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呪鎖の勇者と修繕師の眼  作者: ソルト
プロローグ
13/47

13話 小さな偶然

夜のノヴァリスは、昼よりも静かだ。

 外灯の炎が石畳に小さく揺れて、遠くの笑い声が風にほどけていく。いつもなら胸の奥まで温かくなるはずの景色が、今日はなぜか落ちつかない。頭のどこかで、昼間の光景が繰り返し再生されていた。


 ――胸の奥に、黒い鎖のようなもの。


 思い出すたび、背中に冷たいものが流れる。あの“旅の女性”のことだ。銀色の髪、澄んだ瞳。剣を預かって、つい――ほんの興味本位で、〈弱点看破〉を使ってしまった。

 人に向けて使ったのは二度目だ。最初は昨夜、家で。ミレナに「ちょっと試してもいい?」なんて言えないから、気づかれないようにそっと発動した。見えたのは左足の膝。古い傷の名残が、淡く光っていた。驚きはしたが、あれは“直せる場所”という感じがした。


 でも、今日視えたのは違う。

 光ではなく、鎖。

 ほぐれる気配のない、重たい影。

 あれは、たぶん“傷”なんかじゃない。もっと別の……言葉にしづらい、嫌な感触。


 家の扉を開けると、煮込みの匂いがふわっと鼻をくすぐった。ほっとする匂いだ。ランプの灯りが、木の柱と棚を柔らかく照らしている。


「おかえり、エル。遅かったね」

 キッチンに立つミレナが振り向いた。湯気の向こうで微笑む顔は、いつも通り落ち着いている。


「ちょっとね。思ったより仕事が増えちゃって」

「忙しいのは良いこと。……依頼、入ったの?」

「うん。旅の商人が来ててさ。装備の修繕の見積もり。それと、いっしょにいた人の剣を預かった」


「ふうん」

 ミレナは鍋をかき混ぜながら、短く相づちを打つ。香草の香りが部屋いっぱいに広がった。


「外れの方で、何かあったの?」

「どうだろ。俺は小屋の見積もりから戻ってきたところで会っただけだから」

「そっか。……そういえばね、今日の占いで“街の外れで商人を助けなさい”って出たの」

「……へぇ」


 手が、ほんの少しだけ止まる。

 “街の外れ”と“商人”。さっきまで頭の中で並んでいた言葉だ。偶然だ、と思う。思うけれど、胸のどこかがぴくりと動いた。


「お客さん、若い子だった?」

「うん。綺麗な人だったよ」

「そっか」


 それ以上、ミレナは何も足さない。占いの結果は結果として伝えるだけ。いつも通りだ。こちらも、余計なことは言わない。言えない。

 あの“鎖”のことを口に出したら、何かが壊れてしまいそうで。


「座って。すぐよそうから」

「ありがと。いい匂い」


 木の椅子に腰掛ける。スプーンと器が触れ合う小さな音。皿の縁から立つ湯気が指先を撫で、少しずつ体温が戻ってくる。ミレナは食器を置く手際がいい。昔からそうだ。何でも静かに整えて、必要な一言だけを置いていく。


「外、冷えてきた?」

「うん。ちょっとね。灯りが出る時間も早くなってきたし」

「風邪ひかないでよ。明日は修理屋さんに回すんでしょ?」

「うん。朝いちで持ってく。夕方には戻せると思う」


 “彼女”が来る。

 それだけで、スープの温度が少し変わって感じられる。味はいつも通りおいしいのに、舌の奥が落ち着かない。

 口に出すのは簡単だ。「体の調子はどうですか?」と。今日みたいに。けれど、あれ以上踏み込むべきなのかどうか、自分でもまだ決められない。


「ねえ、エル」

「ん?」

「今日の商人さん、親切な人だった?」

「うん、感じは良かったよ。礼儀正しいし、支払いもちゃんとしてくれた」

「そっか。……良い日だったね」

「まあね」


 良い日。

 その言葉に、心のどこかが引っかかる。

 良い、と言い切っていいのか。あの鎖は、たぶん“良くない”。けれど、視えてしまった以上、見なかったふりをするのも違う気がする。


 仕事なら簡単だ。

 梁に入ったひびを見つけたら、補強材を当てる。

 刃の根元に負荷が集中していたら、角度と厚みを調整する。

 直し方は経験が教えてくれる。

 でも、人は――どうやって「直す」んだ?


 ミレナが水差しを置く。氷が小さく鳴った。

 彼女は僕の顔をちらりと見て、何か言いかけて、やめた。多分、分かっていて何も言わない。そういうところが、姉らしい。


「明日、何時に戻るの?」

「夕方かな。日が落ちる少し前」

「じゃあ、私も店はそのくらいで閉める。帰りにパン買ってきて」

「了解」


 会話はそこで途切れ、器の音と外灯の揺れだけが部屋に残った。

 スープを飲み干す間、今日一日の断片が静かに並び直されていく。街外れの小屋、商人、そして銀髪の――名前も知らない旅の女性。

 名前を尋ねそびれたことが、こんなに気になるとは思わなかった。


 食器を片付け、作業台の端に明日の伝票をまとめる。修理屋への指示はもう書いてある。柄は補強、刃の根元は微調整。長く使えるように、負担の逃がし方を優先する。

 “剣だけ”じゃなく、持ち主の癖ごと考えるのが、うちのやり方だ。


 ふと、窓に目をやる。

 ガラス越しに見える外灯の火が、風に揺れて形を変えた。

 鎖――と、脳裏が勝手に言葉を当てはめそうになって、首を振る。今はやめておこう。明日、彼女が来たときに考える。考えて、言うべきなら言う。言わない方がいいなら、言わない。

 その場で決めればいい。


「片付け、手伝うよ」

「ううん、大丈夫。明日の準備があるなら、そっち先に」

「じゃあ、伝票だけ仕上げるね。……ミレナ」

「なに?」

「今日、いい日だった?」

「うん。いつも通り、いい日」


 ミレナの答えに、肩の力が少し抜けた。

 “いつも通り”。その響きが、今は一番ありがたい。


 机に戻って、最後の一枚に署名する。

 インクの匂いと紙の手触り。これは変わらない。

 明日の段取りも、変わらない。

 変わらないことを積み重ねながら、変わっていくものに少しずつ手を伸ばす。きっと、そういうしかない。


 灯りを落とす前、机の端に預かり札を置いた。

 札には「旅人」とだけ書いてある。名前の欄は空白のまま。明日、聞けたら聞こう。聞けなくても、たぶん困らない。

 ただ、知っておきたいと思った。道具のためにも、そして――自分のためにも。


 寝室へ向かう廊下で肩を回すと、ほどよい疲れが骨に落ちていく。

 ベッドの端に腰を下ろして深呼吸。瞼を閉じると、黒い鎖がまた浮かび上がりかけて、代わりにミレナの左膝の淡い光を思い出すようにした。あれは直せる、きっと。方法はある。

 じゃあ、あの鎖は――。


 答えのないまま、目が重くなる。

 ノヴァリスの夜は静かで、心地よい。

 明日は夕方、受け渡し。

 名前を聞いて、剣を返して、いつものように仕事を終える。

 それだけのはずだ。たぶん。


 それでも、胸のどこかが静かにざわついている。

 小さな偶然が、どこかで線になりそうな、そんな気配だけが眠りの手前に残った。

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