和して、言葉にならず、ぐちゃぐちゃの感情が、涙になってあふれ出したといった感じだ。
どうして、どうしてそんなひどいことが言えるの、と彼女は切れ切れに涙をぬぐいながらなじった。
ジーザス……とルースは空を仰ぎたくなったが、ハンケチ―フ持ってたかな、と制服のポケットを探った。
もう大体、ルースは理解した。彼女は、議論する気も、交渉する気もさらさらないのだと。自分の思うとおりの結末以外、すべて「ひどいこと」だ。ルースが、うん、と言って、彼女の要求通りにならない以外は、全部ないのだろう。
ブルーノに礼儀正しい淑女としての対応をして、あとは多分、身を引く形がベストだったかも。
知らないわよ、とルースは思う。ブルーノにやさしくしてやる義務もなければ、彼女の思い通りにふるまってやる義理もない。
ルースはすでに意思表示している。ブルーノには干渉するなと再三言っているし、それを越境してくるのは彼の方だ。周囲に、どうこう言われたくはなかった。もちろん、靴を投げた上に、彼らを利用したのは悪かった……とは思っているので、その分のハンケチーフである。
しかし、なんとか引っ張り出した布切れは拒否された。そのうえ、校舎から出てきたブルーノとルースは目が合う。ブルーノは学友に囲まれ、彼の呆然とする視線に、仲間たちは同じくこちらを見て、表情を険しくした。
どう見ても、ルースが少女を泣かせている図である。
「アリシア!」
黒髪の男子生徒が声を上げ、駆け寄ってくると、少女をかばうような位置取りで間に入り、ルースのことを鋭い目で見下ろした。小鬼を絞め殺しそうな視線だ。何があったんだ、と詰問口調ではあるが、決めつけない態度に、ルースは内心目を見開いた。
しかし、あとから、学友たちが追いつき、ルースをとんでもない女だと口々にののしった。ブルーノが慌てて、悲痛な顔で仲裁に入るのを、ルースは他人事のように聞き流していた。しかし、ルースももう少し気をつけてくれ、みんなに誤解されるだとか、あとは何かごちゃごちゃ言われると、すでに自己弁護を済ませた彼女は、余計なお世話だとはねのけた。
ルースはもう言いたいことは述べた。状況を説明しても、頑として聞き入れず、謝罪を要求してくるような無礼なふるまいをする人間に、礼節で返すかどうかはルースが決める。少なくとも、ルースは問答無用に罵倒されて、愛想笑いで受け流そうとは思わない。踏みつけられて、にこにこご機嫌伺いをしなければ、生きていけないような人生は、まっぴらごめんだ。
場の空気をよくするために、そうしろ、と強要されるのも。
「ルース。君のために言ってる。君を心配しているんだ。協調も必要だと学んでくれ」
ブルーノが言ったのを最後に、ルースはもう心の鎧戸を下すと、一切会話をやめた。抗弁はすませたのだ。他のメンバーに、さんざん罵倒されたが、ルースが反応しないため、彼らはブルーノになだめられながら、またアリシアという少女をなぐさめながら、木陰を後にした。
ルースは再び魔術書のページをめくったが、ふいに、顔を上げた。
どうっとなまぬるい風が吹き抜け、彼女の髪を巻き上げる。
空は少し陰って見え、木立を揺らして、黒い鳥が何羽も飛び立つのが見えた。
嫌な予感がした。
ただ内容は漠然と、しかし、確実に。
別の作品ですが、魔神少女と孤独の騎士(旧:異世界で魔王になる方法)が書籍化しましたので、よかったら活動報告などご覧ください
追記:ブルーノの口調少し変更しました。




