ロフトラ
まただ。
何か動物の唸るような声がする。
皆が寝ている時間に、毎晩目が覚めるようになってしまった。
コタロウは来年、小学生になる。ランドセルもある。今はママのおばあちゃんの家にあるけど。
ママとこのロフト付きのアパートの103号室に越してきたのは三日前だ。
それまでは幼稚園の近くのマンションに住んでいた。
小学生になったら、サッカーチームに入るはずだった。
ある日、パパが家に帰らなくなった。
理由はパパに「彼女」ができたからだ。
離婚はまだできていない。パパが嫌がっているそうだ。ママは「彼女がいるのに?」と聞いたことのない低い声で笑っていた。
パパの彼女は、同じ会社の人だとママが電話でおばあちゃんと話をしていた。
「パパはね、ママじゃない女の人と結婚するから、もう帰ってこないのよ」
目を赤くしたママに言われ、コタロウは何も言えなかった。
引っ越しを終えたが、このアパートからまた引っ越すことになるらしい。単身者向けの二階建ての古いアパートは現在の耐震基準を満たしておらず、冬に建て替えが決まっている。住宅街の中にあり、静かな環境で人気のエリアだ。近くにバス停があり、交通の便もよい。期間限定、ということで安く借りられた。設備も必要最小限だ。
玄関のドアを開けてすぐ右手にキッチンがあり、左手にトイレとお風呂がある。奥に進むと、ロフトベッドと前の住人が置いていった小さな卓上テーブルとテレビをそのまま使わせて貰っている。ロフトのすぐ側に掃き出し窓があるので光は入るが、一階なので開けっぱなしにはできない。収納も少ないので、コタロウとママの荷物も必要最小限だった。残りの荷物はランドセル同様ママの実家に置かせて貰っている。
コタロウは秘密基地みたいでロフトを気に入っているが、ママはコンロや冷蔵庫の小ささを嘆いている。クーラーが一台ですぐに部屋が涼しくなるのは嬉しい。
現在、一人親を対象とした公営住宅の申し込みをして審査に受かれば、そちらへ引っ越すようになっている。ただ、その条件に、「入居時点で離婚が成立していること」があり、離婚をしてもらえない状況にママが頭を抱えていた。
パパが少しでも有利に離婚したいと思っているせいらしい。
ママは職業安定所や、役所、弁護士のところへ行くため忙しい。コタロウを連れて行くことが多いが、大人同士で話をしているためコタロウには何のことかわからないことが多い。それでも「つまらない」と暴れないのは、ママが一所懸命に自分とのことを考えて動いてくれているからだ。コタロウが入る予定のサッカークラブに通えるようにと、住むところを探し、正社員になるように勤め先も探している。
でも、ママが一所懸命になるほどコタロウは言えないことがあった。
サッカーは好きだけど、そんなに強いチームに入りたいほど好きではない。サッカークラブの見学に行った時、体験でさせてもらったシュートが他の子に比べてちょっと上手にできただけだ。こんなにママが大変なら、クラブに入らなくてもいい。
今更言い出せなくなってしまった。
アパートはいいこともある。とても狭くて、ロフトの上でママと二人で寝られることだ。前のマンションは、コタロウの部屋があり、そこで一人で寝ていた。今は夜中に目が覚めても、隣にママがいるので、トイレも怖くない。
眠るママが、息を吸ったり吐いたりするのを真似して、同じように息を合わせてみる。ママのようにぐっすり眠れる気がした。
その晩も、いつものように目が覚める。時計を見ると午前二時だった。ここへ来てから、かならずこの時間に一度起きてしまう。大抵はママの呼吸を真似していると再び眠れるのだが、この日は違った。
ぐるるるるるるる……。
低い、唸るような鳴き声が聞こえた。
壁の向こう、隣の部屋から聞こえた気がする。
耳を澄ますが、ママの寝息しか聞こえない。
コタロウは起き上がり、ロフトを降りると、壁に耳を当てた。
暫くそうしていたが何も聞こえなかった。
ちょっとがっかりして再びロフトに登り、ママの隣に滑り込む。
すると、ママが寝ぼけながらコタロウを抱き寄せてくれる。
ママの体温に安心して、目を閉じた。
翌朝、ママに夕べ聞こえた鳴き声のことを言ってみる。
「ここはペット禁止だから、いないわよ。となりも学生の子だし、飼ってないと思うわよ。野良猫かしら」
猫のような小さな動物の鳴き声ではなかったと思うが、コタロウは曖昧に頷いた。
もし、猫がいるなら見てみたい。
生まれてからペットを飼ったことのないコタロウはワクワクした。
今日はアパートの周りを探検しよう。
ママと近くのスーパーに買い物に行き、コタロウも自分の小さなリュックにシメジとモヤシ、そして紙パックの子供用ジュースを入れて、ママと手をつないでアパートへ帰ってくる。
アパートの前の道路で、三人の女性が井戸端会議をしていた。
エプロンを着けたままの60代の恰幅の良い女性と、麦わら帽子を被り、農作業の途中らしい50代の女性、日傘を差した30代半ばくらいの女性。そして、少し離れた大家さんの家の門のところで、しゃがんで地面のアリを見ている4歳くらいの女の子。
エプロンを着けた女性が大家さんだ。入居前にアパートの東隣にある家に不動産屋さんと挨拶に行ったので覚えている。そのときも女の子が家の中から顔を覗かせていた。大家さんの孫なのだろう。
「こんにちは」
ママが声をかけ、女性達も「こんにちは」と声をかけてくれる。
「こんにちは」
コタロウも元気に挨拶をし、女の子には手を振った。
「あら、元気がいいわね」
麦わら帽子の女性がにっこりと笑って褒めてくれる。
女の子は小さく手を振り返してくれた。
赤いチェックのワンピースに黒い革靴を履いたおしゃれな女の子だ。
「行きましょう」
ママに手を引かれ、そのままアパートに入る。
ちゃんと挨拶が出来たことにコタロウはほっとした。
ママと二人で麦茶を飲んで、一息つく。
午前中とはいえ夏の熱い日差しで汗を沢山かいていた。
買ったものをママが仕訳している間に、コタロウはママに「この近くを探検したい」と伝えた。
