第一話 バルタラ山の龍の魔女
バルタラと呼ばれる山がある。五十年ほど前に邪龍が住み着いたとされる山だ。
邪龍のせいかどうかは知らないが、山頂への道は酷く険しい。この地域にしては異常に強い魔物がわんさか湧いて出るし、魔力によって変質した妙な植物が我が物顔で生えているせいで道も悪い。
危険度は随一で高いくせして、得られる資源はありきたり。リスクとベネフィットの天秤は、いっそ笑えるくらい大胆に偏っている。
この山に登る人間は崖っぷちに立たされた奴か、あるいは崖っぷちから飛び出したい奴のどちらかだ。
俺は一応、前者のつもりだ。
山の悪路や狂暴な魔物に何度も殺されそうになりながらも進む足を止めないのは、この先にあるらしい希望に縋り付きたい、その一心のみであった。
バルタラ山には噂がある。
山頂には龍の魔女が住んでおり、対価次第でどんな願いでも叶えてくれるそうだ。
従えた邪龍の、強大な力でもって。
□ ■ □
どれほど山を登っただろうか。太陽が出ているのか沈んでいるのかもわからない森をさんざっぱら歩いてきたせいで、時間の感覚はとうに失せていた。
だがまだ山頂にはつかない。見上げた先にきりりと聳える峰が、俺の目的地の遠さを嫌というほど突き付けてくるのだ。
既に樹木が生える標高は過ぎ去って、周辺にはやたら気合の入った背の高い草が生えるばかりだ。
もう引き返せない、ただそれだけの理由で前に進んではいるのだが、実は既に左手が上手に動かないんだ。回復魔法では賄えないほどに血が流れていて、賢しい魔物にでも出会ったら呆気なく死んじまいそうだ。
縋る噂を間違えたのかもしれない。
大暴れの末に都市を七つも潰した邪龍が今では魔女に飼いならされているという噂も、その魔女が人間にとても好意的だという噂も、今にして思えば人類にあまりに都合が良すぎるじゃないか。
残してきた妹のために、遺言の一つでも書いてくりゃあ良かった。左腕を負傷してからこっち、俺はずっと後悔しきりだ。そもそも、そんなうまい話があるわけがねぇんだ。
あんただって、俺を馬鹿な奴だと思ってんだろう?
「えっ」
俺はこそこそと遠くからこちらの様子を窺っていた人影に声をかけた。そいつは俺の問いかけに驚きの声を上げ、草の影からしっかりと姿を現した。
この地獄みてぇな山に不似合いな、純朴そうな少女だった。
桜色の髪を二つに結わえた小柄な体躯は、成人しているかも怪しい年頃に見えた。黒色のワンピースに重たげな革のブーツ。首元には紺のスカーフを巻いていて、背には草花の詰まった籠を負っている。
農業従事者にしたってもっと丈夫な衣服を身につけるだろう。そんな、まるでハイキングを楽しんでいますみたいな軽装をしているくせに、この少女には怪我の一つもないのだ。この山にあって無傷でいる時点で、まともなもんじゃないことは明らかだった。
「ちょっと話の流れはわからないんですが、もしかしてお困りだったりしますか? 迷子とか?」
「もう駄目だよ。俺はここで死ぬんだ。ああ、最期にお袋が作るオムライスが食べたかった。俺にお袋はいないし、オムライスも食べたことないけど」
「……生憎卵は切らしていますが、他の物なら出せますよ。私の家に寄っていきませんか?」
俺は疑いの眼差しでじっとりと少女を眺めた。当の少女は、なんの裏もないですといったにこやかな顔で俺を見上げている。
ああ、俺がバルタラに登ろうと決めたのもこんな甘言のせいだった。魔女に会えたらなんでも願いを叶えてもらえるぞって、そんな無責任な囁きのせいで俺は目下死にかけているんだ。俺は馬鹿だが、同じ過ちを繰り返すほど愚かじゃない。
「行く」
「良かった。ではこちらにどうぞ」
だがまぁ、どうせ死ぬなら?
あの時誘いに乗っておけばと後悔しながら死んでいくよりも、見え透いた甘言に飛び込んで死ぬ方が面白いよな。
少女はほっとした顔を浮かべて、脇道、先ほどまで少女が隠れていた辺りに歩みだした。生い茂った草を掻き分け進んでいくその足取りは淀みない。……いや、淀んでるかも?
「なぁ、あんた右足が悪いの?」
「歩くのには支障ないんですけどね。よくお気づきで」
これが幻覚なんだったら、ちょっとディテールに凝り過ぎだな。でもこういうの嫌いじゃないよ。なんというか、どうでもいい情報ばっかり綴られた読み物って愛着が湧くだろ。それに近い感覚だ。
少女は俺の様子を確認するためにか、都度都度振り返りながら、しばしの間歩いた。山を降りる方向――つい今しがた俺が通ってきた道を引き返す形であった。
俺は魔物が飛び出してきた時に彼女を守るべきか、自分を優先するべきかを悩みながら小さい背を追いかけた。そんな事態になる前に目的の場所に辿り着けたのは僥倖であった。決めきれなかったもんで。
十数分ほど山を降り、いくらか樹木の姿が戻り始めた辺りで、少女は足を止めた。草花に隠された獣道の前であった。少し行った先に建物が見える。小さな、しかし丁寧に装飾された家だ。長く愛着を持って使われていることがありありと分かる、そんな感じの。
玄関までの道は花や草なんかで彩られていて、下手なトピアリーすら飾られている。なんだこれ。右足だけ長い犬に見えるけど。
ねぇ、俺がどうやってここまで辿り着いたか知ってる? 道なき道で熾烈な生存競争を繰り広げてきた果てがここなんだぞ。それなのにこの家、このバルタラ山の中にあっていい風貌じゃないだろうが。家庭菜園までありやがる。何をどうすれば畑を保つことができるんだ? この魔物の坩堝で。
「さぁさ、中へどうぞ」
「一応、入る前に確認しときたいんだけど」
開かれた扉の先は、雑多だが暖かそうな居住空間が広がっていた。少女がここで長く生活しているのが容易に読み取れる狭苦しさであった。
俺は目の前の頭一つ分小柄な少女の、整えられた桜色の髪を見ながら言った。
「アンタが龍の魔女?」
「え。なんですか、それ」
少女は扉を押し開けていた手を止めて、きょとんと俺を見上げた。
あーあーいいのよ、知らねぇんなら気にしないで。それよりさっさと家の中に入れてよ痛いから。そんな思いを込めて、俺が右手を上げて少女の動きを促そうとしたときだった。
「私、そんな呼ばれ方をされているんですか?」
おっと。流れが変わったぞ。
龍の魔女、龍の魔女ですかと少女はどこか合点が言ったように呟いた。そして、ちょっとだけ嬉しそうに笑って、
「たぶん、私がその龍の魔女です」
よろしくお願いします、と馬鹿みたいに丁寧に頭を下げた。
なぁ、嬉しそうなとこ悪いけどさ。
たぶんそれ、蔑称だぜ。