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山の湯

作者: シグマ君
掲載日:2026/10/06

「すいませーーーーん!! ………あのーーーーー! 誰か居ませんかーーーーーー!!」


 この地方に転勤してきた俺は、馴染の無い地域ということもあり、休みの日になると妻と二人でそこらじゅうに車で出かけた。だが今日は妻が友人と一泊旅行に出かけ、家で留守番をするのも退屈だから俺一人で今まで行った事の無い地域へと車を走らせた。そして気づけば山を一つ越え、道路も舗装ではない砂利道を走っていて、そして霧が出てきて、しまいには土砂降りになった。

 カーナビがあるから道に迷うことは無い。だが、ここが何処なのか見当もつかない。さっき越えた山とは別の山を登っていることだけは判る。道は相変わらずの未舗装で山をグルグルと回るように作られ、片側は絶えず崖だ。Uターンする場所もなく、ひたすら道なりに進むしかない。そんな最中の霧と雨だ。その雨も止むどころか土砂降りでどこかに車を停めることの出来る場所がないかと、車をかなりゆっくりと走らせながら俺はハンドルを握っていた。

 すると見つけた。1軒だけポツンと建っていた。看板に温泉名が書かれいる古い木造の二階建ての温泉。タオルなど持ってきてはいないが、構わない。とにかくこの温泉で休んでいこう。


 車を降り、雨を少しでも避けるよう頭を下げ、走ってその温泉の玄関へと行った。横開きの木製の古びた戸。開けて中に入るとまるで個人宅の居間に毛が生えたような狭いロビー。全てが木造だ。張り紙があった。「入浴500円」。随分と安いな。だがそのロビーには誰もいない。張り紙の下にはプラスチック製の底の浅い丸い皿がある。ここに黙ってお金を置いて勝手に風呂に入れってこと?

 見るとロビーから真っすぐに伸びる廊下の突き当りに扉が見える。恐らくはアレが風呂場だろう。だが全てを勝手にというのは流石に気が引ける。周りを見渡すとロビーには2階へと繋がる階段ーーー木製で、古いが手入れが行き届き、そして幅の広い階段がある。きっと宿泊施設が2階なのだろう。もしかすると従業員は2階で何かをしているのかもしれない。階段を覗き込みながら大声で呼んだ。


「すいませーーーーーーん!!」


 だが誰も現れない。そして耳を澄ませたが聞こえるのは雨の音だけだ。


「すいませーーーーん!! ………あのーーーーー! 誰か居ませんかーーーーーー!!」


 何度も呼んだがそれでも誰も出てこないし返事もない。どうする? 手元には100円玉がちょうど5枚あるからおつりは必要ない。黙って置いて勝手に入っていこうか……


「あ~~~、お客さん………入浴かい?」


 それは1階の奥や2階からではなく、俺が入ってきた玄関から現れたオバサン。


「いや~急に降ってきたから、外に置いてあったモン慌てて片付けに行ってたんだ」


 そしてそのオバサンは500円を受けると、日帰り入浴は8時までだから、と言って階段を上がって行った。時計をみるとまだ午後の3時だ。どんなに温泉好きであろうと5時間も入り続けるヤツはいない。そんな事を考えながら、ロビーから伸びる長い廊下を歩いて行くと、壁には何枚ものA4程度の写真が貼られていた。どの写真も白黒で古いものらしく、この温泉を写したもののようだ。反対側の壁にも貼られていたが、大して興味がなく、殆ど見ずに奥へと行った。

 廊下の突き当りの扉。右を見ると別の扉もあり、その右の扉に女と書かれた紙が貼られている。正面が男湯なのだろう。開けるとそこは脱衣場で、脱いだ衣類を入れる竹で編んだような籠が、これも手作りと思われる三段の棚に並んでいる。とにかく全てが木製だ。

 棚に並んだ籠を見渡しても一つの衣服もない。どうやら誰も入っていないらしい。


「これは貸し切りだ!」


 衣服を全部脱いで籠に入れると、タオルすら持っていない俺は丸出しで次の扉に手を掛けた。この扉だけが木製ではない。アルミやステンレスでもないような気がする。もしかしたらスチール? 

