5月病
「病気も老いもない世界へ。
今日からあなたは、新たな”いのち”を生きる。
ここは、美しく、楽しく、平和な、そう――理想郷の門の前です。」
陽気な女の声が、電子スピーカーから漏れ出し、待合室の天井に貼り付けられたディスプレイから、歯の浮くような音楽と共に振り撒かれていた。
あまりに明るすぎるその音が、頭の芯を軽く叩いた。
…この季節、街にはこのCMがどこにでも流れていた。
いくら政策が良くても、こんなに連呼されたら逆効果だ。
好きな曲をアラームにしちゃいけない、っていうやつ。
CM制作者はそれを知らなかったらしい。
ふとページの途中で手を止める。読みかけだった文庫本にゆっくりと栞を挟んで閉じ、私は鞄をまさぐった。
チャックの音が響く。中でカシャカシャと文房具の入ったポーチや筆箱が跳ねて、イヤホンのケースが指先に当たった。
取り出して掌に乗せる。
白く光沢のある楕円形のケース。表面には大手通信企業のロゴマークが浮き出るように印字されていた。
イヤホンを取り出す。
二重に構造化された静電式カバーが外気を遮断し、内部の音質を空間そのものに変換する。
要するに、少し高性能なノイズキャンセルイヤホンだった。
片耳だけに差し込む。両耳を塞ぐと、自分の番号を呼ばれた時に気づけない。
ここは病院。大型医療都市・第47区のセントラル・バイオタワー。予防医療の再教育と血液定期検査のための義務受診。
耳の奥を、静かに沈むピアノの旋律が覆った。
低く、眠たげで、だるさを溶かすような、鬱系の曲だった。
だが、もう片方の耳からは、あいかわらず陽気な電子音声が、木琴のようなBGMと共に弾けていた。
「ここは、美しい。ここは、楽しい。ここは、理想の――」
ぐしゃぐしゃだ。
片耳に低音、もう片耳に高音。
耳の奥でぶつかり合って、頭の中が分裂しそうだった。
ページを開いても文字が入ってこない。
目は追う。だが脳が処理を拒絶する。
理解できない。
頭の中には、先ほどの言葉だけがリフレインしていた。
「ここは、美しい。ここは、楽しい。ここは、理想の――」
「826番さん、受付にお越しください。」
無機質な女性アンドロイドの声がスピーカーから放たれた。
私の番号だった。
白い受診票に書かれていた「826」という数字を、ようやく思い出す。
意識が飛びかけていた頭を小さく振り、私は席を立つ。
本を鞄に戻し、足を受付へ向けて踏み出した。
その瞬間だった。
最初、それを“声”と認識できなかった。
受付の方向で、ひとりの男が突然、硬直したように背を反らし、そのまま前のめりに崩れ落ちた。
野鳥の鳴き声のような叫び声。
鈍い衝突音。
何かが床にぶつかる音。
思わず足を止める。
男の体が痙攣していた。顔面は異様なまでに歪み、筋肉が破裂するように動いていた。
頬は痩せ、目元の色が黒ずみ、唇が異常な角度で開いている。
人々が息を呑む。ざわめきはCMと男の絶叫にかき消されていく。
次の瞬間、音が消えるよりも早く、警備アンドロイドが滑り込む。
受付カウンターが自動遮蔽され、四体のボディアーマー型アンドロイドが男の周囲を囲む。
透明なシールドが四角形に展開し、男を囲ったまま上部から黒い布が滑り落ちるように降りてくる。
視界が遮られた。
『処置中』
アンドロイドの背に、赤い文字が浮かぶ。
私は、ただ立ち尽くしていた。
他の誰も動かない。
息を殺すような沈黙。だが、沈黙の中で、陽気なBGMだけが延々と流れていた。
数分後。
『処置完了』
文字が切り替わると同時に、アタッシュケースのような黒いカプセルが布の中から持ち出された。
外装は硬質で無機質。
だがその隙間から、まるで乾いた木の枝のような、黒く硬質なものがひとすじ、はみ出していた。
私は、ほんの少しだけ、目をそらした。
受付のアンドロイドが再起動する。
音もなく、処理済みの床に戻る。
血痕はない。裂傷もない。
まるで、何もなかったかのように。
私は、床に残った気配を踏み、受付へ歩いた。
アンドロイドが目を合わせる。
表情は、ない。
「ご受診ありがとうございます、826番・久住ユウナ様。登録完了しました。」
手続きは、何事もなかったかのように終わった。
そのまま、診察室へ向かう廊下を歩き出す。
角を曲がった先にある壁面に、大型の投棄処理ダストホールが設置されていた。
さきほどの黒いカプセルが、機械アームにより投下されている。
「カコン」と音がして、蓋が閉じられた。
私はそれを見て、無意識に口を開いた。
「……もう、5月か。」
その声の終わりは、すぐにスピーカーにかき消された。
「…ここは理想のアマトラティア。」
ディスプレイの女が、明るく笑っていた。
…
診察室はやけに静かだった。
椅子に腰掛けてから、最初に視線を上げたとき、診療ユニットの天板には誰かが書いたらしい爪痕のような傷が一本だけ走っていた。診察はすでに機械化されて久しく、真正面に座るのは人間の医師ではなく、白い樹脂ボディにグレーの目をしたAIユニットだ。