「一人で外に? ダメよ。危ないから」
ママが厳しい顔をする。
「アパートの周りを一周するだけだから。さっきの人達もまだ居るから大丈夫だよ」
井戸端会議は盛り上がっていたので、直ぐには終わらないだろう。
ママは買い物から帰ったら、冷凍する前の下ごしらえをするのがいつもの習慣だったのでまだ時間がかかるはずだ。
「ダメよ。わかっているでしょう?」
ママが怖い顔をしてコタロウの前にしゃがみ込む。
「パパが来たらどうするの? 連れて行かれてしまうわ」
離婚をしたくないパパが親権を主張し、コタロウを連れ去ってやるとママに言ったので、幼稚園を休園し、ママの実家には帰らずアパートに引っ越したのだ。
ぎゅっと抱きしめられ、コタロウはママの肩越しにドアを見つめた。
パパの顔、忘れちゃったから、来てもわからないよ。
ママには一人で出ないことを約束して、ようやく解放してもらえた。
暫く一人でテレビを見ていると、ドアをノックされた。
「こんにちは」
大家さんの声がして、ママが手を拭いていたので、コタロウがドアを開ける。チェーンはかかったままだ。
「突然ごめんなさいね。さっきキュウリとトマトをいただいたの。ウチは二人しかいなくて食べきれないから、お裾分け。よかったら食べて」
ビニール袋にすこし曲がったキュウリが顔を出している。
「まあ、助かります。ありがとうございます」
ママが喜んで貰っている。コタロウは役目が終わったとばかりにテレビの前に座る。
前の家では、テレビは決まった時間しか見てはダメだったが、荷物を最小限にしたため、コタロウのお気に入りの本やブロックを持ってきていない。そのため、テレビの時間が自然に増えていた。
「さっき話していたタナカの奥さんが作ったのよ」
雑談がはじまり、テレビが聞こえにくくなるが、ここで文句を言うとママに怒られるのがわかっているので、口を噤む。
大家さんは何かと気にかけてくれる、とママが話していた。
昨年、このアパートの裏にある家が火事になったが空き家だったためけが人もなかったこと。空き地となった所は、コタロウの部屋の掃き出し窓から見えるので、アパートを建て替える時は高めの塀を建てることなどが聞こえてくる。
テレビの中では、野生の動物としてライオンが紹介されていた。雄ライオンが吠えている。
夕べの鳴き声もライオンみたいに低かったな。
お隣の人はライオンを飼っているのかも。
ちょっとワクワクした。
お昼ご飯を食べ、ママが役所へ出かける支度をしている。コタロウはトイレを済ませた後、自分の水筒とリュックを背負い、帽子も被ったので、靴を履いて玄関でママを待っていた。
「もうちょっと待ってね」
ママの支度は時間がかかる。この後、忘れ物がないかを確認し、部屋中の鍵やガスの確認をするのだ。
コタロウはママを驚かそうと思い、玄関を飛び出した。
裏手に回れば掃き出しの窓からママが見えると思ったからだ。
103号室の窓へ走って行く途中、お隣の104号室の窓の前を通った。チラリ、カーテンの間から何かが見えた気がして、足を止める。
白いカーテンの隙間から、104号室の部屋が見えた。
間取りはコタロウの部屋と同じで、ロフトも同じだ。
ただ、そのロフトの上には、大きな白いトラが寝そべっていた。
コタロウは驚いてそのトラを見つめていた。ロフトの転落防止の囲いがついているので、トラの全貌はわからないが、白い毛皮に黒い線、目を閉じているが、間違いなくトラだ。しかも尻尾がゆらゆらと動いており、ぬいぐるみではない。
コタロウは目が離せず、食い入るように見つめる。
不意に、トラが目を開けた。
金色の美しい瞳だった。
カーテン隙間から見ているが、トラと数秒、見つめ合う。
コタロウはさっきおしっこをしていてよかったと思った。
勝手に膝がガクガク震えている。
トラがコタロウを見定め、目を細めた。
「コタロウ、どこに行ったの!」
ママの怒った声がアパートに響いた。
はっと我に返り、慌てて部屋へと駆け出す。
もう一度お隣の窓を見るが、今度は何も見えなかった。
「ごめん、ママ」
玄関へ戻ると、ママから雷を落とされた。
「勝手に出て行ったらダメでしょう。約束を忘れたの?」
「ごめんなさい。ちょっと探検してただけ」
素直に謝った。
そこから手をつないで、役所に行き、ママが難しい話をしているのを隣でぼんやり眺めていた。
あれ、絶対トラだった。
その晩、また夜中に目が覚めた。
目覚まし時計をみると、二時。
グルルルル……
まただ。
また、鳴き声が聞こえる。
お隣の人はトラを飼っているんだ。
ちょっと大きくて怖かったけど、格好よかった。
明日、ママのスマホでトラのことを調べてみよう。
「いいわよ。一緒に調べてみましょうか」
翌朝、朝食を食べた後、トラについて調べたい、とママに相談すると、ママはコタロウの隣に座って、スマホを見せてくれた。
トラ、と検索すると直ぐにトラについての項目が表示される。
鳴き声を聴くことができるらしいので、ママが音量を上げてくれる。
ぐるるるるるるー
夕べ聴いた鳴き声と似ている気がする。
「トラって大きいのね。牛の鳴き声に聞こえることもあるんですって」
ママがトラについての説明文を読んでくれるが、コタロウの頭には入って来ない。
お隣の人にトラを見せて欲しいとどうやってお願いしようか。
きっと内緒で飼っているから、お願いしてもダメって言われるかな。
二人で画面を見ていると、“弁護士”と表示された。電話がかかってきたのだ。
「ごめんね、電話に出るね」
ママが立ち上がり、余所行きの声になる。
コタロウはテレビをつけ、音量を小さくした。
「え? ああ、はい。わかりました。伺います」
ママの声だけが聞こえた。あまり良い話ではないらしく、言葉尻が強い。コタロウはお腹をさすった。
ママは難しい顔をすることが多くなった。
どうにか前の優しいママに戻って欲しいが、どうしたらいいのかわからない。
サッカークラブに入らなくてもいいよって言えばいいのかな?
