レイシア旅立つ
兄の考えは変わらない。確かに兄が結婚する以上妹の自分がどうすべきかと考えてはいたが、急展開過ぎる。
「私、一人なのですか?」
ぽつりと呟くと、ディランは笑う。
「ベルネア商会の者達と一緒だから大丈夫だよ。彼らは貴族の事情にも精通している上に、ベルネア侯爵家に忠誠を誓っている」
「……はい」
どんよりとしたレイシアと対照的にディランは晴れやかに笑う。
「恐れないで。俺と父上の願いを叶えて」
レイシアは瞳を揺らす。
本当は行きたくない。けれど、これだけ言われては嫌だとは言えない。……ディランは言わせない様にしているのだ。
レイシアがそういえば、きっと兄はその通りにしてしまう。それ程に彼はレイシアに甘い。更に己の力を知ってしまった以上、兄の気持ちが自分の願いで捻じ曲げる事に耐えられない。レイシアだってディランが大事なのだ。
レイシアは唇を噛みしめて目を伏せる。涙が零れ落ちるのを、ディランが指で拭う。
「お前は俺の厳しい指導を難なくこなした自慢の妹だ。もう少しお馬鹿で甘ったれだったら手放さずに済んだのだけど……。離れがたいのは俺も同じだ」
レイシアは黙ってディランを見る。
するとディランは言った。
「それで、今から支度をしてもらわないといけないんだ。急なのは分かっているが、他の貴族の動きが怪しいのだ」
「え?」
迫る危機に身が竦む。心の準備をする暇もないらしい。
「ラガール」
ディランが呼ぶと、壮年の男性が音もなく現れた。
「準備は?」
「整っております。レイシア様の準備が出来次第、いつでも出られます」
驚いているレイシアに、ディランは告げる。
「彼はラガール。とある国の貴族だったのだが、諸事情でうちの商会を仕切ってもらっている」
「ラガールと申します」
優雅に貴族の礼をする男に、レイシアも礼を返しながら目を白黒させる。
(私の部屋に勝手に入って来たのに……お兄様もこの方も何とも思っていない)
「彼は相談役であり、護衛でもある。まずは彼に色々と教えを乞いなさい」
「……はい」
レイシアの不満は現状訴えている場合ではないのだ。
「メルル」
ディランが再度呼ぶと、今度は扉が静かに開き、レイシアより少し年上の女性が現れた。
彼女はズボンに革のブーツ、上はすっぽりと体を覆う長いコートを着ている。しかしその物腰は侍女のそれで、優雅に挨拶をした。
「初めましてレイシア様。メルルと申します。今後、レイシア様専属の侍女として仕えさせて頂きます」
そう言って顔を上げると、にっこりと笑った。
「よろしく……」
レイシアがそう挨拶をすると、メルルの雰囲気が一変した。
「坊ちゃん、何故ラガール様を先に呼ぶのですか!レディには身支度の時間が必要なのですよ?」
ディランは目を丸くした後、ラガールとレイシアを見てから、気まずそうに言った。
「……レイシアの身支度を頼む」
ラガールは笑顔になると、ディランに告げる。
「坊ちゃんでも慌てる事があるのですね」
「そうだよ。レイシアをこんな形で出す事になるなんて思っていなかったから」
「俺はずっとお待ちしていましたよ」
「……長い間済まなかった」
「事情を教えて下さるなら、謝罪は不要です」
「レイシアが無事に王国に戻ってきたら必ず」
ラガールは頷く。
さっきまでの出来事と唐突な男性の出現に、レイシアは反応できないまま唖然としているしかなかった。
二人が出て行って、メルルとレイシアだけが残される。
「レイシア様、お召替えをお願いします」
「……ええ」
素直に応じて立ち上がると、メルルはレイシアのクローゼットを開けた。いつの間に入れられていたのだろうか。そこにはメルルの物よりも刺繍が多く、布も高級ではあるものの、同じ色形の服が一式用意されていた。
「これはベルネア商会の制服です。これを着ている限り、女でも侮られる事はありません」
「お父様は普通の貴族の格好をしていたわ」
「こちらでは着ていなかっただけで、旅先では着用されておりました」
「剣も持たなくてはならないの?」
メルルは首を左右に振る。
「私は魔法が使えませんので剣術をたしなんでおりますが、レイシア様は魔法が使えますから必要ありません」
護身の為に魔法を習うのは、貴族令嬢のたしなみだ。とは言え、実際に使用する場面がないまま今に至っている。ディランが才はあると言ってくれているが本当の所は分からない。
その事を言うと、着替えを手伝いながらメルルは言った。
「それはラガール様にご相談されればよろしいかと。私は平民ですので魔法の事はお答えできないのです」
そういえば、ラガールは『とある国の貴族だった』と紹介された。
(だった?)
