やわらかえくぼ
長くて、艶のあるさらさらの髪。僕は抱きしめられながら、いつか、この手に抱きたいと思っていたんだ。そんなこと、きっと、あなたはちっとも知らなかったと思うけど。
髪の毛に手を絡ませて、頭を抱き込むのはあなたの方で、でも、この時間を、手放すのが嫌だったんだ。
「春ー」
ほら、僕を呼ぶ声がする。綺麗な鈴の音のような、高くて可愛い声。お隣さんの、五つ年上の若菜さん。今年、大学の二年生。僕はやっと、高校生になった。
「どうしたの?」
「あれ、取って?」
背が伸びたのは、中学校の三年の時。まだまだ伸び盛り。でも、目標だった若菜さんの身長は、やっと去年抜かすことができた。
うちの両親は旅行好きで、よくお隣の若菜さんの両親を誘ってあちこち行ってる。自由なんだ。要は。僕たちは学校があるから、いつもお留守番。小さい頃から若菜さんと一緒に、二人でお留守番をしてた。僕が若菜さんを好きな事は、きっと親は知ってると思う。若菜ちゃんがお嫁に来てくれたら嬉しいとか、色々言ってたから。若菜さんの両親は、よくわからないけど。でも、これは確実、若菜さん自身は、まったく気づいていないんだ。
僕は若菜さんの指差した瓶を取って、彼女の細い手に乗せた。彼女はありがと、とお礼を言って、夕食のパスタの準備に取りかかる。
「春、学校は慣れた?」
「うん」
「あ、ナス入れちゃったけど、そう言えば嫌いだった?」
「ううん」
「食べれるようになったんだね。偉いね」
「若菜さん…僕、もう子供じゃないんだけど」
「あはは、ごめん」
昔、よく僕は怖い夢を見て、その度に若菜さんが一緒にねてくれた。子供扱いされたくなくて、自分から若菜さんのベッドに行かなくなったのはいつだったんだろう。今考えると、惜しい事してると思う。
よく、女の子に声を掛けられるけど、どのこも、若菜さん程に揺さぶられることはなかった。笑ったときに出るえくぼも、色素の薄い肌も、全部、好きなんだ。
「はー。いいお湯だった。春も入ったら?」
バスタオル一枚…ではさすがにないけれど、若菜さんはパイルのショートパンツとTシャツだけで、細い足が丸見えだった。幼なじみだからって、無防備だと思う。若菜さんは上機嫌で僕の前までくると、チャンネルを回す為に前屈みになった。
「……」
タイミングは、いつでも良かったんだ。この時の僕が冷静だったかはわからないけど、でも僕は、今しかないと思ったんだ。
僕は、若菜さんの手を取った。そして、自分の方に引き寄せて、その華奢な身体を、腕の中に閉じ込めた。
「…えっ? ど…したの? 春?」
何が起きているのか、多分、理解してないんだろうね。若菜さんは戸惑って、僕の腕から逃げ出そうともがいた。
―――彼女は、いつからこんなに小さくなったんだろう。
全身から薫る石けんの匂い。まだしっとりと濡れている髪の毛。僕は若菜さんの顔を両手で包んで、顔を近づけた。
「……は、る? …あの…」
「好きだよ」
「……え…」
「好き」
「……はる…」
思っても見なかったって顔してる。そりゃないよね。ちょっとは、察してくれてていいのに。彼女の肩に腕を乗せて、今度は下から覗き込んだ。若菜さんが、俯いてしまったから。
「ねぇ」
「……うそ…からかってるんでしょ」
「……ねぇ」
「だって、今までそんな…」
「ねぇ、キスしてもいい?」
僕がそう言うと、若菜さんは黙った。黙って、また俯いてしまう。僕が顎に手をかけると、その真っ赤な顔を、戸惑いがちに上に向けてくれた。見つめてくる瞳は、かすかに潤んでて、お風呂あがりだからか、それとも別の理由なのか、上気した頬は熱かった。
「キス、してもいい?」
僕がもう一度言うと、上目がちにしていた瞳を少し泳がせて、彼女はゆっくり、目を閉じた。
同じベッドで眠るのは、何年ぶりなんだろう。今日は、一緒に寝たいとだだをこねた。別に、やましい気持ちはないよ。そんなにいっぺんに、何もかもを望んでるわけじゃない。
「…いつのまに…」
「ん?」
「……前に寝たときは、こんなに小さかったのに…」
そう。今は、アノときと逆に、僕の胸の中に、彼女の頭を抱えている。さらさらの髪の毛に指を絡めて、そのままキスを落とした。相変わらず、若菜さんの顔は赤くて、どうしようもなくどきどきする。
「…ずっとだよ」
「え…?」
「ずっと、好きだった」
「…うん…」
若菜さんは、笑ってくれた。僕の大好きな、柔らかいあの笑顔で。