がっかりするかな?
「コタロウ、明日ママは弁護士さんとお話があるから、その間おばあちゃんとお買い物してきてくれる?」
山の向こうに大きなショッピングセンターがあるので、そこへママのおばあちゃんがコタロウをみてくれるそうだ。
「いいよ。おばあちゃんとソフトクリーム食べていい?」
甘いもの好きの祖母は、コタロウとでかけると必ずカフェかファミリーレストランに連れて行ってくれるのだ。だが、虫歯を気にする母はいつもいい顔をしない。
「仕方ないわね。ソフトクリームだけよ。夜ご飯が食べられなかったら明後日からおやつはなしにするからね」
明日祖父と祖母が車でここまで来て、ショッピングセンターで祖母とコタロウを降ろし、そこから弁護士事務所へ向かうらしい。
ママはコタロウをじっと見た。コタロウは居心地の悪い思いをしながら、「何?」と聞いてみる。
「……パパに、何か言うことはある?」
ママは口をへの字に結んだ。
「……ない」
パパとどんな話をしたらいいかわからない。コタロウの覚えているパパの記憶は、休みの日にリビングのソファーでTシャツと短パンで横になってテレビで野球かゴルフを見ている後ろ姿か、食事中もスマホを触っているところだった。
ママは「そう」と言ってコタロウの頭を撫でた。
「じゃあ、ママに何か言いたいことある?」
いつもの明るいママに戻ったことが嬉しくて、コタロウは顔を上げた。
「今日の晩ご飯、何?」
「もー、コタロウはそればっかり」
ぐしゃぐしゃと髪の毛を崩され、コタロウは「やめてよー」と言いながらママと笑い合った。
ショッピングセンターをおばあちゃんとあちこち見て回り、ファミリーレストランで美味しいものを食べて満足したコタロウは、おばあちゃんが何か欲しいものはある? と聞いてきたので、生き物図鑑を買ってもらった。コタロウの両手で抱えないといけない大きさだが、トラが写真付きで載っている。今、一番欲しい情報だった。
あちこち歩き回り、休憩がてらカフェで甘いものを食べる。その間ずっと図鑑を見ていた。
「コタロウはトラが好きなのね。トラは強くて格好いいからね」
おばあちゃんはあんみつを頬張りながら、ニコニコしている。
「この辺りだったら、市立動物園に一頭いたはずよ。今度おじいちゃんに言って一緒に見に行きましょう」
おばあちゃんの誘いにコタロウは頷いた。
おばあちゃんは動物園には他にこんな動物もいると教えてくれる。
動物園より先にお隣のトラを見たいな。
ママとおじいちゃんがショッピングセンターまで迎えに来てくれた。
おじいちゃんが「このまま晩ご飯も食べて行こう」と言ってくれたので、早めの夕食をとることになった。
アパートに向かう途中にあるとんかつ屋に入る。座敷に通されて、コタロウはおばあちゃんに買ってもらった図鑑を畳にひろげて読み始めた。
ママは疲れたようにうつむいていた。
「正直、なんであんな男と結婚したのかわからなくなったわ」
はあ、と大きなため息をつく。
料理を待つ間、ママが眉間にしわを寄せた。
「コタロウの前でよしなさい」
おばあちゃんがママを注意するが、おじいちゃんもママに賛同するようにため息をついた。
「まあ、言いたいことはわかる。早く手続きが終わるよう弁護士さんにもお願いしてきたから。お任せするしかないな」
深刻な顔をしたママとおじいちゃんの雰囲気が嫌で、コタロウはわざと明るく話しかけた。
「おじいちゃん、今度動物園に行ってみたい」
「コタロウはトラが好きみたいよ。図鑑をずっと見ていたの」
おばあちゃんが乗ってくれて、尖った雰囲気が柔らかくなった。
「お母さん、ありがとう。最近トラがお気に入りなの。でもお父さんも仕事が忙しいから無理しないで」
ママが遠慮がちに言うと、おじいちゃんはにこにこしながら約束してくれた。
「いいぞ、おじいちゃんと動物園に行こうな」
お腹いっぱいお子様定食を食べ、満腹になったコタロウはウトウトし始める。
そのまま、畳の上に寝かされた。
寝入ったのを見て、おばあちゃんの顔が真顔になった。
「マコトさん、今日は一人だったの?」
「お義母さんが来てたわ。跡取りがー、って騒いでいたけど。マコトのカノジョが妊娠しているのは嘘だったみたい。社内不倫だったから大分立場が悪くなったみたいよ」
鼻で笑いながら、コップの水をぐいっと飲む。
「あちらのお義母さんはコタロウを引き取りたいって言い出して、マコト君が慌ててた。ちゃんと話し合いができていないみたいだったよ」
おばあちゃんは不愉快そうに顔をしかめた。
「不貞をした側がなんで要求できるのかしら。弁護士さんは何て?」
「早く離婚できるようにしましょうって。あの雰囲気だと慰謝料と養育費は分割じゃなく一括にした方がいいかもって言われたわ。分割だと払わなくなる人が多いから、先にとれるだけ取りましょう、だって」
「そうだな。あの感じだとそれがいいと思わされる態度だったよ」
「縁を切ることを優先するのね」
おじいちゃんもおばあちゃんも眉間にぐっとしわが寄った。
ママ達にとって、長くて嫌な一日がやっと終わった。
次の日、朝のゴミ出しにママと行くと、大家さん達の井戸端会議が開かれていた。女の子も大家さんの足に抱きついてちらちらこちらを見ている。
「おはようございます」
ママの真似をして元気よく挨拶する。ゴミの集積場にコタロウの担当の小さいゴミ袋を置く。
