45話 夜明け
戦いの余韻がまだ地面に残っていた。
焦げた土の匂いと、冷たい夜気。
アリシアは剣を下ろし、深く息を吐く。
エルシオはその背後で静かに息を整え、目の前の赤髪の男を見つめていた。
月光を浴びたその男――レギウスは、金色の瞳をゆっくりと開いた。
その眼差しには怒りも憎しみもなく、ただ長い眠りから覚めたばかりの静けさが宿っている。
沈黙を破ったのは、村長だった。
老人は杖をつきながら前に出て、深く頭を下げる。
「……長い間、あなた様を閉じ込めたままで、申し訳ありませんでした」
「俺を封印したのはお前らじゃねぇだろ。それに……随分と時間が経ったもんだな」
「はい。五百年です」
村長の声には恐れよりも、安堵があった。
「我々は代々、あなた様を再び迎えるために祈りを続けてきました。泉の水を汲み、魔力を注ぎ、少しずつ封印を緩めて……やっと、この日を迎えたのです」
レギウスは短く目を細め、息を吐く。
「……そうか。まだ俺のことを覚えてたのか。五百年も経ってるのに、よく忘れなかったな」
アリシアが一歩前に出た。
「あなたは、この地を守っていたのですよね?」
「ああ。昔はあの泉の魔力が強すぎた。魔物が飲めば暴走する。俺は《魔力阻害》でそれを抑えていた。そうしなければ、この辺りはとっくに魔獣の巣だ」
彼の視線の先――森の奥に、月光を受けて青く光る泉が見えた。
五百年という時を経ても、なおその輝きは失われていない。
村長がゆっくりとうなずく。
「ですが今、その泉の魔力はかなり薄まりました。もはや危険はありません。私たちはこの五百年、あなた様の力がなくとも生き延びてきました。魔物の襲撃も退け、土地を守り抜いたのです」
レギウスはわずかに笑う。
「なるほどな。強くなったもんだ、人間も」
アリシアも静かに微笑んだ。
「ええ。あなたが守っていた時代よりも、ずっと」
風が吹き、赤髪が揺れた。
レギウスはしばらく夜空を見上げ、肩をすくめる。
「……そうか。なら、俺の役目はもう終わりだな。五百年分、寝すぎたし――少し動きたくなってきた」
エルシオが思わず口を開く。
「よければ、僕たちと旅をしませんか?」
その一言に、レギウスが金の瞳を向けた。
「旅、ねぇ……俺が行っていいのか? 魔族だぞ」
アリシアはまっすぐに言葉を返した。
「あなたが“いま”敵でないことくらい、わかります。
さっきも本気で殺そうとしていなかった」
レギウスは小さく笑った。
「……見抜かれてるな。まぁ、五百年も寝てりゃ勘も鈍るか」
エルシオも頷く。
「僕も一緒に行ってほしいです。あなたのような人から学べることが、きっとたくさんあると思うから」
少しの間、静寂が続いた。
レギウスはふっと息を吐き、口角を上げる。
「……いいだろう。暇つぶしに付き合ってやるよ。旅の空気でも吸ってみるか」
村長が深く頭を下げた。
「レギウス様……どうか、お元気で」
「“様”はやめろ。ただのレギウスでいい」
そう言って、彼は軽く手を振った。
祠の外には冷たい夜風が吹き抜けていた。
三人はゆっくりと村をあとにする。
その背を、村人たちは誰一人として疑うことなく見送った。
夜空には雲ひとつなく、星々が静かに瞬いていた。
封印が解けたことで、空気が少し澄んだようにも感じる。
歩きながら、レギウスがぽつりと呟いた。
「……それにしても、五百年も経ってるのに、月の形は変わらねぇんだな」
アリシアが微笑む。
「空の月は、いつだって同じですよ。でも、見る人の心は変わります」
レギウスはわずかに笑い、夜空を見上げた。
「なるほどな。人間は、そうやって強くなるのかもな」
エルシオは二人の後ろを歩きながら、静かに息を吐いた。
かつて敵として剣を向けた男が、今は隣にいる。
その不思議な光景に、どこか安心を覚えた。
――五百年続いた祈りは、ようやく終わった。
そして、新しい旅が始まろうとしていた。
東の空が、ゆっくりと白みはじめる。
三人の影が重なり、朝靄の中をまっすぐに延びていった。




