薬師の娘と月下の獣
町から遠く離れたその森の中に、少女は母親と二人で暮らしていました。
父親が居なくても、木でできた家は小さくても、少女はとても幸せでいつも元気いっぱいでした。だって森は親子を受け入れてくれましたし、お母さんは世界一のお母さんだったからです。
少女の母親はお医者さんでした。それも王宮に仕える宮廷医師のひとり。医師になるためにはいくつもの難しい試験に合格しなければなりません。そのためにはたくさんの勉強が必要です。まして宮廷医師ともなればこの国で一握りの人間しか名乗ることのできない肩書き、ある意味で有名人ともいえます。そんなすごい母親がどうして森の奥に家を構えているのか、少女もかつて尋ねたことがありました。「ここの方が新鮮な薬草を採りに行きやすいのよ」というのが答えで、少女もそれ以上気にはしませんでした。少女にとっては普段の母親が素晴らしい母親であること、それだけで十分なのでした。
歌や踊りや器楽の奏法はもちろん、様々なお話を母親は知っていました。そして何よりその料理は絶品です。特に胡桃のパイは頬が蕩けてしまう程で、少女はほとんど毎日、おやつに胡桃パイを作ってくれるようにお願いしています。まだ調理台には背伸びしないと届かないけれども、少女は料理のお手伝いをするのも好きでした。母親の手の動きはまるで手品のようで、少女はずっと憧れているのです。
また母親は少女にたくさんの本をくれます。多くは王宮でのお仕事の帰りに町で買って来るものでしたが、時には少女も一緒に森の外へ買い物に行き、二人で選んでくることもありました。美しい神様のお話、優しい魔法使いのお話、勇敢な英雄のお話、怖い怪物のお話、愉快な賢者のお話、……。少女にとってはどれもこれも魅力的な世界のお話です。本の世界に浸って想像し、たまに町に出た時はそういったお話の欠片が転がっていないかと探してみたり、森の中で薬草を摘む手伝いをしている間にも素敵な出会いを夢見てみたり、それが少女のいちばんの楽しみでもありました。
ある晩も少女はベッドの中で母親に本を読んでもらっていました。それは少し難しい言葉で書かれていたため、読んでくれるようにお願いしたのです。子守唄のような優しい声に、少女は毛布に包まり微睡みながら耳を傾けていました。
「むかしむかし、この国には月をも呑み込む一頭の巨狼がいました」
「きょろう?」
「大きな大きな、狼さんのことよ」
母親譲りの栗色の髪を撫でられた少女はくすぐったそうに首を縮めながら、ベッドの中で今日のお話の主人公に思いを馳せました。大きな狼。見上げた窓からは太ったレモンのような月が、ベッド横のランプにも負けないくらいの光を注いでいます。少女は月が見た目よりもずっと大きいことをもう知っていましたから、それを一呑みするなんてとても大きいんだ、とわくわくした気持ちで続きを待ちました。
“その狼は危ないからと一度は神様に封じられてしまったこともあるけれども、この国に流れる大河は彼が生み出したものであり、永い永い眠りの合間に時折歩き回りながら、今でも彼は森を護っている。”――本の中身はそんなお話でした。
その大河なら知っています、そしてその森というのが少女も住むここのことなのです。すっかり眠気なんて吹き飛んでしまって、少女は胸をどきどきさせながら「お母さん」と呼びました。
「わたし、その狼さんに会いたい!」
素敵の欠片がこんなに近くにあったなんて。しかも……彼は満月の夜には人間に姿を見せることがあるのだそう。もう一度、夜空を見上げます。あと数日もすればあのレモンはボールのように真ん丸になることでしょう。そうしたら狼さんに会えるかもしれないのです。
「あなたは小さいから、食べられてしまうかもしれないわ」
「お友だちになりたいって言ったら、わかってくれないかしら?」
母親は少しばかり困ったような顔をしていましたが、やがて少女の毛布を直してやりながら「そうね」と優しく微笑みました。