「おはようございます。元気にご挨拶できて偉いわあ」
「お手伝いしてえらいね」
口々に褒められ、コタロウは内心得意になる。
「おはよーございます」
そこへ、大きな男の人が近づいた。猫背に黒いリュックを背負って手にはゴミ袋を持っている。半袖の白いシャツに黒いズボンを履いているが、がっしりした体格で、半袖から筋肉に覆われた腕が覗いていた。ママと同じ大きなゴミ袋だが、彼が持つと一回り小さく見える。
「あら、テツ君。おはようございます。いってらっしゃい」
大家さんの声かけに、ぺこり、と頭を下げ、バス停の方へ歩くテツ君に、コタロウは釘付けだった。
「大きいわね、2メートルくらいあるのかしら」
「すごい筋肉ね。なにかスポーツしているの?」
井戸端メンバーが口々に大家さんに尋ねる。
「私も気になって聞いたのよ。まだ2メートルはないらしいわ。柔道だか空手だかの武術をしているって言ってた。学生さんだからまだ伸びるわよ」
「すごいわね。腕があんなに太いなんて。体格もいいし、シュワちゃんかシャガールみたいね」
「山田さん、シャガールは画家よ」
どっと笑いが起こり、話題はテツ君から芸能人の話に変わった。
ママもコタロウの手を引いて、笑いながら失礼します、と部屋へ戻っていった。
コタロウも女の子へ手を振ると、小さく振り替えしてくれた。
「お隣の人、初めて見たわね。このドアだと頭ぶつけちゃうね」
ママがコタロウを部屋に入れながら、ふふ、と笑った。
「大きいお兄ちゃんだね」
「コタロウもあのくらい大きくなるかしら」
ママと洗面台で手を洗い、コタロウは窓際に座って図鑑を開いた。
あのお兄ちゃんとトラだと、一緒に寝たらベッドからはみ出すよね。
また夜中に目が覚めた。
目覚まし時計は二時を指している。
いつも同じ夢を見ていた。
顔にモヤがかかった男の人に突き飛ばされる夢だ。
前に住んでいたマンションで、コタロウがブロック遊びをしていると、男の人が大きな声で何かを叫びはじめる。そして驚いて逃げようとするコタロウを突き飛ばすのだ。コタロウは背中から壁に激突し、ママが悲鳴を……。
ぐるるるる……
うなり声が聞こえ、コタロウは隣室側の壁を見る。
ロフトでトラが寝るとお兄さんはどこで寝るんだろう……。
ぼんやりとそんなことを考えていると、うなり声が強くなった。
コタロウはいつもと違う展開にそっと起き上がる。
ガウっ
短く吠えた声が聞こえ、思わず体を竦めてしまう。
暫くしてロフトを降り、掃き出し窓のカーテンをめくる。
新月のやさしい光が静かに辺りを照らしている。
裏の空き地には誰も居らず、変わったことはないように見えた。
「きっと気のせいだ」
コタロウがカーテンを元に戻そうとした瞬間、ソイツはいた。
黒い人のような形をしたものが、窓ガラス一枚を隔てた所で、コタロウを見ていた。
顔があるが、目も口も黒い空洞で、輪郭もぼんやりしているのに、こちらを見ているのはわかる。
コタロウはカーテンを持つ手が震えているのがわかった。
これまでに見たことのないモノだった。
確実に良くないモノというのがわかる。
怖い。
黒いソイツはじっとコタロウを見つめている。
歯がガチガチと鳴るのが止められない。
背筋が寒くなる。
助けて。
声が出ない。
恐怖に支配されるコタロウは、ソイツと目を合わさないように必死で視線を上に逸らした。
その瞬間、さっと黒い影が差し、白く美しい毛並みがコタロウの目の前を横切った。
月に照らされて、白と黒の縞々の尻尾が弧を描く。
ホワイトタイガーだった。
図鑑には黄色いトラが記載されていたが、ホワイトタイガーも国内にはいるらしい。
黒いソイツは、トラの前足に潰され、霧散した。
コタロウが呆然としていると、トラもサッと消えた。
窓の外には、月明かりに照らされた空き地があるだけだ。
夢をみていたのだろうか。
コタロウは夕べの出来事を思い出す。
朝、いつものようにベッドの中で目覚め、いつも通りの朝が始まった。
ママにも夕べ変わったことがなかったか聞いてみたが、何もないと言う。
コタロウは勇気を出して掃き出し窓に近づいた。
「これから雑巾がけするから、窓を開けてくれる?」
ママが脳天気に言ってくる。コタロウはごくり、と唾を飲み込み、カーテンを勢いよくはぐった。
なにもなかった。
いつも通りの景色がそこにあるだけだ。
草の生えた空き地の向こうに道路がある。その向こうは駐車場があった。
目だけをキョロキョロと動かして見る。
ママがモップを持って床を拭き始めた。邪魔にならないように移動しなくては。
コタロウはほっと肩の力を抜いた。
多分、夢だったんだ。
「あら? すごい汚れてるわね。夜に雨でも降ったのかしら」
窓ガラスについた汚れにママが顔をしかめる。
そこには、黒い水が散ったような汚れがいくつかついていた。
今日は市役所へ行く日だ。
ママは「どうせなら一度に全部済ませたい」と他にも行くようだ。
コタロウは張り切って準備を終え、ドアを開けたり閉めたりしながら、ママの支度が終わるのを待つ。
ガチャリ。
隣の家のドアが開き、ぬっと大きな人が出てきた。
半袖のシャツに黒いズボン、背中にはリュックを背負っている。きらり、と両目が金色に光った気がした。
コタロウが今まで会った誰よりも大きい。
「おはようございます」
低くて太い声にコタロウは驚く。
夜に聞こえてきたトラの声とよく似ていた。
