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ルースの世界は狭い。
十二歳になったばかりのルースは、世界のことはよく分からない。
ルースは嫌いなものが多い。
叔父。
叔母。
乱暴な従兄弟たち。
みんな大嫌いだ。
ルースの家に居座る人々だ。
この家はルースのお父さんとお母さんのものだ。
どうして、叔父一家は我がもののようにふるまうのか。
ある日、弁護士という偉い人がやって来て、叔父一家とルースに説明した。
戦争でたくさんの人が亡くなって、法律が変わった。女の子でも、遺言の内容で遺留分をもらえるだけでなく、『不動産』を相続できるようになったのだと言う。
ちょっと前までは、土地がばらばらになってしまうのを防ぐため、長子――しかも男子のみしか相続できなかったそうだ。
だから、弁護士はこう言った。ルースが大人になるまでは、『後見人』として、弁護士と叔父が財産を共同管理する。
そして、ルースが大人になったら、ぜんぶ、ぜんぶ、ルースのものだ。
ルースは早く大人になりたい。
大人になったら、叔父一家を追い出してやるのだ。
それなのに、従兄弟の一人は、ルースを突き飛ばして、こう言った。
「おい。お前みたいなブス、お断りだけどな。十五になったら、俺の嫁にしてやるよ!」
意味が分からなかった。ルースは、父の書斎から本を持ってきて、一人で読んでいるところだった。ルースの扱いは少しよくなって、殴られる頻度が減り、納屋に入れられることもなくなった。だけど、いきなり、何を言い出すのだろうと、ルースは大きな目を見開いて、ぶよぶよとした肥満体の従兄弟を見上げた。
いきなり、目の前に火花が散る。
「その目はなんだ!」
がつん、と脳天に思い切り拳を振り下ろされたのだ。ルースは目の前がぐらぐらした。もう少しで、舌を噛んでしまうところだった。
ルースは泣いたりなんかしない。
泣いたら負けだ。
目の縁から盛り上がりそうになる熱い滴を懸命に押しとどめる。
ルースが痛みのあまり、静かに悶絶するのを、従兄弟は満足そうに腕組みして見やり、ふと空気の色が粘着質に変わった。
「お前、俺の嫁になるんだから、いいよな?」
ルースの頭のてっぺんから足のつま先まで、ざっと血の気が下がる。近頃、ルースの身体は、幼女の体型からつぼみが綻ぶように丸みを帯び始めていた。思春期に差し掛かろうとする従兄弟たちが、叔母の侍女のスカートをまくったり、近所の女の子たちに悪戯したりするのを見てきた。最近は、ルースを変な目で見るようになってきたのを感じていた。
黙り込んで身を固くするルースのスカートに、しゃがみ込んで、ふうふうと荒い息のまま手をかけた従兄弟の頭に、分厚い本を思い切り叩きつけた。
従兄弟の醜い悲鳴が響き渡る。
何事かと下級従僕が駆けつけるのを、ルースは急いでその背後に隠れ、従兄弟はぎらぎらと憎しみに燃える目でルースを睨みつけた。
「この、クソアマッ」
袖をまくり、ボクシングの構えをして、ルースを殴りつけようとする。ルースは震えあがった。近頃、従兄弟はますます叔父に似てきた。
本当なら、従兄弟を怒らせたって、何一ついいことはない。
分かっているのに、ルースは、怒鳴り返した。
「死ね、豚野郎! あんたなんか、私が成人したら、まっさきに追い出してやる!」
その罵倒のお返しは強烈だった。おろおろする従僕を脇に突き飛ばし、従兄弟はルースに馬乗りになった。がつん、がつん、と嫌な音がする。
ルースはむちゃくちゃに殴られた。
「おやめください、ブルーノ様!」
「黙れ、黙れ黙れ黙れッ、このっ、生意気なんだよ、生意気なんだよ!!」