「もしも会えたら、礼儀正しくするのよ」
「うんっ!」
ランプが消えてすぐに眠りに就いた少女は、森の奥で大きな狼と一緒に遊ぶ夢を見ました。そしてとても温かい気持ちになったのです。
少女が狼の夢を見てから数日。その夜は丁度、丸い月が空に浮かんでいました。
実は満月の夜には特別なお仕事があるのです。一夜しか咲かない薬用花を摘みに行くという大事なお仕事。その晩も母親と一緒に出掛ける支度をしていた少女は、静けさの中で一際目立つ慌ただしい馬の足音を聞きました。それは医師である母親を呼びに来る、王宮からの使者が乗った馬の足音なのでした。
息を切らして戸口に現れた使者は、親子の格好を見て困惑したように動きを止めました。寒さを凌ぐための上着に襟巻きと、草で手を傷つけられないように手袋も身に付け、さらには摘んだ薬草を入れる編み籠を持って。出掛けようとしていたのは一目瞭然で、だからこそ使者は僅かに戸惑ったのでしょう。
しかし事は命に関わります。こんな夜中に慌てて馬を走らせるくらいです、余程のことが王宮で起きたに違いありません。
「何があったのです」
きびきびと母が問えば、ようやく時間が動き出したように。
「や、夜分に申し訳ないっ。殿下の発作が……」
「わかりました、すぐに参りましょう。以前お渡しした薬は?」
「ええ、何とかそれで持ち堪えているといいますか」
手袋を脱いだ母を少女は途方に暮れて見上げます。大変なことが起きた、それは理解できます。今夜は一緒にお出かけできないであろうことも。でも――。
「お母さん、お花……」
少女はおずおずと母親の上着の裾を掴みました。あの薬用花は本当に今夜しか咲きません。それでなくては効かない病もあるのです。来月まで待つ……というわけにはいかないようでした。
「わたし、行って来ようか?」
だから少女は勇気を出して言いました。頑張って笑ってみせました。大丈夫、大丈夫。びっくり顔の母親に訴えかけます。
ちょっとの間悩んでいた母親でしたが、やはりそれしかないのでしょう、どこか緊張した面持ちでうなずいたのです。
「……わかったわ。あなたにお願いするわね」
そう言って自分の銀色の首飾りを外し、少女の首にかけてやりました。
「これは?」
「お守りよ。きっとあなたを護ってくれる」
「ありがとう、お母さん」
「気を付けて。無理しちゃだめよ」
それからぎゅっと少女を抱き締めると、使者に向かって馬を出すように言いました。「娘さんは……」と言い掛けていた使者も、少女が「いってらっしゃい」と笑顔を向けたのを見、しばらく迷った後で急かされるようにその場をあとにしたのでした。
さて、母と使者を乗せた馬が駆けて行った後。少女の顔から笑みは消えてしまっていました。頑張ってはみたけれど正直に言ってしまえば、たったひとりで夜の森に入るなんて本当は不安だったのでした。住み慣れた森も昼と夜とでは違う表情を見せるもの。道はわかっています、何度もお母さんと一緒に行ったことはあります、物語に出てくるような恐ろしい獣が住んでいるわけでもありません、けれど――。
「けもの……」
ふと少女は思い出しました。――そう、今夜は満月。
「狼さん!」
小さく呟き、少女はやっと顔を綻ばせました。今宵は憧れていた素敵の主に会えるかもしれないのです。それだけで心が随分と晴れた気がします。
「……よしっ」
気合いを一つ、森へと踏み出します。ちょっぴり怖いと思っていた暗闇も、今は不思議の香りに満ちた幻想的な空間に見えるのですから、それこそ不思議なものです。
フクロウの鳴く声、ネズミが駆ける音、それから少女が枝を踏む音。静かな闇夜の中でそれらの音色は全て森の奥へと吸い込まれていくようでした。自然、少女の意識もそちらへ向かいます。森の奥に何かが居る……そんな気がしたのです。