「おはようございます。ほら、コタロウ、ご挨拶して」
支度を終えたママがドアを開け、お兄さんに挨拶をする。
「オハヨウゴザイマス」
お兄さんの視線を感じながら、もじもじと挨拶する。
「学校? 行ってらっしゃい」
ママの言葉に、お兄さんはぺこりと頭を下げて道路へと歩いて行く。
ママが居なければ、トラのことを聞けるのに。
「ほら、コタロウ、行くわよ」
手を繋がされ、コタロウもアパートを出た。
グルルルルルル……
まただ。
午前二時。
必ずトラの声がする。
コタロウは起き上がり、窓の方へと歩いて行く。
そして、昨日と同じくカーテンの隙間から外を覗いた。
裏の空き地に、髪の長い女の人が立っていた。
昨日は、性別もわからない黒い人のようなモノ、だったが、今日ははっきりわかる。
一人、皮膚も顔も全て黒い、服を来ているかもわからないが、女性という事だけはわかる。ボサボサの長い髪をした、目と口が空洞になった若い女性がいた。
コタロウの歯が勝手にカチカチ鳴り出し、膝が震え始める。
禍々しいモノだった。
幸い、こちらを見ていないので、コタロウと目が合わなかったが、この世のものではない女性に釘付けになってしまった。
女が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
目が合った。
目などないはずなのに、目が合ったとわかった。
女はゆっくりとコタロウに一歩、また一歩と近づいてくる。
カーテンを持つ手を放したら、あの人は見えなくなるだろうか。
女性が、棒のように細長い手をこちらに伸ばす。
コタロウが思わずぎゅっと目をつむった。
ガッ。
何かが潰れる音がして、コタロウが目を開けると、昨日と同じように白いトラが、前足で女を潰していた。
足の下でくねるような動きをしながら、徐々に黒い粉となっていく女の人を見て、やっと震えが止まった。
白いトラは今度こそはっきりとコタロウに金色の目を向けた。
数秒、無言で見つめ合う。
月明かりの中、白く光るトラを見ていると自然と肩の力が抜けていく。コタロウはその場に座り込んだ。
コタロウは確信していた。
お隣のお兄さんはトラを飼っている。そして夜に放し飼いにしてあの黒いモノをやっつけているに違いない。
朝、ママが掃除機をかけているので、コタロウはカーテンを開ける。明るい日差しの中、女の人が立っていた辺りを見る。何もなかった。窓の外側がまた、黒く汚れていた。
コタロウはママに窓の掃除をすると言い、玄関から靴を持って掃き出し窓から外へ出た。とりあえず雑巾で手の届くところを拭きながら隣の様子を伺う。
カーテンは閉まったままで、中は見えない。
残念な気持ちで窓拭きを終えた。
今日は早く寝て、夜にトラを見よう。
なぜかママには言う気になれなかった。
ママがお昼ご飯の支度をしている間、おばあちゃんの買ってくれた図鑑を見ていた。トラだけでなく、色々な動物が載っていて、何度も見ている。
車の停まる音がして、コタロウはドアの方をみた。
配達のトラックのエンジン音ではない。もう少し小さい車だ。
コタロウが耳を澄ませていると、ママの携帯電話が震え始めた。
ママがビクっとして火を止めて表示された画面を見る。
「お義母さん……」
出るか迷っていると、ドアを誰かがノックした。
コタロウはドアへと走り出す。ママはコタロウに手を伸ばしたが、遅かった。
「はい」
玄関まで走り、ドアを開ける。チェーンがかかっているので、ちょっとしか開かない。
「ここにいたのか、コタロウ」
なんとなく聞き覚えのある声がしてコタロウは顔を上げた。
「誰?」
大人の男の人だった。
髪の毛はボサボサで、顔色が悪い。ポロシャツにジーンズという格好だが、どこかだらしない印象を受ける。
逆光のせいもあり、しっかりと顔が見えなかった。
コタロウの言葉に、男は目を見開き、口を開けたまま動かなくなっていた。
「誰って……」
ママは後ろからコタロウを引き寄せる。
「どうしてここがわかったの?」
ママが悲鳴に近い声で叫ぶ。
男ははっと我に返り、チェーンがかかったままのドアを揺らした。
「開けろよ。話し合いに来たんだろ。誰ってなんだよ。お前が教えたのか? 俺を見たらそう言えって」
男の怒鳴り声が響く。
「大きな声出さないで。帰ってよ。弁護士さんがいないと会わないって言ったはずよ!」
ママが負けじと怒鳴り返した。
「ふざけんな。俺は同意してない。勝手に出て行って。俺は認めてないからな!」
ドアを開けようとガチャガチャと揺らして引っ張り始める。
「止めてよ。警察を呼ぶわよ」
コタロウはママの様子から、この男がパパであると気づいた。
ママはパパを怖がっているのか、抱きしめる手が震えている。
だけどコタロウは全く怖くなかった。
トラにやっつけられた黒いモノの方が何倍も恐ろしかった。
冷静に、パパの顔を観察する。
夢の中ではモヤモヤしたものが顔にかかっていたが、今ならはっきり見える。
「パパって、こんな顔だったんだ……」
コタロウの呟きが、思ったより大きく響いた。
「え? コタロウ……?」
パパは動きを止め、呆然としている。
「マコト、コタロウは居たの?」
パパの背後から聞こえた声に、コタロウが反応する。
「ばあば?」
コタロウの問いかけに、ばあばは嬉しそうに応える。
パパのママは「ばあば」でママのママは「おばあちゃん」と呼び方を分けている。ばあばが「おばあちゃん」と呼ばれるのを嫌がったためだ。祖父の呼び方もそれに倣っている
