13話 小さな偶然
夜のノヴァリスは、昼よりも静かだ。
外灯の炎が石畳に小さく揺れて、遠くの笑い声が風にほどけていく。いつもなら胸の奥まで温かくなるはずの景色が、今日はなぜか落ちつかない。頭のどこかで、昼間の光景が繰り返し再生されていた。
――胸の奥に、黒い鎖のようなもの。
思い出すたび、背中に冷たいものが流れる。あの“旅の女性”のことだ。銀色の髪、澄んだ瞳。剣を預かって、つい――ほんの興味本位で、〈弱点看破〉を使ってしまった。
人に向けて使ったのは二度目だ。最初は昨夜、家で。ミレナに「ちょっと試してもいい?」なんて言えないから、気づかれないようにそっと発動した。見えたのは左足の膝。古い傷の名残が、淡く光っていた。驚きはしたが、あれは“直せる場所”という感じがした。
でも、今日視えたのは違う。
光ではなく、鎖。
ほぐれる気配のない、重たい影。
あれは、たぶん“傷”なんかじゃない。もっと別の……言葉にしづらい、嫌な感触。
家の扉を開けると、煮込みの匂いがふわっと鼻をくすぐった。ほっとする匂いだ。ランプの灯りが、木の柱と棚を柔らかく照らしている。
「おかえり、エル。遅かったね」
キッチンに立つミレナが振り向いた。湯気の向こうで微笑む顔は、いつも通り落ち着いている。
「ちょっとね。思ったより仕事が増えちゃって」
「忙しいのは良いこと。……依頼、入ったの?」
「うん。旅の商人が来ててさ。装備の修繕の見積もり。それと、いっしょにいた人の剣を預かった」
「ふうん」
ミレナは鍋をかき混ぜながら、短く相づちを打つ。香草の香りが部屋いっぱいに広がった。
「外れの方で、何かあったの?」
「どうだろ。俺は小屋の見積もりから戻ってきたところで会っただけだから」
「そっか。……そういえばね、今日の占いで“街の外れで商人を助けなさい”って出たの」
「……へぇ」
手が、ほんの少しだけ止まる。
“街の外れ”と“商人”。さっきまで頭の中で並んでいた言葉だ。偶然だ、と思う。思うけれど、胸のどこかがぴくりと動いた。
「お客さん、若い子だった?」
「うん。綺麗な人だったよ」
「そっか」
それ以上、ミレナは何も足さない。占いの結果は結果として伝えるだけ。いつも通りだ。こちらも、余計なことは言わない。言えない。
あの“鎖”のことを口に出したら、何かが壊れてしまいそうで。
「座って。すぐよそうから」
「ありがと。いい匂い」
木の椅子に腰掛ける。スプーンと器が触れ合う小さな音。皿の縁から立つ湯気が指先を撫で、少しずつ体温が戻ってくる。ミレナは食器を置く手際がいい。昔からそうだ。何でも静かに整えて、必要な一言だけを置いていく。
「外、冷えてきた?」
「うん。ちょっとね。灯りが出る時間も早くなってきたし」
「風邪ひかないでよ。明日は修理屋さんに回すんでしょ?」
「うん。朝いちで持ってく。夕方には戻せると思う」
“彼女”が来る。
それだけで、スープの温度が少し変わって感じられる。味はいつも通りおいしいのに、舌の奥が落ち着かない。
口に出すのは簡単だ。「体の調子はどうですか?」と。今日みたいに。けれど、あれ以上踏み込むべきなのかどうか、自分でもまだ決められない。
「ねえ、エル」
「ん?」
「今日の商人さん、親切な人だった?」
「うん、感じは良かったよ。礼儀正しいし、支払いもちゃんとしてくれた」
「そっか。……良い日だったね」
「まあね」
良い日。
その言葉に、心のどこかが引っかかる。
良い、と言い切っていいのか。あの鎖は、たぶん“良くない”。けれど、視えてしまった以上、見なかったふりをするのも違う気がする。
仕事なら簡単だ。
梁に入ったひびを見つけたら、補強材を当てる。
刃の根元に負荷が集中していたら、角度と厚みを調整する。
直し方は経験が教えてくれる。
でも、人は――どうやって「直す」んだ?
ミレナが水差しを置く。氷が小さく鳴った。
彼女は僕の顔をちらりと見て、何か言いかけて、やめた。多分、分かっていて何も言わない。そういうところが、姉らしい。
「明日、何時に戻るの?」
「夕方かな。日が落ちる少し前」
「じゃあ、私も店はそのくらいで閉める。帰りにパン買ってきて」
「了解」
会話はそこで途切れ、器の音と外灯の揺れだけが部屋に残った。
スープを飲み干す間、今日一日の断片が静かに並び直されていく。街外れの小屋、商人、そして銀髪の――名前も知らない旅の女性。
名前を尋ねそびれたことが、こんなに気になるとは思わなかった。
食器を片付け、作業台の端に明日の伝票をまとめる。修理屋への指示はもう書いてある。柄は補強、刃の根元は微調整。長く使えるように、負担の逃がし方を優先する。
“剣だけ”じゃなく、持ち主の癖ごと考えるのが、うちのやり方だ。
ふと、窓に目をやる。
ガラス越しに見える外灯の火が、風に揺れて形を変えた。
鎖――と、脳裏が勝手に言葉を当てはめそうになって、首を振る。今はやめておこう。明日、彼女が来たときに考える。考えて、言うべきなら言う。言わない方がいいなら、言わない。
その場で決めればいい。
「片付け、手伝うよ」
「ううん、大丈夫。明日の準備があるなら、そっち先に」
「じゃあ、伝票だけ仕上げるね。……ミレナ」
「なに?」
「今日、いい日だった?」
「うん。いつも通り、いい日」
ミレナの答えに、肩の力が少し抜けた。
“いつも通り”。その響きが、今は一番ありがたい。
机に戻って、最後の一枚に署名する。
インクの匂いと紙の手触り。これは変わらない。
明日の段取りも、変わらない。
変わらないことを積み重ねながら、変わっていくものに少しずつ手を伸ばす。きっと、そういうしかない。
灯りを落とす前、机の端に預かり札を置いた。
札には「旅人」とだけ書いてある。名前の欄は空白のまま。明日、聞けたら聞こう。聞けなくても、たぶん困らない。
ただ、知っておきたいと思った。道具のためにも、そして――自分のためにも。
寝室へ向かう廊下で肩を回すと、ほどよい疲れが骨に落ちていく。
ベッドの端に腰を下ろして深呼吸。瞼を閉じると、黒い鎖がまた浮かび上がりかけて、代わりにミレナの左膝の淡い光を思い出すようにした。あれは直せる、きっと。方法はある。
じゃあ、あの鎖は――。
答えのないまま、目が重くなる。
ノヴァリスの夜は静かで、心地よい。
明日は夕方、受け渡し。
名前を聞いて、剣を返して、いつものように仕事を終える。
それだけのはずだ。たぶん。
それでも、胸のどこかが静かにざわついている。
小さな偶然が、どこかで線になりそうな、そんな気配だけが眠りの手前に残った。




