38話 魔族について
朝の霧がゆっくりと晴れ、森の緑が金色に染まっていく。
焚き火の跡から漂う微かな煙が風に流れ、夜と朝の境目を溶かしていた。
アリシアは剣を磨きながら、小さく息を吐いた。
その横顔を見て、エルシオは思い切って声をかける。
「昨日の、魔族のこと。もう少し……教えてもらっていいですか?」
アリシアは手を止め、少しだけ考えるように空を見上げた。
朝日が髪を照らし、銀糸のような光がこぼれ落ちる。
「ええ、構いません。どこから話せばいいでしょうか……」
「魔族って……生まれつき魔族なんですか?」
その問いに、アリシアは首を横に振った。
「いいえ。彼らは、もともと私たちと同じ“人間”でした。
けれど、光の神の加護ではなく、“魔神”の加護を求めた人たちなんです。」
「魔神……?」
「この世界では、生まれたすべての者に、光の神からひとつスキルが与えられます。
でも、中にはそれに満足できない人たちがいました。
“もっと強い力を” “もっと速く成長を”――そう願った者たちです。
彼らは神の祈りを捨て、代わりに“魔神”へと祈りを捧げました。」
アリシアは手を膝の上に置き、少し遠くを見るように続ける。
「そして、魔神は応えた。人の欲望を好む存在ですからね。その者たちに、もうひとつのスキルを与えたのです。」
「……じゃあ、魔族はスキルを二つ持っているんですね。」
「はい。光の神から与えられた本来のスキル。そして、魔神から与えられた“もうひとつの力”。それが魔族と人との違いです。」
エルシオはゆっくりと息を吐いた。
まるで常識がひとつ崩れたような感覚だった。
「……それじゃ、昨日のバラムガンってやつも?」
「そうです。彼は“魔神に気に入られた魔族”の一人。魔神から特別に与えられたスキル――《憑依》を持っています。」
アリシアの声が少し低くなる。
風が通り抜け、森の葉が揺れた。
「憑依……」
「ええ。離れた場所にいる魔物や人の体に、自分の意識を宿すことができる。
本体は別の場所にいながら、遠くの世界を覗き、言葉を交わし、時には戦うこともできる。
昨日のオークに宿っていたのが、それです。」
エルシオは、あの異様な光景を思い出す。
獣の体が喋り、意思を持って動いていた。
その背筋に、再び冷たい感覚が走る。
「じゃあ……本体は、別に?」
「ええ。バラムガンの肉体は、おそらく遠い場所にあります。憑依は魔神の力に近いスキルです。使えるのは、ごく一握りの魔族――四人だけ。」
「……四将。」
アリシアは静かに頷いた。
「そうです。
魔族を統べる四人の将。
彼らは“新しい魔王”に仕えているはずです。」
「新しい……魔王。」
「魔神に最も気に入られた魔族が、魔王と呼ばれます。その者だけは、特別に二つのスキルを与えられるんです。魔神の意志を最も色濃く受け継ぎ、他のすべての魔族を従える存在。それが“魔王”です。」
その言葉を聞いた瞬間、エルシオの背筋が震えた。
“最も気に入られた者”という言葉が、妙に引っかかる。
「じゃあ、今の魔王も……?」
「姿も名前も分かりません。
けれど、魔族たちが動き始めたということは、
すでに選ばれたのかもしれません。」
アリシアはそう言って、目を伏せた。
淡い光が彼女の髪を照らし、わずかに風が頬を撫でた。
「昔の魔王を倒したときも、四将はいたのですか?」
「はい。けれど、私は直接会っていません。
当時は、魔王だけを狙って戦った。
その戦いの中で、私は……この呪いを受けました。」
彼女の手が胸元へと触れる。
鎖が刻まれたあの場所を。
エルシオは何も言えなかった。
彼女がどんな痛みを抱えているのか、想像するだけで胸が締め付けられる。
「……魔族が動き出すのは、魔王が生まれた証拠です。
モンスターの数が増えているのも、それに関係しているかもしれません。」
アリシアは立ち上がり、陽の昇る東の空を見つめた。
「魔神が人を選び、力を与え、
その力を使って世界を壊そうとする。
そして神は、また新しい力を授け、誰かを立たせる。
――それが、この世界の“均衡”なんです。」
「均衡……」
「ええ。
けれど、今の世界は、その均衡が少しずつ崩れ始めています。」
エルシオは静かに頷いた。
それが何を意味するのか、まだ理解はできない。
けれど、彼の胸の中で何かが確かに燃え始めていた。
「……放っておけませんね。」
アリシアは少し驚いたように目を見開き、それから微笑んだ。
「あなたも、そう思いますか。」
「はい。昨日の戦いを見て、分かりました。
もしこのまま魔族が動き始めているのなら、
僕もこの目で確かめたいです。」
「頼もしい言葉です。」
アリシアは柔らかく笑い、剣を腰に戻す。
「行きましょう。北東の街まで距離があります。
そこに、次の手がかりがあるかもしれません。」
朝の光が二人を照らし、影が長く伸びた。
森の奥で、ひとすじの風が流れる。