 その扉を押して開けると凄い湯気で前が良く見えない。だが人の気配はない。声もしない。脱衣場の扉を暫く開けたままにしていると湯気が逃げ、見えるようになってきた。うん、貸し切りだ。

 湯船は一つしかないが、かなり大きい。掴んでいた扉を放すと凄い勢いで閉まり、バタンッ!! という凄まじい音に飛び上がった。


「………なんだこの扉? バネでもついてんのか?」


 再び扉を開けてよく見ると、確かに扉の上部にバネらしきものが付いていて、開けっぱなしにならない仕組みが施されている。それにしても閉まる時の音が凄すぎるだろ。


 桶で湯をすくい身体を洗い、湯船に片足を入れた。それほど熱くはないのが分かり、湯に浸かった。僅かに硫黄の臭いはするが透明な湯だ。暫くすると扉を閉めたせいか、風呂場は再び湯気に包まれ、湯船の向こう側もハッキリとは見えない。

 ぬるくもなく熱すぎることもない湯が心地いい。霧や雨の中、見通しが悪い山道を運転してきたせいで身体が固くなっていたのが解れていくのが分る。自然と瞼が重くなる。

 後ろの方で何人かの子供の走る足音とその子供たちが発した声、そしてそれを叱る大人の声が聞こえた気がする。ああ、親子連れが入ってきたようだ。だが瞼が重い。頭では目を開けようとしてるのだが身体がいうことを利かない。眉を持ち上げるようにして右目だけが僅かに開いた。左目は相変わらず閉じたままなのだろう、おかしな映像が見えた。それは頭がまだ覚醒していないせいなのか、夢を見ながら、薄く開いた右目だけで外界の様子が見えているという映像だ。いや、全部が夢か……

 濃い湯気の中に立つ女性が俺を見て微笑んでいた。そして4~5歳と思われる子供が二人、その女性の後ろに隠れるようにしながら、顔だけを出してこっちを覗き込んでいる。だが眠い。僅かに開いていた右目の瞼もいつしか落ちた。浸かっている湯が波立ち、自分が温泉に入っていたのだとボンヤリとだが思い出した。そう言えば、見えた女の人は裸だった。そうだ、俺は温泉に浸かっていたから俺も裸だ。でもどうして……

 そんな事が頭に浮かんだがそれ以上考えるのが億劫だ。意識が闇に飲み込まれていきながら、隣に誰かが、それも肌が触れ合うくらい傍に座った。



 バターーンッ!!


 もの凄い音に思わず声が出掛かり、そして音の方に振り返った。ああ、扉の閉まる音か。湯気で良く見えないが、きっと誰かが入って来たのだろう。それにしても凄まじい音だ。慣れぬせいでその都度ギョっとしてしまう。

 再び湯船に浸かり、何の気なしに入口の方に目をやっていた。ボンヤリとだか人影が見えてきた。どうやら二人連れらしい。


「ごめんなさいよ~」


 酷く擦れたお年寄りの声。

 温泉や銭湯に行く機会は珍しくない俺だが、先客に「ごめんなさいよ」といった挨拶など交わしたことがない。なんと返せばいいんだ? 向こうは先客がいると思っての挨拶なのだろうから、無言というのも気が引ける。


「あっ、どうも……」


 湯気に隠れた人影に向かってそう言った。だが濃霧のような湯気から出てきた二人を見て、息を飲んだ。二人ともが女性だった。

 一人は足腰の弱ったお婆さんで、そのお婆さんの身体を抱くように支えている背の高い女性。その女性と俺は目が合った。少し恥ずかしそうに微笑む綺麗な顔立ちをした女性。両手でお婆さんを支えているから自分の身体を隠すこともなく、全てを晒している。きっと30代の半ばだろう、湯船の横でーーー俺のすぐ目の前にしゃがみ、桶で湯をくみ取る二人。


「お一人で?」


 若い女性が手で下半身を洗い流しながらそういった。


「えっ………はい……」


 そう応えた俺の声は痰が絡んだように擦れた。

 無遠慮に見てはいけない。そう思っても視線を剥がせなかった。翳りが薄く、地肌までが見えてしまった。


「すいません、手を貸してくれます?」


 なにを言ってるのか意味が分からなかった。


「ごめんなさいね~お兄さん、ちょいと手ぇ貸してもらえると助かるんで」


 老婆のその言葉で解った。湯船は極端に深い造りではないものの、それでも50センチ以上の深さはある。足腰の弱ったお年寄りが縁を跨いで湯船に入るには、女性一人の支えでは難しい。手伝うこと自体はなんの問題もない。だがこんな綺麗な女性が裸でーーー温泉なのだから裸であるのは当たり前なのだが、目の前にいるのは問題だ。それにここは男風呂だ。そうだ、男風呂だ。女の人がどうして入ってきたのかは分からないが、男風呂なんだ。