「そうよ、コタロウ。ばあばですよ。マコト、何しているの? 話はできたの?」
わずかなドアの隙間から顔を覗かせ、コタロウを見ようとパパを押しのける。
「お義母さん、突然来られても困ります。会うときは弁護士さんを通していただくように言ってたはずです。もう警察を呼びますよ」
ママが厳しい声で言うと、ばあばが顔色を変えた。
「孫に会うのに弁護士を通さないといけないなんて、おかしいでしょう」
ややヒステリックに叫ぶと、ドアを開けようとする。
「ばあば、ドアが壊れちゃうよ」
コタロウも困った顔をする。
「何で……何で母さんは『ばあば』で、俺は『誰』なんだよ」
突然、パパが壁を力一杯蹴った。アパートの壁が揺れる。
「マコト、いきなり何するの。止めなさい」
驚いたばあばがパパに注意する。
「お義母さん、この子、マコトさんの顔を忘れてしまったみたいです」
コタロウを抱きしめながら、ママが告げると、ばあばがパパを振り返る。
「嘘でしょう? 実の父親の顔を忘れるなんて。別居して十日ぐらいでしょう。顔がわからなくなるはずがないわ」
義実家にはそれ以上行っていないので、忘れるとしたらばあばの顔の方が先だ。
しかし義実家はコタロウをかわいがってくれていたので、季節ごとに贈り物や電話でのやりとりをしていた。そのためコタロウもよく覚えていた。
「その前から家に帰って来なくなってましたから。コタロウ、パパと最後に会ったのいつか覚えてる?」
コタロウは少し上の方を見ながら思い出す。
「今原選手が満塁ホームランを打った時、パパがソファーから飛び上がってた」
野球の話に、ばあばが首を傾げる。
それほど野球に詳しくないばあばも知っている地元チームの主力選手だ。
「今原は去年引退したじゃない。もっと最近、何かないの?」
年末年始はじいじがインフルエンザにかかったのでばあばの家には行かなかった。ばあばと会ったのは春休みに一緒にデパートで買い物をして、レストランでお子様ランチを食べさせて貰った時だ。そのときはじいじがいた。パパはいなかった。
コタロウは首を振る。たまりかねたママが口を開いた。
「去年の秋から交際していたようですから。仕事の時は終電で、休みの日は家にいても寝転がってスマホをいじっているだけでした。コタロウが幼稚園で描いた絵には、顔が目も口もなくてスマホの後ろ側が描いてありました。題名が『ぱぱ』だったんです。幼稚園の参観日に先生から呼ばれて……」
ママが淡々と事実を告げる。パパの行動が怪しいと思ってはいたが、実際にその絵を見て離婚を決断した。浮気の証拠を掴むため探偵を頼み、弁護士を探し、準備をしてから家を出た。ママの実家はコタロウが入る予定のサッカーチームが遠くなるので、通える公営団地を申し込んでいる。
ばあばが驚いて口を開けたまま、パパとコタロウを交互に見た。
「お相手が妊娠したと言った時には、コタロウの学資保険を勝手に解約したんですよ。この人。コタロウの大学資金だったのに。今だって自分の都合が悪くなると黙るでしょう?」
思わず責める口調になってしまい、ママはコタロウの顔を見ないようにパパを睨み付けた。
ばあばは、ママの顔を見て、「学資保険……」と呟いた。ドアに隠れてパパの顔は見えない。
「もう、帰って下さい。次に弁護士事務所以外で見たら警察に通報します」
ママがきっぱりと告げ、コタロウは小さく手を振った。
「ばあば、バイバイ」
ママがドアにかかっていたばあばの手を外して、静かにドアを閉め、鍵を掛ける。
ドアの外ではばあばの怒っている声だけが聞こえたが、やがて車のエンジン音がして、静かになった。
ママがすぐに荷造りをしてタクシーを呼び、おじいちゃんの家へと連れて行かれた。
そのままおじいちゃんの家に泊めてもらう。
コタロウは今夜トラを見られないのが残念だった。
そんなことを考えていたせいか、今日の夢は、顔にモヤのかかった男が、白いトラに前足で弾き飛ばされる夢だった。
あんなに怖かった男が、紙のようにぺしゃんこに潰れ、どこかへ飛んでいった。
コタロウは「こんなのを怖がってたのか」と男が飛ばされていくのを見ていた。
窓の外でトラにやっつけられた黒いモノの方がよっぽど怖かった。
翌日、弁護士さんからパパが逮捕されたと連絡があった。
電話を受けたママが何度も「え?」を繰り返す。
昨夜の12時頃、掃き出し窓のガラスを割ったところを、隣のお兄さんが捕まえてくれたそうだ。
おじいちゃんの家に着いてから、大家さんには留守にすることを伝えていた為、大家さんはすぐに警察に通報したらしい。
昨日、パパはばあばに問い詰められて、これまであったことを白状したらしい。
会社の後輩と浮気をしたこと。相手から妊娠した、と言われたこと。コタロウの学資保険を解約して相手に渡したこと。コタロウを突き飛ばしたこと。相手が妊娠していないことがわかり、別れ話がこじれ会社にバレたこと。
ばあばは激怒した。浮気も誤解で、コタロウの教育方針でケンカになり、こじれたのでママの実家にコタロウを取られると、嘘を聞かされていたからだ。
仕事から帰ったじいじもばあばから事情を聞き、パパを勘当すると叫んだ。
二人とも、コタロウに手を挙げたことが許せなかったらしい。
パパは怒られたあと、全部ママとコタロウが悪いと思ったそうだ。そのまま酒を飲んだ勢いでアパートに来て、ドアを叩き、返事がないので裏手に回り窓を壊して侵入しようとした。