本当なら寄り道はいけないこと。暗い夜道、しかも森の中であればなおさら。けれどその夜、少女は少しだけ好奇心のままに進路を変えました。目印として、発光する苔から作った緑色の塗料を大木に。母親はどんなに慣れた道でも森の中でこの作業を欠かしませんでした。少女もそれに倣います。
空っぽのままの編み籠を片手に草を踏み締め、時々は目印を塗りながら、目指すのは森の奥深く。息を切らした少女がやっぱり戻ろうかしらと思った時。木立の影に光るものが見えました。
最初それは自分が刻んだ目印だと少女は思いました。しかしその光はそれにしては強く輝き、何より、まるで月光のような銀色をしていたのです。
少女は疲れも忘れて夢中で走りました。
そして――。
「……あ…………」
ため息ともつかない微かな声が少女の口から漏れました。木々の間に呆然と立ち尽くし、目の前の光景を見つめます。……いえ、正確には、目を離すことができなかったのです。
銀色の光を放っていたのは他でもない……大きな大きな狼、なのでした。
その獣は夜露に濡れた草の上に巨大な体躯を伏せていました。少女の足音に反応してか持ち上げられた頭から、ぱたりぱたりと地面を払う尻尾の先まで、月の光に似た色に、けれどそれよりも強い銀色に輝いていました。少女の頭ほどはあろうかという濃紺の瞳が二つ、音もなく斜め下へと滑り客人の姿を捉えます。
「狼さん……」
これまた巨大な耳が少女の呟きにぴくりと反応しました。空へ垂直に立った二つの耳は全ての音を吸い込んでしまいそうです。大きな瞳で少女を眺め。すん、と濡れた鼻を一度だけ鳴らして彼は初めて喋りました。
『何用か、小さき者よ』
少女は狼が口も開かずに喋ったことではなく、自分が話し掛けられたこと自体にびっくりしました。なおも狼は語ります。
『……我は銀が嫌いだ、小さき者。その首飾り、外してくれ』
直接心の中に語りかける声は低めで、それでもどこか心地よさのある重厚な音色。「我」というのが狼さん自身のことで、「小さき者」が自分を指すのだというのはわかります。母親からのお守りを外すことに躊躇いはしましたが、目の前にいる狼さんが嫌がるならば仕方ありません。少女は首飾りをとって上着のポケットにしまいました。
「今日は、満月だから……」
ゆっくりと月色の獣に近寄りながら少女は言いました。怖いとは全然思わなくて、むしろ銀のたてがみ――背に沿って盛り上がった毛が、少女にはそう見えたのです――に触れてみたいとさえ思いました。もちろん、彼が許してくれさえすればですが。
「だから、ここにいるの?」
『満月は明日だ』
「え?」
きょとんとする少女を尻目に狼は退屈そうに欠伸を一つ。ぐぱあ、と裂けた口は信じられないくらいに大きく、人間の子供なんて一口で食べられそうです。燃えるように真っ赤な口の中には鋭い牙が何本も並び、そこで初めて少女は少しだけ背中が寒くなった気がしました。それは恐怖ではなく獣の涙が真珠のように美しかったせい、なのかもしれませんが。
いずれにしろ「満月は明日」という言葉に少女は首を傾げます。あの薬草が今日咲くのは間違いないのです。お母さんも言っていました。
少女の心の中を見透かしたのか、狼はくつくつと笑います。地を震わせるような低い低い音でしたが、笑っているのだとは確かにわかりました。
『我の方が正確だ。満月は、明日』
心なしか誇らしげに大きな尻尾が往復します。少女は思わず笑ってしまいました。確かに狼さんの方が正しいのでしょう。この狼はただの獣ではなく、森の護り主なのですから。
『だが客人は初めてだ、この月夜に』
「いつもひとりでいるの?」
『満月が近くなると、こうして我はひとりで夜を過ごす』
狼はとうとう顔の前までやって来た少女を見つめました。
