20話 初めての道、初めての風
朝靄が静かに晴れていく。
ノヴァリスの街門の前に立ち、エルシオはゆっくりと息を吸い込んだ。
石畳の匂いではなく、土の香り。
人の声ではなく、風と鳥の声。
それらすべてが新鮮で、胸の奥を少しざわつかせた。
「……いよいよですね」
アリシアが隣で微笑む。
陽の光を受けて、銀の髪が淡く輝いた。
その姿を見ているだけで、なんとなく心が落ち着く。
「街の外に出るのは、これが初めてなんです」
「そうなんですか?」
「はい。子供の頃からずっと、ノヴァリスの中で暮らしてきたので……」
「ふふっ。では今日が、“世界の始まりの日”というわけですね」
アリシアの柔らかい冗談に、エルシオは照れたように笑った。
旅の空気は冷たく、それでいてどこか心地よい。
二人の足音が、まだ湿った土を踏みしめて続いていく。
しばらく歩くと、街がどんどん小さくなっていった。
振り返ると、ノヴァリスの屋根の群れが遠く霞んで見える。
ほんの少し前まで、あの中が自分の全てだった。
「街って、外から見ると小さく見えるものですね」
「……そうですね。でも、僕にとっては大きすぎるくらいでした」
アリシアは静かに笑った。
「誰だって、最初は小さな世界の中で生きています。
けれど、こうして一歩を踏み出せば、景色はいくらでも広がっていきますよ」
「……はい」
それから二人は緩やかな丘を越え、小さな森の入り口にたどり着いた。
木々の隙間から漏れる光が、まるで水面のように揺れている。
エルシオは足を止め、息を呑んだ。
これまで壁の向こうにしかなかった自然の匂いが、今はすぐ傍にある。
「この先を抜ければ、しばらく道が続きます。夜までには村がありますから、そこで休みましょう」
「分かりました」
森の中を歩くたび、枝葉がこすれる音が優しく響く。
アリシアの足取りは軽く、迷いがなかった。
エルシオはその背を見失わないように少し小走りでついていく。
道の途中、小さな川が流れていた。
透明な水が光を反射し、魚の影がきらりと走る。
アリシアはしゃがみこんで手を水に浸した。
「冷たくて気持ちいいですよ」
そう言って笑う彼女の顔は、どこか年相応の少女のようだった。
戦士というより、ただの旅人の顔。
エルシオはその横顔を見て、自然と頬が緩む。
「少し休みましょうか」
木陰に腰を下ろし、持ってきた水筒を分け合う。
鳥の鳴き声と風の音だけが、静かに響いていた。
しばらくしてアリシアがぽつりとつぶやいた。
「こうして、誰かと一緒に旅をするのは……本当に久しぶりです」
「そうなんですか?」
「ええ。いつも一人で歩いていましたから。
でも今日は……なんだか、少し心が軽い気がします」
エルシオはその言葉に、何も返せなかった。
ただ、彼女の隣にいることが間違いではないと感じた。
日が傾き始める頃、森の影が濃くなっていった。
木々の奥から小さな羽音のような音が聞こえる。
アリシアが一瞬、目を細める。
「……少し気をつけましょう。この辺り、魔物の気配がします」
その言葉にエルシオの背筋が強張った。
ゴブリン――あの時、初めて命の危険を感じた存在。
だが今回は、一人じゃない。
すぐ隣に、銀の髪の戦士がいる。
彼女が剣を手にした瞬間、空気が変わった。
張り詰めた静寂の中で、森の奥がざわめく。
何かが動いた――。
エルシオは無意識に息を止めた。
森の影が揺れ、低い唸り声が響いたところで──物語は、次の瞬間へと動き出す。