ガラスの割れる音を聞いたお隣のテツ君が、すぐにパパを捕まえたらしい。
パパは警察に連れて行かれる時、「白いトラが……」と錯乱していたため、薬物検査までされたそう。
白いトラは昨日も活躍したらしい。
やっぱりお隣のお兄さんが飼っているんだ。
大家さんからも電話があり、「無事でよかった」と言われた。
ガラスは大家さんが業者を手配してくれたが、少し時間がかかるようだ。
おじいちゃんとママが警察の人と一緒に被害状況を確認するため一度見に行ったが、まだアパートには帰れない。
今日もおじいちゃんの家で、動物図鑑を見ていた。
帰ってきたママは大きくため息をついた。おじいちゃんとおばあちゃんもため息をつく。
コタロウも真似をして大きくため息をついてみると、「もう」と笑ってママにおでこを突かれた。
三日後、弁護士事務所でじいじとばあばがママとコタロウに相談したいことがある、と言って呼び出された。
じいじもばあばも、疲れた顔をして事務所の応接室へ入ってきた。
「じいじ、ばあば」
コタロウが声をかけると、二人は泣きそうな顔をした。
ママが立ち上がって頭を下げると、じいじとばあばも頭を下げた。
「ウチの息子が大変なご迷惑をおかけして申し訳ない」
「アパートまで押しかけてごめんなさい。なんとお詫びしたらいいのか……」
アパートがわかったのは、前回の弁護士との話し合いの時に、パパが弁護士事務所の駐車場に停まっていたおじいちゃんの車を見つけ、こっそり位置情報がわかるモノを取り付けたからだ。ばあばをだまして車を出させ、アパートまで乗り込んだことをじいじが聞き出した。
じいじとばあばは小さくなってしまったようだった。
弁護士さんが取りなして、全員座る。
難しい話が始まりそうで、コタロウは膝の上に持って来ていた図鑑を開く。
「コタロウ君の解約された学資保険を補填したいとお申し出がありました。今回のマコト氏の逮捕を受けて、慰謝料と養育費も代わりにお支払いされたいそうです」
パパは釈放されたが、会社から処分が決まるまで自宅から出ないよう命令があったそうだ。じいじもばあばも嘘をついたパパを信じられないため、弁護士さんに相談し、二人で来たそう。
不起訴にしたいのだろう、とおじいちゃんが予想していた通りだったので、ママは「おっしゃりたいことはわかりました」とだけ言う。
パパとはもう関わり合いにならないこと。親権もママにすることなど条件を話し合う。
しばらく真剣な話し合いのあと、じいじが絞り出すように言った。
「コタロウは久しぶりに会ったのにじいじと呼んでくれた。同じ家に住みながら顔がスマホの父親ならいないほうがいいだろう。本当に自分の息子ながら情けない」
話し合いは順調に進み、パパがママとコタロウに近づかないこと、じいじがパパに離婚届を書かせることを約束した。
「大家さんにお詫びとお隣のお兄さんにお礼に行かなきゃね」
次の日、ママがおじいちゃんの車を借りてコタロウと大家さんの家へ向かう。
事前に連絡していたので、大家さんは家の前で迎えてくれた。菓子折を渡すと、縁側へ案内され、そこでお茶を振るまってくれた。
コタロウの部屋は割られた窓が修理されたが、まだ家の中は片付ていない。もしかしたら、ガラスの割れた欠片が残っているかもしれないので、これから確認がてら部屋を片付ける予定だ。昨日はじいじとばあばも謝罪に来たそうだ。
パパを取り押さえてくれたお隣のお兄さんにもお礼がしたい、とママがいうと、学生なので日中は殆どいないと教えてくれた。部活があるので土日も不在が多いそうだ。
ついでにお兄さんへのお礼の品を相談する。
食べ盛りで一人暮らしなので、近くの焼き肉チェーン店の商品券はどうかと提案された。
「たしかに、たくさん食べそう」
ママは大家さんにお礼を言い、部屋の掃除にアパートへ向かった。
久しぶりのアパートはカーテンが取り払われて明るかった。
ママが掃除機の準備をしたので、コタロウが雑巾を絞りに行く。
窓には外側から黒い汚れが点々とついていた。
コタロウはその汚れを拭きとった。
掃除をして、着替えなど必要なものを持って部屋を出る。ママから、おじいちゃんの家にしばらく住むようにしよう、と言われた。
パパはもう来ないだろうが、何かあった時にママとコタロウだと危ないから、といわれた。コタロウはママを守るつもりだが、大人にはかなわない。
「秋におじいちゃんが異動でちょっと遠くへ引っ越すことになるんだけど、一緒について行こうと思うの」
ママが言うには、このまま近くに引っ越しても、またパパが来るかもしれないので、おじいちゃんの異動先へ一緒に引っ越した方が安全だと考えたそうだ。
「今度のところは、野球とサッカーが盛んで、バレーやバスケのプロチームがあるし、ちょっと車で走ると山も海もあってご飯も美味しいぞ」
おじいちゃんも異動先のいいところを並べる。
「幼稚園のお友達とは離れちゃうけど、新しいお友達もすぐにできるわよ」
おばあちゃんも説得に入る。
コタロウは今、幼稚園を休んでいるが、特に友達に会えずに寂しいとは思っていなかったので、まあいいか、と思う。
サッカークラブに入るためにママが頑張らなくて良くなったのだ。コタロウは良かったと安堵した。
「わかった。行く」
コタロウが空気を読んで承諾すると、皆がほっとした顔になった。