額からなだらかな曲線を描いて伸びた鼻先は、たとえ口を閉じた状態でも少女の両腕では抱えきれない大きさです。まるで巨木のよう。きっとこの調子だと中に納まった舌も大きいのでしょう。少女は狼の湿った息が吹きかかる距離まで近づいて初めて、楽器の弦にも似た細い髭がふよふよと揺らいでいるのに気付きました。顔の造りは街で見かける犬とそっくりではありますが、月下の森に静かに伏せる獣はもっとずっと美しく賢そうな顔をしており、そして少女が求めていた不思議の空気を全身に纏っていました。
「寂しくないの? お友達は?」
『友は多い』
本当は、自分も友達になりたいと伝えるつもりだったのですが。
『たくさん居る。英雄も死神も魔女も……』
「魔女!」
それさえ忘れて少女は小さく歓声をあげます。というのも、物語の世界の住人の内でも魔女は特に好きな人物のひとりだったからです。たまに悪戯をすることもあるけれど、魔法を使って想像を現実にしてしまう魔女達は少女にとって、とても素敵な存在のように思えるのでした。
『魔女に、興味があるのか?』
「うん、会ってみたい! 狼さん、魔女さんってどんなひとなの? 魔法を見たことあるっ?」
次々に繰り出される質問に対し、獣はまたしても喉の奥で笑いました。さっきよりも更に楽しそうです。
『ぬしの方が良く知っておろうに』
「わたしが?」
『我の知る魔女は賢い女だった。……焼菓子を作るのがうまかったと記憶している』
「やきがし……お母さんとそっくりね! お母さんの作るくるみのパイはすごくおいしいの。きっと魔女さんにも負けないわ」
にこりと笑う少女を狼は眩しそうに目を細めて見ていましたが、不意に首をちょっと傾げるような真似をしてみせました。どこか人間くさい仕草でもあり、少女はまた何だか変な気分になります。
『母親は? 今宵は来ぬのか』
「あ……うん。今日はお仕事があるの。お城の人が迎えに来て」
『治療師をしているのだったか。大変だな、月に一度の日に』
まず少女は狼が母親の仕事を知っていることに驚きました。次いで、あら、ともっと驚きます。
「わたしたちが来るって、知っていたの? 毎月来ていることも」
『もちろん。我はぬしらのことは知っていた、小さき者よ』
なんてことでしょう。狼は親子を知っていたと言うのです。ひょっとしたらこれまでにも狼さんの方は少女を見ていたかもしれず、そして出会う機会がもっと前にあったかもしれません。少し悔しいなと思った少女でしたが、でも今夜はこうして会えたのだからと気を取り直します。
『座っては、どうだ?』
そのうちに言ったのは狼さんでした。大きな体をのそりとずらし、脇腹の辺りに丁度いい空間を作ってくれます。少女がうなずいて濡れた草の上に座ると、見事な毛に覆われた尾が、銀色の光を煌めかせながら優美に一振りされました。
もたれかかるように背中を預けたそのお腹も月色の長い毛に包まれています。見た目よりもかたい毛並みでしたが、伝わってくるのはうっとりするような温かさ。狼が呼吸をする度に、月色をしたお腹は少女の身体を前後に揺らしました。
「本当に月を食べるの?」
ふと本に書かれてあったことを思い出して尋ねます。
『昔はな』
対する狼は唸り声にも似た返事をしました。
「昔? 今は、食べないの?」
『先の戦で力をとられた、仲間もやられた』
「……痛かった?」
少なくとも少女が知る限り平和なこの国で戦争が起きたことはありません。お母さんの時代も、そのまたお母さんの時代も戦はなかったのでした。しかし戦えば傷つく、ということはわかります。しゅんと肩を落とした少女よりももっと寂しそうに濃紺の瞳を伏せ、獣は、
『かなしかった』
と呟きました。
ぱたりぱたり、尻尾が揺れます。ひっそりとした森の中、獣は頭上に広がる夜空を仰ぎました。つられて少女も空を見上げます。満月ではないにしろ真ん丸な月の光は普段よりも強く、それゆえに星達の姿はきちんと確認できませんでしたが、それでも木々の隙間から見える宵闇は今まで見た中でいちばん美しく思えるのでした。