 意を決して立ち上がった。そうとうに恥ずかしくて腰を引いて立ち上がったが余計にみっともない格好だったかもしれない。


 若い女の人が縁の向こう側から老婆を支え、湯船の中にいる俺がその老婆を受け取る、という手順が暗黙の内に決まり、老婆の腕が俺の首に回された。

 老婆の左腕が俺の首に回されたことによって、結局は若い女性の方を向いて抱きかかえることに。酷く軽かった。縁の向こう側でそんな俺を見ている綺麗な女性の視線が下がり、あっ、という表情になり、俺は「すっ、すいません……」と意味もなく謝っていた。

 女性は気にする様子もなく再び俺を見て微笑み、それからゆっくりとした動作で湯船に入ってきた。


「助かりました。いつもこの時間に入りに来るんです。空いてますから………でも手伝ってくれる人がいなくて………おかあさん、湯船の縁を這うようにして入ってて………」


 女性の言った「おかあさん」という言葉が、俺には「お義母さん」という意味に聞こえた。息子の嫁? それにしても姑と嫁の歳が離れすぎてるように思えた。


「あの………お義母さんはお幾つで?」

「今年、還暦を迎えました」


 60?! てっきり70代後半か80過ぎの老婆かと……

 女性は話し好きらしく色々と喋った。農家を継いだ息子のところに嫁いできて、舅は旦那が子供の時に亡くなっており、母親が一人で畑仕事をしながら子供を育て、そういった無理が祟って腰を痛めたという。


「ーーーーもう還暦だから、楽をさせてあげたいと思ってーーーー」


 還暦という言葉に違和感を覚えた。俺の両親も嫁の両親も60を過ぎたが、まだ当たり前に働いている。昔の映画やドラマで、還暦には赤いチャンチャンコを着て嬉しそうにしている爺さんを見たことがあるが、今の時代ではそんな爺さんなどいないし、映画などで観た赤いチャンチャンコの爺さんは見た目も本当に爺さんで、今の60歳とはまるで違う。


 湯船の中で、俺の隣で足を伸ばして座る女性はさも楽しそうに喋っている。その向こう側にいる姑は目を瞑っているようだ。俺は目線を下げぬように女性の顔だけを見ているが、目の端にどうしても裸の胸が映り、そして透明な湯の中で揺れる翳りが気になる。女性は喋りながら視線を動かし、笑顔で俺の身体を見ては話を続ける。ずいぶんと大らかだ。旦那の母親がいる傍で、見ず知らずの男と裸で隣に座り、楽し気に会話を続ける女性に、俺は唖然としてしまったのもあるが、裸の女性を相手に、自分も裸でベラベラと喋れるほど厚かましくないというより、臆してしまって返事をするのが精いっぱいだ。


「お兄さん、もう上がるで。わるいが、また手ぇ貸してくれんか」


 そう頼まれた俺は立ち上がり、驚くほど軽い老婆を抱え、湯船の外で手を伸ばす女性に渡すように老婆を湯船から出した。

 二人は湯船の傍に正座で座り、桶で湯船から湯を汲みながら身体を洗い始めた。ええ? この温泉場には洗い場も無ければ椅子も無いのか? 慌てて見渡したが湯気で遠くが見えない。そんな俺の様子ーーー驚いた表情をしていたはずだが、身体を洗う二人は気にすることもなく、とりとめのない話を俺にしながら若い女性が老婆の背中を流している。俺はいつまでも裸の二人を見ていることが憚られ、二人に背を向けるよう座り直して言葉を返していた。

 しばらくすると洗い終えたのか二人が立ち上がった気配がし、振り返ると、笑顔で俺に礼をを言う二人。そして寄りそうように、ゆっくりと、ゆっくりと、脱衣場へと向かう後ろ姿が湯気によってまるで消えるように見えなくなった。それから暫くの間、俺は湯船の中にいた。タオルも何も持って来なかったから身体を洗いたくても洗いようがない。だからといって風呂から上がって脱衣場に戻るとさっきの二人が身体を拭いていたり、衣服を着ようとしている最中だったら………そう思うと湯船に浸かり直していた。あれ? 扉が閉まる音……聞こえなかったような気がする。