「826番・久住ユウナ様、こんにちは。前回の記録から3ヶ月経過しています。今回は、年度初期定期検査です。」
少し間を置いて、続く声。
「特に問題はありませんでした。アレルゲン、感染反応、免疫反応、すべて正常です。あなたの状態は、非常に良好です。」
非常に良好、というのはこの世界ではあまり意味を持たない。
全員が、非常に良好だからだ。
“老い”や“病気”が淘汰された今、人々の身体はどれも似たような美しさと丈夫さを備えている。疾患のリスクは完全に取り除かれ、容姿も、思考も、寿命に至るまで、均された世界の中で静かに呼吸している。
何かが大きく狂うのは、いつだって“5月”だった。
アマトラティアは、世界の統合再編後に確立された最初の国家区画で、世界人口の約6割を収容する特区でもある。そしてここでは、あらゆるウイルスも、腫瘍も、遺伝子の異常も発症しない。
その代償として、“5月”がある。
年に一度、春の終わりと夏の始まりのあいだに、全国民の0.1%が無作為に選ばれ、残りの99.9%が一年の間に受けるはずだった全ての老化・病原・器官劣化”を背負わされる。
一気に来る。
一秒で、千年分が、襲う。
血管が裂け、皮膚が黒ずみ、臓器が破裂する。
音もなく、機械的に、崩れる。
誰がそれを引き受けるかは完全にランダムだ。遺伝子も経歴も関係ない。
受け入れられている理由は、“確率”だった。
制度発足以降、生存率の統計は厳密に保たれ、200回この抽選に外れた者は、200歳で安らかに死ぬ。
200年、同じ顔のままで。
死は、“老衰”でも“病死”でもなく、“制度的な発作”として、淡々と訪れる。
そして、死ぬのはいつだって、他人だと、皆が思っている。
私の両親は、確率に敗れた。
まだ私が4歳のときだった。
その年の5月、母がキッチンで倒れ、同時刻に父も職場で突然崩れ落ちた。
同時に。
異なる場所で。
死体は引き取られる。
残るのは、生活の跡だけだ。
私は、祖母の家に預けられた。
祖母は、制度を信じていた。
「安心して生きられるっていうのは、強いことなんだよ」
そう言って、整った庭の水やりを欠かさず、食事の準備も日課の運動もきちんとしていた。
そして、毎年5月が来るたびに、ほんの少しだけ仏壇の前に時間を増やす。
祖母もまた、70回の抽選を生き延びている。
今年で70歳になるが、見た目は私と変わらない。
歳を取らないのだ。
誰も、見た目では年齢がわからない。
「安心して死ねる日が来るまで、いい子でいるのよ」
よく言われる。
いい子でいれば、たぶん死なない。
誰かがきっと、引き受けてくれる。
誰かが、引き受けている。
「診療は以上です。
お大事に。」
AIの声が背中で再生されて、私は診察室を出た。
廊下は消毒液の香りがした。
さっきカプセルが吸い込まれたダストホールは、無音で光を放っていた。
私はその前を通り過ぎながら、ふと立ち止まり、
思わず目を閉じた。
今日のあの人が、明日の私じゃない保証はどこにもない。
毎年この時期になると、その考えが脳の端に浮かぶ。
私が今日死ななかったのは、誰かが死んだから。
だから、“お大事に”という言葉が、この世界ではずっと空虚に響いている。
お大事に、というのは、自分にではなく、
見えない誰かに向けられた祈りの言葉なのだ。
病院を出ると、陽射しはほとんど眩しさを感じさせない曇天に変わっていた。
灰色の空は低く、風もない。
街は、いつも通り整然としていた。
歩道に沿って滑るように走る自動輸送車。
ガラス張りの情報塔には、例のCMが静かにループしている。
「ここは、美しい。ここは、楽しい。ここは理想のアマトラティア――」
もう耳が覚えてしまっていた。
だが、それが一瞬、切れた。
「ここは――」という台詞のあと、画面が歪んだ。
歯車が噛み合わないようなノイズ音が混ざり、
女の笑顔が画面の中で引きつった。
すぐに元に戻った。
誰も気づいていないようだった。
私は足を止めた。
交通整理用のドローンが交差点の上で一瞬だけ浮き上がり、ピタリと静止してから、何事もなかったかのように再び動き出す。
その挙動も、気づかれない。
変化に慣れすぎた世界だ。誰も「異常」とは言わない。
けれど私は、今日の病院で見た処置のあと、
耳の奥で何かが終わる音を聞いた気がしていた。
すぐ横の電柱に取り付けられた告知ディスプレイが、唐突に明滅を始めた。
{エリア制御信号の再同期中 ―― ご協力ありがとうございます}
{再起動まで、残り0.7秒}
一瞬だけ表示されたその文字は、すぐにCM映像に切り替わった。
表示されていた「0.7秒」という数字が、何かのカウントダウンのように思えた。
遠くで、誰かが咳き込む音が聞こえた。
咳? この世界に?