『我の仕事は月を追うこと。我が吼えれば夜が明け、我らの声で日は廻る』
「じゃあ、狼さんが朝を運んでくれているのね」
一拍だけ沈黙をおいて。
『……紡ぐのはぬしらの仕事だ、小さき者』
相変わらず唸るように、けれど愉快そうに――小さな少女が楽しそうだと感じられるほどには――獣は応じたのでした。少女もやっと頬を緩めて笑顔を取り戻しました。
『ぬしも治療師になるのか?』
唐突な問いかけに目を見開いた少女でしたが、今度は狼さんの方が自分のことを聞きたがっているのだとわかると、顔を薄紅に染めて恥ずかしそうに首を縦に振りました。けれども夢を語る口調にいじけた響きはありません。
「わたしもお母さんみたいになりたいの。物知りで、お歌とお料理が上手で、どんな病気でも治せるお医者さん」
『そうか。良き夢だ』
まだ誰にも、母親にさえ話したことのない夢を打ち明け、その上「良い夢」と誉められたのです。少女は嬉しくも恥ずかしくもあり、もごもごと口の中でお礼の言葉を言いました。
それから赤い顔をしたまま、銀色の毛に包まれた顔を見上げます。
「お、狼さんの夢は?」
『我の夢?』
「うん」
『ふむ……』
すん、すん。濡れた鼻から息が漏れます。またちょっと首を傾げるように少女を見つめていた獣はしばらく考えた後で
『久方ぶりに、きょうだい達に会いたいかもしれない』
と言いました。
「きょうだい?」
『そう。我と同じように日を廻している、きょうだい』
少女は一人っ子でしたから、きょうだいがいるという狼さんをちょっぴり羨ましく感じました。こんなに美しい月色をした狼さんのきょうだいなのです、皆きっと美しくて大きな狼さん達に違いありません。
「わたしも、狼さんのきょうだいさん達に会ってみたいな」
少女が純粋に感想を口にすると、狼は濃紺の大きな双眸をほんの少しばかり見開きました。潤んだ瞳の中には鏡のように少女の姿が映し出されています。
『ならば、会いに行くか?』
「ほんとうに?」
『我は構わない。ただし、今は無理だ。ぬしがもっと大きくなってからだな』
巨大な狼さんが言う「大きい」とはどのくらいなのでしょう。そんなことを思わなくもありませんでしたが、ともかく狼さんが「構わない」と言ってくれたことが嬉しくて、少女は元気よく笑顔でうなずきました。いつになるかはわからないけれど、いつかは狼さんのきょうだいに会わせてもらえるのです。
「わたしが大きくなったら、いっしょにきょうだいさんに会いに行こう」
『そうだな。では、我がぬしを迎えに行こうぞ、小さき者よ』
なんだか狼さんの声が大きくなったような気が少女にはしました。それに、今まででいちばん楽しそうです。
獣は黒く濡れた鼻を少女へと向けました。大きな頭部を前に一瞬だけ戸惑った少女でしたが、恐る恐る小さな手で鼻筋の毛並みを撫でてみました。子供が乗れるであろうくらいに大きな鼻です。それと比べれば少女の手のひらは随分とちっぽけではありましたが、狼は気持ち良さそうに目を閉じて頭を擦り寄せます。ふよふよと長い髭が顔に当たってくすぐったいので、少女は思わず小さく笑い声をあげました。
「じゃあね、わたしは狼さんにおいしいお菓子を作ってあげる。魔女さんよりも上手に作れるように頑張る! 約束!」
『約束?』
「うん! ええと……」
狼の鼻を撫でていた手を離し、少女は小さな手の、とても小さな小指を一本立てました。けれど困ったことに狼さんには結ぶ指がありません。丸太みたいな四本の足の先についているのは刃物のように鈍く光る鋭い爪で、あんな爪が間違って当たりでもしたら少女の小指はひとたまりもないでしょう。
すると、困っている少女の目の前に銀色の穂先が降りてきました。それはずっと緩やかに往復運動を繰り返していた尻尾でした。
『約束』
器用に尾の先端を差出しながら狼は言いました。
今や少女の身体は狼に抱き込まれる格好です。銀色の海の中、少女はそうっと尻尾に小指を絡めました。
