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世界を憎まないでいることは難しい。
八歳になったばかりのルースはそう思う。
ルースにとって世界は酒飲みで暴力的な叔父とその叔父に絶対服従する叔母。叔父そっくりの従兄弟達、彼らを遠巻きに取り巻く人間関係の文模様が全てだ。
ルースの父と母が死んだあと、叔父一家がやってきて、ルースは全部取り上げられた。
ルースは殴られたり、蹴られたり、鞭で叩かれて、世界中で一番役に立たない「おい」になった。
誰もルースの名前を呼ばない。ルースの名前は「おい」だ。
今日もルースが勝手に従兄弟の大事な本を読んだということで、ルースは顔の形も分からなくなるほどに殴られた。誰もルースを庇ったりしない。ルースは何度もごめんなさいと謝った。でも誰もルースを許しはしない。
ルースはよろよろとおかしな足取りで、自ら懲罰室と呼ぶ納屋へ向かった。顔の感覚がおかしかった。自分の顔がほてってぶよぶよとしている。
(わたし、しんじゃうかもしれない)
とルースは思った。ルースはそっと身を藁に横たえた。
(おとうさんとおかあさんがむかえにきてくれたらいいのに)
でも、多分自分は同じところに行けないだろうな、と少女は思った。何故なら、ルースは憎んでいた。叔父も叔母も従兄弟たちも取り巻くすべての人々を憎んでいたから。
(おなじところへは、いけない)
小さな少女は、彼女なりに悟るところがあって、静かに息をひそめた。すると、払うことのできない闇の中に、かすかな声が聞こえてきた。
"――て”
ルースは闇の中に目を見開いた。耳を澄ますと、針の落ちる音さえ聞こえてきそうなしんしんとした静寂の中に、やはり声が聞こえてくる。
"たし、けて"
舌足らずで呂律の回らない声。ルースは痛む体に鞭打って、どうにか立ち上がると、そろそろと声のする方に近づいて行った。僅かに警戒心が頭をもたげたが、膿むような熱とそれを上回る絶望が、少女を奥へ奥へと導いたのだった。
"たしゅ、けて"
それを見た時、ルースは息を止め瞠目した。割れた小屋の壁から、月明かりがしらしらと差して、その醜い全容を浮かび上がらせる。
醜い。なんという醜い生き物であろうか。これは生き物なのか。水のつまった粘着質な黒い袋から、呼吸音がするたびに、ぶしゅ、ぶしゅ、と何かが飛び出す。体液だ。
この物体は、必死にルースに向かって助けを求めていた。
"たしゅけて。いたいよ。いたい"
醜悪な何かは泣いていた。痛い、痛い、と泣いている。ルースは咄嗟にしゃがみ込んで、真剣にこの醜い生き物を見つめた。吐息のかかりそうな距離で、少女は四つん這いになり、話しかける。もはや自分の痛みのことは忘れていた。
「どうしたらいいの? 私の言葉が分かる? 痛いのね? 大丈夫? かわいそうに」
かわいそうに、とルースの頬を涙が流れる。かわいそうに。かわいそうに。ひとりぼっちでこんなところに置いておかれて、どれほど辛いだろう。
(私と、一緒じゃないか)
ルースは張り裂けそうに胸が痛んだ。ルースをぶつ親族たちの顔を思い浮かべると、この醜い生き物がどれほど恐ろしいものかと思った。
ルースを憐れむものは誰もいない。しかし、少女のちっぽけな矜持は自分を憐れむよりも、世界を憎悪することを選択させた。憎悪は熾火のようにくすぶり続ける。この炎を絶やしてはいけない。薪をくべ続けなければ、たちまちルースは凍えて死んでしまうと知っていた。悲しみの心では生きていけない。たぎるような憎しみだけが少女を生かす。そして行き場を失った悲しみの心は、慈雨を得たかのように、この哀れな生き物に向かって注がれていく。人はそれを代償行為と言うかもしれない。ルースもまた分かっていたかもしれない。
だけど、人は一人では生きていけない。憎悪に生きるルースもまたそうだったのだ。
「かわいそうに。痛いね、かわいそうに」
何度も話しかけるルースに、醜悪な生き物は目もないのに、ルースを見上げて言葉を失ったようだった。
少女は怪物を憐れみ、怪物は憐れまれて息を止めた。
よたよたとした足取りで、体液をまき散らしながら醜い何かはルースの膝に乗り上げようとする。
「痛くないの?」
そっと押し上げて膝上にそれを乗せたルースはおっかなびっくり撫でた。ルースもまた顔面がじんじんと痛む。この生き物も同様に痛みにじっと耐えている。
だけど、この一人と一匹は、差し込む月明かりに照らし出されて、互いに労わり合うように沈黙を選んだ。
この日、ルースは一人ではなくなった。
でも、ルースは遠くない未来に死ぬほど後悔することになる。
怪物は怪物だった。
声などかけなければよかった。
殺してしまえば、よかったのだと――