 もうアノ二人は脱衣場にはいないだろうと思える頃に湯船から出た俺は、それでも脱衣場への扉を恐る恐る開けた。………いない。脱衣場には誰もいなかった。ほっとして扉から手を離すと、バターーッン! 凄まじい音に飛び上がった。

 タオル類を一切持ってこなかったせいで濡れた身体を拭くものがない。これは自然乾燥しかない。20分以上もの間、俺は裸のままで身体が乾くのを待ち、それから衣服を身に着け脱衣場を出たが、そこから真っすぐに伸びる廊下と、廊下の先に見える狭いロビーには誰の姿も見えない。

 綺麗な人だった。もっと喋っていたかったと今更ながら思ってみたが、あのシチュエーションで緊張するなというのが無理で、その後に服を着たからといって会話を弾ませるほど俺は器用ではない。逆にもっと恥ずかしくなり余計に言葉が出なくなりそうだ。

 長い廊下の両側に貼られている写真。何の気なしに目を止めた。白黒の写真だが随分と古く、この温泉宿を外から撮ったものや風景、それと野鳥やキツネを撮ったモノや、秋に撮ったのか紅葉の写真が並んでいたが、一枚だけ被写体が人間のものがあった。それは温泉に浸かっている何人かの人を写したもので驚いた。水着を着ている訳ではなく全員が裸だ。ただ皆が首まで湯に浸かっているから裸体が写ってる訳ではないが、それにしても女性は胸のふくらみまで写っている。あれ? 女性と子供ばかりだ。これって女風呂を写したのか? ええええ? そんなの………ん? この子供って……

 何人かの女性が写ってる写真なのだが真ん中に二人の子供がいる。一人がオカッパ頭の女の子で、もう一人は坊主頭の男の子。この二人の子には見覚えがあるような気がした。誰だったっけ? 


「ああああ!」


 思い出して思わず声が出ていた。さっき温泉に浸かってる時に入ってきた子供二人だ。あれって夢じゃなかったんだ。ってことはその奥にいる女の人はもしかしたら一緒にいた人か? そう思って写真に顔を寄せたが子供の後ろにいるため顔がよく見えない。だがその隣に写っている女の人はハッキリと顔が分った。さっき老婆と一緒に入ってきて盛んに話し掛けてきた綺麗な人だ。そしてその隣にはあの老婆もいた。うわ~大胆だな~~。思わず声を出して笑ってしまった。


「どうかしましたか?」


 そう声を掛けられ飛び上がるほど驚いた。見るとこの温泉場のオバサンだ。


「ああ、ビックリした。いや、この写真なんだけどさ……」

「昔は混浴だったんですよね~」

「混浴? 女風呂でしょ? だって女の人ばかり写ってるし………え? 昔って……」

「いや~~、この写真は混浴だった昔の写真だよ。ほら見るからに古いでしょ」


 確かに写真はセピア色に変色してるが、それは有り得ない。だが俺は「昔っていつごろ?」と聞いていた。


「書いてあるはず……アタシ老眼で良く見えないけど、お兄さんなら読めるしょ。ほらここ」


 写真の白枠の右下に、薄っすらと鉛筆で文字が書かれていた。「昭和……19年………」と声に出した俺はもっと何かを言おうとしたが言葉が続かなかった。


「聞いた話だと、若い男の人は徴兵、年を取ってる男の人は徴用ってことで、男の人がまるでいなくなって女と子供ばかりになってた時期みたいだね。爺さんはいたみたいだけど当時は早死にだったから少なかったんじゃないのかねぇ………」


 オバサンはまだ何かを喋っていたが、俺は呆然とその写真を見ていた。




 ボーーン……ボーーン……ボーーン……ボーーン……ボーーン……ボーーン……ボーーン……




 あまり馴染の無い音が、この温泉場の廊下に響き渡った。オバサンが「ああ、7時だね」と言った。振り子仕掛けの柱時計があるらしい。そう思った俺だが思わず腕時計に目をやった。間違いない、7時だ。4時間も温泉に入っていたことになる。そんなバカな………

 再び写真に目を向けると、写真の中のあの人はさっきよりも微笑んでるようだ。


 そうか、君が生きている世界に俺が旅をしてきたのか………




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