28話 探す声
朝の光が石畳を照らし、街全体に新しい一日の気配を運んでいた。
通りのパン屋からは香ばしい匂いが漂い、職人たちの掛け声が響く。
旅立ちには申し分ない朝だった。
エルシオは宿の扉を押しながら、荷を背負い直す。
「アリシアさん、今日はいよいよ北東の街ですね。」
「ええ。けれど、その前に少し寄りたい場所があります。」
「寄りたい場所?」
「冒険者ギルドです。最近、モンスターの数が増えている気がして……。
昨日の森にも、あれほどの魔獣が出るなんて普通じゃありません。」
アリシアの言葉にエルシオも頷いた。
「確かに……僕もそう思っていました。街を出る前に情報を集めましょう。」
二人は並んで石畳を歩き出した。
朝靄を抜ける風が頬を撫で、通りの人々がすれ違いざまに挨拶を交わす。
ノヴァリスの朝は、どこまでも穏やかだった。
――少なくとも、この時までは。
やがてギルドが見えてきた。
重厚な木の扉の前に、すでに人だかりができている。
冒険者たちが口々に騒ぎ、ざわめきが外まで溢れ出していた。
「何かあったんでしょうか……?」
「……様子を見ましょう。」
二人が近づくと、怒号混じりの声が耳に飛び込んできた。
「おい! 本当か!? 街の外にモンスターが出たって!」
「出たどころじゃねぇ! “喋った”って言ってるんだよ!」
「……何を……? モンスターが喋るわけ――」
「本当なんだって! 見張りの兵が聞いたらしい! “人間の言葉で話した”って!」
場の空気が一瞬で凍りつく。
“話すモンスター”――それはこの世界では、ありえない現象だった。
アリシアは僅かに目を細め、唇を結ぶ。
「……そんなはずは……」
「アリシアさん?」
「いえ……もし本当なら、ただの異常では済まされません。」
その声音は低く、かすかに緊張を帯びていた。
エルシオは何も言えず、彼女の横顔を見つめる。
淡い陽光の中で、アリシアの瞳がかすかに揺れていた。
そのとき、ギルドの奥から血相を変えた兵士が駆け出してきた。
「北門だ! 北門の外に出るな! ……奴は、言葉を……!」
言葉にならない叫びを残し、兵士は再び走り去っていった。
ざわつく冒険者たち。
誰もが何が起きているのか分からず、ただ不安を口にするばかり。
アリシアは小さく息を吸い込み、静かに言った。
「……確かめに行きましょう。」
「危険ですよ!」
「ええ。でも、放っておけば街の人たちが危険です。」
その一言に、エルシオは反論できなかった。
彼女の背に宿る覚悟は、言葉よりも強く伝わってくる。
「……わかりました。僕も行きます。」
二人は視線を交わし、頷き合った。
ギルドを出て、北門の方角へと駆け出す。
通りを抜け、朝の市場を過ぎる。
人々はまだ何が起きているのか知らず、のんびりと店を開けていた。
その平和な光景が、かえって胸を締めつける。
「……さっきの話、本当だと思いますか?」
「確証はありません。でも――“話す”というのなら、それはただのモンスターではありません。」
アリシアの声には、経験に裏打ちされた冷静さがあった。
エルシオは頷きながらも、喉の奥が乾くのを感じていた。
昨日、確かに自分たちは“魔獣”を見た。
だが、あれはまだ理解できる範囲の存在だった。
言葉を話すとなれば、それはもう“理”から外れた何かだ。
二人の足音だけが、静かな通りに響いた。
北門へと続く大通りの先には、まだ穏やかな朝の光が広がっている。
しかし、その奥で何かが目覚めようとしていた。
アリシアは前を見据えたまま、微かに呟く。
「……嫌な胸騒ぎがします。」
「え?」
「いえ……なんでもありません。」
そして、街の喧騒の中を抜けると、北門の尖塔が見えてきた。
門の向こうにはまだ誰もいない。
――だが、風が変わった。
森の奥から、何かがこちらを見ている。
それを言葉にできるほどの確信はなかったが、
アリシアも、エルシオも同時に足を止めた。
朝の光に包まれたはずの空気が、急に冷たくなる。
鳥の鳴き声が止まり、風の音だけが耳を掠めた。
エルシオは息を潜める。
アリシアがゆっくりと剣に手を伸ばした、その瞬間――
遠く、森の奥から微かな風が吹いた。
その風の中に、確かに声が混じっていた。
――「勇者は……どこにいる……?」
その声は、まるで大地の底から響くように低く、重く、
世界の運命そのものを揺らしていた。
朝の喧騒の中、まだ誰も気づいていない。
この瞬間こそが、再び“闇の時代”の始まりであることを。