「うん、約束!」
一回、二回。結び目を上下に揺らして少女はにっこり笑います。目を細めた狼のその眼差しはとても優しいものでした。
やがて、するりと尾を解くと狼はまた空を見上げました。少女が森に入った頃は真上にあった月も、今は斜めの方角に傾きかけています。
『そろそろお別れだ、小さき者』
お別れ。穏やかな声は出会った時よりもまるみを帯びていましたが、やっぱりお腹の底に響く威厳に満ちた声でもありました。
『あまり長居すると、母親が心配する』
ずっと一緒に遊びたい――出かかっていたのを飲み込みます。狼の言葉に少女はお母さんを思いました。お仕事は終わったのでしょうか。お家に帰って来て少女がいなかったら、お母さんはきっと心配するはずです。それにまだ薬草を摘んでいなかったことを、ようやく少女は思い出したのでした。夜が明ける前に摘まなければ大変です。
けれども、どうやらその必要もないようで。
『……迎えが来たぞ』
どんなに遠くの音でも拾うことができるような大きな耳が、ぴんと立ち上がりました。少女も一緒に耳を澄ましてみますが、聞こえるのは獣や虫達の鳴き声ばかり。それも森の奥深くではかすかにしか聞こえません。でも狼さんの耳には別の音も――例えば、母親の足音なども――ちゃんと届いているのでしょう。彼はこの森の護り主なのですから。
『さあ、母親がぬしを探している。出口まで我が見送ろう』
言われて立ち上がった少女は上着に付いた草を払い手を払い、また寂しそうに獣の顔を見上げました。
「また会える?」
『もちろん』
自信に満ちたその答えは少女を安心させました。狼さんは森の護り主、いつだってこの場所で少女達を見守ってくれることでしょう。それに、ひとつの約束もしたのです。
四つ足の巨大な獣はゆっくりと身を起こし立ち上がります。大きな体は草を揺らす音しかたてず、地を踏み締めるまでの動作さえもまるで重さを感じさせない動きです。銀色の毛並みが照らしているのでしょうか、鬱蒼とした木々が茂る彼の周囲が一段と明るくなったように少女には見えました。もう一つの月があるみたいでした。
『行きなさい、小さき者よ』
「約束、忘れないでね」
『ああ。ぬしが成長した暁には、我がきっと迎えに行く』
「うん、きっとよ」
大きな大きな体躯に圧倒されながらも、それ以上にその美しさに見惚れながらも、少女は振り向き振り向き元来た道を帰って行きます。狼は優雅に尻尾を振り、小さな少女が無事に森を抜けられるまでずっと見守っていました。
「またね! 狼さん!」
完全に銀色が見えなくなった後で、少女は森の奥へ向かって言いました。あのお腹に響く声による返事ではなく、狼の遠吠えの澄んだ音色が、夜明けを迎えようとしている森に響き渡りました。
そして。
「……お母さん!」
狼の言葉通り森の入り口の方からやって来た人影に、少女は満面の笑みを浮かべて駆け寄ります。広げられた両腕の中に飛び込んで思い切り抱きつきました。それから少女はお母さんに狼さんのことを話すのです。森の奥で出会った、素敵な月色の巨狼のお話を。
遠くあちこちから遠吠えが聞こえてきます。月が浮かぶのとは反対側、濃紺の夜空は、だんだんと白くなり始めていました。
お疲れ様です! 最後まで読んでくださってありがとうございます。
別の所でも書いた通り、このお話はもともと長編のプロローグでした。今回は単体でひとつの作品にしたため、少し説明が冗長になっていたかもしれません。精進します。
この先の展開ですが、今のところはまだ執筆予定はありません。これで完結、ということも。ただ彼らも愛すべき子ども達ですので、お話を紡ぎたい気持ちは充分にあります。それまでは読者の皆様のご想像にお任せするということで、あとがきとさせていただきます。
ではでは、ここまで読んでくださった皆様にもう一度心より御礼申し上げます。どうもありがとうございました!