夜風と船乗り
とある夜。
商人として財を成した一人の男が息を引き取ろうとしていた。
男は夜だというのに窓を開け、風を室内に入れていた。
男の頬を風が一撫ですると、男はわずかに目を開け、そして壁に掛けられた大きな絵を見た。
夜の海を背景に立つ、一人の女性の絵。
夜に溶けこむ黒い髪と、夜空の星を閉じ込めた黒い瞳の、不思議な雰囲気をまとう女性の絵だった。
◇◇◇◇◇◇
一つの夜風が、一人の船乗りに恋をした。
海を渡り、月の光を浴び、星の瞬きを数え、海の間を吹き抜けていた時に、その船を見つけた。
船乗りたちが甲板で楽しそうにしていたの、目にとめたのだ。
ああ、いいな…
ワタシも一緒に混じってはしゃぎたい…
けれども、それは無理な話。
夜風は、人に感じられても、その姿は見えない。
夜風はメインマストの梁に腰掛け、しばらく、その宴会を眺めていた。
ふと、船乗りの一人がメインマストを見上げた。
目があった、気がした。
気の所為だ。
ワタシが見えるはずがない。
しかし、その男はにやりと笑ってこう言った。
「よぉ。お前も仲間にはいるか」
辺りを見回しても、鳥一羽いない。
ワタシ…?
夜風は自分を指差した。
男はにやりと笑ったままだ。
彼は夜風に気がつき、話し掛けていた。
ありがとう
それだけで、十分
夜風は小さく彼の名を呼んだ。
「どうした? 何かいたのか?」
仲間の一人がメインマストを見上げていた男に尋ねる。
「ああ、ちょっとな」
彼はそれだけしか言わなかった。
仲間が彼の見上げていたメインマストを見ても何もなく、ただ、心地良い夜風が吹き渡るだけだった。
◇◇◇◇◇◇
夜風は、折を見てはあの男の乗る船の傍を渡っていた。
そうして、またメインマストに腰掛け、見つめる。
ワタシを見てくれて、声をかけてくれた…
それで充分なはずだったのに…
どうして探すのかしら。
どうして逢いたいと思うのかしら。
ワタシは夜風。
自由な夜風。
側にいたいと思うのも自由…
そうして今日も、あの船の傍を通る。
賑やかな笑い声。灯りに照らされた宴。男が笑っていた。隣に一人の若い女性。
…あれは、誰?
知らぬ感情が夜風に芽生えた瞬間だった。
ワタシは夜風。
自由な風。
なのに、どうしてこんなにも苦しい。
男は彼女の肩に手を置き、優しく言葉を交わしている。
…触れられる人が、いる。
ワタシでは寄り添うこともできず、声をかけることもできないというのに…
風が少し強く吹いた。
男の髪がふわりと揺れる。彼はふと、空を見上げて言った。
「……今日の風は、少し拗ねてるな」
その一言だけで、夜風の心に温かい波紋が広がった。
夜風のついたため息がそっと周囲に吹いていく。
「どうした」
男はそう言い手を伸ばす。
優しく心地よい夜風が、男の頬を吹いていく。
「いつでも来い……待っている」
夜風は驚いて男を見つめる。
彼は、にやりと笑いながら、夜風に手を伸ばす。
夜風は、泣きそうな笑顔で手を伸ばし、その手に触れる。
ありがとう
ワタシは夜風。
自由な夜風。
だから、想うのも自由。
逢いに来るのも、自由。
◇◇◇◇◇◇
人間にとってはそれなりの年月が過ぎた。
男は商人となり、船を使った貿易で財を成した。
彼の操る船は、不思議と海難事故にあわなかったという。
とある時、男は港町の画家に絵を頼んだ。
「女性の絵を描いてほしい。
黒い髪で、黒い瞳なんだ。
星の光を閉じ込めたような…不思議な、でもとても優しい目をしてる」
画家は困った顔をした。
「その女性は……本当にいる方ですか?」
男は、ほんの少しだけ目を細めて空を見た。
「いるさ。けれど、誰にも見えない。姿も、声も、風のように儚いんだ……。
風のように自由で…けれど、一度だけ目が合って声を交わした……。
それだけで、十分だった」
少し恥ずかしそうに、しかしどこか誇らしげに男はそう語った。
絵筆を握る画家の手が、わずかに震えた。
「不思議なことを言う人だ」
男は、気恥ずかしそうに笑った。
「不思議な女性に、恋をしたんだよ」
財を成し、屋敷まで持った男に、様々な者たちが、娘を、妹を、と結婚相手を紹介するも、男は笑って、心に決めた相手がいる、と断り続けた。
それは誰だと尋ねるも、家に飾ってある大きな女性の絵を示し、彼女だ、と胸を張って言っていた。
男は、夜、寝室の窓を開けていることが多かったという。
体が冷えるから止しておけ、という忠告も笑って受け流していた。
その夜、男は眠れずにいた。
月は雲に隠れ、部屋はほの暗い。
窓をわずかに開けていたせいで、夜風がふと吹き込む。
チリリ……と、小さく澄んだ音が鳴った。
若い頃に手に入れた、風鈴が揺れている。
「……来てくれたか」
男は目を閉じたまま、微かに呟いた。
夜風は黙って、彼の額にそっと触れる。冷たくも、優しい風。
「お前の音が……一番落ち着く」
そう呟いて、男は微笑んだ。
たびたび夜風にあたっていたせいなのか、それとも若い頃の無理がたたったのか。
まだまだ壮年とも言える年齢で、男の命の焔は尽きようとしていた。
男は、後継者は自分の下で真面目に働いていた部下の一人にする、と数日前に公表していた。
そんな時でさえ、夜、窓を開けて風を入れていた。
男の頬を風が一撫でする。
と、男はわずかに目を開け、優しく微笑んだ。
「ようやく、俺の方からお前の手を取ることができるな……」
そうして壁に掛けられた大きな絵を見る。
夜の海を背景に立つ、一人の女性の絵。
夜に溶けこむ黒い髪と、夜空の星を閉じ込めた黒い瞳の、不思議な雰囲気をまとう女性の絵だった。
あなたが、こんなに短い一生を終えるのは
ワタシのせい…ごめんなさい…
男は微笑みながら口を動かした。
「ばかを言うな、俺が望んだことだ」
男の頬をもう一度夜風が撫でる。
それは、静かに涙のような風だった
「これからはずっと一緒だ」
にやりと笑って男は言う。
そして、男はそのまま息を引き取った。