19話 旅立ちの朝
夜のノヴァリスは、しんと静まり返っていた。
昼間の喧騒が嘘のように消え、通りには風の音だけが響いている。
街灯がひとつ、またひとつと消えていくたびに、夜が少しずつ深まっていった。
エルシオは修繕組合の事務所で、最後の確認を終えた。
依頼の引き継ぎも済み、帳簿を閉じる。
短く息を吐くと、胸の奥で何かが区切られたような気がした。
明日からは、修繕屋ではなく“旅の仲間”として歩く。
それがどんな旅になるのか、彼にはまだ想像もつかない。
けれど、決めた以上――迷いはなかった。
夜風にあたりながら家へ帰る道すがら、ふと空を見上げた。
星がいくつも瞬いていて、その中に流星がひとすじ走る。
それを見た瞬間、自然と浮かんだのは、あの言葉だった。
──「この“鎖”を……解く旅に、私と一緒に来てほしいんです。」
アリシアの声が、耳の奥で何度も響く。
あの真剣な瞳を思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
「……断れるわけ、ないよな」
小さく呟くと、自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
剣も盾も持たない自分が、戦いに向かうなんておかしい。
けれど――彼女を放っておくことだけはできなかった。
⸻
翌朝。
まだ夜明け前の淡い光が、窓の隙間から差し込んでいた。
エルシオは自然と目を覚ました。
昨日のうちに荷物の準備は済ませてある。
今日はもう、出発するだけだ。
部屋を出ると、パンの香ばしい匂いが漂ってきた。
キッチンではミレナが朝食の支度をしている。
「おはよう、エル。……思った通り、早いわね」
「姉さんこそ。早起きしてくれてたんだ、ありがとう」
「当たり前でしょ。……弟の旅立ちの日なんだから」
ミレナはふっと微笑み、湯気を立てるスープをテーブルに置いた。
椅子に腰を下ろし、二人で向かい合う。
いつも通りの光景のはずなのに、どこか少し違って見えた。
「本当に行くのね」
「うん。決めたよ」
「そう。……なら、何も言わない。止めても聞かないでしょ」
ミレナは軽く笑い、カップを手に取った。
その笑顔の奥には、寂しさと誇りが入り混じっていた。
「ねえ、占ってみようか?」
「え?」
「旅の運勢でも。……家族割で金貨一枚ね」
エルシオは思わず吹き出した。
「姉さん、それ家族に優しくない割引だよ」
二人の間に柔らかな笑いが広がる。
けれど、笑いが収まると同時に、ミレナの声が少しだけ低くなった。
「冗談はさておき……。占ってみようか、本当に」
エルシオは静かに首を振った。
「ありがとう。でも、やめておくよ。
自分で決めたことだから――占いに頼ったら、逃げるみたいでさ」
ミレナは目を細め、少しだけ頷いた。
「……分かった。じゃあ、せめてアドバイスだけ。
“何かを見ても、恐れないこと”。
あなたのスキルは“見抜く力”だけど、ときどきそれは怖い真実を映すこともある。
でも、それを見ないふりをしたら、何も変わらないわ」
エルシオは短く息を呑み、真剣な眼差しで姉を見た。
「……うん。覚えておくよ」
⸻
出発の準備を整え、玄関に立つ。
扉の向こうはまだ薄暗く、街の輪郭がぼんやり霞んでいる。
「気をつけてね、エル」
「うん。行ってくる」
ミレナは小さく微笑み、手を振った。
その仕草がどこかぎこちなく見えたのは、別れを隠していたからだろう。
扉を開けると、冷たい朝の風が頬を撫でた。
息を吸い込み、エルシオは街の門へと歩き出す。
ノヴァリスの石畳が淡い光を反射し、遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
街の外れ――そこには、待ち人の姿があった。
銀の髪が朝日を受け、静かに揺れる。
アリシアが立っていた。
微笑みながら、まっすぐこちらを見ている。
「おはようございます、エルシオさん」
「おはようございます。……待たせましたか?」
「いいえ。ちょうど今、来たところです」
二人は短く頷き合う。
それだけで十分だった。
ノヴァリスの門がゆっくりと開く。
霧の向こうに、見たことのない世界が広がっている。
エルシオは肩の鞄を軽く握り直し、足を踏み出した。
彼の旅は、今日から始まる。
そして、アリシアの“鎖”を解く物語も――。