アパートを引き払う時、お隣のテツ君へお礼の挨拶に行った。
日中に荷物を片付け、夜にはおじいちゃんの家に帰るので、学生のテツ君と会えなかった。
大家さんにお願いして在宅時にいる時間を教えて貰い、あらかじめ挨拶に伺うと伝えて貰っていた。
テツ君は玄関の鴨居に頭をぶつけないように屈んで出てきてくれた。
190センチはあるだろう高身長に加え、みっちりと筋肉のついた体格に、キリリと濃い眉、鋭い眼光。間近でテツ君を見て、コタロウはあまりの大きさに釘付けになる。
「本当にありがとうございました。ご迷惑をかけてすみません。これ、よかったらお友達と食べに行ってください」
ママがお菓子の入った袋と焼き肉屋さんの商品券を渡すと、テツ君もぺこり、と頭を下げた。
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」
太く低い声だった。
コタロウはテツ君を見上げたまま、動かない。
「コタロウ、どうしたの? 帰るわよ」
動かないコタロウをママが引っ張る。
テツ君はじっとコタロウを見つめた。
「あのね、トラの耳の後ろはね、白いんだよ」
子どもが後を着いて来やすいように目印となっているらしい。
「ごめんなさいね、この子、最近トラが好きみたいで」
テツ君は驚いた顔をしていたが、ふっと笑った。
「ワシは白いトラじゃけえ、耳以外も白いんよ」
挨拶以外の言葉を初めて聞いたコタロウは、思わぬ方言に驚いている。
ママはパパが捕まった時のことを思い出したらしく、テツ君に「本当にすみません」と恐縮していたが、コタロウはトラを飼っていたのではなく、テツ君が白いトラだったと知った。
「見たい。お兄さん、トラになって」
真剣にお願いしたが、テツ君は肩を竦めた。
「トラは夜にしかなれんのじゃ。よい子は寝とる時間じゃけえ、子どもは見れんのよ。すまんのお」
「ロフトでお昼寝してたの見たよ?」
テツ君は言葉に詰まった。
「もう、コタロウ、いい加減にしなさい。お兄さん、困ってるでしょ」
ママに止められ、テツ君に別れを告げる。ママはテツ君がコタロウに話を合わせてくれたのだと思っている。
大きな手でバイバイをされ、コタロウは引きずられるようにして、大家さんの家に行った。
お世話になりました、と挨拶をし、菓子折を渡す。
「テツ君がトラだった? そうかもしれないねえ」
まだ、テツ君と話をしたかったコタロウが膨れていると、大家さんに理由を尋ねられ、ママが説明する。大家さんはニコニコと話を聞いてくれた。
「アパートの裏の家が火事になってから、黒い影が見えたって近所で噂が立ってね。気持ち悪いから不動産屋さんの紹介で、拝み屋さんに視て貰ったの。アパートでも火事になった家でもなくて、原因は北にある道路の一部が霊道になってて、空き地に迷い込んで来るって言われてね。きちんと地鎮祭をして塀で囲えば大丈夫っていわれたのよ。いつもお願いしてる神主さんの関係で秋まで地鎮祭ができないから、空き家にして肝試しとかされると困るでしょう? それでテツ君に学校の寮が閉まる夏休みの間だけ用心棒代わりに住んで貰ってるのよ。高校生だけど、あの体格でしょう? もう、心強いのよ。礼儀正しいし、ずっと住んで欲しいくらい」
テツ君は地方から来ていて、部活のためにこちらへ残っているらしい。たまたま大家さんの知り合いが学校の先生からその話を聞き、来てもらったそうだ。
「ええ? 全然、そんな黒いモノとか見なかったですよ。それより高校生? 大学生かと思っていました」
ママが驚くと、大家さんもにっこりと笑った。
「しかも一年生なの。まだ成長期なんですって」
玄関から窮屈そうに出てきたテツ君を思い出したのか、ママはアパートの方を見る。コタロウもアパートの方を見た。
なんとなく、ママに言わない方がいいと思って口を噤んだ。
多分、大家さんはテツ君がトラになって、黒いヤツをやっつけていることを知っている気がした。
大家さんに礼を言い、おじいちゃんの車に乗り込む。チャイルドシートに座り、ベルトを確認していると、大家さんの家の窓から、チェックの服を着た女の子がこちらを見ている。
コタロウが手を振ると、女の子も手を振り返してくれた。
「誰に手を振ったの?」
ママが車をゆっくり発車させながら聞いてきた。
「え? 女の子だよ」
「そんな子いたかしら?」
井戸端会議で大家さんの足下にいたとママに説明すると、ママが笑い出した。
「もう、大家さん達はずっと大人だけだったわよ。子どもはいなかったわ」
大家さん家はご夫婦の二人暮らしよ、とママが教えてくれる。
コタロウは振り返った。大家さんの家の門が見えるだけで、人は見えない。
ママは「チェックのお洋服なんておしゃれね」と笑っていた。
本当にいるのに。
コタロウは黙って窓の外を見ていた。
「コタロウ、バタバタしてごめんね。次のお家でも強いサッカーチームに入れるように探してみるわね」
不意にママが言った言葉に、コタロウはごくり、と唾を飲んだ。
ここで言わなければ。
将来、サッカー選手になるよりも、テツ君みたいに強くなりたい。
悪いモノをやっつけて、ママを守りたい。
あんな風に筋肉をつけてトラになる。
そしてロフトでお昼寝をするんだ。
コタロウは勇気を出して口を開いた。
「あのね、ママーーー」
焼き肉いいですよね。
ありがとうございました。




