18話 決意
夕暮れのノヴァリスは、柔らかな光に包まれていた。
街の空を焦がす橙色の陽が、屋根瓦を黄金に染めてゆく。
風がゆるやかに吹き抜け、遠くから子供たちの笑い声が聞こえた。
アリシアは街の小道を歩いていた。
昨日の約束どおり、エルシオに返事を聞きに行くためだ。
胸の奥が静かに高鳴っている。
痛みは消えた。
けれど、心の奥に残る重たい鎖の気配だけは、まだはっきりと感じていた。
それが、彼女を次の地へと駆り立てていた。
やがて修繕屋の扉が見えた。
いつもは静かなその建物から、今日は工具の音が絶え間なく響いている。
木槌の音、鉄を削る音、誰かの声――いつになく活気にあふれていた。
(……忙しそう)
アリシアは少しだけ足を止めた。
扉の向こうでは、エルシオが職人たちと何か話している。
彼の声はよく通っていて、普段よりも少し低く聞こえた。
「ここの修繕は明日中に仕上げます。
それが終わったら、残りの依頼も全部引き渡しに回ります。」
真剣な表情で手元を動かす彼の姿。
その横顔に迷いはなかった。
だが、アリシアの胸の奥にひとつの不安が広がる。
(……きっと、断るつもりなんだ)
忙しそうに見えるのは、旅に出る余裕がないから。
そう思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
自分が彼の生活を壊してしまうような気がして。
扉をノックする勇気も出せず、しばらく立ち尽くしていた。
そのとき――
「アリシアさん?」
不意に呼ばれ、肩が跳ねた。
振り向くと、エルシオが汗を拭いながら立っていた。
いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「すみません、バタバタしてて。
少し片付ける時間をください。」
「いえ……お仕事、忙しそうですね。」
アリシアがそう言うと、エルシオは小さく笑った。
「ええ。今は特に。
しばらくお店を開けられなくなりそうなんです。」
その言葉に、アリシアの表情が曇る。
やはり――彼には旅に出る余裕などないのだ。
「……そう、ですか。
それなら、もうお話はこれで――」
そう言いかけた瞬間、エルシオがゆっくり首を振った。
「違うんです。」
アリシアは顔を上げた。
エルシオは真剣な表情で、彼女をまっすぐ見つめていた。
「今、忙しいのは……旅に出る準備をしてるからです。」
「え……?」
「修繕の依頼も、挨拶回りも、全部。
この街をしばらく離れるために。
やり残したことを、今のうちに片付けているんです。」
アリシアの目が大きく見開かれる。
信じられないという思いと、胸の奥から溢れる温かさが交錯する。
「……じゃあ、あなたは……」
「はい。僕も行きます。」
短く、それでも確かな声だった。
アリシアは言葉を失った。
何かを返そうとしても、喉が詰まってうまく出てこない。
その沈黙の中で、エルシオがゆっくりと続ける。
「あなたが背負っているものを、見てしまいました。
あの痛みを、あの鎖を。
見てしまった以上、放っておけません。
痛みを消せたのが僕なら、
きっと最後まで、力になれるはずだと思うんです。」
エルシオの声は穏やかで、それでいて揺るぎない。
まるで長い時間をかけて、ようやく出した答えのようだった。
アリシアはその言葉を聞いて、静かに瞳を閉じた。
胸の奥に、温かいものが広がっていく。
「……ありがとう。
本当に、ありがとう。」
その声は震えていた。
それでも、確かな安堵と感謝が滲んでいた。
少し沈黙が落ちたあと、エルシオが笑みを浮かべる。
「出発は三日後にしましょう。
準備が整ったら迎えに行きます。」
「……はい。」
アリシアは小さく頷く。
その目には、光が戻っていた。
彼女は剣を抱え、扉へ向かう。
足取りは静かで、それでいて確かな力を感じさせた。
扉を開ける前、アリシアはふと振り返る。
「エルシオさん。」
「はい?」
「……本当に、ありがとう。
あなたに出会えて、よかった。」
微笑みとともにその言葉を残し、
アリシアは夕暮れの光の中へと歩み出ていった。
工房の中には、再び静寂が戻る。
窓から差し込む光が、机の上の図面を照らしていた。
エルシオは小さく息を吐き、窓の外に目をやる。
赤く染まる空の向こうで、夜がゆっくりと降り始めていた。
「……三日後、か。」
呟きながら、彼は工具を片付ける。
その手の動きは迷いがなく、
もう“決意”という名の灯が、彼の胸に静かに燃えていた。




