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 全部、殺して!

 十二歳のルースは願った。その瞬間、冷や水を浴びせられたように彼女は恐怖した。

 殺して、だなんて、ありえない。

 

「――止めて!」


 少女の甲高い制止の声が『それ』に届く。ぶわり、と膨張するかに思えた黒い塊は動きを止めた。

 ルースは考えた。

 彼女は思いだす。

 毎晩ルースは日記をつけている。父の形見の万年筆を、昨晩引き出しにしまっただろうか?

 いいえ、ルースは昼間酷い目に合って、怒り狂って日記をつけた。痛む身体で息苦しい熱夢に落ち、滅茶苦茶に暴れた際、固い日記の感触がした。

 神様、と少女は祈る。

 押さえつける従兄弟の体臭と荒い息、ぜい肉の気持ち悪さ。

 彼女は手を伸ばし、つかんだ。

 抵抗を止めたルースに気をよくしていた従兄弟目がけて、容赦なく振り下ろす。

 夜気を引き裂く悲鳴が響き渡った。




 従兄弟はごろごろと寝台の上を豚のように転げ回って、床に落下した。

 痛い、とうめいている。泣き喚いている。

 ルースは上半身を引き起こして、この従兄弟をじっと見下ろした。

 扉の外が騒がしくなる。

 

「お嬢様!?」


 最初に飛び込んできたのは、寝間着姿で手に武器を持った従僕とランプを掲げた侍女だった。

 侍女が口元を片手でおさえ、悲鳴を飲み込む。


「なんてことだ!」

 

 従僕が慌てて膝まづき、「医者を!」と鋭い声を上げた。従兄弟は死んでいないのか、とルースはとても残念に思った。屋敷中が引っくり返ったような大騒ぎになり、ルースは侍女によって衣服を整えられ、叔父の前に罪人よろしく引っ立てられた。

 がつん! と目の前に火花が散る。


「貴様あぁああああああああああああ!! このッ、この忘恩の輩がっ! 誰のおかげでここまで大きくなれたと思っておるんだっ、このっ、このぉおおおおお!!!」


 惨めに床に這いつくばったルースの頭を、叔父は持ち上げては何度も殴りつけた。

 傍に青ざめた顔で控えていた叔母が「あ、あなた」と恐る恐る止める。


「それ以上は、まずいわ……」


 死んでしまう、と叔母は震えながら叔父に諫言し、叔父は興奮してもう一度ルースを殴ったあと、今度は叔母に向かって拳を振り抜いた。棒切れのように細い叔母は、軽々と吹っ飛ばされ、チェストの角に頭をぶつけて半ば気を失った。額から赤い筋が垂れる。


「女がッ、男に向かって生意気を言うな!!」


 ふう、ふう、と肩を上下させる姿は豚の化け物だ。この叔父にも、多少は良識ともいうべきものがあったらしい。

 ルースが死んではまずい。

 遺言では、彼女が成人するまで後見に当たる者への報酬分と、ルースが成人した暁には全ての財産を彼女のものとすることになっている。

 法律改正により、これには『不動産』も含まれることとなった。

 もし、ルースが死亡した場合は、莫大な財産が国に寄付される。

 まして、故意に死にいたらしめた場合、相続欠落に当たり、叔父の手元には一切残らない。

 流石に叔父も頭が冷えたのだろう。

 

「ちょっと甘い顔をしたらすぐにつけあがりおって、これだから馬鹿な女は! おい、ブルーノの様子は?」


 部屋の隅でぶるぶると震えあがっていた従僕が慌てて報告した。


「あ、はい。お医者様の見立てでは、頭部なので出血が激しいだけで、傷は浅いとのことです」

「ふん、そうか。おい、医者をこっちに呼べ。死なせん程度に手当させろ」


 まったく、と叔父はぶつぶつ言いながら白いハンケチーフで手を拭い、部屋をどすどすと出て行った。

 やがて叔母が額を押さえながらのろのろと上半身を起こし、倒れ伏しているルースの元へずりずりと這いよって来た。


「……ルース、大丈夫?」


 ルースは泣いていた。

 痛いから。

 辛いから。

 苦しいから。

 違う。

 違う。

 違う!

 この幼い少女は怒りと屈辱で顔面を絨毯に埋めたまま動くこともできずにいた。

 ルースは叔父が嫌いだ。

 ルースは従兄弟が嫌いだ。

 ルースは――この叔母が大嫌いだ。

 叔母のようになりたくない。

 叔父に殴られ、従兄弟に見下され、いつも何かを恐れてうずくまっているような女。

 叔父は従兄弟とルースを結婚させる気だ。

 叔母のように支配されるのか。

 ぞっとしてルースの全身を悪寒が走る。

 叔母の二の舞など、考えるだけで吐き気がした。

 ルースの母なら、ルースをかばってくれただろう。

 もしルースの母がブルーノの母なら、息子を傷つけた少女を許しはしないだろう。

 息子が間違っていたら叱り飛ばすだろう。

 叔母は全部しない。

 だからルースは叔母が大嫌いだ。

 ぼろぼろと涙の止まらないルースの頭を、かさかさとした枯れ木のような指先が撫でる。


「ごめんなさい、ルース。叔母さんが弱いせいで、ごめんなさい」


 温かい滴がルースの頭部に落ちて来る。

 謝るな。

 謝るなんて、卑怯だ。

 ルースはぐぅっと熱い塊を飲み下した。

 ルースは。

 叔母を、心底、嫌いになれなくて、ルースは医者が来るまで動けずにいた。

 


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