振り返っても、誰が咳をしたのかはわからなかった。
あるいは、私の空耳だったのかもしれない。
だが、咳というものは、もう10年は聞いていない音だった。
私はゆっくりと息を吐いた。
背中のあたりが、微かにざわついた。
風がないはずなのに、薄い布地の制服がふと浮き上がる。
妙な感覚だった。
どこかに何かがある、というよりも、
何かが、空虚になる前触れのような。
そのまま足を家路に向けて進める。
自宅まではそう遠くない。
AIの制御で温度も湿度も統制されている都市部は、季節感も薄い。
けれど、歩道に咲く植え込みのツツジだけは、赤と白の混合で不気味に咲き誇っていた。
それを見て、私はどうしようもなく不安になった。
玄関の前に立つと、いつもとは違う感覚が足元に滲んでいた。
鍵を外し、扉を引いた瞬間、ふわりと温度が押し返してきた。
湿っている。
家の中の空気が、妙に重たかった。
靴を脱いで、いつものように「ただいま」と声をかけたが、返事はなかった。
「……おばあちゃん?」
家の中には、祖母の姿がなかった。
台所にも、リビングにも。
昼過ぎであれば、たいていは庭に水を撒いているか、仏壇の前でお茶を飲んでいる時間だ。
しかし、どちらにもいなかった。
冷房のスイッチは入っていない。
家の中全体が、じっとりとしたぬくもりで包まれている。
私は不安になり、廊下を抜けて2階の寝室へ向かった。
階段の途中で、視界の端に何かが落ちているのが見えた。
祖母のスリッパだった。
片方だけ。
落ちたままになっているのは珍しい。
足早に寝室の前に立つ。
ドアがわずかに開いていた。
「おばあちゃん?」
返事はない。
恐る恐る中へ入ると、畳の上に寝具を敷いたまま、祖母がうつ伏せに倒れていた。
呼吸はある。
だが浅く、背中が上下する様子は、目に見えて不規則だった。
「――っ、おばあちゃん!」
駆け寄り、肩を揺らすと、祖母はかすかに目を開けた。
いつもの、優しい目ではなかった。
濁っている。
視線が焦点を結ばず、私の顔の右横を見ていた。
「ユウナ……?」
「私、病院から帰ってきたの。おばあちゃん、どうしたの?」
祖母の唇が小刻みに震える。
「……あついの……体の……中が……」
手を握ると、明確な熱を感じた。
普通じゃない。
この世界で熱を持つなんて。
私はポケットからスマホを取り出した。
政府指定の緊急救護AIネットへ接続しようとしたが、画面にエラーが出た。
{接続中:タイムアウト}
{再接続試行中……}
どうして。こんなこと、今まで一度もなかった。
繰り返しリトライをかける。
その間にも、祖母は苦しそうに身を捩った。
「寒いの……でも……中は、燃えてるみたいで……」
「おばあちゃん、じっとしてて、今なんとかするから…!」
私はタオルを濡らしに走った。
洗面所で水を出すと、蛇口の感知センサーが妙に鈍かった。
ふと目線を上げると、鏡の中の自分が、やけに遠く見えた。
汗もかいていないのに、肌が妙に白く、目だけが赤く映っているような気がした。
首を振り、再び寝室へ戻る。
濡れタオルを祖母の額に当てると、祖母は微かに安堵の息を漏らした。
「ユウナ……」
「うん、いるよ。大丈夫だよ」
祖母が細い指で、私の手を握った。
「……寒気がしてね……なんか、変なの……ずっと、誰かが……背中にいるような気がするのよ」
私は息を飲んだ。
祖母は、さらに小さな声で続けた。
「これって……悪寒って、言うんじゃなかったかしら……昔、そう言ってた……そんな気がして……」
私は答えなかった。
ただ、その言葉が胸に残った。
この世界に“病気”も“風邪”も存在しないとされていた。
けれど今、祖母の体は、確かに――それに近い何かに、蝕まれていた。
外ではまた、CMの音声が流れていた。
「ここは、美しい。ここは、楽しい。ここは――」
私はただ、祖母の手を握りながら、黙ってその音を聞いていた。
それが、どこまでも遠く、どこまでも不自然に響いていたことを、
そのときの私は、もう知っていた。
…。
最初に、冷房が効かなくなった。
7月、室温はじわじわと上がっていき、かつての真夏が顔を覗かせた。
環境制御AIが提示する外気温との誤差が3℃、5℃、10℃と増えていった。