貴族とは半魔だとディランに明かされているレイシアは首を傾げる。
「さあ、出来ましたよ。御髪は邪魔にならないように束ねておきますね」
鏡に映るレイシアは、身長が女性にしては高く細身だ。ウェストをベルトで締めるパンツスタイルの服は初めてだが違和感なく着こなせている様だ。
「レイシア様は立ち姿が美しいですわ」
革の紐で髪を束ねられた姿を、メルルは満足そうに見る。化粧はされたが、軽く白粉をはたいて唇に薄く紅を施すのみだった。
「何かお持ちになりたい物はございますか?お時間の事もありますし、沢山は無理ですが……」
令嬢としての支度とはかけ離れた状態に戸惑いつつ、レイシアは部屋を見回す。
そして、古びたレースの入った小瓶を手に取る。
「これだけでいいわ。戻って来られるのでしょう?」
メルルはその思い切りの良さに一瞬目を見開いた後、笑顔になって言った。
「勿論です」
レイシアは頷くと言った。
「行きましょう」
何が起こっているのかは分からない。しかしここに長居してはいけない事だけは分かる。貴族への魔法院からの告知は全ての貴族に届くのだ。レイシアの能力は全ての貴族に知られた。
名残惜しさを振り切る様に部屋を出て速足に進む。その背後にメルルが付き従う。いつものドレスと靴に比べたら、各段に歩きやすい。
廊下の先には、ディランとラガールが立っていた。
「見違えたね。立派なベルネア商会の会長だ」
「会長?」
「侯爵家の者が商会の会長なのだよ。父上の次はレイシアと言う事だ」
そうレイシアに言うと、ディランはラガールの方を見た。
「ラガール、レイシアを頼んだぞ」
「お任せください」
ラガールはディランにそう言って一礼した。
ここで兄と別れるのだと察し、レイシアは慌てて言う。
「ちょっと待って」
レイシアはそう言うとディランに飛びついた。
「おっと」
ディランはレイシアを抱きとめる。
「行ってきます」
「良い旅を。待っているからね」
軽く背中を叩くのを合図にディランの腕が緩むと、レイシアも兄から離れる。
「では」
ラガールがディランに一礼して歩き出し、レイシアはその後に続く。振り返りながら歩く間、ディランはずっとレイシア達を見ていた。
ラガールは、物置として使われている一室に入ると敷かれている絨毯をめくりあげる。そこには四角く切り抜かれた様に切れ目があった。ラガールはそれを足で踏んで角度を付けると、取り払った。隠し通路だ。
「暗くて狭い道が続きます。私の速度に合わせて付いてきてください」
ラガールがそう言って、今までもっていた燭台の火を用意していたカンテラに移す。
「はい」
「メルル、後ろは頼んだぞ」
「了解です」
レイシアを挟み、前にラガール、後ろにメルルと言う順番で、床の下の空間へと三人は入る。
石造りの湿った道がどこかへと続いている。
三人が入ってしばらくすると、床板が戻された音がした。……誰か居たらしい。
歩みが一瞬止まり、背中にメルルがぶつかった。
「ぶ」
「あ、ごめんなさい」
「大丈夫です!執事のガヴィン様ですよ」
メルルが振り返らずにレイシアに告げる。
「居たのに気づかなかったわ」
ガヴィンは三人が居なくなったのを見計らって、元通りにしに来たのだ。