4話 帰宅
街の灯が見えてきたとき、エルシオは胸の奥から大きく息を吐いた。
喉の奥に残る血の匂い。枝を握りしめた手は汗で濡れ、まだ震えが止まらない。
ゴブリンに襲われ、死にかけた――そんな現実感のない体験を、どうにか振り払うように足を速めた。
石畳の門をくぐると、いつもの街の喧騒が耳に戻ってくる。
パン屋からは香ばしい匂いが流れ、行き交う人々の笑い声が聞こえる。
それら全てが、つい先ほどまで味わっていた死の恐怖を遠ざけてくれた。
◆
家の扉を開けると、温かな灯りが迎えてくれる。
石壁に反射する橙色の光が、冷えた体を包み込むようだった。
「おかえり、エル」
テーブルに帳簿を広げていたミレナが、顔を上げて微笑む。
四つ年上の姉。幼い頃に両親を失った自分を育ててくれた人だ。
「……ああ、ただいま」
声が少し掠れた。
平静を装うつもりが、胸の鼓動の速さまでは隠せない。
「随分遅かったのね。外に行ったんでしょ?」
「うん……。小屋を見てきただけさ。梁が傷んでたけど、大工に任せれば十分」
努めて軽く答える。
本当は、帰り道に魔物に襲われて死にかけたことを話したかった。
けれど口を開けば、恐怖に呑まれて震えてしまいそうで――何も言えなかった。
◆
ミレナは帳簿を閉じ、スープ皿をテーブルに置いた。
「夕飯、冷めちゃったけど。ほら、食べなさい」
「ありがとう」
匙を持つ手がわずかに震える。
温かいスープが喉を通り、胃に落ちると、張りつめていた体が少しだけ緩んだ。
――だけど。
頭の中では、あの瞬間が何度もよみがえる。
ゴブリンに覆いかぶさられたとき。
死を覚悟した一瞬。
脳裏に焼き付いた“確信”。
――そこを突けば、倒れる。
今まで道具や建物にしか効かないと思っていたスキル〈弱点看破〉。
それが、生き物に通じた。
ならば――人間にも?
◆
スープを飲み干す頃には、胸の奥のざわめきが抑えきれなくなっていた。
目の前の姉を見つめる。
暖かな微笑み。その姿に救われながらも、どうしても疑念を拭えない。
確かめたい。
けれど、もし本当に効いてしまったら――。
心臓が早鐘を打つ。
恐怖と好奇心がせめぎ合い、やがて恐怖を押し退けた。
エルシオは静かに目を閉じ、スキルを発動する。
◆
見えるわけじゃない。
色や線が浮かぶわけでもない。
けれど、分かる。
意識が自然と一か所に引き寄せられる。
――左足。膝。
そこが弱い。
突かれれば簡単に崩れる。
そう強烈に理解できてしまった。
息が詰まる。
心臓を握られたような感覚。
「エル? どうしたの、ぼんやりして」
ミレナが首を傾げて覗き込む。
その瞬間、エルシオは慌ててスキルを解除した。
視界に浮かんでいた“確信”が消え、目の前にはただの姉の姿だけが残る。
◆
思い出す。
ミレナが幼い頃に足を怪我したことを。
転んで大怪我を負い、何日も寝込んだ。
その痕が今も残っているのだろう。
〈弱点看破〉は、その古傷までも見抜いた。
偶然ではない。
間違いなく、人間にも作用する。
「……怖いな、これ」
小さく漏れた呟きは、自分にしか届かない。
この力は、人を救うことにも使えるだろう。
だが同時に――人を傷つけるためにも使えてしまう。
その事実が、何より恐ろしかった。