それでも人々は気づかないふりをした。
「調整中だ」と掲示板には書かれていたし、定期アップデートの時期だという説明もあった。
9月には、都市部の道路舗装が一部波打ち始めた。
定期舗装再生処理が止まったせいだ。
それでも誰も文句を言わなかった。
「年末には直るらしい」と、誰かが言った。
11月、配給システムが一時停止。食料の個人備蓄が推奨され、流通の遅延が発生した。
冷凍保存技術は依然として動いていたが、冷蔵エリアの温度が数度上昇したことに気づいた人は少なかった。
そしてーー冬。
祖母の容態は少しずつ、しかし確実に悪化していった。
最初は高熱が断続的に続いただけだった。だが1月を越えたあたりから、呼吸に音が混ざるようになった。
人類が捨てたはずの音。
肺が水を含む音。
誰にももう処置できなかった。
2月、祖母は布団から一度も起き上がらなくなった。
そしてある夜――咳を繰り返したあと、静かに、呼吸をやめた。
目は、開いたままだった。
それを閉じる方法を、私は祖母から学んでいなかった。
人類は死を恐れないようになったけれど、
死に寄り添う方法は、誰にも教えられていなかった。
3月、救護AIが完全に応答しなくなった。
各家庭への定期診療は停止し、誰もが自分の状態を把握する術を失った。
「最近、咳が出るんだよね」という声が、街のあちこちで囁かれるようになった。
誰もそれを聞き返そうとはしない。
4月、学校が閉鎖された。
教室は「再編準備のため一時休校」とされたが、誰も再開の日を聞かなかった。
友達も、教師も、姿を消した。
そして、また5月が来た。
制度がまだ動いていた頃は、この月は恐怖の象徴だった。
『抽選』によって誰かが倒れ、他の誰かが生き残る月。
だが、今年は誰も倒れなかった。
正確には、倒れることすら許されないまま、
人々はすでに、それ以前に蝕まれていた。
私が祖母を失ってから、今日まで家の中にあった機械は少しずつ沈黙していった。
冷蔵庫。
自動カーテン。
照明。
スマートウォッチ。
温度調整センサー。
窓ガラスの調光。
どれもひとつずつ、何の前触れもなく止まった。
そして、世界は沈黙の中に戻った。
かつて祖母が言っていた“昔のような世界”に。
だけど、私たちはもう、“昔の人間”ではなかった。
そして今日。
私は、最後に動いている何かを探して、街の中心部へ出た。
ここは、かつて商業区としてにぎわっていたエリアだ。
ガラスのビル。照明のアーケード。歩道に並ぶ情報塔。
その中のひとつに、まだかろうじて稼働している街頭モニターがあった。
私は立ち止まった。
足元にヒビが走った舗装。
通りを渡る人影も、今はまばらだった。
そして、モニターが、音を発した。
{システムメンテナンス終了}
{国家維持基幹AIより最終報告}
{これが、最後の放送になります}
無機質な女性の声が流れた。
静かだった。
あまりに静かすぎて、最初は“声”だと認識できなかった。
{現在、当国アマトラティアにおいて動作中の基幹技術は、残存エネルギーの不足、維持システムの破損により順次停止中です。完全な停止は、今月末までに完了予定です}
{人類の平均寿命は、現在約173.4歳。
しかし、免疫力、回復力、自律機能は、制度開始以前の水準の、およそ12%まで劣化しています。
これは、長期間に渡る『病原負荷の外部転嫁』の影響によるものです}
{これにより、今後は通常の風邪やウイルスによっても、致死率が極めて高くなります。
また、感染症、腫瘍、内臓疾患の発症は制御不能となる見通しです}
{技術の再起動は不可能です}
{人類の存続については――現時点では、いかなる保証も存在しません。}
モニターの音声は、そこまで言って、いったん止まった。
それから最後に、ゆっくりと。
「ここは、美しい。
ここは、楽しい。
ここは……理想のアマトラティア」
という、聞き慣れた声が、もう一度だけ流れた。
そして、画面が暗転する。
私達は、もう何も言わなかった。
ただ、そこで立ち尽くしたまま、
モニターに映る自分達の影を、しばらく見ていた。
風が吹いた。
その風の冷たさが、なぜか妙に記憶に残った。
ほんの、ほんの少しだけ。
悪寒が走った。