絹を裂くような悲鳴が聞こえる。 "階下の住人"たちが、何事かと集まり、従兄弟の巨体を引きはがしにかかったのだ。
従兄弟は息を乱しながら、
「参ったか!?」
と威嚇した。
ルースは、ちっともこりなかった。
「豚人間」
ぷっと唾を吐きだして、従兄弟は獣みたいな叫び声をあげ、ルースに再度襲いかかろうとした。
実のところ、ルースの顔面はぼこぼこになり、瞼は酷く腫れ上がって、吐いた唾がどこに飛んだのかも少女には分からなかった。
自分の部屋で、かかりつけの医者の手当を受けながら、ルースはこんこんと諭された。
「ルースお嬢様、お坊ちゃま方を挑発するのはお控えくださいませ」
ルースはだんまりだ。家中に、叔父の『内通者』がいることを、十二歳のルースはよく知っていた。信用したお友達や、同情的な使用人たちが、叔父に全部報告して、ルースは何度か折檻された。
誰も信用できない。
たった一人の友人をのぞいては。
医者が「くれぐれも安静に」と言うのに、寝台の上でルースは頷いて、この老人が退室するのをじっと行儀よく待った。
廊下を歩く足音が遠ざかる。音が消える。誰もいない。
「――おともだち」
ルースは小声で呼びかけた。
「おともだち、出て来て」
誰も答えない。
いいや、クローゼットが、ぎぃっと、勝手に内側から開いた。
ルースは、年齢の割に細くて青白い腕を伸ばす。
「おともだち、お願い」
十二歳の少女の頬に、つっと涙の筋が垂れた。少女は限界だった。彼女の友達は、するすると床の上を這って、器用に寝台の上をぜん動するぬめった無数の足で這い上がった。
この醜い生き物は、たった一人のルースのお友達だった。
少女は、お友達を抱き上げると、ぎゅっと抱きしめた。お友達の足が、ゆるゆると少女を慰めるように動く。
「るーす、いたい? ひどい」
たった一人でいい。同情してくれる存在があるなら、それでいい。
ルースは満足だった。お友達を胸に抱きしめて、痛む顔を恐々と埋めた。
これで少女は元気になれたし、明日も同じように今日が続くだけのはずだった。
いつの間にかルースは眠りに落ちていた。
痛みと熱に苦しむルースは、後になって気づくことには、三日三晩寝ていたらしい。
その三日目の晩だ。少し顔の腫れが引いたところで、ルースは身体が押さえつけられている重苦しさに目が覚めた。
ルースは目を開き、目の前に、豚のような顔の従兄弟の顔が、視界いっぱい広がるのに、悲鳴を上げた。
いや、上げようとして、できなかった。
口をポークのようなぬめぬめした油っぽい指で押さえつけられたのだ。
足を蹴り上げようとすると、頬をはられた。目の前に赤い光が瞬く。酸欠と衝撃で、ルースは恐慌に陥った。
従兄弟の息の何と生臭くて荒いことか。
その手が、びりびりにルースの寝間着を裂こうとする。舌打ちが聞こえる。
「おい、抵抗すんなよ。父上も、認めてるんだからな。叫んでもむだだぞ。使用人たちも助けにこない」
従兄弟は律儀に説明した。ルースは全部を悟り、ぱたっと抵抗を止めた。
家中ぐるだ。
ルースは心の底から願った。
この従兄弟を殺したい。
叔父を殺したい。
ルースに力があれば、こんな理不尽な目に合わずに済んだのに。
悪魔に魂を売ってもいい。
力が欲しい。
全ての理不尽を跳ね除ける力が欲しい。
ルースはこの時、強烈に願ったのだ。
涙が零れ落ちて、シーツの上に吸い込まれる。投げ出した視線の先に、お友達がいた。
床の上に、影と同化して蠢いている。
無数の目が、ルースに問うていた。
「ころしたいの?」
ルースは答えた。
殺して、と。
全部、殺して。
そう願った。